もう一つの『相津*』
「高志道」と「東方十二道」二つの異なる道で遠征した将軍親子がドラマチックな再会を「高志国」で果たした。安萬侶くんの粋な計らいで会った場所が、なんと「相津」。偉大な親子を山に見立てた記述は、なかなかのもの…ちょっと小ぶりな山であるが・・・。
ところでこの「相津」どこかでお目にかかったような気もする。古事記検索で一件ヒット。そうであった、「鵠」の捜索説話の冒頭にあった。二俣舟の調達場所。勿論、高志之相津、ではなく「尾張之相津」再会のお話ではない。
古事記原文[武田祐吉訳]…
故、率遊其御子之狀者、在於尾張之相津、二俣榲作二俣小舟而持上來、以浮倭之市師池・輕池、率遊其御子。
[かくてその御子をお連れ申し上げて遊ぶ有樣は、尾張の相津にあった二俣の杉をもって二俣の小舟を作って、持ち上って來て、大和の市師の池、輕の池に浮べて遊びました]
今回の安萬侶くんの見立ては「二俣」である。素直に川が合流する場所と思われる。暇が取り柄の老いぼれの「尾張国」は北九州市小倉南区の貫山山塊が北にその尾根を張り出した先にある。現在は曽根・新門司平地と呼ばれるところ、かつては大半が海面下であり、この国は丘陵地形の上にあったと思われる。
古事記検索では「相津」が2件ヒットするが「(会、合、遭、逢、遇)津」は0件である。単に「あう」だけでは安萬侶くんの地名命名基準を満たさないようである。戯れたのが多いので、全く基準は不明だが…。
そこに流れる「竹馬川」と「稗田川」の合流地点が「尾張之相津」と推定する。海面下のところが多く、また河川の流域の変化もあると考えられ、現在の場所とは異なる可能性があるが、小倉南区横代東、北及び湯川新町、上葛原という、現在の行政区分内にあったと推測される。
二俣舟
ところで、この「二俣舟」とは如何なる物かと調べてみると、実はあまりわかっていない。少し古い文献であるが、田中巽氏の論文(海事資料館年報11(1-6)1983年)を紹介する。
田中氏もこの無口な御子の説話の「二俣舟」に興味を持たれた。特に1962年に大阪門真市三島で出土した「古代の独木舟」が「二俣舟」であること、またそれを保管してきた大阪市博物館が手狭になったゆえに廃棄するとの情報を得て、いろいろ画策した上に、論文としておこうとされた、とのことである。
結論的には①虚伝ではない。 ②ヘサキが分かれた独木舟である。 ③船木部(八井耳系)なる集団があった。④出雲系、尾張系共に銅鐸と関係あり(福井県大石出土の銅鐸絵図は二俣の可能性あり)等が記述されている。何故、二俣? に関しては不明のようである。古代にしか存在しなかったものなのであろう。ならば、博物館の廃棄騒ぎはトンデモないことである。その後如何になったか知る由もないが…。
おそらく、かつての舟は水陸両用であったかと思われる。海上も陸上も滑らせることが重要、船としては二俣にして転覆抑制、ソリの時は引張り/押しやすく、少々スピードは犠牲にしても、である。地図上「船越」地名が多々残ってることを考え合わせれば、こんな予想も許されるであろう。事実、この御子、企救半島を舟で横断している。
また、田中氏は日本書紀の仁徳天皇紀「遠江国大井河」にも言及されている…遠江國司表上言「有大樹、自大井河流之、停于河曲。其大十圍、本壹以末兩」と記述されている。本ブログで「福岡県宗像市の釣川支流大井川」に比定したところである。
御子の二俣は池に浮かべる大きさだが、大井川の二俣の木は大変な太さである。「二俣舟」は大小問わずに利用されていたと思われる。福井の銅鐸に記載された「二俣舟」の使い道については決着がついていない様子とのことである。
更に上記の「尾張之相津」「遠江国大井河」通説に従って地名比定をされている。かなり説得力あるようで、興味のある方は原著を参照願う。海事資料館、一度訪れてみようかな?…。
相津*
安萬侶コード「木(山稜)」を用いて、「相」=「木(山稜)+目(隙間)」と分解する。「目」は「網の目(隙間)」を意味する。
相津=山稜の隙間にある津
…と読み解ける。これは極めて重要な「相」の概念を示していると思われる。これにより「尾張之相津」は一に特定することが可能となった。運良く初見と同一の場所なのだが・・・。
相対するとは、二つのものの間に隙間が存在することを示している。大毘古命親子の対面の記述も全く同様に解釈することができる。(2018.06.05)
更に訂正。(2019.03.30)
詳細は垂仁天皇紀を参照。
<尾張之相津>
|
詳細は垂仁天皇紀を参照。
――――✯――――✯――――✯――――