日本根子高端淨足姫天皇:元正天皇(15)
養老五年(西暦721年)二月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。
二月甲申。地震。壬辰。大藏省倉自鳴有聲。癸巳。日暈如白虹貫。暈南北有珥。因召見左右大弁及八省卿等於殿前。詔曰。朕徳菲薄。導民不明。夙興以求。夜寐以思。身居紫宮。心在黔首。無委卿等。何化天下。國家之事。有益萬機。必可奏聞。如有不納。重爲極諌。汝無面從退有後言。甲午。詔曰。世諺云。歳在申年。常有事故。此如所言。去庚申年。咎徴屡見。水旱並臻。平民流沒。秋稼不登。國家騒然。萬姓苦勞。遂則朝庭儀表。藤原大臣奄焉薨逝。朕心哀慟。今亦去年災異之餘。延及今歳。亦猶風雲氣色。有違于常。朕心恐懼。日夜不休。然聞之舊典。王者政令不便事。天地譴責以示咎徴。或有不善。則致之異乎。今汝臣等位高任大。豈得不罄忠情乎。故有政令不便事。悉陳无諱。直言盡意。无有所隱。朕將親覽。於是。公卿等奉勅詔退。各仰属司令言意見。
二月七日に地震があったと記している。十五日、大藏省の倉が自然に鳴り響いている。十六日に太陽に暈(カサ)が架かって白い虹が貫通したように見え、その暈の南北の端に耳飾りのような輪があった。よって左右の大弁及び八省の卿等を殿前に集めて以下のように詔されている。概略は、朕には民を導くほどの德が少なく、寝ても醒めてもその方策を思い続けている。身は宮中の奥深くにあるが、心は黔首(庶民)の許にある。汝等に政治を任せて民を導こうとしているが、国家のことについて有益なことがあれば必ず奏上し、朕が聞き入れなければ何度でも厳しく諫めるようにせよ。汝等は面前で服従したふりをして、退出後に蔭口をたたくようなことはするな、と述べられている。
翌十七日に以下のように詔されている。概略は、世の諺に申年には災いがあると言うが、庚申(養老四[720]年)には旱魃と洪水が起こって収穫も不作し人々が苦労をしている。また朝廷の模範であって右大臣の藤原不比等がにわかに逝去している。朕の心は恐懼し、古典を尋ねると、それは王者の政令が天地にそぐわない故に起こるとも記されている。汝等臣下の者は政令に不都合なことがあれば総て上申し、遠慮せずに真っ直ぐに考えていることを隠してはならない、と言われ、公卿等は各所管の官司に意見を言上させている。
三月癸丑。勅日。朕君臨四海。撫育百姓。思欲家家貯積。人人安樂。何期。頃者旱澇不調。農桑有損。遂使衣食乏短。致有飢寒。言念於茲。良増惻隱。今減課役。用助産業。其左右兩京及畿内五國。並免今歳之調。自餘七道諸國亦停當年之役。乙夘。詔曰。制節謹度。禁防奢淫。爲政所先。百王不易之道也。王公卿士及豪富之民。多畜健馬。竸求亡限。非唯損失家財。遂致相爭鬪乱。其爲條例令限禁焉。有司條奏。依官品之次定畜馬之限。親王及大臣不得過廿疋。諸王諸臣三位已上二駟。四位六疋。五位四疋。六位已下至于庶人三疋。一定以後。隨闕充補。若不能騎用者。録状申所司。即校馬帳。然後除補。如有犯者。以違勅論。其過品限。皆沒入官。辛未。以從五位下路眞人麻呂爲散位頭。以從五位下高橋朝臣廣嶋爲刑部少輔。」勅給右大臣從二位長屋王帶刀資人十人。中納言從三位巨勢朝臣邑治。大伴宿祢旅人。藤原朝臣武智麻呂。各四人。其考選一准職分資人。
三月七日に、人々が安楽に暮らせることを願っているが、最近、気候が不順で干害と水害が起こって農耕と養蚕に被害を与え、ついには衣食にも事欠き飢えと寒さに苦しむような事態となっている。よって課役を軽減し、生業を助けるため左右の京及び畿内五ヶ国の各々の調を免じ、他の七道の諸國についても今年の力役を停止する(概略)、と勅されている。
九日に以下のように詔されている。奢侈と淫乱を禁じることは政事の優先すべき事柄であるが、官人や富豪の民が丈夫な馬を競って養っている。これでは際限なく家財を損失するだけではなく、ついには争い乱闘するまでに至るであろう。そこで条例を定め制限するようにせよ、と述べている。条例の概略は、親王及び大臣は二十匹以下、諸王・諸臣のうち三位以上の者は二駟(八匹)、四位は六匹、五位は四匹、六位以下庶民までは三匹とする。死んだり騎乗できなくなった分は補充せよ、また反すれば違勅罪を適用する、としている。
二十五日に路眞人麻呂を散位頭、「高橋朝臣廣嶋」を刑部少輔に任じている。また、勅されて、右大臣の長屋王に帶刀資人十人、中納言の巨勢朝臣邑治・大伴宿祢旅人・藤原朝臣武智麻呂に各四人を与えている。その選考は職分資人に準じたと記載している。
● 高橋朝臣廣嶋
「高橋朝臣」は、元は「膳臣」であって、連綿とその地を出自とする人物が登場している。直近では高橋朝臣安麻呂(若麻呂、父親の笠間に併記)、宮内少輔に任じられていた。
この系列はしっかりと記録に残されていたようであるが、これとは異なる系列があって、こちらの系譜は定かでなかったようである。「膳臣」の東西二つの山稜の麓で分れていたのであろう。
その一人に「嶋麻呂」が登場していて、西側の山稜の先にある”中州”が出自と推定した。おそらくその”中州”が広がったいる場所が廣嶋の出自だったと思われる。後に高橋朝臣嶋主が登場する。系譜など不詳のようであるが、「廣嶋」の東隣と推定される。
夏四月丙申。分佐渡國雜太郡。始置賀母羽茂二郡。分備前國邑久赤坂二郡之郷。始置藤原郡。分備後國安那郡。置深津郡。分周防國熊毛郡。置玖珂郡。癸夘。令天下諸國。擧力田之人。乙酉。征夷將軍正四位上多治比眞人縣守。鎭狄將軍從五位上阿倍朝臣駿河等還歸。
四月二十日に佐渡國の「雜太郡」を分けて初めて「賀母・羽茂二郡」を、備前國の「邑久・赤坂二郡」の郷を分けて初めて「藤原郡」を、備後國の安那郡を分けて「深津郡」を、周防國の「熊毛郡」を分けて「玖珂郡」を置いている。二十七日に天下の諸國に力田の人(農耕に努めている人)を推挙させている。九日、征夷將軍の多治比眞人縣守、鎭狄將軍の阿倍朝臣駿河等が帰還している。
佐渡國雜太郡:賀母郡・羽茂郡
佐渡國は既出であって、佐渡國=渡嶋の傍らにある國と読み解いた。現地名は北九州市門司区丸山と推定した。この國の郡名が記載されるのは、これが初めてであって、雜太郡そのものも含めて場所を特定することになる。
「雜」=「集+衣」と分解される。古事記に幾度か登場する「衣」=「山稜の端の三角(州)の地」と解釈した。纏めると雜太=山稜の端の三角州が集まって平らに広がった様と読み解ける。
図に示したように佐渡國の西南部一帯を表していることが解る。この郡を分けて二つの郡、賀母郡・羽茂郡と名付けたと記載されている。頻出の文字列である賀母=押し広げられた谷間にある両手で抱えるようなところであり、東側の地形を示している。
幾度か登場しているが、あらためて述べると、「茂」=「艸+戊」と分解される。「戊」=「覆い被さる様」を表すと解説されている。すると羽茂=羽のように広がった地に後ろに覆い被さるような形の山稜があるところと読み解ける。雜太郡の西側の地域を示していることが解る。現在の行政区分も同様にその地形に従って分れているようである。
佐渡に雜太郡、賀母郡、羽茂郡と名付けられた郡があったとされる。がしかし、それらは明治十一年に行政区画として名付けられたものであり、幕府統治の時代にはまったく用いられていないようである。幾度か述べたように類似の地名及びその配置があるから邪馬台国東遷なんて呑気なことを公にしている学者(?)もいる。
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全くの余談だが、東京2020オリンピックが開幕した。その開会宣言を天皇陛下が行うことになっているのであるが、五輪憲章で文言(英文)は決まっていて、大概がその開催地の言語に訳されるそうである。原文は…、
I declare open the Games of (name of the host) celebrating the (number of the Olympiad) Olympiad of the modern era.
”celebrating”は”祝す”の意味であるが、天皇陛下は”記念して”と発声されている。疫病に苦しむ民に寄り添う姿勢を貫かれた発言と拝察される。
それにしても、昨今のドタバタは日本人の負の意識があからさまになったようである。と言うか、旧態然たる呑気な頭の持ち主がのさばっている現状であろう。千年以上も以前に記述された、世界に誇るべき史書の解釈が、不詳満載の本居宣長を越えることができない、呑気な歴史家達が巣食っているのは、無関係ではない。
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<備前國邑久郡・赤坂郡:藤原郡> |
備前國邑久郡・赤坂郡:藤原郡
かつて備前國を六つの郡に分割し、別途美作國を設置していた(こちら参照)。そこには更なる郡が存在することはできない様子なのであるが、今回では邑久郡・赤坂郡があったと記載している。
現地名では下関市永田郷と推定したのだが、その北側に接する豊浦町との境界は曖昧なままであった。即ちかつての備前國は現在の豊浦町の一部を含んでいたことを示しているのかもしれない。
これを背景に上記の二郡及びそれらを纏めた藤原郡の場所と求めてみよう。「邑」=「囗+巴」と分解され、「邑」=「大地が渦巻く、寄せ集めた様」と解釈される。「久」=「くの字形に曲がる様」であり、邑久=くの字形に曲がっている地を寄せ集めたところと読み解ける。
図に示したように大きな谷間に幾つかの延びた山稜が寄せ集められたような場所を示している。頻出の文字列であるが、「赤」=「大+火」と分解して解釈するが、「火」が示す地形が麓の山稜ではなく、赤坂=平らな頂で火のように突き出た三つの峰の麓で山稜が延びているところと読み解ける。東側に隣接する郡であることが解る。「坂」=「土+厂+又」と分解して解釈することに変わりはない。
二郡の郷を割いて新しく設置した藤原郡の藤原=水溜まりが積み上がっている谷間の広がった平らなところと読み解ける。二つの郡の間にある谷間が中心ならば「赤坂郡」からの供出は少なかった?…のかもしれない。いずれにしても備前・備後の発展は目覚ましかったように伺える。尚、数年後に藤野郡(東野郡とも)に名称変更されている。”広がった平らな”地形ばかりではなかったからであろう。
通常、「邑久郡」は岡山市・備前市の一部、瀬戸内市の全域、また「赤坂郡」は岡山市・赤磐市の一部とされている。明治十一年に行政区画として発足させた郡名である。さて、以下の郡は?・・・。
<備後國安那郡:深津郡> |
備後國安那郡:深津郡
「備後國安那郡」にあった「茨城」を廃城にしたと記載されていた(こちら参照)。その時には安那郡の谷間奥行が不明であったが、今回の記述で幾らかその詳細が解るようである。
「安那郡」を分割してできた深津郡に含まれる既出の「深」=「氵+穴+又+火」と分解される。全て地形象形する文字要素から成り立っている。深=大きく開いた谷間に山稜が火のように延び出て川が流れている様と解釈される。
その地形が現在の内日ダムの東側に見出せる。当時は二つの谷間から流れ出る川が津を形成していたと推測される。要するに「深津郡」は、ダム湖の底に沈んでしまったと言うことになろう。
勿論、上記の備前國各郡と同様に明治十一年に行政区画として名付けられたものである(広島県福山市・岡山県笠岡市辺り)。天皇統治の時代となって、復活させた?…のではなく、全く関係のない地名だったと思われる。
周防國:熊毛郡・玖珂郡
直近では周防國が白鹿を献上していた。すると「白鹿」ではない他の場所となろう。一目で熊毛郡の所在が見出せる。熊毛=隅にある鱗のようなところである。
古事記の多紀理毘賣命(奧津嶋比賣命)が坐した島の東側となる。予期せぬ地名の出現に些か戸惑うところではあるが、忠実に地形象形表記に従って辿り着いた結果である。
「玖」=「玉+久」=「玉のような地が[く]の字形に連なっている様」と解釈される。古事記でそれなりに用いられている文字である。既出の「珂」=「玉+可」=「谷間の出口に玉のような地がある様」と解釈される。
纏めると玖珂=[く]の字形に曲がって連なる玉が谷間の出口にあるところと読み解ける。「熊毛郡」の東半分を分けたと述べている。上記の各郡と同様に明治十二年になって行政区画として発足したようである(現在の山口県光市周辺)。幕藩体制下には郡もなければ、類似する名称も存在しない。愕然とする事実ばかりである。
五月己酉。太上天皇不豫。大赦天下。辛亥。令七道按察使及大宰府。巡省諸寺。隨便併合。壬子。詔曰。太上天皇。聖體不豫。寢膳日損。毎至此念。心肝如裂。思歸依三寳。欲令平復。宜簡取淨行男女一百人。入道修道。經年堪爲師者。雖非度色。並聽得度。以絲九千絇。施六郡門徒。勸勵後學。流傳万祀。(六郡=六部?)戊午。右大弁從四位上笠朝臣麻呂。請奉爲太上天皇出家入道。勅許之。乙丑。正三位縣犬養橘宿祢三千代。縁入道辞食封資人。優詔不聽。
五月三日に太上天皇(元明天皇)が病気になり、天下に大赦を行っている。五日、七道の按察使及び大宰府を諸寺を巡察させ、適宜併合している。六日、以下のように詔されている。概略は、太上天皇の容態が不調であり、仏法に帰依しようと思う。そこで行いの清浄が男女百人を選び出家させよ。年長者で出家の条件を備えていない者も得度を許せ。絹糸などを六つの集団の僧徒に与え、後進の学徒を励まして永久に広め伝えよ、と述べている。