2018年5月31日木曜日

飛鳥と鳥髪 〔216〕

飛鳥と鳥髪

「飛鳥」と言えば本ブログの第一稿(近つ飛鳥と遠つ飛鳥)に記載した文字、反正天皇が関わる事件に登場する。「飛鳥」=「隼人曾婆訶理」であり、「飛鳥(アスカ)」は後世の人が事件の生々しさを避けて「隼人曾婆訶理」を省略し、「近つ明日処(アスカ)」(あすの場所で近付ける)「遠つ明日処」(明日の場所で遠ざける)と伝えたことに由来すると解釈した。

ではこれが「飛鳥」の初出かと思えば、そうではなく垂仁天皇紀の大中津日子命が祖となった一つに「飛鳥君」があったと記載されている。言い換えれば「飛鳥」には二つの意味が含まれていることになる。反正天皇の説話では、あくまで「近飛鳥・遠飛鳥」であり、その由来とは別個の「飛鳥」という地が存在していたと古事記は伝えているのである。

同じ「鳥」仲間に「鳥髪」がある。速須佐之男が降臨した出雲国にあった「鳥髪地」で出現する。その場所など間違いなく比定することができたのであるが、何故にそう名付けたのか?…は決して明瞭ではなかった。

更に古事記の記述では「登美」(以音)とされるが「鳥見(トミ)之白庭山」に含まれる「鳥見」にも「鳥」が出現する。これらは無関係に存在する言葉なのか、地形象形として共通の意味を有しているのか、古事記解釈上、重要なキーワードと気付き、再考することにした。


<鳥見之白庭山>
鳥見

紐解きは、最後の「鳥見」の考察が切っ掛けとなった。「鳥見」の表現は古事記にないが、「鳥見」は何と解釈できるのであろうか?…、


鳥見=鳥が見える

…と単純に読み解くと、見晴らしの良い高台のイメージである。確かに大坂山からの枝稜線の端にある戸城山は背後に聳える大坂山の方向を除き見事に視界が開けたところと思われる。

戸城山だが、それだけのことで命名したとは思えない。何かを意味していると思われる。図に示したように戸城山の頂上付近以外では香春一ノ岳、その麓までは目視困難な地形であることが判る。大坂山山稜が延びて遮っている(3D図を参照)。


<鳥見之白庭山3D>
とすると、「鳥」=「香春一ノ岳」を意味することになる。何故、鳥?…思い付くのが一ノ岳の山容、即ち稜線が作る姿を示していたのではなかろうか。

残念ながらこの山は図に示した有様であって確認不能であるが、サイトに元の姿を留める写真などが見出だせる。


飛鳥

驚くべきことにこの山は円錐形とは程遠いかなり歪な形で、岩山に見られるゴツゴツとした山容をしていたことが伺える。

更に左の写真は、鳥の胴体を示す、南に伸びる主稜線(香春二ノ岳、三ノ岳を結ぶ:背後の二つの山)に対して、枝稜線が鳥の翼にように…かつ少々折れ曲がった形に…広がり、正に「飛ぶ鳥」の姿をしているように見受けられる。

あらためて見てみると、現在も異様な山容ではあるが、元の姿は自然造形でできた特異な姿をしていたと思われる。即ち「飛鳥」は一に特定できる、間違うことなく辿り着ける場所、香春一ノ岳であったと結論できる。


<かつての香春岳>


鳥髪

速須佐之男命が降臨した場所は「故、所避追而、降出雲國之肥河*上・名鳥髮地」と古事記に記述される。初見では「鳥髪(トカミ)」=「斗の上」として、出雲の「大斗」の上にある場所と解釈した。決して間違いではなく、事実そう言っていると思われた。だが、何故、表記を変えたのか?…それには何らかの理由があった筈である。特にこの解釈では地形象形されておらず、気に掛かるところであった。

比定した現在の企救半島にある戸ノ上山をあらためてよく観察すると・・・「飛鳥」と全く同様に主稜線と枝稜線が作る地形を「鳥」に見立てていたことが判った。


<鳥髪>  


鳥髪地=鳥(鳥の姿)|髪(山稜)|地=鳥の姿をした山稜の地

…「髪=山稜」?・・・実に手の混んだ文字使いではあるが、「髪」=「毛」=「木」となり、安萬侶コード「木(山稜)」の出番なのである。飛び立つような鳥ではなく、ゆったりと大きな翼を広げた鳥を示している。「地」を付けて、山そのものではなく山稜が広がる地を表している。これも実に木目細かな表現と思われる。


後の大国主命の系譜に関連してこの「鳥髪」の近隣に、所狭しと神々が現れる。

繰り返しになるが、「八嶋牟遲能神之女・鳥耳神」、戸ノ上山主稜線の端に「耳の地形」がある。

「鳥鳴海神」は枝稜線が延びて淡海に接するところに住まったと紐解いた。

「鳥」を中心にした表記と解釈することができた。結果の図を再掲する。戸ノ上山、その山稜を眺めれば行き着くところである。「鳥髪地」そして出雲国は北九州市門司区にあったと確信する。

水齒別命(後の反正天皇)が伊邪本和氣命(後の履中天皇)(共に仁徳天皇の御子)の命を受けて「飛鳥」=「隼人曾婆訶理」を褒め殺しにするという乱暴な物語であるが、前記したように作業は近飛鳥で全て行われる。それに続いて…念入りに…明日、禊祓を行って石上神宮に参詣しようと述べ、その地を「遠つ飛鳥」と名付けた。この神宮の在処こそ「飛鳥」であった。

天高く飛び立つ「飛鳥」それは遠ざかる「隼人曾婆訶理」の姿を映しているのであろう。何故「飛鳥=アスカ?」に焦点を置いた解釈、それはそれとして、この「近飛鳥・遠飛鳥」の説話の伝えるところは真に深遠なものがあったと気付かされた。正に「万葉」のごとく重ね含められた意味を持つ表現と感心させられる。

・・・五木寛之著 ”青春の門” 読み飛ばしたような気もするが、引張り出してみようか・・・。

2018年5月28日月曜日

氷羽州比賣命の御子:印色之入日子命 〔215〕

氷羽州比賣命の御子:印色之入日子命


開化天皇の御子、日子坐王の娶りの記述に登場する後裔達、彼らが、また、多くの子孫を誕生させる。その名前の通りに天皇家の「開花」(花=艹+化)の時を迎えたのである。その中でもとりわけキーマンと思しき旦波比古多多須美知宇斯王の系譜に「印色之入日子命」がいた。既稿で簡単に述べたのであるが、再度取り上げてみようかと思う。

古事記原文…、

旦波比古多多須美知宇斯王之女・氷羽州比賣命、生御子、印色之入日子命印色二字以音、次大帶日子淤斯呂和氣命自淤至氣五字以音、次大中津日子命、次倭比賣命、次若木入日子命。五柱。

旦波比古多多須美知宇斯王が丹波之河上之摩須郎女を娶って誕生したのが比婆須比賣命(氷羽州比賣命)である。この詳細はこちらを参照願う。その長男が「印色之入日子命」であり、次男が大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)と記述される。

「旦波」と「丹波」がそれとなく使い分けられている。「旦」は水平な地に太陽が昇る象形「丹」は赤米の穂が波打つ様を示したものと思われる。それそれが坐した地形を同じ「タンバの国」でありながら表記を使い分けているのである。この国の有り様が見えて来た今になって古事記編者達のきめ細かい表現方法に首肯かざるを得ないようである。

さて、「印色之入日子命」は何処にいたのであろうか?…「タンバ」が重なる出自を持つのだからやはり「タンバ」及びその周辺であろうとして、既稿で比定を行った。それを見返しながら、もう少し掘り下げてみよう。

「印色」で「以音」とある。推定の旦波国の中に印色(イニシキ)に類似する地名を探すと「錦(ニシキ)」という町名が残っていることがわかった。今の町名ではなく、旧町名のようであるが、現在の福岡県京都郡みやこ町豊津に含まれている。またもう少し南に下って「錦ヶ丘」という地名もある。

住居表示が変更されても残る地名は重要である。その地の古くから伝わる名前を大切に思う気持ちは万人に通じる、筈である。いや、通じなくなって来ているのか?・・・横道に逸れそうなのでこの辺で・・・。既稿より随分と時が経った今は文字解釈そのもので居場所を突き止めることができるであろうと、意気込んでみる。

「印」=「首(水辺の凹地)」は崇神天皇の和風諡号、御眞木入日子印惠命に含まれるものと同義と思われる。「首」は現在の下関市彦島の「田の首町」が印象深い。この地形に由来する名前、と言っても定かではないが。仁徳天皇紀には歌中で「由良能斗」と表現される。凹の地形であることを示している。

「色」は穂積之臣の祖となった内色許男命及び彼の後裔達に含まれる。おっと、忘れるところであった葦原色許男命、大国主命の多くの別名の一つもそうである。「色」=「人+巴(渦巻く地形)」と紐解ける(詳細はこちら)。すると…、


印色=水辺の凹地で渦巻く地形(巴)
 
…と紐解ける。図から文字が表す通りの地形が見出だせる。それを取り囲むように「錦」の地名が示されている。

凹地は「彦徳(ケンドク)」その「徳」から「徳利」を想起させる。上図を回転させれば首の長い「徳利」である。

「徳利の彦」↔「印色の(入)日子」となるが、その由来は全く定かでないようである。現存地名と深く関わっているのではなかろうか。

やはり「入」が付加される。「苗代・田植え」を示していると思われるが・・・。前記した大毘古命と建波邇安王の戦いがあった「伊豆美(泉)」の近隣である。犀川の河口近くの要所であったと推定される。丹波国の北西の端に当たり、豊国との境界領域を形成していた場所と思われる。

天皇の兄、謀反を起こさなければナンバーツーとして大いなる実権を有していたと思われるが、彼の活躍が記載される…、

印色入日子命者、作血沼池、又作狹山池、又作日下之高津池。又坐鳥取之河上宮、令作横刀壹仟口、是奉納石上神宮、卽坐其宮、定河上部也

なかなかの働き者、「鳥取之河上宮」に坐することを許された命である。池作りの名人、大刀も…筒木作りには鉈が要る、両方揃えて池作りってところであろうか。鋸はあったのであろうか…と初見で述べた。

「鳥取」の「鳥」は邇藝速日命が定住した「鳥見之白庭山」関連するとし、また「取」は現在の地名(見取)から現地名田川郡赤村赤の見取に比定した。

鳥取之河上宮

<鳥取>
邇藝速日命の「鳥見之白庭山」即ち戸城山近隣を示すと述べたが、あらためて「鳥取」の文字解釈を行ってみよう。

「鳥」=「ト」である。古事記は「登美」と表わすが、これは当て字(以音)である。


登(登る)|美(微かに)

…緩やかな谷に広がる水田地帯の象形と解釈した(こちらを参照)。

上記した鳥見之白庭山に含まれる「鳥見」こそが本来の地名であったと推測される。

鳥取の「鳥」はこの「鳥(ト)」を意味すると解釈される。更に「取」=「耳(縁)+手(手の形)」と分解すると…、


鳥取=鳥(鳥見の地)|取(縁にある手の地形)

…「鳥見の地の縁にある手の形をしたところ」と紐解ける。上図<鳥取>で橙色で囲んだところを「手」の地形と見做せるのではなかろうか。「取」については宗賀一族の王子の一人「足取王」の紐解きに類似する。既稿ではあるが、引用すると・・・、

<足取王>
足取王の「足」は山稜が延びたところであろうが「取」の紐解きに工夫を要した。


取=耳+手

…と分解できる。

古代の戦闘で倒した敵の耳を取って戦果(人数)としたことから「取」の字ができたと言われる。何とも物騒な文字なのであるが、現実だったのであろう。

これを適用すると、苅田町山口、現在の貯水池の西側に手の形をした山稜の端が目に止まった。

・・・図<鳥取>に示されているように、ここは犀川(現在の今川)が極端に蛇行し極めて特徴的な地形を示している。千数百年間の地形を保っているかと思えば、さもありなんと思う気持ちと、よくぞ残したという感じでもある。人為的な変化が加わらない限り地形は、悠久の時を流れて来た地球の歴史からすればアッと言う間の短い時のものなのであろう。

「鳥取」は蛇行する川に接するところでもある。だからわざわざ「河上」と補足したものと思われる。安萬侶コード「取(縁にある手の地形)」としておこう。河上は、山中に忽然と現れる見事な水田地帯になっていることも前記で述べた。実に巧みな耕地の開拓が行われたものと推測される。

作った三つの池の場所は求められるであろうか?…「血沼池」は宇陀の「血原」の近傍と思われる(現地名は北九州市小倉南区呼野近隣)。「血沼」は既出で相武国(現在の北九州市小倉南区)に比定したが、沼ではなく池と記していることから別の地、宇陀にあったとした。

「日下之高津池」は日下、後の雄略天皇が坐した場所の近隣と思われる。現在の田川郡香春町採銅所の宮原辺りと推定される。少々山麓を登ったところにある川の合流点を求めることになる。

「狭山池」は何と紐解くか?…一般的な名称になるなら、間違いなく地形象形表現と思われる。


狭山=狭(幅が狭い)|山(山稜)

…多くの山稜がある中で目立つ狭さ、というところであろうか。地図から同採銅所の黒中辺りにそんな山稜が見出だせる。これらを上図に示した。それらの場所に現在も池らしきものが示されている。当時のものかどうかは不明だが、池が必要とされる地であることに変わりはないようである。


<血沼池・狭山池・高津池>

倭国のセンターライン、後の「長谷」から尾張に抜ける道筋の開拓に勤しんだ命であったと告げている。日下の地が開かれ、倭国はその頂点を極める雄略天皇へと繋がって行く。真に着実な歩みと読み取れるのである。

天皇の兄が働くと国が発展する。良き時代だったのでろう。がしかし、言い換えれば、働き場所、開拓できる土地がなくなって来ると何かと諍いが始まる…これも世の常の出来事なのであろうか・・・。

2018年5月26日土曜日

伊久米伊理毘古伊佐知命=伊玖米入日子伊沙知命 〔214〕

伊久米伊理毘古伊佐知命=伊玖米入日子伊沙知命



初国の天皇となった崇神天皇の跡を引き継いだのが垂仁天皇であった。その和風諡号が些か長い上にどういう分けか崇神紀と垂仁紀では異なる。勿論読みは同じなのだが・・・間違いなくその諡号で何かを伝えているのである。異なる文字列を用いるのは今までにも何度も出現した。それで伝えたいものを表現するのが古事記である。

悲しいかな全く読み取れて来なかった日本の古代史である。これも何度も述べているように勿体無い話であろう。本題に入ろう。崇神紀①と垂仁紀②の古事記原文表記の引用である。

娶大毘古命之女・御眞津比賣命、生御子、伊玖米入日子伊沙知命、次伊邪能眞若命、次國片比賣命、次千千都久和比賣命、次伊賀比賣命、次倭日子命。六柱。

伊久米伊理毘古伊佐知命、坐師木玉垣宮、治天下也。

この違い、ましてや何かの間違いでは済まされない違いであろう。だがこれは些細な違いであって言及すること自体が無意味な取り扱いのようである。こうなってくると何が何でも紐解いてみようと思うのが人の常…ではないが・・・。では、早速両者の表現を比べながら述べてみよう。

伊久米伊理毘古伊佐知命に含まれる「伊久米」「伊理毘古」伊佐知」頭韻踏んだ調子の良い名前、なんて感心してるだけでは読み解けない、あたり前か…。というわけで、取り掛かりは「久米」である。

ところが、崇神紀では「玖米」と表記されている。「玖米」の解釈をしてみよう…既に一部紐解いているが、詳細はこちらで…、


玖米=玖(黒色の)|米(稲の実)

…黒米の産地の天皇を表しているようである。黒米は紫黒米、紫米とも呼ばれる。「紫」の文字が師木(現在の田川郡香春町中津原の紫竹原)に見出だせる。竹の植物分類は「イネ目イネ科タケ亜科」であり、紫稲、即ち紫米の産地であったことを示しているのでは、と解釈した。

黒米を調べると、吸肥力大、環境変化に強い、長期保存時の発芽率が高いなど早期に栽培された稲で、白米至上主義になったのは明治時代以降とある。生きるための米は近年になるまで有色米であった。赤米(古事記は「丹」で表現する)との関連も含めて興味深いところでもある。

かなり状況証拠的には好ましい解釈のように思われる。がしかし、これでは今一つ場所の特定には至らず、やはり地形象形表現として紐解いてみよう。垂仁紀の「久米」とくれば邇邇藝命の降臨に随行した天津久米命に含まれる「久米」=「くの字に曲がった川の合流点」があるのだが、それに似た地形は存在するのか?・・・。

師木は「天」の地形と同じく凹凸の少ないところである。英彦山山系の山稜の端にあるところ、更に当時と比べると現在では些か凹凸も減少しているようにも思われる。天神達が住み慣れた場所に類似する地への憧れは、おそらく、大きなものであったろう。勿論そんな地形は稀有であって生きるためには新たな土地を求めなければならなかったのも事実である。


<師木玉垣宮・水垣宮>
案じるより産むが易し、見事に地形象形されていることが判った。

図の右側から左側にかけて、すなわち東から西に向けて標高差20mに満たないが、なだらかな谷筋が見て取れる。

またそれらの谷筋が合流し「津」を形成していることも判る。真に「天津」類似の地形を示しているのである。

この「津」近隣の高台に垂仁天皇の師木玉垣宮があったと推定される。現在の鎮西公園、地名は田川市伊田である。

参考に崇神天皇の師木水垣宮の場所も併せて示してある。師木の中央へと侵出したのである。「伊」の文字を三つも含む名前、ひょっとすると伊田の「伊」は残存地名かもしれない。


伊久米=伊(僅かに)|久(くの形)|米(川の合流点)

…「僅かに「く」の形に曲がった川が合流するところ」と紐解ける。「玖米」と表現して「黒米」のイメージを浮かばせながら地形象形では「久米」とする。安萬侶くんの文字使いは尋常ではない、いつものことながら・・・。「伊理毘古」「入日子」は後に回して先に「伊佐知」「伊沙知」について述べる。


崇神紀で記された「伊沙知」は何と解釈されるであろうか?…多用される「伊」なのだが、それだけに意味も多様である。「伊」に続く文字によって適切な解釈をすべきであろう。「伊」=「人+尹(支配する、整える)」として…、

伊(支配する)|沙(辰砂:丹)|知(得る)

…「丹を得るのを支配する」と紐解ける。なだらかな傾斜地での稲穂ばかりでなく「丹」の生産も確保した命と伝えている。垂仁紀の「伊佐知」は…、


伊(整える)|佐(促進する)|知(得る)

…丹の獲得ばかりではなく、更に生産を促進するように計らったと読み解ける。海佐知・山佐知の「佐知」の意味と同様である。海の幸・山の幸としては伝わるニュアンスが消えてしまうのである。

「伊佐知」「伊沙知」の一文字変えて読み手に伝わる内容を広げているのである。何とも多彩な文字使いであろうか・・・これらの言葉に秘められた意味は後の説話…ドラマチックな沙本毘古の謀反の説話で明らかにされる。垂仁天皇紀に「丹」の生産が本格化したことを告げている。

「伊理毘古」「入日子」はそれぞれ紐解くと…、


伊(小さく)|理(田を区分けした)|毘(田を並べて)|古(定める)
入日子=入(移し入れる)|日子(日の子:稲)

…「小さく田を区分けして並べて定める」「苗を本田(ホンデン)に移し替える(田植え)」と解釈される。この二つの表記は「小さな苗代を作ってその苗を本田に植える」という現在の一連の稲作方式を述べていると解釈される。同一人物の名前で用いられた異なる表記からこの一連の作業が浮かび上がって来るのである。

前記(詳細はこちら)で苗を移し入れる表現からこの稲作方式を告げているのではと推測したが、同時に登場し始めた「伊理」の表現が繋がった。遅くとも弥生時代には「苗代・田植え」が行われていたとの考古学上の知見があるとのことだが、古事記が伝えるこの方式は「伊理」が開化天皇紀に出現することからこの時に始まり、崇神天皇紀を経て垂仁天皇紀に本格化したものと思われる。西暦を求めることは後日としよう。

それにしても久々の長たらしい天皇名は、やはり、大切な意味を有していたことが判る。稲作耕地の発展もさることながら、それに「丹」の支配・生産体制整備が加わったのである。垂仁天皇紀全体を通しても賢帝の雰囲気を醸し出している天皇である。紫黒米に満たされた状況もあながち外れてはいないと思われる。それも含めた命名と推測される。

こうして師木玉垣宮の在処が見えて来ると、師木は実に稲作に適した土地を有していたことが判る。葛城、山代などの急斜面の渇いた土地に比べ、容易に大量の米を取得することができた場所であったと思われる。その地を何としても手中に収めること、念願叶った天皇家の行末は希望に満ちていただろう。

本ブログのかなり初期に師木玉垣宮の位置を推定した経緯がある。

垂仁天皇の御子が無口で、何と空を飛ぶ「鵠」を見て言葉を発したことから、それを求めて家臣が旅立つという説話であった。

記載された「卽曙立王・菟上王二王、副其御子遣時、自那良戸、遇跛盲、自大坂戸、亦遇跛盲、唯木戸是掖月之吉戸ト而出行之時、毎到坐地定品遲部也」から求めた結果は図に示した通りであった。

トンデモナイ宮の大きさであったが、ほぼ今回の結果と齟齬がないことが確認された。一安心である。古事記はその場凌ぎの記述をしていないことをここでも確認されたわけである。

ところで「久米」に関してもう一つ関連する記述がある。建内宿禰の比賣、久米能摩伊刀比賣と怒能伊呂比賣である。これも既に紐解いていたが、あらためて見直してみることにした。


久米能摩伊刀比賣

<久米能摩伊刀比賣>
図に示したように伊久米天皇の近隣であろう。そして「摩伊刀」の意味を紐解くことになる。

そのまま読めば「刀を擦って磨く」のような意味になる。

神倭伊波礼比古に随行した武将「大久米命」を連想させ、勇猛な久米一族の住処であったことを暗示しているように受け取れる。

勿論天皇の近くに居ること、彼らの主要な役目であったろう。

だがしかし、間違いなく地形象形していると思われる。「摩伊刀」は何と紐解くか?…、


摩(消えかかったような)|伊(小ぶりな)|刀(斗:柄杓の地)

…と読み解く。安萬侶コードの「刀」=「斗」=「戸」は全て凹んだ地形を示し、場合によって使い分けられている。標高差が少なく、地図は国土地理院アナグリフを使用する。浮かび上がって来た柄杓の地が見出だせる。ついでながら「伊久米」の谷(川)も一層明確に示されている。

「久米」の範囲は残念ながら上記からは求めることは不可で、凡その領域を示した。垂仁天皇がこの地に鎮座するずっと以前に建内宿禰の手が伸びていたということであろう。師木侵出は着実に準備されていたのである。

怒能伊呂比賣

怒能伊呂比賣、一体何と読む?…やはり「ノノイロヒメ」が正解のようである。だが、これでは埒が明かない、というのも正解のようである。そもそも建内宿禰の子供達の居場所を求めた例が極めて少ないのだから、そのうちの一人の比賣など誰も追及なんかしていない…そうなんでしょうか?

そんな怒りが…ちょっと安萬侶くん風になってきた…「怒」=「イカリ」と読む。

師木辺りで関係ありそうな場所を探すと・・・ズバリの名前が登場する。

「伊加利」である。師木玉垣宮のほぼ真南に当たる彦山川の対岸にある。

現地名は田川市伊加利で、かなり広い面積をしめる地名であり、古くからの呼び名ではなかろうか。

ここで終わってしまっては残存地名に合わせただけになってしまう・・・「イカリ」の地形を求めてみると・・・見事な地形象形であった。

「錨」の歴史は古く、舟を多用していれば当然かも知れないが、とは言っても古事記の時代に如何なるものが使用されていたかは不詳である。

「怒能伊呂比賣」は…、


怒(錨の地形)|能(の)|伊(小ぶり)|呂(背骨)

…「錨の地形で小ぶりな背骨ようなところ」の比賣と紐解ける。

上図を参照願うと、背骨の凹凸があり、現在に知られる鉄製の錨の形を示していることが判る。

この形状は石を用いた碇ではなく、既に鉄を用いていたのではなかろうか…古事記編纂時かもしれない?・・・興味深いところだが、これ以上の推論は難しいようである。

読み進んでいると「苗代・田植え」「錨」が浮かんで来て、時はいつか?…と知りたい気分ではあるが、時制に無頓着?な古事記からでは難しいようでもある。焦ることなく、かも?

…全体を通しては古事記新釈の「垂仁天皇【后・子】を参照願う。


2018年5月24日木曜日

大毘古命と日子坐王 〔213〕

大毘古命と日子坐王

苦節何代かを経て漸く師木に辿り着いた崇神天皇は、まだまだその統治する地にいる服わぬ輩への対応が必須であった模様である。将軍達を派遣したと告げる。その説話については既に読み解き生々しく語られる戦闘場面など、ほぼほぼ再現したような錯覚に陥っていた(詳細はこちら)。古事記に取り掛かって早一年以上が過ぎた。遠い昔のようでもある。

それを再掲しながら読み飛ばした文字をあらためて紐解いてみようかと思う。孝元天皇が内色許賣命を娶って誕生した大毘古命、開化天皇の兄である。前記の御眞津比賣の、また比古伊那許士別命、建沼河別命の父親でもあると記される。天皇を支える大将軍といった役割である。

少々長くなるが、説話全文を纏めて引用する…古事記原文[武田祐吉訳]…、

又此之御世、大毘古命者、遣高志道、其子建沼河別命者、遣東方十二道而、令和平其麻都漏波奴人等。又日子坐王者、遣旦波國、令殺玖賀耳之御笠。
[またこの御世に大彦の命をば越こしの道に遣し、その子のタケヌナカハワケの命を東方の諸國に遣して從わない人々を平定せしめ、またヒコイマスの王を丹波の國に遣してクガミミのミカサという人を討たしめました]

故、大毘古命、罷往於高志國之時、服腰裳少女、立山代之幣羅坂而歌曰
美麻紀伊理毘古波夜 美麻紀伊理毘古波夜 意能賀袁袁 奴須美斯勢牟登 斯理都斗用 伊由岐多賀比 麻幣都斗用 伊由岐多賀比 宇迦迦波久 斯良爾登 美麻紀伊理毘古波夜
於是、大毘古命思恠、返馬、問其少女曰「汝所謂之言、何言。」爾少女答曰「吾勿言、唯爲詠歌耳。」卽不見其所如而忽失。故大毘古命、更還參上、請於天皇時、天皇答詔之「此者爲、在山代國我之庶兄建波邇安王、起邪心之表耳。波邇二字以音。伯父、興軍宜行。」卽副丸邇臣之祖・日子國夫玖命而遣時、卽於丸邇坂居忌瓮而罷往。於是到山代之和訶羅河時、其建波邇安王、興軍待遮、各中挾河而、對立相挑、故號其地謂伊杼美。今謂伊豆美也。
[その大彦の命が越の國においでになる時に、裳を穿いた女が山城のヘラ坂に立って歌って言うには、
御眞木入日子さまは、御自分の命を人知れず殺そうと、 背後の入口から行き違い前の入口から行き違い 窺いているのも知らないで、御眞木入日子さまは。
と歌いました。そこで大彦の命が怪しいことを言うと思って、馬を返してその孃子に、「あなたの言うことはどういうことですか」と尋ねましたら、「わたくしは何も申しません。ただ歌を歌っただけです」と答えて、行く方も見せずに消えてしまいました。依って大彦の命は更に還って天皇に申し上げた時に、仰せられるには、「これは思うに、山城の國に赴任したタケハニヤスの王が惡い心を起したしるしでありましよう。伯父上、軍を興して行っていらっしやい」と仰せになって、丸邇の臣の祖先のヒコクニブクの命を副えてお遣しになりました、その時に丸邇坂に清淨な瓶を据えてお祭をして行きました。さて山城のワカラ河に行きました時に、果してタケハニヤスの王が軍を興して待っており、互に河を挾んで對い立って挑み合いました。それで其處の名をイドミというのです。今ではイヅミと言っております]

爾日子國夫玖命乞云「其廂人、先忌矢可彈。」爾其建波爾安王、雖射不得中。於是、國夫玖命彈矢者、卽射建波爾安王而死。故其軍悉破而逃散。爾追迫其逃軍、到久須婆之度時、皆被迫窘而、屎出懸於褌、故號其地謂屎褌。今者謂久須婆。又遮其逃軍以斬者、如鵜浮於河、故號其河謂鵜河也。亦斬波布理其軍士、故號其地謂波布理曾能。自波下五字以音。如此平訖、參上覆奏。
[ここにヒコクニブクの命が「まず、そちらから清め矢を放て」と言いますと、タケハニヤスの王が射ましたけれども、中てることができませんでした。しかるにヒコクニブクの命の放った矢はタケハニヤスの王に射中てて死にましたので、その軍が悉く破れて逃げ散りました。依って逃げる軍を追い攻めて、クスバの渡しに行きました時に、皆攻め苦しめられたので屎が出て褌にかかりました。そこで其處の名をクソバカマというのですが、今はクスバと言っております。またその逃げる軍を待ち受けて斬りましたから、鵜のように河に浮きました。依ってその河を鵜河といいます。またその兵士を斬り屠りましたから、其處の名をハフリゾノといいます。かように平定し終って、朝廷に參って御返事申し上げました]

❶大毘古命

大毘古命は高志道、その息子の建沼河別命は東方十二道そして日子坐王は旦波国へ派遣されたと記載される。高志に向かった大毘古命は「相津」で東方十二道回りで派遣された息子の建沼河別命と運命的な再会を果たす。既に紐解き「相津*」は現在の北九州市門司区今津辺りと推定した。高志国の位置と東方十二道の経路から、海路と陸路で向かった親子が見事に再会という感動の場面となる。

通説は八百萬の神様はいざ知らず、神倭伊波禮毘古命、倭建命など登場する英雄は真に神憑りな行動範囲であったと解釈する。それでは古事記解釈とは程遠いことになることから、複数の英雄の言い伝えを集約したものと決めつける。挙げ句は古事記を神話・伝説の類として片付けてしまう。何とも勿体無い限りであろう。

さて、余計なことを書くよりも大毘古命の物語を詳細に調べてみよう。前記ではやや省略気味に述べたところ、それは師木水垣宮も丸邇の場所も決して明確ではなかったことに依るが、今は異なる。大毘古命が師木と山代を行き来する場面である。登場する地名の中で「山代之幣羅坂」「丸邇坂」を取り上げてみよう。

初見では…、

「山代之幣羅坂」何処であろう「幣羅」=「幣(ヌサ:旅の無事を祈って贈るもの)羅(ラ:複数の意味)」と解すれば、「大毘古命」が「師木(磯城)」から和邇坂を経て、高志国に向かうために遠征安全を祈願したところとなる。 

土地の名前とは思えない、いや、安萬侶くんは坂の名前で「大毘古命」の行動を示しているのである。拡大解釈の通説ではこのニュアンスは理解できないかと…。間違いなく通過点にある「山浦大祖神社」近隣の坂である。だから「服腰裳少女」に会えた。戦闘前に「忌瓮」を供えるのは常套手段、これで勝てる、なんてことになるんでしょうかね。
<幣>

…と判った風に述べたが、場所を示す以外の意味を読み解いただけで「山浦大祖神社」近隣の坂とする根拠は乏しいものであった。

「幣羅」は地名(地形)は示している筈であろう。が、文字を眺めていても、如何に原義、分解しても解は得られそうにない。

「幣」の画像を示す。今でも神社では常に目にするものである。この形を何に比喩したのであろうか?・・・峠を越える九十九折の山道と気付かされる。


幣羅坂=幣のような形をした坂

…そのものの表現である。「羅(ラ)」に複数の意味(等)はなく「和訶羅河」「末羅縣」で使われるように「~ような(状態を表す)」と解釈する。

下図を参照願う。田川郡香春町柿下から京都郡みやこ町犀川大坂に抜ける道(現在の福岡県道204号線)、当時との相違はあるかもしれないが、九十九折の坂道を通り抜けていることが判る(幣の頭部を大坂峠と見做せる)。山代之幣羅坂を下れば犀川大坂の中心地に届くのである。
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余談だが…Youtubeに車で上記と逆方向で県道204号線を走行された動画が載せられている。標高差約200m(犀川大坂~大坂峠)をカーブを曲がりながら登って、柿下側に下ってられる。馬に乗った大毘古命を思い描きながら拝見させて頂きました。
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師木水垣宮(田川郡香春町中津原:こちらを参照)を出発し、御祓川を渡れば「丸邇坂」に辿り着く。この御祓川の渡しは、後の応神天皇崩御の後の騒動で宇遲能和紀郎子と大山守命が戦った場所(歌中の表現:宇遲能和多理)である。

御祓川で隔てられた師木と丸邇(後に宇遲と言われる)を繋ぐ交通の要所と推察される。勿論県道204号線もここを通過する。古事記の時代から踏み固められた道は、多少の変更が加えられながら現在に至っているのであろう。

この渡しからは県道204号線とは離れ柿下集落に真直ぐ向かう道を経たものと推測される。そして再び県道に出会う。その間30~40mほど登る坂道となる。これが「丸邇坂」と名付けられていたのであろう。

建波爾安王の謀反を察知して、丸邇坂で戦勝祈願を行っていよいよ出陣と調子よく話が進んでいくのである。本説話の冒頭部分を大幅に修正・加筆することになったが、記載された地名が漸く落ち着くべきところに落ち着いた感じである。あらためて下図を参照願う。

<山代之幣羅坂・丸邇坂>

天皇の命を受けた大毘古命の軍は苦もなく「山代之和訶羅河」至る。待ち受けていたところが「伊杼美。今謂伊豆美」と記される。早速全軍入り乱れての戦いにはならず、小手調べに代わる矢を放ったと伝える。随行の丸邇臣之祖・日子國夫玖命が天晴な働きをしたのである。


<和訶羅河の戦い①>
その後の記述は敗走する建波邇安王の家来を「久須婆之度」に追い詰め殲滅したと記述される。前記に作成した図<和訶羅河の戦い①>を示した。

伊豆美」では川沿いの道が大きく曲がり、また多くの山影があり、待ち伏せるには最適の場所と思われる。現在の筑豊線の「豊津駅」周辺であろう。

「大毘古命」は南から進軍、大将戦に敗れた戦士たち、西は「犀川」、北は山、池に阻まれ、唯一の逃走場所の東に向かう。

南から勢い付く敵に押込まれながら、向かうところは「久須婆之度」、その距離約3.5km、現在の「祓川」に架かる「草場橋」に行き当たる。

僅か3km強と雖も経路は不確かである。安萬侶くんに感化されてしまって「クソバ」⇒「クサバ」であろう…と、何とも駄洒落のオンパレードみたいな戦闘記なのだが、初見の紐解きが不十分であった。「久須婆」は何と読めるか?…、

<和訶羅河の戦い②>
久(勹の地形)|須(州)|婆(端)

…「くの字の形をした州の端」と解釈される。現地名(橋梁名)の駄洒落も有効なようで、見事に上図の草場橋を示している。

更にその地について「又遮其逃軍以斬者、如鵜浮於河、故號其河謂鵜河也。亦斬波布理其軍士、故號其地謂波布理曾能」と記述される。

「鵜河」は見た通りの情景であろうが「波布理曾能」は何を意味するのか?…、

波(端)|布(布のような)|理(区分けされた田)|曾(重なる)|能(熊:隅)

…「端にある布を広げたように平坦で区分けされた田の隅が高くなっているところ」と紐解ける。「久須婆」の対岸の地形を示している。「能」の「大きな口を開けた熊の象形」とある。即ち「能」=「熊」=「隅」と紐解ける。大入杵命が祖となった「能登」に類似する。

現地名は行橋市道場寺・辻垣辺りである。現在の地図は広々とした水田を示し、標高は12~15mである。当時でも海面上にあり、かつ豊かな祓川からの水を活用できるところであったと推測される。この地も特徴ある場所であり「久須婆之度」を特定するには好適な地形を示していると思われる。安萬侶くんの戯れ、侮れないもの…何度も出会しているが・・・。


<久須婆之度・波布理曾能>
「伊豆美」=「泉(出水)」であろう。近隣に大きな池、これは「依網池」として崇神天皇紀の事績として記される。

犀川(今川)の流域にあって豊富に水を蓄え、貯水と給水の役目を果たした重要な池であったことが伺える。

現在に残る平成田川筑豊線の「美夜古泉(ミヤコイズミ)」駅の周辺に「泉」の地名を見出だせる。

「矢留」少し先「流末」である。もう「淡海」が近い。古事記は簡単に記述するが、小競り合いを含め、追い詰められたところでもあったと思われる。古事記記載の地名が残っている、数少ない場所であろう。


建波爾安王


<建波邇夜須毘古命>
ところで「建波爾安王」は何処に住んでいたのか?…既に登場していた波邇夜須毘賣の子「建波邇夜須毘古命」であろう。紐解いた概略を示す。

波邇夜須」は…、


()|邇(近い)|(谷)|須(州)

…「山稜の端(ハシ)に近い谷の出口にある州」と紐解ける。

図に示したように小ぶりな谷と州がある地である。現在の京都郡みやこ町犀川花熊辺りである。

余談だが・・・現地名、犀川花熊の「花熊」は…、


()|()

…現地名を紐解いてどうする?・・・。上記で待ち伏せたのはそこから少し離れた谷間の山陰に潜んでいたとしたが、無理のない舞台設定のように思われる。


日子國夫玖命

<日子国夫玖命>
大毘古命の大将軍振りを醸し出す既述のようであるが、随臣した丸邇臣之祖・日子國夫玖命の居場所も求めてみよう。

日子國意祁都命がそうであったように日子国から丸邇(丸に近い)臣が発生したと伝える。真に丸(壹比韋)に隣接する地の出身である。

春日から丸邇への侵出、現地名では田川郡赤村内田から同郡香春町柿下への侵出であろう。

またまた余談だが・・・「柿下」は「柿本人麻呂」の出自に関連する。残念ながら万葉集を紐解く時間がないが、この出自の場所を無視することはできないようである。


夫玖=夫(二股の川)|玖(勹の形)

…「川が二股に分かれるところが勹の形になっているところ」の命と読み解ける。「夫」の解釈は日子坐王が苅幡戸辨を娶って誕生した志夫美宿禰王の場合に類似する。図を参照願う。

❷日子坐王
<玖賀耳之御笠>

「又日子坐王者、遣旦波國、令殺玖賀耳之御笠」と記載される。既に紐解きは終えており(こちらを参照)、図に示した場所と推定した。

上記と合せて図示すれば、何と近接する場所であった。交通の要所、それを手中に収めた、と伝えているのであろう。

二人の将軍は和訶羅河(犀川)及び久須婆河(祓川)の河口付近に住まい、天皇家に歯向かう者を排除した。

この河口は当時にとって貴重な海路の確保に欠かせない場所であったと思われる彼らが周防灘を自由に行き来するためにはこの地を手中に治めることが必須であったことを伝えている。



<久須婆・玖賀耳>
通説を引き合いに出すことは極力控えたいが、日本書紀では多くが省略され、また丹波風土記のような記述から推測することは危険であろう。

何故なら大半の国譲りは地形的に類似するところを選択しているが、致命的に異なるのが丹波国だからである。

丹波国に関連する文字は「須(州)」「賀(入江)」「度(渡し)」「津(川の合流点)」等、登場人物の名前に織り込まれ頻出する文字である。

この地は大河の、しかも複数の、河口付近であり、大きな入江を有することを示しているのである。

海に面しない地、それはあり得ないと古事記は告げている。だからこそ重要な事績として記載したものと推察される。

内陸にある地に丹波国を置くこと自体が大変な誤りであることを示している。これを無視しては古事記が語る世界の理解は不可能であろう。

新羅の王子、天之日矛の説話、中でも阿加流比賣神の説話が記述されるように、この地への天神一族以外の渡来が暗示されている。その先人達と如何に折り合うかが天皇家の喫緊の課題であったろう。そして古事記でさえもあからさまには記し得ない事柄もあったと推測される。折り合う中での確執は後顧に憂いを発生させたと思われる。

息長一族関連でも述べたように、折り合い融和して交りあった後から見ると不都合な出来事も存在していたのであろう。憶測の域を脱し得ないが、そんな思いが丹波の地に潜んでいるように思われる。

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2018年5月22日火曜日

大毘古命之女:御眞津比賣命 〔212〕

大毘古命之女:御眞津比賣命


前記(御眞木・御眞津)で二人の「御眞津比賣」が記載されていることを述べた。その一人の比賣の物語である。大毘古命の比賣という出自もさることながら誕生させたのが後の伊久米伊理日子伊佐知命(垂仁天皇)となる。「勝」やら「邇」がふんだんに盛り込まれた命名もあったが、この天皇には「伊」が目立つ。何かを意味しているのかどうか・・・。

比賣の居場所の特定には御子の名前の解釈が有効という「古事記ルール」に従って伊久米天皇以外の御子達の居場所を紐解いてみようかと思う。想定場所は春日の地の詳細となろう。少々前記と重なるが、比賣の坐したところから・・・。

御眞津比賣命

孝元天皇と穂積一族の色許賣命との間に生まれたのが大毘古命であった。春日の血を引く御子が垂仁天皇となる。饒速日命の血統絶えず、なのだがその扱いは粗末。御眞津比賣の坐したところは求めた結果を図に示す。


<御眞津比賣>
大毘古命の娶り関連は全く記述されず、大毘古命そのものの居場所も定かでない状況で、別記される兄弟の「比古伊那許士別命」が近隣に居たことを突き止めた。


伊(小ぶり)|那(豊かな)|許(耕地+収穫)|士(川の蛇行)|別(地)

…左図に示されるように川の蛇行が一段と目立つところと推定される。「許」は内色許男命、伊賀迦色許賣命などに含まれる文字である。「許」=「際立つ、目立つ」も有効かもしれない…あるいは両意に掛けられているとも思われる。

これがヒントになって大毘古命の名もなき比賣が左図の「御眞津比賣」の場所に入ったと考えたのである。「御眞津」=「三つの距離の詰まった川の合流点」と解釈した。

誕生した御子は「伊玖米入日子伊沙知命、次伊邪能眞若命、次國片比賣命、次千千都久和比賣命、次伊賀比賣命、次倭日子命。六柱」と記述される。一人目は後の垂仁天皇の和風諡号(垂仁天皇紀では伊久米伊理日子伊佐知命と表記される)である。御子の名前を紐解いてみよう。坐したところは下図<御眞津比賣の御子>に纏めて示す。


伊邪能眞若命

伊邪能眞若命の「伊邪」は伊邪河に由来すると思われる。開化天皇が坐した「伊邪河宮」である。祖父の地に住まった命であろう。「偉大な祖先の名前(地名)+眞若」のパターンは多く見られる。父親の大毘古命は押しも押されもしない大将軍であったのだから、であろうか・・・。


國片比賣命

「國片」を何と読むか?…「國」=「大地」として…、


國(大地)|片(切れ端)

…「山稜の先端が途切れた地形」と紐解ける。母親御眞津比賣の近隣に合致するところがある。


千千都久和比賣命

「千千」は孝霊天皇が娶った「春日之千千速眞若比賣」に含まれる。「千千」=「様々な(に)」と解釈したが、同様であろう…、


千千(様々に)|都(集まる)|久(勹の形)|和(柔らかく曲がる)


<御眞津比賣の御子>
…「川や道が集まり川が勹の形に柔らかく曲がっているところ」の比賣と紐解ける。春日、丸邇におけるランドマークの一つであろう。

現在も川、道路が交差する要所と伺える場所、現地名は田川郡赤村内田小柳から少し香春町柿下に入ったところと推定される。

後に「木幡村」(現地名赤村内田小柳辺り)として記述される場所の近隣であり、倭国の中心である畝火山の麓と山代・難波津を繋ぐ道の上にあったと推察される。

春日之千千速眞若比賣については図に示したが、こちらを参照願う。「速」=「辶(道)+束(束ねる)」で解釈される。現存する地形との整合性には驚くべきものがある。検証の手段を持ち合わせてはいないが、これほどの合致を捏造するのは困難ではなかろうか…古事記全体からすると主軸ではないところでの恣意的な操作はあり得ない、と思われるが・・・。


伊賀比賣命

「伊賀」は孝元天皇の后(開化天皇の后でもあるが)「伊賀迦色許賣命」に含まれる。小ぶりだが谷間に広がる水田がある地と解釈した。この比賣の坐したところはその南側の谷間と思われる。「伊賀」のみで何の修飾も付かない。図から判るように真直ぐな谷間にある場所、記述すべき特徴がないからであろう。実に明解である。「多多」を付けるほどでもないようである。


倭日子命

「倭」決して「ヤマト」ではない。「倭」=「曲がりくねる」様を表している。勿論川の流れの様を表現したと解釈される。母親の近隣、川の蛇行が、何故か、激しくなっているところが見える。現在の状況からではあるが、蛇行した川辺が豊かな水田となっており日子(稲)の栽培に適したところであったことが伺える。

倭日子命。此王之時、始而於陵立人垣」[武田祐吉訳:この王の時に始めて陵墓に人の垣を立てました]と付記される。いつもながら唐突に記されるのであるが、殉葬が初めてなされたとのことだが、他の史書の記述を参考にしても、背景を含めた理解はなかなか難しいようである。次期の垂仁天皇紀ではそれを禁止するようになったとか・・・。

穂積臣の祖となる内色許男命の系譜及び丸邇臣の祖となる日子国意祁都命の系譜から誕生する御子達によって春日の地は埋まって行ったことが判る。邇藝速日命が降臨後に定着した子孫達の姻戚が天皇家の繁栄に関わって行ったことを告げている。

崇神天皇紀も終わりそうでなかなか時間がかかる。一つ一つ着実にと・・・。




2018年5月18日金曜日

穂積とは? 〔211〕

 穂積とは? 


「穂積」の文字が古事記に登場する場面は、神倭伊波禮毘古命と邇藝速日命が遭遇した時の説話である。そこに実に簡潔に「邇藝速日命、娶登美毘古之妹・登美夜毘賣生子、宇摩志麻遲命。此者物部連、穗積臣、婇臣祖也」と記述される。邇邇藝命以前に降臨した邇藝速日命(ほぼ間違いなく兄の天火明命の別名)の系譜を述べているところである。

「穗積」は決して頻出するわけではなく、上記以外では孝元天皇紀の穗積臣等之祖・內色許男命そして成務天皇紀の穗積臣等之祖建忍山垂根のみである。しかしながら内色許男命の比賣から続く系譜は天皇家に広く、深く関わって行ったと記述している。草創期の天皇家の血統に大きく影響を及ぼした一族であったと伝えているのである。

既に紐解いたように邇藝速日命の「日」は「春日」「日下」など重要なキーワードの由来であり、また、それらが今日まで使われていること…いや今後も変わりなく…を思うと、更に日本(人)の「日」も含めて、現状のボヤけた古代史に一言主(古事記の意味は異なるが…)たらんと思う日々である。

論旨が散漫になりそうなので・・・「穗積」を一気に紐解いてみよう。「穂」は稲穂の象形なのであるが、既に幾度か出現したように、山稜の端が穂のようになっている様を表していると解釈する。「積」=「ひとところに集まり重なる」算数の「積」の概念である。


穗積=山稜の端が寄り集まり重なっているように見える

…穗積一族はこんな地形のところに居たと告げているのである。これは何処を示しているのであろうか?・・・大坂山から戸城山へ向かう尾根から無数の枝稜線が張り出し、それらが一箇所に集まるような地形を示している。既に幾度も登場している大坂山山塊の南麓の地そのものの表現であった。

<穂積>


邇藝速日命が娶った登美夜毘賣の子、宇摩志麻遲命を祖に持つ一族は、この地形が作る狭い谷間を切り開き子孫を繋げて行った。多くの御子の名前に「伊(小さい、僅かな)」の文字が冠される。先住人にはなし得なかった開拓を実現したのであろう。古事記が伝える重要な事柄の一つは、不毛の大地を緑の大地に、豊かに実る稲穂の景色に変えて来たことである。

図から判るように「穗積」の地は広い大地を持つわけではなく、御子達は当然のごとく各地に散らばって行く。この地が果たした役割は大きく、その後も繁栄を続けるのであろうが、次第にその役割を終えて行ったと推測される。
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邇藝速日命のについてはこちらを参照願う。





2018年5月16日水曜日

大入杵命と淡海之柴野入杵 〔210〕

大入杵命と淡海之柴野入杵

御眞木入日子印惠命(崇神天皇)の娶りに尾張連之祖となる意富阿麻比賣が記される。その御子が四人で、大入杵命、八坂之入日子命、沼名木之入日賣命、十市之入日賣命が誕生する。意富阿麻比賣自身も含め、彼らは意富の「阿麻」に留まらず各地に散らばった様子である。既に比定した通り、「阿麻」の地(現地名北九州市門司区丸山辺り)は決して広くはなく、新天地を求めざるを得なかった理由の一つであったろう。

「沼名木」は伊豫之二名嶋の土左国(現地名北九州市若松区乙丸・山鹿辺り)を「沼名木」と呼び替えたと推定した。「十市」は「十市縣主大目」の場所(現地名田川郡赤村赤辺り)と思われる。「八坂」は既出で「ヤ・サ・カ」(八百万の神が助くる処)として北九州市八幡東区祇園辺りとしたが、今回、少々追加の考察を述べてみよう。

残る「大入杵命」についても既に詳細を述べたが、あらためて纏めてみようかと思う。また関連する「淡海之柴野入杵」についても共通する「入杵」の文字を紐解いてみることにする。これらの人物は古事記にのみ登場で、日本書紀には現れない。だからこそ重要な意味を持っている人名と推察される。


 大入杵命

前記の概略を再掲しながら述べてみると・・・大入杵命の「大=意富=出雲」として、「入杵」の解釈を試みた。「杵」の意味は?…臼、杵以外は「金剛杵(ショ)」という武器を表す等々が見出せるが、地名との関連は見当たらない。しかし現在の出雲大社関連では多くの「杵」にまつわる文字が見出だせた。例えば出雲大社の旧名「杵築大社」、現在の大社境内には「杵那築の森」そしてお土産の「杵つき餅」等々。

また大国主命に関連して「鎌海布之柄、作燧臼、以海蓴之柄、作燧杵」[武田祐吉訳:海草の幹を刈り取って來て燧臼(ヒウチウス)と燧杵(ヒウチキネ)を作って]、その場所が淡海に面した「出雲」とある。「杵」と「出雲」は実に密接な関連があることを示していると思われた。

「大(斗)」↔「杵」↔「淡海」この三つのキーワードについて通説は出雲の神々の主たる武器として「杵」を説明できそうなこと以外残り二つのキーワードは無視である。特に問題となるのが最後の「淡海」である。手も足もでない有様、故に日本書紀は「大入杵命」を抹消したと推察される。

初見の考察では、やはりこの通説に引き摺られた感が否めない。これほどまでに出雲と杵との関連があるのだから、と地形象形への一歩踏み込みが不足したと反省する。神の武器などを記述する古事記ではない。重要な武器なら「天之麻迦古弓・天之波波矢」と名付けて報告するのである(こちらを参照)。間違いなく地形象形し、かつ重要なランドマークであったと思われる。


<大入杵命>
「入杵」を紐解くと…「入」=「谷の入口」の地形を表しているとして…、


入杵=入(谷の入口)|杵(杵の地形)

…と読める。あらためて地形を見ると、そのものズバリの山(丘陵)が見出だせる。肥河(現在の大川)の谷間の入口に位置する小高い丘陵である。

図を参照願うが、現在の下関市門司区にある観音山団地、命名からその地は観音山と呼ばれていたところであろう。

出雲、即ち大国を示すランドマークして「杵」の文字が使われていたのである。現在は丘陵でもなく、ましてや山でもなく大きな団地に造成されているが、何とか嘗ての面影を留める地形が伺える。中央部が括れたところが何とも感動的である。時代と共に地形は変わる、変えられるのであるが、その基本的なところを留められているようである。また、そうあって欲しく願うばかりである。


<観音山>
淡海之柴野入杵

景行天皇の太子、倭建命が東方十二道遠征の旅で遭遇した海難に「其入海弟橘比賣命」身代わりとなった比賣に生ませたのが若建王で、この王の娶りに淡海之柴野入杵之女・柴野比賣が登場する。

複雑に入り組む皇統なのであるが、確実にそれに絡む比賣の名前が記述される。数代に亘る時の経過がある以上同一人物とは思われないが「入杵」は地名(形)を人名にしたものと推察される。

言い換えれば「入杵」という極めて特徴的な地形を示すところを他に求めることは困難であることを表している。ならば「淡海之柴野入杵」は如何に紐解けるか?…既述を見直しながら纏めてみよう(こちらを参照)。

幾度も出現する「淡海」は変更することなく、関門海峡を示すとし、「柴野」も「柴」=「比(並ぶ)+木(山稜)」と分解すると「山稜に沿って並ぶ」と紐解ける。反正天皇の柴垣宮に類似する。

柴野=柴(山稜に沿って並ぶ)|野

…となる。並ぶものは大国主命の墓所「出雲之石𥑎之曾宮」である。現在の門司区寺内、寺内団地となっているところと紐解いた。上図を参照願うが、戸ノ上山山稜の麓にある野を表現していると解釈される。「入杵」の場所を確定的に示しているのである。

現在の出雲に関わる「杵」その由来は、淡海に面した谷から流れる肥河の河口にあった「杵」の地形の丘陵であった。それは出雲を示すランドマークであり、国譲り後も人々の心から消し去ることのできない文字であったのだろう。

能登

大入杵命は能登之祖となると書かれる。現在の能登(半島)としてよく知られた地名であるが、勿論通説はその通りで比定されているようである。この地も簡単に読み解いた前記があるが、あらためて見直してみよう。「入杵」を読み飛ばした反省も込めて・・・。

能登の「能」は「大きな口を開けた熊の象形」とある。とすると安萬侶コードは「能」=「熊」=「隈」となろう。果たして「隅」はあるのか、「熊曾」以外の「隅」は・・・前者が北端の隅ならば後者は南端の隅を指しているのではなかろうか。

<能登>
現地名門司区猿喰、その入江を登ったところが「能登」であったことを示していると思われる。

東方十二道が尽きる道奥石城国の北側、高志国の南側に位置するところである。陸地が途切れた隅に当たる。

神八井耳命が祖となった道奥石城国は、現在の北九州市門司区畑、戸ノ上山東麓を流れる「谷川」「井手谷川」の南側に位置する。

当時はこれらの川によって東方に向かう陸路は行止まりで「道奥」という表現が使われたのであろう、と既述した。この道奥石城国と高志国との端境にあった地と推定される。

能登の祖を史書から抹消するという無謀な英断?を放置して今日に至る。例え大入杵命のような人物が居たとしても、出雲と能登は同じ日本海沿岸で簡単に行き来できるなどと事なきを得て来たようである。淡海之柴野入杵も同様に抹消される。挙げ句には景行天皇紀の倭建命の系譜が怪しいとして既述全体が誤謬であるかのような論が登場する。古事記は誕生以来悲しい扱いをされて来た書物なのである。

古事記編者は「熊」としたいところだが、忖度して「灬」を取って「能」とした。何とかこれで判るであろう…そんな思いであろうか・・・「熊登」より「能登」の方が落ち着くかな?・・・。

八坂之入日子命

「八坂」は何と解く?…既に紐解いた詳細はこちらを…、



八坂(ヤサカ)=ヤ(八百万の神)|サ(佐る)|カ(処)
 
<八坂之入日子命>
…「八百万の神の加護があるところ」と紐解ける。よく知られているように八坂神社は祇園神社と呼ばれた。「八坂」=「祇園」である。

地名として現存する場所を探すと次のところが見つかった。北九州市八幡東区祇園・祇園原町辺りである。

上記の解釈で場所の特定ができるようあるが、現存地名から求めただけでは何とも心もとなく思われる。


八(谷)|坂

…「谷の坂」とすると上記の「祇園」の背後に巨大な谷があることに気付かされる。

急な傾斜面で多くの川が集まり麓に流れる古事記に度々登場する地形である。確かに「八坂」と言えば当時の人々にとってはこの地以外には考えられないところのようである。「谷坂(ヤサカ)」↔「八坂(ヤ・サ・カ)」↔「祇園」と繋げたのであろう。

この地も急斜面の麓にあり、田が作られるには些か労力・時間を要したのであろう。後に景行天皇の御子、押別命がこの地に田を作るが、葛城と同様の状況であったと推察される。いずれにしても天皇家は田地の開拓に大きな努力を払ったということであろう
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古事記新釈の崇神天皇紀はほぼ見直し終了。こちらを参照願う。