2019年7月24日水曜日

古事記の『帶(多良斯)』 〔358〕

古事記の『帶(多良斯)』


古事記序文にも記載於名帶字謂多羅斯」されている通り、「帶(タラシ)」と読む。この文字が最初に出現するのが、大国主命の末裔、「比比羅木」(新羅:韓国慶尚南道)を彷徨って最後に「天」(壱岐)に戻り、誕生する御子の名前に含まれる。そしてそれが最後の系譜となっているのである

古事記原文(抜粋)…、

・・・天日腹大科度美神。度美二字以音。此神、娶天狹霧神之女・遠津待根神、生子、遠津山岬多良斯神。右件自八嶋士奴美神以下、遠津山岬帶神以前、稱十七世神。

「遠津山岬多良斯神」=「遠津山岬神」とされている。以後「多良斯」と記載されることは無いようで、この一文、貴重な記述なのである。少し、背景などを述べながら、既に古事記の『遠津』のブログで登場したが、「帶」=「多良斯」の意味を再確認しておこう。

遠津山岬多良斯(帶)神

この神の母親は、天狹霧神之女・遠津待根神とされ、壱岐の「遠津」に坐していたと告げている。遠津山岬多良斯神の「山岬多良斯」を紐解くと…、
 
<大国主命の娶りと御子④:天>
山岬(山がある岬)|多(山稜の端の三角州)|良(なだらかに)|斯(切り分ける)
 
…「山がある岬が山稜の端の三角州となだらかに切り分けられているところ」の神となる。

頻出の「多」、「良」は上記の通りとして、「斯」=「其(箕)+斤(斧)」と分解すると、「切り分ける」と読み解ける。

これら三文字は古事記中に頻出し、総て上記の通りに解釈できる。関連して登場する神々の場所を再掲する。母親の近隣、現地名は勝本町坂本触辺りと思われる。

間違いなく「遠津」はタンス浦…当時はより内陸に広がっていた?…である。

<遠津山岬多良斯神>
朝鮮半島南部との交流の記述である。建御雷之男神にあっさりと国譲りした大国主命の末裔に関して長々と記した目的は、これを伝えんがためであったのかもしれない。

「帶」は正に帯を垂らした様で置換えた表記であろう。地形図から判るように実になだらかに切り分けられ、長く延びている。

典型的な「帶」の地形を示している。この後に登場する多くの「帶」の地形を求める上において貴重な場所なのである。

「帶」の意味を伝える「多良斯神」で長い末裔の記述は終わる。「山岬」と強調されていることを思い合せると、坐していたのは、現在の平神社辺りかもしれない。

次に例示するのは、御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇)が「尾張連之祖奥津余曾之妹・余曾多本毘賣命」を娶って誕生した「天押帶日子命」である。

天押帶日子命

尾張国の「奥津」=「奥まった場所の川が合流するところ」の場所などについてはこちらを参照願うとして、登場人物を纏めて示す。現地名は北九州市小倉南区堀越・志井辺りであると推定した。

<奥津余曾・余曾多本毘賣命・天押帶日子命>
この奥まったところの広い谷間に「帶」が見出せる。蛇行する川が複数流れる谷間の地である。

正に「多良斯」の地形を示していると思われる。「帶」が延び切った先で川が合流し「津」を形成している場所である。

現在も綺麗な棚田に並ぶ村落が形成されているようである。

残念ながら高速道JCTができて、「津」の状態は判別することが難しいようである。

「天押帶日子命者、春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣、壹比韋臣、大坂臣、阿那臣、多紀臣、羽栗臣、知多臣、牟邪臣、都怒山臣、伊勢飯高君、壹師君、近淡海國造之祖也」

と記述される。春日(現田川郡赤村内田)、柿本(田川郡香春町柿下)、多紀(小倉南区新道寺)、尾張の各地名(小倉南区長野など)、近淡海国(行橋市)等々、「大倭豐秋津嶋」一杯に広がる地名が列挙される。彼及び彼の子孫が蔓延って行ったことを伝えているのである。幾度か述べたように、これは決して「欠史」の記述ではない。早稲田の無能な教授が言っただけ・・・それを否定できないのだから他も同じレベルか?・・・。

さて、次は「大帶」の登場・・・である。

大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)

文字解読が興味深いので、初見も併せて記載する。

<大帶日子淤斯呂和氣命・纒向之日代宮>
「大帯日子」は…、
 
大(大いに)|帯(満たす)|日子(稲穂)

…「大いに稲穂を満たす」国中に田畑を多く作り、その地を八十人の御子に分け与えたという大繁栄の倭国の天皇であったと伝えている。

と言うことで、何とも豊かな時の天皇が浮かび上がって来るのであるが、「淤斯呂」⇒「御代」の読み替えで納得するわけにはいかない。

この三文字、決して目新しいものではなく、地形象形の表記として使われている。ならば…、
 
淤(泥が固まったような)|斯(切り分ける)|呂(四角く積重なる)

…「泥が固まったような地と四角く積重なった地が切り分けられたところ」と読み解ける。「斯」=「其(分ける)+斤(切る)」と分解される。「和氣」=「しなやかに曲がる様子の地」として、金辺川と呉川の合流地点にあって、淤能碁呂嶋のような地形を示す極めて特徴的なところである。

ここまでくれば「大帶日子」も地形象形しているのであろう・・・「大」=「平らな頂の山稜」、「日子」=「日(炎)の地形から生え出たところ」、「帶」=「(帯が垂れるように)なだらかに(長く)延びる」とすると…、
 
平らな頂の山稜がなだらかに延びた地にある
[炎]の地形から生え出たところ

…と読み解ける。「稲穂で満たして子に代を分ける」の意と見事に重ねられた表記であることが解る。実に「大帶」に相応しい天皇であった、と言うことなのであろう。

最後に特別な后「息長帶比賣命」を挙げておこう。

息長帶比賣命

<息長帶比賣・息長日子王・虚空津比賣>
帶中津日子命(仲哀天皇)の后であり、天皇亡き後も様々な活躍が記されている。天皇にも「帶」・・・「帶・帶」の組合せ、なのである。天皇の「帶」はこちらを参照願う。

息長の「帶」海に面した狭い土地にあるのか?・・・丹波比古多多須美知能宇斯王の「知」の場所にその地形が見出せる。

ぐんと小ぶりではあるが、立派な「帶」であろう。この地が後の神功皇后の出自の場所ろ推定される。姉妹弟、所狭しと住まっていたと伝えている。

「帶」の代表的と思われる例を示した。「帶」が付く名前の最後は、雄略天皇紀の若帶比賣命である。

「帶」が示す地形の果たす役割が終わりを告げる。古事記の主舞台が大きく旋回する時と同じくしているようである。