和訶羅河の戦い
<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
前記の崇神天皇紀「東方十二道」のところで書き残した大毘古命の高志国派遣の際、良からぬ事件が発覚、早速の叛乱制圧に赴いたという説話である。それにしても内輪もめの多い家系である。対外的には「言向和」で対内的には抹殺する。古事記記述の姿勢、かな?
古事記原文[武田祐吉訳](以下同様)…
故、大毘古命、罷往於高志國之時、服腰裳少女、立山代之幣羅坂而歌曰、
美麻紀伊理毘古波夜 美麻紀伊理毘古波夜 意能賀袁袁 奴須美斯勢牟登 斯理都斗用 伊由岐多賀比 麻幣都斗用 伊由岐多賀比 宇迦迦波久 斯良爾登 美麻紀伊理毘古波夜
美麻紀伊理毘古波夜 美麻紀伊理毘古波夜 意能賀袁袁 奴須美斯勢牟登 斯理都斗用 伊由岐多賀比 麻幣都斗用 伊由岐多賀比 宇迦迦波久 斯良爾登 美麻紀伊理毘古波夜
於是、大毘古命思恠、返馬、問其少女曰「汝所謂之言、何言。」爾少女答曰「吾勿言、唯爲詠歌耳。」卽不見其所如而忽失。故大毘古命、更還參上、請於天皇時、天皇答詔之「此者爲、在山代國我之庶兄建波邇安王、起邪心之表耳。波邇二字以音。伯父、興軍宜行。」卽副丸邇臣之祖・日子國夫玖命而遣時、卽於丸邇坂居忌瓮而罷往。於是到山代之和訶羅河時、其建波邇安王、興軍待遮、各中挾河而、對立相挑、故號其地謂伊杼美。今謂伊豆美也。[その大彦の命が越の國においでになる時に、裳を穿いた女が山城のヘラ坂に立って歌って言うには、
御眞木入日子さまは、御自分の命を人知れず殺そうと、 背後の入口から行き違い前の入口から行き違い 窺いているのも知らないで、御眞木入日子さまは。
と歌いました。そこで大彦の命が怪しいことを言うと思って、馬を返してその孃子に、「あなたの言うことはどういうことですか」と尋ねましたら、「わたくしは何も申しません。ただ歌を歌っただけです」と答えて、行く方も見せずに消えてしまいました。依って大彦の命は更に還って天皇に申し上げた時に、仰せられるには、「これは思うに、山城の國に赴任したタケハニヤスの王が惡い心を起したしるしでありましよう。伯父上、軍を興して行っていらっしやい」と仰せになって、丸邇の臣の祖先のヒコクニブクの命を副えてお遣しになりました、その時に丸邇坂に清淨な瓶を据えてお祭をして行きました。さて山城のワカラ河に行きました時に、果してタケハニヤスの王が軍を興して待っており、互に河を挾んで對い立って挑み合いました。それで其處の名をイドミというのです。今ではイヅミと言っております]
御眞木入日子さまは、御自分の命を人知れず殺そうと、 背後の入口から行き違い前の入口から行き違い 窺いているのも知らないで、御眞木入日子さまは。
と歌いました。そこで大彦の命が怪しいことを言うと思って、馬を返してその孃子に、「あなたの言うことはどういうことですか」と尋ねましたら、「わたくしは何も申しません。ただ歌を歌っただけです」と答えて、行く方も見せずに消えてしまいました。依って大彦の命は更に還って天皇に申し上げた時に、仰せられるには、「これは思うに、山城の國に赴任したタケハニヤスの王が惡い心を起したしるしでありましよう。伯父上、軍を興して行っていらっしやい」と仰せになって、丸邇の臣の祖先のヒコクニブクの命を副えてお遣しになりました、その時に丸邇坂に清淨な瓶を据えてお祭をして行きました。さて山城のワカラ河に行きました時に、果してタケハニヤスの王が軍を興して待っており、互に河を挾んで對い立って挑み合いました。それで其處の名をイドミというのです。今ではイヅミと言っております]
崇神天皇の祖父の息子たち、おじさん達の争いになる。「大毘古命」は長男で後に登場する「建波邇安王」が異母兄弟になる。日本書紀では「大毘古命」は四道将軍となっており、「東方十二道」との整合性はない。赴くところは北陸で、高志国なんでしょうが…。
先ずは高志国に行け、と命じられたのだから例のルートで和邇坂を経て山背を通り、難波津に向かう筈である。そこで不思議な女性に出会う。このパターンも嘗てに登場。神のお告げに頼る時代、巫女の役割が大きかった。歌の内容はそのものずばりでこれを聞いて不審がらない訳はない、早々に取って返して掃討開始である。
「山代之幣羅坂」は何処であろう?「幣羅」=「幣(ヌサ:旅の無事を祈って贈るもの)羅(ラ:複数の意味)」と解すれば、「大毘古命」が「師木(磯城)」から和邇坂を経て、高志国に向かうために遠征安全を祈願したところとなる。
土地の名前とは思えない、いや、安萬侶くんは坂の名前で「大毘古命」の行動を示しているのである。拡大解釈の通説ではこのニュアンスは理解できないかと…。間違いなく通過点にある「山浦大祖神社」近隣の坂である。だから「服腰裳少女」に会えた。戦闘前に「忌瓮」を供えるのは常套手段、これで勝てる、なんてことになるんでしょうかね。
「山代之和訶羅河」に至る。「和訶羅河」=「輪柄河」=「輪のような様子の河」=「大きく曲がった(うねった)河」と解釈される。通説は「木津川」(三重県および京都府を流れる淀川水系の支流)である。ほぼ直角に曲がる川である。「ワカラ」ない、というサイトもある。「山代之和訶羅河」=「犀川(今川)」と解釈する。
川沿いに進んでいよいよ「大毘古命」vs「建波邇安王」となる。その場所は? 通説は現在の木津市木津辺りとする。古事記には「伊豆美(イズミ)」と言われるところとある。
現在平成田川筑豊線の「美夜古泉(ミヤコイズミ)」駅周辺に「矢留」地名がある。「矢留」=「戦闘終了」である。川沿いの道が大きく曲がり、また多くの山影がある待ち伏せるには最適の場所である。現在の上記筑豊線の「豊津駅」周辺であろう。
「矢留」の少し先は「流末」である。もう「淡海」が近い。古事記は簡単に記述するが、小競り合いを含め、追い詰められたところでもあったと思われる。真に珍しく古事記記載の地名が残っている場所である。複数の事件があった場所かも?、である。
今のところ通説と暇が取り柄の老いぼれ説は互角の戦闘? 通説は「平城山」越えないと山城国、木津には届かないのに記述がない? 磯城からワザワザ和邇坂に寄り道して行く? なんて細かいことは・・・。さて、安萬侶くんのお戯れが始まる。
爾日子國夫玖命乞云「其廂人、先忌矢可彈。」爾其建波爾安王、雖射不得中。於是、國夫玖命彈矢者、卽射建波爾安王而死。故其軍悉破而逃散。爾追迫其逃軍、到久須婆之度時、皆被迫窘而、屎出懸於褌、故號其地謂屎褌。今者謂久須婆。又遮其逃軍以斬者、如鵜浮於河、故號其河謂鵜河也。亦斬波布理其軍士、故號其地謂波布理曾能。自波下五字以音。如此平訖、參上覆奏。[ここにヒコクニブクの命が「まず、そちらから清め矢を放て」と言いますと、タケハニヤスの王が射ましたけれども、中てることができませんでした。しかるにヒコクニブクの命の放った矢はタケハニヤスの王に射中てて死にましたので、その軍が悉く破れて逃げ散りました。依って逃げる軍を追い攻めて、クスバの渡しに行きました時に、皆攻め苦しめられたので屎が出て褌にかかりました。そこで其處の名をクソバカマというのですが、今はクスバと言っております。またその逃げる軍を待ち受けて斬りましたから、鵜のように河に浮きました。依ってその河を鵜河といいます。またその兵士を斬り屠りましたから、其處の名をハフリゾノといいます。かように平定し終って、朝廷に參って御返事申し上げました]
まぁ、正々堂々の戦いであったが、後が胡散臭いことに。「久須婆(河)」=「祓(川)」に比定済み。通説はこれを淀川沿いの「樟葉」に当てる。木津から約20km、拡大解釈の破綻である。逃げ散る敵をその距離で集約することは不可能である。「樟葉」以外の、より手短な場所を選定されることをお勧めする。
地図を参照願うが、「大毘古命」は南から進軍、大将戦に敗れた戦士たち、西は「犀川」、北は山、池に阻まれ、唯一の逃走場所の東に、南から勢い付く敵に押込まれながら、向かうと「久須婆河」、その距離約3.5km、現在の「祓川」に架かる「草場橋」に行き当たる。僅か3km強と雖も経路は不確かである。安萬侶くんに感化されてしまって「クソバ」⇒「クサバ」であろう。
戦闘状況の把握には十分な情報を安萬侶くんから頂いた。伝説の戦いではなく、極めて具体性のある戦闘場面を再現できることがわかった。残念ながら「鵜河」「波布理曾能」は残っていないようである。
高志国にて親子の再会
引き続いての説話がある…
故、大毘古命者、隨先命而、罷行高志國。爾自東方所遣建沼河別與其父大毘古共、往遇于相津、故其地謂相津也。是以各和平所遣之國政而覆奏。爾天下太平、人民富榮。於是、初令貢男弓端之調、女手末之調。故稱其御世、謂所知初國之御眞木天皇也。又是之御世、作依網池、亦作輕之酒折池也。天皇御歲、壹佰陸拾捌歲。戊寅年十二月崩。御陵在山邊道勾之岡上也。[かくて大彦の命は前の命令通りに越の國にまいりました。ここに東の方から遣わされたタケヌナカハワケの命は、その父の大彦の命と會津で行き遇いましたから、其處を會津というのです。ここにおいて、それぞれに遣わされた國の政を終えて御返事申し上げました。かくして天下が平かになり、人民は富み榮えました。ここにはじめて男の弓矢で得た獲物や女の手藝の品々を貢らしめました。そこでその御世を讚えて初めての國をお治めになつたミマキの天皇と申し上げます。またこの御世に依網の池を作り、また輕の酒折の池を作りました。天皇は御年百六十八歳、戊寅の年の十二月にお隱れになりました。御陵は山の邊の道の勾の岡の上にあります]
「大毘古命」が漸くして「高志国」に赴いたら、なんと息子に会った。その「建沼河別(命)」は例の「東方十二道」経由で来たというわけである。筑波山東麓を行けば、未開拓の荒野ではあるが高志に届く。会ったところが現在の北九州市門司区今津と思われる。
この津は形状の類似した標高79mと60mの山に挟まれたところである。「相津(アイヅ)*」=「相(向かい合った対の山の間にある)津」二つの山は「大毘古命」と「建沼河別(命)」の寓意である。「会(アイ)津」だけではなく、一歩も二歩も踏み込んだ理解が必要である。
拡大解釈の通説は「会津」(現在の福島県会津若松市)とするようである。「隨先命」に依って行動する「大毘古命」が居た場所は「高志国」である。
その地の「相津」である。「樟葉」と同様、読みが合致するだけの比定は、古事記の読み下しに百害あって一利なしである。
その地の「相津」である。「樟葉」と同様、読みが合致するだけの比定は、古事記の読み下しに百害あって一利なしである。
「知初國之御眞木天皇」確かに将軍達を各地に出向かせ、「和平」したわけだから「初国」に該当するのであろう。
「言向」がないのは、かなり武力による制圧的なように思われる。甥っ子に天皇を譲り、熟練のおじさん達が実働部隊になる、上手く回れば良い体制かも…拗ねた奴が出てくると、抹殺である。情報源の「女子」は欠かせない。
「言向」がないのは、かなり武力による制圧的なように思われる。甥っ子に天皇を譲り、熟練のおじさん達が実働部隊になる、上手く回れば良い体制かも…拗ねた奴が出てくると、抹殺である。情報源の「女子」は欠かせない。
相津*
安萬侶コード「木(山稜)」を用いて、「相」=「木(山稜)+目(隙間)」と分解する。「目」は「網の目(隙間)」を意味する。
相津=山稜の隙間にある津
…と読み解ける。これは極めて重要な「相」の概念を示していると思われる。
相対するとは、二つのものの間に隙間が存在することを示している。「尾張之相津」の場所の特定に拘った結果導かれた。(2018.06.05)
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