2021年8月1日日曜日

日本根子高端淨足姫天皇:元正天皇(16) 〔532〕

日本根子高端淨足姫天皇:元正天皇(16)


養老五年(西暦721年)六月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

六月戊寅。詔曰。沙門法蓮。心住禪枝。行居法梁。尤精医術。濟治民苦。善哉若人。何不褒賞。其僧三等以上親。賜宇佐君姓。乙酉。太政官奏言。國郡官人。漁獵黎元。擾乱朝憲。故置按察使。糺彈非違。肅清姦詐。既定官位。宜有料祿。請以按察使。准正五位官。賜祿并公廨田六町仕丁五人。記事准正七位官。祿并公廨田二町仕丁二人。並折留調物。便給之。詔曰。朕之股肱。民之父母。獨在按察。寄重務繁。与群臣異。加祿一倍。便以當便物。准度給之。又陸奥筑紫邊塞之民。數遇煙塵。疚勞戎役。加以父子死亡。室家離散。言念於此。深以矜懷。宜令免當年調庸。諸國軍衆。親帥戰兵。殺獲逆賊。乘勝追北者。賜復二年。冐犯矢石。身死去者。父子並復一年。如無子者。昭穆相當郷里者。議亦聽復之。又京及諸國。因官人月俸。收斂輕税。自今以去。皆悉停之。隨令給事力。不得遠役他。致使艱辛。若有收課。一月卅錢。又除定額外。内外文武散位六位以下及勳位。并五位以上子孫。並令納資便成番考。此則雖積考年。還乏衣食。宜始今年。不須發資。人人歸田。家家貯穀。若有豊稼穡。納資成考者。恣聽之。其五位以上子孫。年廿一以上。取蔭出身。並依常例。因結告麻牒公驗。一同分番之法。奏可之。戊戌。詔曰。沙門行善。負笈遊學。既經七歳。備甞難行。解三五術。方歸本郷。矜賞良深。如有修行天下諸寺。恭敬供養。一同僧綱之例。又百濟沙門道藏。寔惟法門領袖。釋道棟梁。年逾八十。氣力衰耄。非有束帛之施。豈稱養老之情哉。宜仰所司四時施物。絁五疋。綿十屯。布廿端。又老師所生同籍親族。給復終僧身焉。辛丑。以正四位下阿倍朝臣廣庭爲左大弁。正四位上多治比眞人縣守爲中務卿。從五位上石川朝臣君子爲侍從。從五位下紀朝臣爲臣麻路爲式部少輔。從五位下下毛野朝臣虫麻呂爲員外少輔。從四位下坂合部王爲治部卿。從五位下御炊朝臣人麻呂爲兵部少輔。從五位下當麻眞人大名爲刑部大輔。從四位下門部王。從五位下紀朝臣國益並爲大判事。從五位下布勢朝臣廣道爲大藏少輔。阿倍朝臣若足爲木工頭。從四位上藤原朝臣麻呂爲左右京大夫。從四位上百濟王南典爲播磨按察使。從四位上石川朝臣石足爲大宰大貳。從五位下縣犬養宿祢石次爲右衛士佐。」割信濃國始置諏方國。癸夘。始置左右兵衛府醫師各一人。

六月三日に以下のように詔されている。概略は、「沙門法蓮」は禅定の境地に達し、かつ医術に精通して民の苦しみを救済している。よって彼の三等以上の親族に「宇佐君」の姓を与える、と述べている。

六月十日に太政官が以下のように上奏している。概略は、國や郡の官人が朝廷の定めた法規を乱していて、そのため按察使を設置して粛正させている。官位を定めた上は、俸禄も定めるべきであり、按察使を正五位の官に準じて俸禄と公廨田六町・仕丁五人を、記事は正七位の官に準じて俸禄と公廨田二町・仕丁一人を与えることとしたい。いずれも調をさいて支給する。これに対して按察使は極めて激務であり、俸禄を二倍に加増し、その土地の物資を調物になぞらえて支給せよ、と詔されている。

また太政官が以下のように奏上している。概略は、陸奥や筑紫の辺境の砦の人民は兵役に病み疲れている。その上に父子が死亡して一家が離散してしまうこともある。そこで本年の調・庸を免除し、諸國の軍人で逆賊を捕えたりした者には二年間の租税負担を免除、また戦場で死去した者の父や子の租税負担を一年間免除することにしたい。京及び諸國では官人の月俸のために軽税を徴収していたが、廃止したい。また律令の規定に従って支給された事力は遠方で別の仕事に使役させて辛苦させないようにしたい。

定員外の文官・武官の散位で六位以下の者及び勲位を有する者と五位以上の子と孫はそれぞれ財物を納めて番上官の勤務評定を受けられるように便宜を図っているが、経済的な負担が重く、本年より財物の徴収を取り止めることとしたい。これらの人々は農耕に帰従し、穀物を蓄えるようにさせる。但し余裕がある者は従前の通りとする。また五位以上の子・孫で二十一歳以上の者が蔭によって官人となる場合は、いずれも通例に従うが、麻牒公驗(身分証明書)を一緒に報告することは分番の場合と同じようにしたい、と奏上している。これを許している。

二十三日に以下のように詔されている。概略は、「僧行善」は笈(ふみばこ)を背負って遊学すること既に七代を経過し、三五の術を会得して故国に帰って来た。諸寺を訪れて修行をすることがあれば僧綱の場合と同じく敬い供養せよ。また百濟の僧道藏は、仏道を支える中心人物である。八十歳を越え気力も衰えようとしている。所司は四季に物を与え、絁などを施すようにし、老師の父母と同籍の親族には租税負担を免除し、僧の身に不自由がないようにせよ、と述べられている。

二十六日に以下の人事を行っている。阿倍朝臣廣庭(首名に併記)を左大弁、多治比眞人縣守を中務卿、石川朝臣君子を侍從、紀朝臣麻路(古麻呂に併記)を式部少輔、下毛野朝臣虫麻呂(信に併記)を員外少輔、坂合部王を治部卿、「御炊朝臣人麻呂」を兵部少輔、當麻眞人大名を刑部大輔、門部王紀朝臣國益(古麻呂に併記)を大判事、布勢朝臣廣道(阿倍朝臣首名に併記)を大藏少輔、阿倍朝臣若足を木工頭、藤原朝臣麻呂(萬里)を左右京大夫、百濟王南典(①-:和銅六[713]年に備前國・美作國の統治能力を高評価されている)を播磨按察使、石川朝臣石足を大宰大貳、縣犬養宿祢石次(橘三千代に併記)を右衛士佐に任じている。また信濃國を割って、初めて「諏方國」を設置している。

二十八日に左右兵衛府に醫師各一人を初めて置いている。

<沙門法蓮(宇佐君)>
● 沙門法蓮(宇佐君)

「僧法蓮」として大寶三年(703年)九月の記事で、その医術が評価され”豐前國”の四十町の野を与えられていた。英彦山修験の中興の祖でもあったことも調べると判った。

今回は「宇佐君」の姓も賜っていて、いよいよ出自の場所を求めよ、と告げられている状況のようである。通説は、勿論現在の大分県宇佐市に関連付けた解釈のようであるが、豐國を分割して”豐前・豐後國”とした領域が極めて曖昧で、釈然としないお方もおられるとのこと。

本著で求めた豐前國は、現在の京都郡みやこ町犀川上高屋辺りであり、蔵持山の山容を「豐」と見做し、前後を「豐前・豐後」と表記していると解釈した(こちら参照)。「宇」=「宀+于」=「谷間に山稜が延びている様」、「佐」=「人+左」=「谷間で山稜が左手のように延びている様」と解釈して来た。

纏めると、宇佐=谷間に延びた山稜が左手のような形をしているところと読み解ける。これが”宇佐”の文字列が表す地形であり、その麓の地域を示しているのである。勿論、豐前國に属することになる。

「法」=「氵+去」=「水辺で山稜が削り取られたような様」、「蓮」=「艸+連」=「山稜が蓮の葉のように連なっている様」と解釈した。共に幾度か登場した文字である。合わせると、法蓮=水辺で山稜が削り取られて蓮の葉のように連なっているところと読み解ける。その地形を図に示した場所に見出すことができる。

古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が立ち寄った豐國宇沙と混同してはならない。「沙」と「佐」は全く異なる文字である。”音”が類似であること以外に何の関りもない文字を置き換えてしまうのである。そんな無節操な後裔達が蔓延る、悲しい現状であろう。

この「豐」の東側の谷間を、現在の国道496号線が走り、「豐後國」を抜けた先で国道500号線を経て英彦山の麓に届く(こちら参照)。古代と現代は、地形的に決して断絶しているのではなく、お仕着せの解釈で繋がりが暈けているだけなのである。

現在の「宇佐」を「豐前」に組み込むことに違和感を感じるのは、当然であって、古代は大河山国川(古中津湾とでも呼ぶか?)を挟んで全く異なる國だったのである。幾度か述べたように古事記の舞台には中津市以東は含まれない。續紀も今のところその影も見せない。暗転して舞台が替わる日も、そう遠くはないような感じなのだが・・・。

<御炊朝臣人麻呂>
● 御炊朝臣人麻呂

全く初登場の「御炊朝臣」であるが、朝臣が付く以上それなりの出自を持つ人物と推測される。調べると「蘇我馬子」の子、「善德」が祖父、父親が「志慈」であったことが分った。

「善德」は馬子の長男で次男が「蝦夷」であった。「蝦夷」の子が「入鹿」であり、これで蘇我一族が歴史の表舞台から遠ざかることになった(こちら参照)。この華やかな系列とは別の「善德」の系列が漸く登場したのである。これは列記とした蘇賀石河宿禰、即ち孝元天皇の血筋の皇別氏族となる。

「志慈」は「入鹿」とは従弟関係にあり、陰と陽の時を過ごしていたのであろう。それでも「入鹿」亡き後の蘇我の地を守っていたと推測される。「善德」の善=羊+言+言=谷間が広がる地に二つの耕地が延びている様德=彳+直+心=中心にある四角い地が延びた様であり、図に示した場所がそれらの地形要素を満たしていることが解る。

「志慈」の志=蛇行する川慈=艸+絲+心=山稜が細かく岐れて延びた地の中心にある様と解釈した。古事記の豐御食炊屋比賣(稻目の孫、後の推古天皇)に含まれる炊=火+欠=口を大きく開いたような谷間に火のような山稜が延び出ている様の「火」の山稜を表していると思われる。

すると御炊=口を大きく開いたような谷間に火のような山稜が延び出ているところを束ねるところと読み解ける。要するに大叔母の名前をしっかりと受け継いだ姓を名乗っていたことになる。かつ、「入鹿」の地も併せた領域を示している。ただ、「御炊朝臣」が續紀に登場するのは、これが最初で最後であり、表舞台での活躍は見られないようである。

ともあれ、一世を風靡した「蘇我」の地のその後を、この人物で伺うことができたことは貴重であろう。「炊」と言う希少な文字使い、その解釈を確信するに至ったように思われる。蛇足だが、「入鹿」の別名に「鞍作」があった。「作(人+乍)」の「乍」と「火」が重ねられていることも興味深いところである。

<信濃國・諏方國>
信濃國・諏方國

既に求めた美濃國の東隣にあった信濃國は決して広い地域を有する國ではなく、何故更に分割したのか、少々訝るところではあるが、間違いなく信濃國全体の様子が伺える機会と思われる。

早速文字列を読み解いてみよう。諏=言+耳+又(手)=耕地の傍らに耳と手のような山稜がある様と解釈される。一目で信濃國の谷間の出口の東側、よく見ればこの國の出口は二つに岐れていたのである。

方=山稜の端が岐れて広がっている様であり、更に東側の谷間を示していることが解る。結果として、新設の諏方國は図に示した領域であったと推定される。現在の取石神社は「諏」の名残なのかもしれない。

短命の國だったようで、十年後には、また信濃國に併合されている。通説は、勿論読みが類似する故に「州羽」、「周芳」などの地名と混同した解釈となっている。万葉仮名に引き摺られていては、古代は見えて来ない、であろう。

秋七月己酉。始令文武百官率妻女姉妹。會於六月十二月晦大祓之處。壬子。征隼人副將軍從五位下笠朝臣御室。從五位下巨勢朝臣眞人等還歸。斬首獲虜合千四百餘人。庚午。詔曰。凡膺靈圖。君臨宇内。仁及動植。恩蒙羽毛。故周孔之風。尤先仁愛。李釋之教。深禁殺生。宜其放鷹司鷹狗。大膳職鸕鷀。諸國鶏猪。悉放本處。令遂其性。從今而後。如有應須。先奏其状待勅。其放鷹司官人。并職長上等且停之。所役品部並同公戸。」大宰府城門災。

七月四日に、初めて文武百官が妻女姉妹を率いて、六月と十二月の晦の大祓に集まらせている。七日、征隼人副將軍の笠朝臣御室(麻呂[滿誓]に併記)巨勢朝臣眞人等が帰還している。斬首もしくは捕虜とした者は合わせて千四百餘人だったと記している。

二十五日に以下のように詔されている。概略は、天下に君主として臨めば仁愛が動植物にまで及び、恩情が鳥獣にまで及ぶ。それ故に周公・孔子の導きでは仁愛を優先し、老子・釈迦の教えでは深く殺生を禁じている。そこで放鷹司の鷹と犬、大膳職の鸕鷀(鵜)、諸國の鶏と猪を全て元の住処に放ってその本性を全うさせたい。また放鷹司の官人及び大膳職の飼育係の長上等は廃止せよ。使役していた品部の者を公民と同じ扱いにせよ、と命じられている。この日、大宰府の城門で火災があったと記している。

八月辛夘。改攝官記事。号爲検事。癸巳。置長門按察使。管周防石見二國。又以諏方飛騨。隸美濃按察使。出羽隷陸奥按察使。佐渡隷越前按察使。隱岐隷出雲按察使。備中隷備後按察使。紀伊隷大和國守焉。
九月乙夘。天皇御内安殿。遣使供幣帛於伊勢太神宮。以皇太子女井上王爲齋内親王。

八月十七日に畿内の攝官を検事に改称している。十九日、長門國に按察使を設置して、周防・石見二國を管轄させている。また、諏方・飛騨國を美濃國の按察使に、出羽國を陸奥國の按察使に、佐渡國は越前國の按察使に、隱岐國は出雲國の按察使に、備中國は備後國の按察使に、紀伊國は大和國守にそれぞれ属させている。

直前に登場した諏方國を含めて全て既出の國である。大倭國から大和國の表記に変更しているが、以前に述べたように、按察使が管轄する國の配置も併せて、後代の国別配置を意識した表現となっているようである。ここでは考察を控えて後に行うこととする。

九月十一日に内安殿に出御され、使者を遣わして伊勢太神宮に幣帛を供え、皇太子(首皇子、後の聖武天皇)の娘である「井上王」を齋内親王とされている。<「井上王」は聖武天皇の第一皇女、母親は縣犬養廣刀自である。出自は「首皇子」の東南に隣接する場所と思われる。齋王解任後、白壁王(後の光仁天皇)の妃となり、その後波乱の人生を送られたようである。>

冬十月癸未。太政官處分。唱考之日。三位稱卿。四位稱姓。五位先名後姓。自今以去。永爲恒例。丁亥。太上天皇召入右大臣從二位長屋王。參議從三位藤原朝臣房前。詔曰。朕聞。万物之生。靡不有死。此則天地之理。奚可哀悲。厚葬破業。重服傷生。朕甚不取焉。朕崩之後。宜於大和國添上郡藏寳山雍良岑造竃火葬。莫改他處。謚号稱其國其郡朝庭馭宇天皇。流傳後世。又皇帝攝斷万機。一同平日。王侯卿相及文武百官。不得輙離職掌。追從喪車。各守本司視事如恒。其近侍官并五衛府。務加嚴警。周衛伺候。以備不虞。戊子。令陸奥國分柴田郡二郷置苅田郡。庚寅。太上天皇又詔曰。喪事所須。一事以上。准依前勅。勿致闕失。其轜車靈駕之具。不得刻鏤金玉。繪餝丹青。素薄是用。卑謙是順。仍丘體無鑿。就山作竃。芟棘開場。即爲喪處。又其地者。皆殖常葉之樹。即立刻字之碑。戊戌。詔曰。凡家有沈痼。大小不安。卒發事故者。汝卿房前。當作内臣計會内外。准勅施行。輔翼帝業。永寧國家。

十月九日に太政官が次のような処分を下している。勤務評定の結果を確認する際、三位には卿を付けて呼び、四位は氏姓で呼び、五位は名を先にして姓を後に呼ぶ。今後は永く恒例とする、としている。

十三日に太上天皇は右大臣の長屋王と参議の藤原朝臣房前を呼んで次のように詔されている。概略は、万物には必ず死があり、これは天地の道理である。葬儀を盛大にして民の生業を壊し、服喪の規定を重んじて民の生活を損なうは最もやりたくないことである。朕が崩じた後は大和國添上郡「藏寶山」の「雍良岑」に竈を築いて火葬し、そのまま墓として他の場所に改葬してはならない。諡号は簡素に「其國其郡の朝廷に宇馭しし天皇」とだけ称し、これを後世に伝えよ。また天皇は通常の政務万般を執り行い、皇親や公卿及び全ての文武官人は簡単に職務を離れて葬儀車につき随わず、各々平常通りの仕事をせよ。近侍する官人や五衛府は厳重に警戒して任務にあたり、思いがけない出来事に備えよ、と述べている。

十四日に陸奥國に命じて、「柴田郡」の二郷を分けて「苅田郡」を設置させている。十六日に太上天皇が次のように詔されている。概略は、葬儀に用いるものは一事たりとも以前に出した勅に従って欠けてはならない。また轜車(棺を載せる車)や天皇の乗る車に金玉や絵具で飾せず、彩色しない粗末なものを用いよ。よって葬儀の場所も丘を削らず、山に竈を築き、いばらを刈り取った地とし、喪葬の場所とせよ。その場所に常緑の樹を植え、文字を刻んだ碑と立てよ、と述べている。

二十四日に以下のように詔されている。概略は、およそ家中に治らない病がある時は万事平安ではなく、突然悪い出来事が起こるものである。卿房前(藤原朝臣房前)は、まさに内臣となって内外に渉ってはかりごとを巡らし、勅に従って施行し、天皇の仕事を助け永く国家を安寧にしている。

<大和國添上郡藏寳山雍良岑・椎山>
大和國添上郡藏寳山雍良岑・椎山

太上天皇が実に丁寧な地名を述べておられ、素直にそれに従って場所を突き止めてみよう。「添上郡」は現地名の田川郡添田町野田辺りと推定した。大きな山稜が英彦山から延びている地であり、山稜が描く文様は複雑である。

そこで付け足されたような「雍良岑」に注目する。「雍」は「雝」の簡略体であり、「雝」=「邕+隹」と分解される。「邕」=「川+邑」=「川で村が取り囲まれている様」と解釈されている。

地形象形的には「雝」=「川(谷間)で鳥のような山稜が囲まれている様」と解釈される。「良」=「なだらかな様」、「岑」=「嶺」とすると、雍良岑=鳥のような山稜が谷間で取り囲まれている地のなだらかな嶺と読み解ける。

図に示した現地名の添田町野田の広畑にある山稜を示していると思われる。既出の藏=艸+戕+臣=山稜の端が長方形に区切られた様であり、寶=宀+缶+玉+貝=山稜に挟まれた谷間にふっくらと膨らんだ地と玉のような地がある様と解釈した。これらの地形要素が「鳥」の麓に全て揃っていることが解る。この山を藏寶山と称していたのであろう。

何故こんな奥まった地に陵を造れと命じたのであろうか?…地図を見れば一目で太上天皇の気持ちを推し量ることができる。この山頂に立てば、彦山川が作る広く長い谷間の先に平城宮を遠望することができるのである(直線距離約15km)。思いを込めた宮と首皇子の即位を未だ果たせなかった心残りを谷間の奥から見届けたかったのではなかろうか。

実際には御陵は、次の十二月の記事で椎山に設置したと記述されている。「椎」=「木+隹」と分解される。「隹」は「鳥」と解釈するのではなく、「隹」の文字形が示すように「積み重なっている様」である。「堆」で用いられている。また「脊椎」が示す地形でもある。

椎=木+隹=山稜が積み重なった様と解釈する。「椎山」は、図に示したその地形を「藏寶山」の北方に見出せる。多分、「雍良岑」は痩せ尾根の地形であり、いくら簡素な陵墓とは言え設営し辛かったのであろう。太上天皇の思いを損なうことはない場所である。

<陸奥國柴田郡:苅田郡>
陸奥國柴田郡:苅田郡

度々登場の陸奥國であるが、唐突に柴田郡と記されている。がしかし、慌てることはなく、文字解釈を行ってみよう。

頻出と言える柴=止+匕+木=谷間を挟んで山稜が長く延びている様と解釈した。その地形を図に示した場所に見出せる。

前記したようにこの地は海が深く入り込んでいて、図中”周防灘”と記した辺りは海面下であったと推測される。この海辺に長く延びた山稜に囲まれた平らなところを柴田郡と名付けていたと思われる。

その二郷を分けて苅田郡としたと記載している。「苅」=「艸+メ+刀」と分解され、「刃物と草を交差させて切る様」を表す文字と知られている。地形象形表記とすれば苅=刀の形の地が山稜をくの字に曲げているような様と読み解ける。すると図に示した場所を示していると思われる。柴田郡の最も上に当たる地域である。

十二月戊寅。太上天皇弥留。大赦天下。令都下諸寺轉經焉。己夘。崩于平城宮中安殿。時春秋六十一。遣使固守三關。庚辰。從二位長屋王。從三位藤原朝臣武智麻呂等。行御裝束事。從三位大伴宿祢旅人供營陵事。乙酉。太上天皇葬於大倭國添上郡椎山陵。不用喪儀。由遺詔也。辛丑。地震。」太政官奏。授刀寮及五衛府。別設鉦鼓各一面。便作將軍之號令。以爲兵士之耳目。節進退動靜。奏可之。」薩摩國人希地多。隨便并合。是月。新羅貢調使大使一吉飡金乾安。副使薩飡金弼等來朝於筑紫。縁太上天皇登遐。從大宰放還。

十二月六日に太上天皇が重体に陥った。天下に大赦して京にある諸寺に経典を転読させている。七日、太上天皇が平城宮の中安殿で崩じている。享年六十一歳。使者を遣わして三關(鈴鹿不破愛發)を固守させている。八日に長屋王藤原朝臣武智麻呂等が葬儀の御装束のことを執り行い、大伴宿祢旅人が陵の造営を任されている。十三日、太上天皇を大和國添上郡の「椎山」(上図参照)の陵に葬っている。遺詔の従って葬儀は行われなかった。

二十九日に地震が起こっている。太政官が次のように奏上している。概略は、授刀寮及び五衛府に今あるものに加えて鉦鼓(戦闘で合図に用いる)をそれぞれ一面ずつ配備し、将軍の号令として使い、軍隊の進退動静を規制したい、と述べ、許されている。また薩摩國は人口が少なく土地が広いので便宜に応じて村里を合併している。この月、新羅の貢調使の大使等が筑紫に来朝したが、太上天皇崩御のために大宰府から帰還させている。

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『續日本紀』巻八巻尾