2019年7月31日水曜日

近淡海の『近』 〔360〕

近淡海の『近』


古事記の中で「近淡海國」の文字列が登場するのは、大年神が天知迦流美豆比賣を娶って大山咋神(別名山末之大主神)誕生し、彼が祖となった地名「近淡海國之日枝山」である。大年神は速須佐之男命が神大市比賣を娶って誕生したと記される。櫛名田比賣を娶って誕生する八嶋士奴美神系列(末裔に大国主命が誕生)とは異なる大年神系列の神が祖となった地名である。

ところで世の中には古事記の解釈本なるものが、マンガも含め夥しく存在するようなのだが、読み間違いも夥しく見受けられる。「遠淡海國」(0回)は古事記に出現しないが、「遠江國」(1回)は登場する。「近淡海」(5回)→「近江」(0回)と気安く置換えるが、何ら根拠は存在しない。

もう少し他の例を挙げると、「遠津」(5回)はあるが、「近津」(0回)は出現しない。「高志之八俣遠呂智」は登場するが「近呂智」は、勿論登場しない。即ち古事記の「遠・近」の文字は距離的なことを示す以外の意味を表していると気付かされる。「遠津」については、本ブログで詳細に述べたこちらを参照願う。

「遠近」揃っているのは「遠飛鳥・近飛鳥」のみであろう。これは明らかに距離的な遠近を重ねた表記である。相対的な距離を述べるには当然のことながらその視点を明確にする必要がある。それが記載されない、遠・近のどちらか一方しか記述されない場合は、距離的な意味を表していないと読み取ることが自然である。

そんなこともお構いなしに「近淡海」→「近江」(都に近い淡水の海:琵琶湖)であり、遠いところの「遠淡海」→「遠江」(浜名湖)とされている。更に古事記は「淡海」と「近淡海」とを明確に区別していることも無視して、総て「近江」と記載されている。

その結果出雲と近江(大和も含めて)とが異常に近接した場所となる解釈に陥ることになる。その言い逃れは、古より出雲との関係が深かった・・・大物主大神が大和の三輪山に坐していたようになる。挙句に所詮古事記など信用できない・・・。高志之八俣遠呂智の場合と同じである。出雲と高志(越)の位置関係、神話でバッサリである。

前置きが長くなったついでに、読み間違えの際たるところ「竺紫日向」であって「筑紫日向」ではない!…古事記が1,300年間読み取れなかったのは当然であろう。この相違が全く理解されて来なかったのである。さて本論に戻ろう・・・。

関連する古事記原文…、

大年神、娶神活須毘神之女、伊怒比賣、生子、大國御魂神、次韓神、次曾富理神、次白日神、次聖神。五神。又娶香用比賣此神名以音生子、大香山戸臣神、次御年神。二柱。又娶天知迦流美豆比賣訓天如天、亦自知下六字以音生子、奧津日子神、次奧津比賣命、亦名、大戸比賣神、此者諸人以拜竈神者也、次大山咋神、亦名、山末之大主神、此神者、坐近淡海國之日枝山、亦坐葛野之松尾、用鳴鏑神者也、次庭津日神、次阿須波神此神名以音、次波比岐神此神名以音、次香山戸臣神、次羽山戸神、次庭高津日神、次大土神、亦名、土之御祖神。九神。上件大年神之子、自大國御魂神以下、大土神以前、幷十六神。

いつものことながら唐突に「近淡海國」が出現する。しかも母親である天知迦流美豆比賣は秋津の出身である。胸形(現宗像市)の地に居た比賣なのであり、九人の御子を誕生させる。彼らの名前から推定された場所は出雲の南部、即ち父親の大年神が統治する領域であることが解った。

大年神は伊怒比賣、香用比賣及び天知迦流美豆比賣の三比賣を娶って十六人の御子を誕生させ、その大半を出雲の地に配置したと伝えている。そして八嶋士奴美神と重なることはなく、そればかりかそれを取り囲むように、である。言い換えると出雲の大部分は大年神の系列によって埋め尽くされたのである。


<大山咋神(山末之大主神)>

既に述べたように八嶋士奴美神の一族は、細々と出雲の地にあり、その一系列は「天」に舞い戻ることになった、と記述されている。

その舞い戻りの系列から大国主命(神)が誕生する。神々の名前の羅列の中に潜められた速須佐之男命の系譜の変遷であり、「葦原中国=出雲」の地で生じた天神達の”誤算”の歴史である。

大山咋神(別名山末之大主神)は図に示した場所に出自を持つと紐解いた。出雲のど真ん中、その山稜が長く延びた端に坐していたと推定した。

地元の比賣が生んだ御子と棲み分けた場所である。いや、だからこそこの地を離れ旅に出たのかもしれない。地元優先、秋津の地では多くの御子を育てるには狭く、葦原中国に移り住まわせたのであろう。

また、それは大年神にとっては統治の領域を拡大する上において好ましい状況を作り出した。古事記は八嶋士奴美神との地政学的戦略の優劣を語っているようである。そんな背景の中、大倭豐秋津嶋へ飛び出た大山咋神の行動は出色であろう・・・がしかし結果として「用鳴鏑神」威圧的侵出では国造りは叶わなかった、と述べている。
 
近淡海國之日枝山


<近淡海国之日枝山>
その彼が坐したところが記される。「此神者、坐近淡海國之日枝山、亦坐葛野之松尾、用鳴鏑神者也」。

祖となったのではなく、「坐」したのである。それぞれの場所はこちらを参照願う。

「日枝山」とは?…「日(炎)」として、「枝」=「木(山稜)+支(分かれる)」と分解すると…、
 
[炎]の形の山稜が枝のように分かれているところ

…と紐解ける。現地名は行橋市上・下稗田(ヒエダ)辺りと推定される。この文字の読みが複数に派生する。「日枝(ヒエ)」→「日吉」、「比叡」など。真に壮大な国譲りであろう。

比叡山の東には近江があり、西には葛野(京都市)がある。古事記の舞台が北九州辺りと推定した説もあるが…この壮大な国譲りを論破するには荷が重過ぎた?…それほど全てが揃っている配置なのである。

尚、「日枝山」に対して「枝」のところは「比賣陀」と表記される。「[貝]の地形が並んだ崖があるところ」と読み解ける。詳細はこちらを参照願う。

では「近淡海國」とは何と紐解けるのであろうか?…日枝山が現在の行橋市にあるとしたが、その行橋市は現在の姿ではなかった、と言うか現在の行橋市の中心地の大部分は海面下にあった、のである。
 
<近淡海:当時の海岸線(白破線推定)>

既に述べたが、縄文海進を推定した当時の海岸線を図に再掲する。


図は現在の標高7-10mを目安として当時の海岸線を推定したものである(白破線)。黄色の文字の玖賀、宇沙及び長江は既に登場した地名で図の場所を比定した。

縄文海進のレベルは現在の標高3-5mのところが海面であったと言われる。一方沖積の効果も大きく、それとの兼合いで当時の海岸線を見積もることになる。

遠賀川・彦山川流域の古代海面の研究結果からこれらの流域では、現在の標高10-13m辺りまでが海水面と同じ標高であったと推定されている。

それを参考にして求めたのが図に示した「近淡海國」の海岸線である。この海岸線が浮かび上がったところで、「近」の示す意味が氷解したのである。

「近」=「辶+斤」と分解され、更に「斤」=「⺁+T」と分解される。「斧」のような器具で凹ませて二つに分ける様を表していると解説されている。図に示したように「斧」のような「長江」が「近淡海」を「墨江」と「大江」に切り分けた様を示していると解釈される。即ち「近淡海國」は…、
 
[斧]で切り分けられた淡海に面する國

…と紐解ける。「辶」=「地形(空間)」を表すと解釈する。この象形は特異である。故に「近」の地形象形の表記は唯一「近淡海」となったのである。勿論「伊波禮」の近くにある淡海の雰囲気も漂わせているのであるが・・・。
 
<近淡海の『近』>
因みに類似の「斯」=「其+斤」で「斤」が含まれる。この場合は「其(箕:分ける)+斤(斧:切る)」=「切り分ける」と解釈する。


通常は扇状に広がる入江となるが、複数の、同じような川が注ぐ入江で発生する地形…現在の川でも北から小波瀬川、長峡川、井尻川、犀川(今川)、祓川などが流れ込む…極めて特徴的な入江を形成していたからであろう。

興味深いのは現在の行政区分においても行橋市の西側に京都郡みやこ町が入り込んだようになっていて、上記の近淡海の折れ曲がった形をそのまま少し西側に移した区分となっている。「斧」の「長江」の存在を伝えているように思われる。

既に述べたように古事記の「淡」=「氵+炎」で、[炎]の形そのものを使って表記したものと解釈した。「味が薄い」の意味では用いていない。更に「近」は「遠」と併記されてはいない。

「遠」=「辶+袁」であって「ゆったりとした山稜の端の三角州」と紐解いた(遠津など)。ならば「近」も同様な地形象形表現では?…と気付きながら、何と「形」そのものを表していたのである。

「近淡海」→「近江」(都に近い淡水の海)とする限り、古事記もさることながら万葉集も含めて全く読み解けていないのが現状であろう。解釈本に何度も登場する「不詳」の文字をそのまま放置してしまうのである。放置するならまだしも、妄想で固めて媚び諂った論説が横行する羽目に陥っているのである。<2010.05.08改>




2019年7月29日月曜日

古事記の『宿禰』 〔359〕

古事記の『宿禰』


「宿禰」を調べると(Wikipedia)…、

宿禰(スクネ、足尼、足禰、少名、宿儺)は、古代日本における称号の一つ。大和朝廷初期(3世紀~5世紀ごろ)では武人や行政官を表す称号としてもちいられていた。主に物部氏や蘇我氏の先祖に宿禰の称号が与えられた。8世紀には八色の姓で制定された、姓(カバネ)の一つとなった。真人(まひと)、朝臣(あそん)についで3番目に位置する。大伴氏、佐伯氏など主に連(むらじ)姓を持った神別氏族に与えられた。

…と記されている。

称号であって、勿論その由来は知る術が無いようである。古事記は「比(毘)古」、「日子」、「比(毘)賣」、「日賣」もそれぞれ意味を持たせて記述されていることが解った。ならば「宿禰」も然るべき意味を有しているのではなかろうか。

「宿禰」の文字が出現するところから紐解いてみよう…第八代天皇、大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)の段で初出となる。

古事記原文…、

倭根子日子國玖琉命、坐輕之堺原宮、治天下也。此天皇、娶穗積臣等之祖・內色許男命色許二字以音、下效此妹・內色許賣命、生御子、大毘古命、次少名日子建猪心命、次若倭根子日子大毘毘命。三柱。又娶內色許男命之女・伊賀迦色許賣命、生御子、比古布都押之信命。自比至都以音。又娶河內青玉之女・名波邇夜須毘賣、生御子、建波邇夜須毘古命。一柱。此天皇之御子等、幷五柱。故、若倭根子日子大毘毘命者、治天下也。其兄大毘古命之子、建沼河別命者、阿倍臣等之祖。次比古伊那許士別命、自比至士六字以音。此者膳臣之祖也。

比古布都押之信命、娶尾張連等之祖意富那毘之妹・葛城之高千那毘賣那毘二字以音、生子、味師內宿禰此者山代內臣之祖也。又娶木國造之祖宇豆比古之妹・山下影日賣、生子、建內宿禰

建內宿禰之子、幷九。男七、女二波多八代宿禰者、波多臣、林臣、波美臣、星川臣、淡海臣、長谷部君之祖也。次許勢小柄宿禰者、許勢臣、雀部臣、輕部臣之祖也。蘇賀石河宿禰者、蘇我臣、川邊臣、田中臣、高向臣、小治田臣、櫻井臣、岸田臣等之祖也。次平群都久宿禰者、平群臣、佐和良臣、馬御樴連等祖也。木角宿禰者、木臣、都奴臣、坂本臣之祖。次久米能摩伊刀比賣、次怒能伊呂比賣、次葛城長江曾都毘古者、玉手臣、的臣、生江臣、阿藝那臣等之祖也。若子宿禰江野財臣之祖。

此天皇御年、伍拾漆歲。御陵在劒池之中岡上也。

そして最後に登場するのが「宗賀之稻目宿禰大臣」である。延べ39回出現する。最初は孝元天皇の御子、「比古布都押之信命」が娶った比賣「尾張連等之祖意富那毘之妹・葛城之高千那毘賣」と「木國造之祖宇豆比古之妹・山下影日賣」が誕生させた御子からである。初見の記載との相違もある故に重複を恐れずに述べることにする。
 
尾張連等之祖意富那毘・葛城之高千那毘賣

意富那毘、葛城之高千那毘賣の「那毘」は何と解く?…「那毘」=「奇麗な臍」針間之伊那毘山の稜線の裾が一旦凹んで再び小高くなる地形を象った表記と解釈した。


<尾張連之祖:意富那毘>
「意富」は「山麓の中心に田が地に境の坂があるところ」と紐解いた。意富(大)斗意富美の例がある。勿論固有地名ではなく、類似の地形を表す。

尾張の地で「那毘」の地形を求めた結果を図に示した。現地名は北九州市小倉南区横代辺りである。貫山山系の剣立山と三笠山の間にある狭い谷間を「毘(臍)」と見做したと思われる。

「富」(境の坂)を越えると奥津余曾(現地名同区堀越)地に入る。この「毘」は間違いなく「境」を表しているのである。

尾張の意富那毘の妹が葛城に居た。兄が移ったのか、それとも妹か、後者の可能性が高いように思われるが定かではない。貫山山系から福智山山系を越えて、その西麓への移動は当時としてはかなりの労を要したのではなかろうか。

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奥津余曾

初見は意富那毘の場所と比定したが、修正である。奥津余曾の詳細はこちらを参照。

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「毘(臍)」が特徴である二つの地の間に何らかの繋がりがあったのかもしれない。彼らのもう一世代前の者達が「毘」の開拓に長けていたように推測される。古事記が語る類似地形間の交流の一つかと思われる。さて、それが引き継がれて行ったのか、今は知る由もないのだが・・・。


<葛城之高千那毘賣・味師内宿禰>
意富那毘の素性などは明かされないままであり、古事記に登場するのはこれのみで追跡は叶わないようである。

妹の葛城之高千那毘賣の「葛城之高千」は、標高630mを越える鷹取山(その奥にある福智山)の山麓にあることから「高千」(高千穂に通じる)を付けたのであろう。

御子の「味師內宿禰」は山代內臣之祖となったと記される。これ以外の記述はなく、下記の建内宿禰とは全く対照的である。

名前の解釈は…「味」=「口+未」とし、更に「未」=「木(山稜)+一」とする。味御路と同様に解釈できるであろう。

「味」=「山稜を横切る路の入口」と紐解いた。「味師」は…、
 
味(山稜を横切る路の入口)|師(凹凸のある地)

…「山稜を横切る路の入口の凹凸のある地」に坐していたと解釈される。「毘」を通る道、母親の近隣であろう。


(内)宿禰


<味師內宿禰>
ここで初めて「(内)宿禰」の表記が登場する。Wikipediaによると…、

宿禰(スクネ、足尼、足禰、少名、宿儺)は、古代日本における称号の一つ。

大和朝廷初期(3世紀~5世紀ごろ)では武人や行政官を表す称号としてもちいられていた。

主に物部氏や蘇我氏の先祖に宿禰の称号が与えられた。8世紀には八色の姓で制定された、姓(カバネ)の一つとなった。

真人(まひと)、朝臣(あそん)についで3番目に位置する。大伴氏、佐伯氏など主に連(むらじ)姓を持った神別氏族に与えられた。

…当然のことながら古事記には「八色の姓」など存在しない。称号と解釈するも良しなのだが、やはり地形象形の表記であろう。

「宿」=「宀+𠈇」と分解できる。頻出の「宀」=「山麓」である。「𠈇」=「人が筵の敷物で縮こまって寝る様」を象った文字と解説され、地形象形的には「こじんまりと横たわる」とする。「禰」=「示(高台)+爾(近い)」と読み解けるであろう。「宿禰」は…、


山麓近くにあるこじんまりとした高台

…と紐解ける。これが「宿禰」の”正体”である。図に示した「味」の場所に小高いところが並んでいるのが見出せる。そしてより山麓に近い方を「内」と表現したのであろう。これが「内」の”正体”である。

もう一人の「内宿禰」が誕生する。

❷木國造之祖宇豆比古・山下影日賣

次の相手が「木國造之祖宇豆比古之妹・山下影日賣」で、御子に「建内宿禰」が登場する。「木国」の詳細は未詳なのであるが、これを読み解いてみよう。


<宇豆比古・山下影日賣・建内宿禰>
「宇豆比古」は何処に居たのであろうか?…、
 
宇(山麓)|豆(高台)

…「山麓にある高台で田畑を並べ定める」と解釈される。居場所は現在の上毛中学校辺りではなかろうか。

現在の築上郡上毛町の穴ケ葉山古墳群近辺に「宇野」の地名がある。


「宇」という地域名を持っていたのだろう。「宇豆」は凹凸の地、現地名同町下唐原であろう。

「山下影日賣」は何と紐解くか?…「影」は姿・形を映したものであろうが、一体何の姿・形なのであろうか?…山裾となる元の「山」の山容かもしれない。

「日」は例のごとく「日(炎)」の地形を示すと思われる。山稜の端が[炎]の地形を持ち、かつ山頂の形がそれに相似していることに着目すると・・・現在名「瓦岳」がその要件を満たすことが見出せる。図に示した通り、山頂と裾野の形が[炎]で繋がっていることが解る。


<山下影日賣・建内宿禰>
「山下影日賣」は…、
 
山下(山裾)|影(山頂の影)|日([炎]の形)賣([貝]の形)

…「山裾が山頂の形を映したような形のところで[炎]の山稜が[貝]のように隙間ができたところ」と紐解ける。

山裾の地名は、築上郡上毛町東下に当たる。「日賣」を「日(炎)」=「[炎]の地形」、「賣」=「[貝]のように隙間があるところ」と解釈すると[炎]の山稜の分岐した端が作る谷間を表しているのではなかろうか。

「建内宿禰」の「宿禰」の解釈は上記の通りで[炎]の先に突出た小高いところが見出せる。「内」は二つある内の山側にある方を示していると思われる。「建」=「廴+聿」=「[筆]の形が延びた様」を表している。

そして天皇家初期における傑物「建内宿禰」が誕生する。臣下としての最高位に就き何代もの天皇に仕えることになる。また子孫は倭国の隅々にまで広がり国の発展に寄与したと告げている。生誕の地の築上郡上毛町東下には下村という旧地名が地図に記載されている。「下」は一字残しの地名かも?…である。

さて、「建内宿禰」の御子が羅列される。地域的にも広範囲に渡り、一気に天皇家の支配領域の拡大が行われたと推測される。詳細はこちらを参照願うとして、宿禰達の居場所を求めた結果を引用する。
 

総ての場合において、それぞれの地の中心であったところが浮かんで来る。「宿禰」は中心の小高いところに住まっていたことを教えてくれているのである。

「比(毘)古」ではなく、統治者としての居場所が定まって来つつあった、それには谷間の川沿いではなく、小高いところで居を構えるには使用人などが増えても養えるだけの財力が伴って来たことが伺える。「葛城長江曾都毘古」となっているのは、葛城の地が他とは異なる状況であったのであろう。憶測の域に入るが、なかなか興味深いところである。
 
<宗賀之稲目・岐多斯(志)比賣>
多くの「宿禰」が登場するが、最後に「宗賀稲目宿禰大臣」について記しておこう。


天國押波流岐廣庭天皇(欽明天皇)が娶る岐多斯(志)比賣の父親に当たる。

蘇賀石河宿禰が祖となった「蘇我臣」の場所と推定される。

特徴的な山稜から突き出た小高いところ、現在の白川小学校の地に住まっていたと思われる。

近淡海國の奥に広がる地、そこを開拓した蘇賀(宗賀)一族が隆盛を迎えるところである。

この地から多くの天皇が誕生し、古事記の最後は「豐御食炊屋比賣命(推古天皇)」で終わる。「蘇我」で生まれた比賣である(欽明天皇~推古天皇紀はこちらこちらこちらを参照)。

建・内宿禰であって、建内・宿禰では、決してあり得ない。日本書紀では武内宿禰(宿禰は尊称)とされる。意味不明なら枕詞と称号で片付ける日本の古代史である。



2019年7月24日水曜日

古事記の『帶(多良斯)』 〔358〕

古事記の『帶(多良斯)』


古事記序文にも記載於名帶字謂多羅斯」されている通り、「帶(タラシ)」と読む。この文字が最初に出現するのが、大国主命の末裔、「比比羅木」(新羅:韓国慶尚南道)を彷徨って最後に「天」(壱岐)に戻り、誕生する御子の名前に含まれる。そしてそれが最後の系譜となっているのである

古事記原文(抜粋)…、

・・・天日腹大科度美神。度美二字以音。此神、娶天狹霧神之女・遠津待根神、生子、遠津山岬多良斯神。右件自八嶋士奴美神以下、遠津山岬帶神以前、稱十七世神。

「遠津山岬多良斯神」=「遠津山岬神」とされている。以後「多良斯」と記載されることは無いようで、この一文、貴重な記述なのである。少し、背景などを述べながら、既に古事記の『遠津』のブログで登場したが、「帶」=「多良斯」の意味を再確認しておこう。

遠津山岬多良斯(帶)神

この神の母親は、天狹霧神之女・遠津待根神とされ、壱岐の「遠津」に坐していたと告げている。遠津山岬多良斯神の「山岬多良斯」を紐解くと…、
 
<大国主命の娶りと御子④:天>
山岬(山がある岬)|多(山稜の端の三角州)|良(なだらかに)|斯(切り分ける)
 
…「山がある岬が山稜の端の三角州となだらかに切り分けられているところ」の神となる。

頻出の「多」、「良」は上記の通りとして、「斯」=「其(箕)+斤(斧)」と分解すると、「切り分ける」と読み解ける。

これら三文字は古事記中に頻出し、総て上記の通りに解釈できる。関連して登場する神々の場所を再掲する。母親の近隣、現地名は勝本町坂本触辺りと思われる。

間違いなく「遠津」はタンス浦…当時はより内陸に広がっていた?…である。

<遠津山岬多良斯神>
朝鮮半島南部との交流の記述である。建御雷之男神にあっさりと国譲りした大国主命の末裔に関して長々と記した目的は、これを伝えんがためであったのかもしれない。

「帶」は正に帯を垂らした様で置換えた表記であろう。地形図から判るように実になだらかに切り分けられ、長く延びている。

典型的な「帶」の地形を示している。この後に登場する多くの「帶」の地形を求める上において貴重な場所なのである。

「帶」の意味を伝える「多良斯神」で長い末裔の記述は終わる。「山岬」と強調されていることを思い合せると、坐していたのは、現在の平神社辺りかもしれない。

次に例示するのは、御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇)が「尾張連之祖奥津余曾之妹・余曾多本毘賣命」を娶って誕生した「天押帶日子命」である。

天押帶日子命

尾張国の「奥津」=「奥まった場所の川が合流するところ」の場所などについてはこちらを参照願うとして、登場人物を纏めて示す。現地名は北九州市小倉南区堀越・志井辺りであると推定した。

<奥津余曾・余曾多本毘賣命・天押帶日子命>
この奥まったところの広い谷間に「帶」が見出せる。蛇行する川が複数流れる谷間の地である。

正に「多良斯」の地形を示していると思われる。「帶」が延び切った先で川が合流し「津」を形成している場所である。

現在も綺麗な棚田に並ぶ村落が形成されているようである。

残念ながら高速道JCTができて、「津」の状態は判別することが難しいようである。

「天押帶日子命者、春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣、壹比韋臣、大坂臣、阿那臣、多紀臣、羽栗臣、知多臣、牟邪臣、都怒山臣、伊勢飯高君、壹師君、近淡海國造之祖也」

と記述される。春日(現田川郡赤村内田)、柿本(田川郡香春町柿下)、多紀(小倉南区新道寺)、尾張の各地名(小倉南区長野など)、近淡海国(行橋市)等々、「大倭豐秋津嶋」一杯に広がる地名が列挙される。彼及び彼の子孫が蔓延って行ったことを伝えているのである。幾度か述べたように、これは決して「欠史」の記述ではない。早稲田の無能な教授が言っただけ・・・それを否定できないのだから他も同じレベルか?・・・。

さて、次は「大帶」の登場・・・である。

大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)

文字解読が興味深いので、初見も併せて記載する。

<大帶日子淤斯呂和氣命・纒向之日代宮>
「大帯日子」は…、
 
大(大いに)|帯(満たす)|日子(稲穂)

…「大いに稲穂を満たす」国中に田畑を多く作り、その地を八十人の御子に分け与えたという大繁栄の倭国の天皇であったと伝えている。

と言うことで、何とも豊かな時の天皇が浮かび上がって来るのであるが、「淤斯呂」⇒「御代」の読み替えで納得するわけにはいかない。

この三文字、決して目新しいものではなく、地形象形の表記として使われている。ならば…、
 
淤(泥が固まったような)|斯(切り分ける)|呂(四角く積重なる)

…「泥が固まったような地と四角く積重なった地が切り分けられたところ」と読み解ける。「斯」=「其(分ける)+斤(切る)」と分解される。「和氣」=「しなやかに曲がる様子の地」として、金辺川と呉川の合流地点にあって、淤能碁呂嶋のような地形を示す極めて特徴的なところである。

ここまでくれば「大帶日子」も地形象形しているのであろう・・・「大」=「平らな頂の山稜」、「日子」=「日(炎)の地形から生え出たところ」、「帶」=「(帯が垂れるように)なだらかに(長く)延びる」とすると…、
 
平らな頂の山稜がなだらかに延びた地にある
[炎]の地形から生え出たところ

…と読み解ける。「稲穂で満たして子に代を分ける」の意と見事に重ねられた表記であることが解る。実に「大帶」に相応しい天皇であった、と言うことなのであろう。

最後に特別な后「息長帶比賣命」を挙げておこう。

息長帶比賣命

<息長帶比賣・息長日子王・虚空津比賣>
帶中津日子命(仲哀天皇)の后であり、天皇亡き後も様々な活躍が記されている。天皇にも「帶」・・・「帶・帶」の組合せ、なのである。天皇の「帶」はこちらを参照願う。

息長の「帶」海に面した狭い土地にあるのか?・・・丹波比古多多須美知能宇斯王の「知」の場所にその地形が見出せる。

ぐんと小ぶりではあるが、立派な「帶」であろう。この地が後の神功皇后の出自の場所ろ推定される。姉妹弟、所狭しと住まっていたと伝えている。

「帶」の代表的と思われる例を示した。「帶」が付く名前の最後は、雄略天皇紀の若帶比賣命である。

「帶」が示す地形の果たす役割が終わりを告げる。古事記の主舞台が大きく旋回する時と同じくしているようである。


2019年7月12日金曜日

陵墓の一覧図・表 〔357〕

陵墓の一覧図・表


<陵墓一覧図>

<陵墓一覧表>


<陵墓詳細図(リンク先)>

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天津日高日子穗穗手見命(火遠理命/山佐知毘古):高千穗山之西稜(宗像市池田;孔大寺神社)

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2019年7月6日土曜日

神倭伊波禮毘古命:槁根津日子 〔356〕

神倭伊波禮毘古命:槁根津日子


槁根津日子は、神倭伊波禮毘古命が吉備之高嶋宮から筑紫之岡田宮に帰還する時の出来事に登場する。勿論日本書紀は奈良大和が中心の世界であるから吉備から難波に向かう途中の出来事とする。古事記編者にとっては、暈した表現とならざるを得ない記述のところであろう。

本ブログは、一切お構いなしで読解するので、文字が示す通りに槁根津日子の居場所、神倭伊波禮毘古命と遭遇した場所を求めてみようかと思う。

古事記原文[武田祐吉訳]…、

故從其國上幸之時、乘龜甲爲釣乍、打羽擧來人、遇于速吸門。爾喚歸、問之「汝者誰也。」答曰「僕者國神。」又問「汝者知海道乎。」答曰「能知。」又問「從而仕奉乎。」答曰「仕奉。」故爾指渡槁機、引入其御船、卽賜名號槁根津日子。此者倭國造等之祖。
[その國から上っておいでになる時に、龜の甲に乘って釣をしながら勢いよく身體を振って來る人に速吸の海峽で遇いました。そこで呼び寄せて、「お前は誰か」とお尋ねになりますと、「わたくしはこの土地にいる神です」と申しました。また「お前は海の道を知っているか」とお尋ねになりますと「よく知っております」と申しました。また「供をして來るか」と問いましたところ、「お仕え致しましよう」と申しました。そこで棹をさし渡して御船に引き入れて、サヲネツ彦という名を下さいました]

速吸門

そこから島伝いに彦島辺りに来る。「速吸門」で出会った「槁根津日子」を海の道案内人に引き立てた、という件である。その地の情報を得るには現地採用する、納得である。倭国造になるなんて運が良い、かも。


<速吸門・槁根津日子>
「速吸門」は何と解釈されるであろうか?…「吸(スイ)」=「水」と置換えて解釈されていた来たが何らの根拠も見出せない。勿論そう読めるような記述であるが・・・。

「吸」=「口+及」と分解されるが、通常の「吸う」という意味との繋がりが見え辛い。「及」の解釈が不十分なのであろう。

「及」=「二つ以上の物事を並べる」として用いられる。即ち複数の物が並び連なる様を表し、それが口に入る様を「吸」の文字で表現したと思われる。古事記は「口」=「囗(大地:島)」とする。

これで読み解ける。「速吸門」は…「速」=「辶+束」として…、
 
速(束ねる)|吸(並び連なる島)|門(狭い通路)

…「並び連なる島を束ねたところの狭い通路」と紐解ける。淤能碁呂嶋、淡嶋の間にある通路を示していると解釈される。伊邪那岐・伊邪那美の国(島)生みの段で述べたように、当時はいくつかの島が点在して繋がるところであったと思われる。「吸」が示す地形は極めて希少である。またそれらを「速」ところは一に特定される。


槁根津日子

槁根津日子」は何処に居たのか?…「槁」は「ケヤキ」と読まれる。大きく高い木となる木の根はさぞかし大きく広く張っているのであろう・・・そんなイメージを抱かせる記述であろう。「槁」=「木+高」(枯れ木の意味)と分解される。「木(山稜)」として「高」=「布が乾いて皺が寄った様」を表すと解釈した。高天原高木神高志などに含まれる。槁根津日子」は…、
 
槁(皺が寄ったような)|根(延びた山稜)|津(集まる)
日子([炎]の地から生え出たところ)

…「皺が寄ったようなところから延びた山稜が集まる地にある[炎]の地から生え出たところ」と紐解ける。速吸門も含めて現在の下関市彦島迫町に含まれるところである。

伊邪那岐・伊邪那美の手によって作られた島だが、生んだ数には数えなかった「淡嶋」の住人である。由緒正しき場所、だから子孫が倭國造に繋がって行ったのであろうか・・・。

文字解釈としては「高」の文字が示す意味が明確になったようである。「台地に上に立つ建物」を象形したとされるが、「高」は乾いた布の皺がそもそもの対象であったと思われる。皺の盛り上がった形を表し、かつ枯れた様を述べる際に用いられる文字であることが解った。