2020年12月29日火曜日

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(9) 〔480〕

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(9)


大寶元年(即位五年、西暦701年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、和訳はこちらを参照。

大寳元年春正月乙亥朔。天皇御大極殿受朝。其儀於正門樹烏形幢。左日像青龍朱雀幡。右月像玄武白虎幡。蕃夷使者陳列左右。文物之儀。於是備矣。戊寅。天皇御大安殿受祥瑞。如告朔儀。戊子。新羅大使薩飡金所毛卒。賻絁一百五十疋。綿九百卅二斤。布一百段。小使級飡金順慶及水手已上。賜祿有差。

元号「大寶」が定められ、正月一日に「文物之儀」(文物:学問・芸術・宗教・法律・制度など、文化に関するもの)が整備されたと記載している。些か不明のところもあるが、烏形幢: 威儀の幢(はた)の一種。とりがたのはた、日像・青龍・朱雀の幡、月像・玄武・白虎の幡を用いている。「蕃夷」の表現は中国に倣ったもの、錯覚の賜物であろう。

<藤原宮発掘>
勿論この場所は藤原宮であり、新生日本國が誕生した場所である。現在の奈良県明日香村の比定場所の発掘が現在も継続されている。2010年の新聞記事を掲載したが、”まぼろしの藤原宮”になることは必至であろう。

実に好意的な寸評が載せられているが、「奈良文化財研究所」はてっきり奈良県の管理下の組織かと思いきや、「独立行政法人国立文化財機構の一部門」とある。東博、奈良国立博物館(さすが奈良には二つ)などが傘下にあると知られる。

マスコミが「過信」と書いているが、邁進させていることも併記されるべきであろう。いずにしても「記紀」、「續紀」を国「宝」の持ち腐れにしているのが現状と思われる。尚、「文物之儀」についてはなぶんけんぶろぐを参照した。

一月四日に天皇は大安殿にて「祥瑞」(告朔:毎月朔日に進奏する儀式)を受けている。十四日、新羅大使が亡くなり、綿布などを、また水手(水夫)以上に禄を与えている。

己丑。大納言正廣參大伴宿祢御行薨。帝甚悼惜之。遣直廣肆榎井朝臣倭麻呂等。監護喪事。遣直廣壹藤原朝臣不比等等。就第宣詔。贈正廣貳右大臣。御行難破朝右大臣大紫長徳之子也。庚寅。宴皇親及百寮於朝堂。直廣貳已上者。特賜御器膳并衣裳。極樂而罷。壬辰。廢大射。以贈右大臣喪故也。

一月十五日、大納言大伴宿禰御行が亡くなり、ことのほか惜しまれている。榎井朝臣倭麻呂等を遣わして葬儀を執り行い、また藤原朝臣不比等等を向かわせて一階級昇位して右大臣とすることを告げさせている。孝徳天皇紀の右大臣長德の子と付記されている。十六日に皇親及び百寮と宴会し、直廣貳位以上に御器膳・衣裳を与えている。右大臣の喪に服するために十八日の大射を中止している。

丁酉。以守民部尚書直大貳粟田朝臣眞人。爲遣唐執節使。左大辨直廣參高橋朝臣笠間爲大使。右兵衛率直廣肆坂合部宿祢大分爲副使。參河守務大肆許勢朝臣祖父爲大位。刑部判事進大壹鴨朝臣吉備麻呂爲中位。山代國相樂郡令追廣肆掃守宿祢阿賀流爲小位。進大參錦部連道麻呂爲大録。進大肆白猪史阿麻留。无位山於億良爲少録。癸夘。直廣壹縣犬養宿祢大侶卒。遣淨廣肆夜氣王等就第宣詔。贈正廣參。以壬申年功也。

一月二十三日、守民部尚書の粟田朝臣眞人を遣唐執節使、左大辨の「高橋朝臣笠間」を大使、右兵衛率の「坂合部宿祢大分」を副使、參河守の許勢朝臣祖父(邑治)を大位、刑部判事の「鴨朝臣吉備麻呂」を中位、「山代國相樂郡令」の「掃守宿祢阿賀流」を小位、「錦部連道麻呂」を大録、「白猪史阿麻留」と無位の「山於億良」を少録としての編成が記載されている。

『白村江』(663年)以来の唐との接触の試みである。調べるとこの時は天候のため渡航できず、翌年に見事その目的を果たせたと言う。とりわけ正規の外交を復活したことは大きな成果であったようである。尚、この時唐は武則天による武周王朝時代である。早いもので四十年弱が過ぎたことになる。西海の脅威は、一応鎮まったのであろう。

多くの人物が登場しているが、最後の無位「山於億良」(山上憶良で知られる)、万葉歌人として柿本人麻呂、山部赤人、大伴家持などと共に名を残すことになる。「山於」が本名であろう。下記で詳細に紐解くことにする。中西進氏がその見識を披露されているが(こちら参照)、歴史を混乱させているだけ、かもしれない。

二十九日に縣犬養宿祢大侶(大伴)が亡くなり、「夜氣王」を遣わして壬申の功により四階級昇位を贈っている。例によって出自不詳の「〇〇王」であるが、大胆に憶測してみようかと思う。「許勢朝臣祖父」は「邑治」の名前で既出である。また「參河守」については、こちらを参照。

<高橋朝臣笠間>
● 高橋朝臣笠間

「高橋朝臣」は「膳臣」一族が拝命した氏姓と知られている。前出の伊勢守高橋朝臣嶋を参照(全体はこちら)。この人物の系譜は定かではないようである。

一方「笠間」は祖父が膳臣摩漏、父親が「高橋朝臣國益」と言われている。「摩漏」はその死亡記事のみの登場であるが、壬申の功で大紫位を贈られている。

「膳臣」の地は現在の田川郡赤村内田と推定した。図は、少し見る角度を変えて表示したものである。

すると「摩漏」の東側の山稜が[笠]のような形をしていることが解る。古事記の大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)の御子、若日子建吉備津日子命が祖となった笠臣の地形に類似している。書紀では吉備笠臣垂・諸石が登場していた。

間=門+月=山稜に挟まれた三日月の地がある様と読み解いた。有間温湯など幾つかの例があった。出自の場所は、この山稜の麓辺りと推定される。父親の「國益」の益=谷間に挟まれて平らに広がった様と読み解いた。新益京で用いられていた文字である。「摩漏」の北側のなだらかところと思われる。親子三代で「膳」の谷間を切り開いたのであろう。

<坂合部宿禰大分・三田麻呂>
● 坂合部宿禰大分

坂合部は頻出である。「境部」とも表記され、現地名の直方市上・下境と推定した場所である。人材輩出の地であり、彦山川の近傍に集中していたのが、どうやら山側の地に広がったように思われる。

既出の文字列である大分=平らな頂の山稜を二つに切り分けた様と読み解いた。そのものずばりの地形が見出せる。本人の居場所は些か不確かであるが、その谷間ではなかろうか。

後に坂合部宿禰三田麻呂が登場する。三田=三つの田が段々に並んでいる様と読み解いた。舒明天皇紀の犬上君三田耜に用いられていた。図に示したように「大分」の北側にあるそれらしき場所と思われる。「大分」は長く唐に留まり、帰国は718年だったとか。

<鴨朝臣吉備麻呂・堅麻呂>
● 鴨朝臣吉備麻呂

「鴨」の地、現地名の田川郡福智町伊方の辺りを探索することになる。藤原朝臣宮子娘、その母の賀茂比賣など「鴨」の地形の周辺が含まれている(こちら参照)。

「吉備」は、吉備國と全く同様に解釈されなければならないのだが、果たしてその地形が見出せるのか・・・杞憂することなく「鴨」の西隣に付きの箙が矢で満たされていることが解る。

おそらく出自の場所は矢の先辺りと思われる。調べると父親が鴨君蝦夷と伝えられている。天武天皇紀に吹負将軍が倭京を陥落させた時活躍した人物である。

「蝦夷」の地形がやや曖昧な感じなのが、ここですっきりとしたようである。一族の出現は大歓迎、と言ったところであろう。帰国後、地方の國司を歴任したと伝えられている。更に後の元明天皇紀に鴨朝臣堅麻呂が登場する。それなりの頻度で用いられる堅=臣+又(手)+土=谷間に手のような地がある様と読み解いた。図に示した場所と推定される。

<掃守宿禰阿賀流>
● 掃守宿禰阿賀流

「掃守」は孝徳天皇紀に掃守連小麻呂で登場していた氏名である。白雉四年(653年)の遣唐使団の一員であったが、途中遭難し、生存者に見当たらず一命を落としたように言われている。

何らかの血縁関係であったと推測されるが、不詳のようである。阿=台地賀=谷間を押し広げたような様流=広がる延びる様と読むと、図に示した谷間、出自の場所は谷間の奥方と思われる。

何せ狭い箒の先のような谷間、がしかし有能な人材が育っていたのであろう。命懸けの遣唐使だったわけで様々な悲運も生じていたと推測される。この地もまた、複数の人物名の登場で確からしさが増したように思われる。

派遣時の職務が「山代國相樂郡令」と記されている。山代國相樂郡は、古事記の伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)紀に記載された山代國之相樂であろう。「背」ではなく「代」を用いているのも興味深いところである。何となく續紀は古事記表記に戻している感じである。

<錦部連道麻呂>
● 錦部連道麻呂

「錦部」は既出の河内國錦部郡に含まれていた。現在の行橋市にある幸ノ山を「錦」と見做した表記と思われる。「白鳩」を献上した記事であったが、その西隣に、道=辶+首の地形が見出せる。

椿小学校の南側に位置する場所が出自と推定される。系譜なども定かではなく、この後の消息も殆ど知られていないようである。

「椿市」の地は、古事記で廣國押建金日命(安閑天皇)陵がある河內之古市高屋村と推定した。しっかり国譲りされているようである。

ところが、実は若帶日子命(成務天皇)が坐した近淡海之志賀高穴穂宮に近い場所でもある。錦氏の祖の三善氏は近江國錦郡だとか、諸説があるようで、上図の位置関係を暗示しているのかもしれない。書紀に見習って「近淡海」→「近江」と置き換えれば、申し分のない配置であろう。

<白猪史阿麻留・廣成・毛人>
● 白猪史阿麻留

「白猪史」は、唐の留学生として十年余り滞在後帰国した白猪史寶然(骨)の一族であろう。また大寶律令の撰定者の一人となっていた。早期に開けた地の吉備の住人である。

その地で「阿麻留」を探索すると、「骨」の下流、西側の三角州の辺りであることが解る。阿=台地麻=擦り潰されたような様留=隙間を通り抜ける様であり、両脇の山稜の合間を「阿麻」の大地の三角州が通り抜ける地形と読み解ける。

「阿麻留」と「骨」の関係は、少し調べたところでははっきりしないようで、位置関係からすると親子、兄弟かもしれない。

二人とも唐へ赴くことになるわけで、それなりの素養が備わっていたのであろう。「天神族」以前に吉備を開拓した人々の末裔ではなかろうか。後に「葛井連」、更に「宿禰」と改姓したと伝えられる。

また後(元正天皇紀)に白猪史廣成が遣新羅使に任命されている。対外的な能力が備わっていた一族と見做されていたと思われる。父親が「道麻呂」と知られている。図に示した「廣成」の南側、山麓が窪んだところに住まっていたのであろう。それ以外の系譜は定かでないようである。

更に後(聖武天皇紀)に葛井連毛人が登場している。毛=鱗の形を谷間に見出すのは、かなり難しい状態であるが、「廣成」の西側にある、それらしき場所を出自と推定した。

<山於億良>
● 山於億良

さて、この超有名な万葉歌人の出自の場所を求めてみよう。系譜は、決して定かではなく、遣唐使団に加えられた経緯もはっきりとはしていないようである。

遣唐執節使である粟田朝臣眞人と同じく春日一族で、その推挙だったとか、強ち的を外してないような感じである。

推定されている「添上郡」の地の登場人物が少なく、断定的ではないが・・・彼の名前のポイントは「於」である。「上」に置き換えては、全く不明な状況となろう。

既に幾度か登場した於=㫃+二=旗がなびいて途切れた様と読み解いた(こちら参照)。すると英彦山山系から延びる山稜の中で、一際目立つ山稜が見出せる。旗のように平らな台地が延びて途中で途切れたようになっているのが解る。そして、その旗のような山稜が山=[山]の文字形をしている様と見做した表記と思われる。

既出の「新城」(天武天皇紀のこちら参照)の畔を流れる彦山川上流域にあり、添上郡と推定した場所となる。その旗の付け根辺りに、億=人+意=谷間にある閉じ込められたようなところであり、良=なだらかな様とすると現地名田川郡添田町野田にある窪んだ地形が見出せる。ここが山於億良、別名山上憶良の出自の場所と推定される。いつの日か彼の歌を読むことがあるかもしれない。

持統天皇紀に「奉新羅調於五社、伊勢・住吉・紀伊・大倭・菟名足」の記述があった。古くから存在する四社に加わった菟名足社の推定場所を図に併記した。次第に開けた地になりつつあったところだったのであろう。英彦山修験の勢いもあったのかもしれない。

<夜氣王>
● 夜氣王

相変わらず王族の出自は全く闇の中である。系譜も分らずで手の施しようがない、且つ登場頻度も少ないとお手上げ状態となってしまうようである。

少々自棄気味に、洒落ている場合じゃないが、「夜氣」を書紀で検索すると、「彌夜氣」(屯倉)が引っ掛った。垂仁天皇紀に「興屯倉于來目邑。屯倉、此云彌夜氣」の一文が載せられている。

この「屯倉」が彌夜氣=広がった台地(彌)の傍らにある狭く曲がりくねった(氣)谷間(夜)の近傍にあることを伝えていると解釈される。

「來目」の地、來目皇子の場所でそれを探すと容易に見出すことができる。おそらく王子は、谷間の出口辺りの屯倉、もしくはその近隣に住まっていたのではなかろうか。

二月丁未。詔始任下物職。丁巳。釋奠。〈注釋奠之礼。於是始見矣。〉己未。遣泉内親王侍於伊勢齋宮。癸亥。行幸吉野離宮。丙寅。任勘民官戸籍史等。庚午。車駕至自吉野宮。

二月四日に初めて下物職(出納に立ち会い、入用時に倉庫の鍵を借返する職)を任じている。十四日に釋奠(孔子および儒教における先哲を先師・先聖として祀る儀式)を行っている。十六日に泉内親王(天智天皇の泉皇女、姉兄は大江皇女、川嶋皇子)を伊勢齋宮(泊瀬齋宮)に遣わしている。二十~二十七日、吉野離宮に行幸されている。二十三日に民官の戸籍管理をする史を任命している。



 

2020年12月25日金曜日

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(8) 〔479〕

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(8)


即位四年(西暦700年)八月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、和訳はこちらを参照。

八月戊申。宇尼備。賀久山。成會山陵。及吉野宮邊樹木無故彫枯。乙夘。長門國獻白龜。乙丑。勅僧通徳。惠俊並還俗。代度各一人。賜通徳姓陽侯史。名久爾曾。授勤廣肆。賜惠俊姓吉。名宜。授務廣肆。爲用其藝也。丁夘。赦天下。但十惡盜人不在赦限。高年賜物。又依巡察使奏状。諸國司等。隨其治能。進階賜封各有差。阿倍朝臣御主人。大伴宿祢御行並授正廣參。因幡守勤大壹船連秦勝封卅戸。遠江守勤廣壹漆部造道麻呂廿戸。並褒善政也。

八月三日、「宇尼備」(畝火山)、「賀久山」(香具山)、「成會山」(耳成山)及び吉野宮辺の樹木が原因不明だが衰えて枯れたと記している。既出の三山の別名である。それぞれの山容の特徴を捉えた表記である。詳細はこちらを参照。「吉野宮」については古事記の吉野國巢の場所を参照。

十日に長門國が「白龜」を献上している。これは間違いなく「白龜」の地形を表していると思われる。残念ながらこの地、現地名は北九州市小倉南区守恒なのだが、広域の宅地開発なされた後で、当時の地形を垣間見ることは難しいようである。辛うじてそれらしき場所と思われるところは、国土地理院写真(1961~9年)を参照して、こちらの谷間のように思われる。

二十日に僧の通徳と惠俊を還俗させ、前者は「陽侯史久爾曾」、後者は「吉宜」と名乗らせている。二十二日に十悪などの者を除いて恩赦を行い、高齢者に物を与えている。また巡察使より諸國司等に、その統治能力に応じて階級を進め、封戸を与えている。「陽侯史久爾曾」及び「吉宜」の出自の場所は、この時点では全く不詳であったが後に読み解けた(こちらこちら参照)。

阿倍朝臣御主人(布勢朝臣御主人)と大伴宿祢御行(大伴連御行)には正廣參位を授けている。因幡守の船連秦勝(船史惠尺に併記)には封三十戸、「遠江守」の「漆部造道麻呂」には二十戸を、その善政を褒めて賦与している。「因幡」は、古事記の稻羽、書紀の因播とした。

<漆部造道麻呂>
● 漆部造道麻呂

「漆部」は、天武天皇紀に「朝明郡迹太川邊、望拜天照大神」の際に馳せ参じた仲間の一人に「漆部友背」が登場していた。物部一族であり、また用明天皇紀に登場する「漆部諸兄」の谷間を本貫とする一族と思われる(こちらを参照)。

その「諸兄」の西隣に道=辶+首=首の付け根のようなところが見出せる。如何なる経緯で「遠江守」となったかは不詳のようである(浜松市文化遺産デジタルアーカイブ)。

遠江國は古遠賀湾に面した国と推定した。その地は「大井河」(現金山川)の上流域から山稜が海に延びた地形の場所である。古事記の淡海之久多綿之蚊屋野と名付けられていたところでもある。そんな未開の地を統治する役目であったのであろう。おそらく「遠江守」の居場所は「大井河」が流れ出す山麓辺りだったのではなかろうか(こちら参照)。

冬十月壬子。施京畿年九十已上僧尼等絁綿布。始置製衣冠司。己未。以直大壹石上朝臣麻呂。爲筑紫総領。直廣參小野朝臣毛野爲大貳。直廣參波多朝臣牟後閇爲周防総領。直廣參上毛野朝臣小足爲吉備総領。直廣參百濟王遠寶爲常陸守。癸亥。直廣肆佐伯宿祢麻呂等至自新羅。獻孔雀及珍物。庚午。遣使于周防國造舶。

十月八日に京及び畿内の九十歳以上の僧尼等に綿布などを与えている。製衣冠司(官人の衣冠を製造する役)を初めて設置したとか。十五日、石上朝臣麻呂を筑紫総領(筑紫大宰ではなく、筑紫都督府の場所)、小野朝臣毛野を大貳(次官の筆頭)に任命している。

また波多朝臣牟後閇(羽田朝臣齋)を「周防総領」、「上毛野朝臣小足」を「吉備総領」(吉備笠臣垂・諸石、前者が吉備大宰、後者が吉備総領の近隣)、百濟王遠寶()を「常陸守」(常陸國、現在の吉志PA辺り?)にそれぞれ任命している。

<周防國・周防総領>
周防國:周防総領

「周防國」は、書紀の孝徳天皇紀で安藝國の詳細を述べた時にその西隣にあった國として求めた。あらためて「周防」が示す地形を読み解いてみよう。

「周」=「囗+米+囗」=「ぐるりと取り囲まれた様」、「防」=「阝+方」=「台地が延びて広がる様」と解釈すると、周防=ぐるりと取り囲まれた地から台地が延びて広がったところと読み解ける。

図に示した尾根から山稜が延びて広がった地形を表していることが解る。現在は広大な住宅地となっているが、その周辺の地形から当時を推測することが叶うように思われる。周防総領はその中心地を示すのであろう。

慶雲三年(706年)七月の記事に「周防國守從七位下引田朝臣秋庭等獻白鹿」と記載される。広がって細かく岐れた山稜の端を”鹿の角”と見做したと思われる。些か曖昧さが残っていた安藝國との境は、これで解消されたのではなかろうか。

<上毛野朝臣小足・廣人・安麻呂・宿奈麻呂>
十九日に佐伯宿祢麻呂(佐伯連麻呂)等が帰国。孔雀と珍物を献上している。二十六日、「周防國」
に船を造るように使者を遣わしている。

● 上毛野朝臣小足

「上毛野君(朝臣)」に関わる人物は「三千」あるいは車持君などが既に登場していた。おそらくその近隣と思われる。

すると彼らの東隣の地形が小足=山稜が延びて端が三角の形をしている様となっていることが解る。現地名は築上郡上毛町下唐原である。上毛の地も次第に埋まって来た感じであるが、さて更なるご登場があるのか、期待しつつ・・・と思うと元明天皇紀に入ると直ぐにご登場なさる。

上毛野朝臣廣人の系譜は知られていないようだが、名前が示す地形を見出すことは容易であった。図に示したように小足の先で谷間が広がった(廣人)地、その場所を出自としていたと推定される。同じような状況にある上毛野朝臣安麻呂が元明天皇紀に登場する。安=山稜に挟まれた谷間が嫋やかに曲がっている様と読み解いた。「小足」の上流域の谷間が出自の場所と推定される。

後(聖武天皇紀)に上毛野朝臣宿奈麻呂が”外従五位下”に叙爵されて登場する。由緒ある一族に”外”とは?…天皇の叱咤激励だったとか。「宿奈麻呂」は、そのまま解釈しても良いが、「少麻呂」とても、図に示した少=小+ノ=山稜の端が削り取られたようになっているところと思われる。

十一月壬午。新羅使薩飡金所毛來赴母王之喪。乙未。天下盜賊往々而在往遣使逐捕。壬寅。大倭國葛上郡鴨君粳賣一産二男一女。賜絁四疋。綿四屯。布八端。稻四百束。乳母一人。十二月庚午。大倭國疫。賜醫藥救之。

十一月八日、新羅が使者を寄越して母王が亡くなったことを知らせている。二十一日、盗賊が横行しているので追って捕えさせている。二十八日に「大倭國葛上郡」の鴨君粳賣(藤原朝臣宮子娘に併記)が二男一女の三つ子を産み、綿布、稲などに加えて、乳母一人も与えている。十二月二十六日、大倭國で疫病が発生し、医薬を与えて救援している。

<大倭國葛上郡>
大倭國葛上郡

「鴨君」と記載されているから余り考えることもなく場所を求めることができるのであるが、「葛上郡」の表記は書紀には出現しなかった。対応すると思われる葛城下郡が天武天皇紀に登場するのみであった。

桑原及び「鴨」が属するとなると「葛上郡」は、図に示した配置ではなかろうか。現在の福智山山系において山側の地域を「上」、彦山川側の地域を「下」と表現したと思われる。

当然ながら、「葛上郡」には早期の天皇の宮が多く並ぶ地域となる(古事記の各天皇の宮を示した)。Wikipediaでは・・・、

葛城の上郡の意で、近世までは「かつらぎのかみのこおり」と呼ばれた。2代綏靖天皇の葛城高丘宮(『日本書紀』)が御所市森脇に、5代孝昭天皇の掖上池心宮(『日本書紀』)が御所市池之内、6代孝安天皇の秋津島宮が御所市室にあったとされる。 

・・・と記載されている。第七代大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)の宮が含まれていないが、通説では奈良県磯城郡田原本町黒田周辺が比定地、勿論諸説ありなのだが、いずれも葛城の山麓から奈良盆地へ進出したとするものである。「黒」、「廬」が示す地形は山麓以外に存在しないと本著は結論付けた。

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續日本紀第一巻が、漸く終了である。「〇前・〇中・〇後」の國名表記が既に登場していたことには、少々驚かされた。「国譲り=律令制」と捉えること自体が誤りだったのであろう。「〇〇國△△郡」は、その地の地形を詳細に把握して初めて読み解け、結果的には推定場所の確からしさに繋がっている・・・まぁ、ボチボチと進んで行くしかないようである・・・。













2020年12月22日火曜日

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(7) 〔478〕

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(7)


即位四年(西暦700年)六月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、和訳はこちらを参照。

六月庚辰。薩末比賣。久賣。波豆。衣評督衣君縣。助督衣君弖自美。又肝衝難波。從肥人等持兵。覓國使刑部眞木等。於是勅竺志惣領。准犯决罸。

六月三日、「薩末」の「比賣」、「久賣」、「波豆」、「衣評」が「衣君縣」を取り締まっている。加えて「衣君弖自美」の取り締まりを補佐している。また「肝衝難波」が兵器を持つ「肥人」を従えて覓國使(住むのに適する国土を探す使者)の刑部眞木等を脅かしたと記載している。それ故に「竺志惣領」に命じて犯罪に準じて罰を決めさせている。

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「南嶋」探索の使者に関する記事であれば、記載された「薩末」→「薩摩」、「竺志」→「筑紫」と置き換えて読み下されているのが現状であろう。「音」が類似する文字の置換えは、「記紀」などの解釈において頻繁に、遠慮なく行われる行為である。

万葉仮名に慣らされたことに拠るのであろうが、漢字は表意文字であって、表音文字ではない。倭人たちは漢字に表音の機能を付加することによって、更なる多様な意味を表せることに気付いたのである。そんな洒落た表記に惑わされ放しの有様と言える。

後の大寶二年(西暦702年)に「薩摩多褹」の表記が登場する。詳細は後日となるが、「薩摩」と「多褹」(現在の福岡市中央区・南区)のである。「竺」と「筑」の違いは、幾度も述べて来たように全く異なる地形を表している。「薩末」と「薩摩」の区別もせず、また「竺紫」と「筑紫」も同じ表記として解釈しては、「記紀・續紀」が伝えることを読み取れない、のである。

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<薩末衣君縣・竺志惣領>
薩末・衣君縣

地形象形に用いられたと思われる薩末の「薩」の文字は、書紀に二度出現していた。薩麻之曲筑紫君薩野馬(薩夜麻)である。

前者の「薩麻」は耽羅國(現在の済州島)を示すと解釈したが、Google Mapからの推定であって些か不確かなところも見受けられたが、後者で確かにされたと思われる。

薩=艸+阝+產=生え出た山稜が並んで延びている様と読み解いた。南嶋へ派遣された「刑部眞木」が関わる記事であることから現地名の福岡市辺りを探索すると、図に示した場所が見出せる。多褹(書紀では多禰)の南側に位置する場所である。幾つにも岐れた山稜の一部が「多褹」となったり、「薩末」となっている。頻出の「末」は「麻」に置き換わる文字ではなく、末=山稜の末端を表す文字である。

● 薩末比賣・久賣・波豆・衣評 この薩末の地に四人の人物が住まっていたと記載している。既出の文字列である比賣=並んで窪んだところ久賣=くの字に曲がって窪んだところ波豆=端で高台があるところと解釈される。図に示した、それぞれの場所にその地形を見出せる。衣評衣=山稜の端、初出である評=言+平=平たく耕地にされた様と解釈すると、「薩末」のもう一方の山稜の端の地形を表していると思われる。

その地に衣君縣があると言う。図に示した「縣」=「ぶら下げた首のような様」の地形を表すと解釈した。「衣」=「山稜の端」であり、纏めると衣君縣=山稜の端の台地がぶら下がったようなところと解釈される。

● 衣君弖自美 「衣君縣」の周辺に地を表していると思われる。「弖」=「弓+一」と分解される。「氐」の異字体とも言われ、「ぶつかって弓なりなる様」をことから、弖=行き着いた様と解釈される。頻出の自=端美=羊+大=谷間が広がった様である。纏めると弖自美=行き着いた端で谷間が広がったところとなる。

この四人の合議で「衣君」を補佐しながら縣が統治されていたのであろう。集権化された國の使者から見れば、やや昔ながらの有様であることを述べていると思われる。魏志倭人伝に記載されている邪馬壹國の統治体制を彷彿とさせる記述であろう。編者は、多分にそれを意識していたのではなかろうか。

<竺志惣領・肝衝難波・肥人>
● 竺志惣領・肝衝難波・肥人

まさか、まさかで博多湾岸の地形を読み解くことになろうとは・・・地形象形表記であるならば、全くお構いなしで読み進めてみよう。

先ずは、読みなれた「難波」を含む「肝衝難波」から・・・肝衝難波肝=月+干=山稜の端の三角州が二股になった様と読み解ける。

それが突き当たった()ところが難波と述べているのである。分かりやすい表記であろう。図に示した場所である。すると、最後の肥人=谷間に山稜の端の三角州(月)が渦巻くように小高くなった(巴)地があるところと読み解ける。

竺志の「竺」は、古事記が記す竺紫日向に用いられた文字である。古事記以来、初めて續紀でおめもじ叶った気分である。「竺」=「山稜に二つの切れ目がある様」と読み解いた。纏めると、竺志=山稜が途切れて蛇行する川が流れているところと読み解ける。その地形を「肝」の西側の山稜に見出せる。

惣領は、「竺志」⇒「筑紫」の置き換えに合せて「大宰」として解釈されているようであるが、そもそも大宰(平らな頂から囲まれて延びる山稜が断ち切られたような様)も地形象形表記と解釈した。姓の連、臣、宿禰など全て同じ経緯である。このルールに従うならば「惣領」も立派な地形表記、その場所を図に示した。

物部の「物」=「牛+」がポイントである。その山稜の西麓が表していることが解る。「領」=「令+頁」と分解される。「頁」=「平たく広がった様」と解釈すると、領=平たく広がった地が揃っているところと読み解ける。

彼らの視点からすると北から素性のしれない輩が侵略して来たわけで、穏やかにことを進めるわけには行かなかったであろう。火種が燻る地域となったと推測される。

甲午。勅淨大參刑部親王。直廣壹藤原朝臣不比等。直大貳粟田朝臣眞人。直廣參下毛野朝臣古麻呂。直廣肆伊岐連博得。直廣肆伊余部連馬養。勤大壹薩弘恪。勤廣參土部宿祢甥。勤大肆坂合部宿祢唐。務大壹白猪史骨。追大壹黄文連備。田邊史百枝。道君首名。狹井宿祢尺麻呂。追大壹鍜造大角。進大壹額田部連林。進大貳田邊史首名。山口伊美伎大麻呂。直廣肆調伊美伎老人等。撰定律令。賜祿各有差。

六月十七日に律令を撰定したことに対して以下の者に禄を与えている。

刑部親王藤原朝臣不比等粟田朝臣眞人下毛野朝臣古麻呂伊岐連博得伊余部連馬養・「薩弘恪」・土部宿祢甥・「坂合部宿祢唐」・白猪史骨(寶然)・「黄文連備」・「田邊史百枝」・「道君首名」・「狹井宿祢尺麻呂」・「鍜造大角」・「額田部連林」・「田邊史首名」・「山口伊美伎大麻呂」・調伊美伎老人

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既出の人物はリンクを参照。若干補足すると「伊岐連博得」は書紀の引用文書の著者名「伊吉博得(德)」と思われる。彼は「天神族」ではないが、その才覚で連姓を与えられたようである。原著が現存していないのは真に残念なところであろう。「白猪史骨」は「寶然」、ホウネン→ホネ、かつ地形象形も満たすと言う離れ業の命名である。

「忌寸」姓は嫌われたのか、「伊美伎」となっている。また、薩弘恪は、斉明天皇紀に鬼室福信が連れて来た唐人(續守言等)の一人、音博士となり四町の水田を与えられていた。後(元正天皇紀)に薩妙觀が登場し、河上忌寸氏姓を賜っていることから、おそらく倉梯河上に住まっていたのではなかろうか。

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<坂合部宿禰唐>
● 坂合部宿禰唐

多くの人材を輩出している坂合部宿禰(連を改姓)一族であろう。それ故に特定される居場所もかつての中心地から外れて来ているように感じられるが、どうであろうか・・・。

「唐」=「庚+口」と分解される。地形象形表記で用いられるのは極めて少ないように思われる。この文字要素から唐=四方に張り出て広がる様と解釈されている。そのまま地形に当て嵌めることができる文字である。

図に示した坂合部の端にその地形が見出せる。現在は広い工場敷地となっていて、些か当時とは異なる地表だったかと思われるが、基本的な形には変わりはないように伺える。

<黄文連備・粳麻呂>
 黄文連備

かつては黃書造と記載された一族であろう。現地名京都郡みやこ町犀川大村が出自と推定した。名前が「備」と記述されるのであるが、吉備・備前・備中・備後などに用いられている。

備=人+𤰇=谷間にある箙の地形と読み解いた。「吉備」=「矢が一杯詰まった[箙]の地」である。古事記の「吉備兒嶋」で早々に登場する文字であるが、その示す意味を理解するには多くの時間を要した文字の一つである。

すると「黃書造」の西側に小ぶりな「箙」が見出せる。”蓋”らしきものがなく「吉備」とは言えなかったのであろう。「黃書」は画師として登場し、また天智天皇紀には水臬(水準器)を献上したことも記載されていた。なかなかに有能な高麗系渡来人一族のようである。

後(元正天皇紀)に壬申の功臣であった「黃書造大伴」の子、粳麻呂が登場する。既出の「粳」=「米+更」と分解され、更に「更」=「丙+攴(卜+又)」=「山稜が二つに岐れた様」と解釈した。粳=山稜が二つに岐れて米粒のように小高くなったいる様と読み解いた。図に示したように谷間に延びる山稜の端が小高くなっている場所が見出せる。この麓が出自の場所と推定される。

<田邊史百枝・田邊史首名>
● 田邊史百枝・田邊史首名

田邊史鳥が孝徳天皇紀に登場していた(高向史玄理を団長とする遣唐使に判官として参加)。現地名は京都郡みやこ町勝山黒田と推定し、その地で両名の出自の場所を求めてみよう。

図に示した通り、「百枝」、「首名」供に「鳥」の両翼に当たる場所であることが解る。既出の百=一+白=丸く小高いところが連なる様であり、枝=木+支=山稜が岐れた様と解釈したが、該当する地形を表していると思われる。

首名=山稜の端の三角州にある首の付け根のようなところと読み解ける。孝徳天皇紀以降殆ど登場することがなかった「田邊史」一族であるが、その学識などが引き継がれていたのであろう。人選に間違いはない、と言ったところかもしれない。

<道君首名>
● 道君首名

この道は、越の道だそうで、天智天皇が娶った「越道君伊羅都賣」に含まれて、誕生したのが施基皇子であった。これだけ情報が揃えば、求める出自の場所を図に示したようになると思われる。

「首名」は上記の「田邊史首名」と同じ解釈となる。今度は、既に「道」で用意された「首」があるから、一層明解である。

これだけ接近しているのだが、「首名」と「伊羅都賣」との関係は定かではないとのことである。位置関係からすると越國守阿部引田臣比羅夫との関係も密接なように思われる。いずれにせよ、出雲に関わること故に、書紀と同様、曖昧にされていることは間違いであろう。

<狹井宿禰尺麻呂>
● 狹井宿禰尺麻呂

天智天皇紀に狹井連檳榔が登場していた。物部一族である。場面は百濟救援の船団を送り込むのであるが、当時の資料がやや不確かなところがあるのか、一説に言う、の中での登場である。

今回は、正真正銘の本文、それも律令撰者として、である。さて、「檳榔」はアジマサではなく、山稜が迫ったところと読み解いたが、「尺麻呂」は何と・・・これも幾度か登場の文字である。

直ぐ近隣に尺の形をした谷間が見出せる。その谷間の出口辺りが出自の場所と推定される。邇藝速日命の末裔達が狭い谷間を隈なく開拓して行ったのであろう。「尺麻呂」の登場もこの記事だけのようで、消息は不詳とのことである。

<鍜造大角>
● 鍜造大角

鍜造」は、「記紀」に登場することはなく、調べると後に「守部」に改名した河内國を出自とする氏族であることが分った。「鍜」及び「守」の地形を探索することになる。

「鍜」は「錏鍜(アカ)」で用いられ「兜の首筋を守る防具」と知られている。また「鍜」=「金+叚」と分解すると、「金属で覆う様」と解釈される文字と思われる。

そんな文字情報で河内國、と言っても些か広いが、現在の京都郡みやこ町勝山浦河内上河内にそれらしき場所が見出せる。地形象形的には、鍜=三角の形で覆い被せた様と読み解く。大角=平らな頂の麓にある角の様と読み解けば出自の場所はその山稜の端辺りと推定される。

頻出の守=山稜に囲まれて蛇行する川がある様であり、に角がある谷間を表していることが解る。この改名は、なかなかに洒落ていて、兜の防具のように谷間(首)を守るような配置になっていることを表している。見事な地形象形表記が行われたことが推察される。

通常、「鍜」は「鍛」に置き換えられて解釈されているようであるが、鍛=金+段=三角の形をして段々のある様では、ありふれた表記となろう。それが目的かもしれないが・・・。

<額田部連林・額田人足-千足>
● 額田部連林

孝徳天皇紀に法頭に任命された額田部連甥が登場していた。「額田部」は、現地名田川郡香春町の愛宕山から西に延びる山稜が椿台と呼ばれる台地で「額」の形になっていることから名付けられたと解釈した。

多くの山稜が並んで延びる麓を「林」と呼んだのであろう。図に示した「額田部連甥」の北側の谷間を表していると思われる。

「額田部連」は古事記の天津日子根命が祖となった額田部湯坐連に出自する地であり、「天神族」の古くからの一族と記述されている。「記紀」を通じて、決して頻度は高くはないが、人材供出の地であったに違いない。ただ、既に宿禰姓を賜っている筈なのであるが、傍系故に連姓のままなのであろう。「湯坐」は、御子の産湯を担う役職?、「湯」の解釈、何とかならないものか・・・。

後に額田(首)人足・千足が登場する。人足は新羅への使者の一人であったと記載されている。「部」が付かない、所謂本家の「額田」の地を表していると思われる。「額」(現在の椿台と呼ばれている高台)の麓と推定される。人足=谷間で山稜が長く延びたところであり、おそらくその端が出自の場所と思われる。

千足は「人足」の長男であり、明經(儒教の経典に通じている)第二博士として褒賞を賜ったと記載されている。「千」=「人+一」=「谷間が寄り集まった様」と解釈すると、千足=谷間が寄り集まった傍らで山稜がなだらかに延びているところと読み解ける。図に示した父親の谷間の出口辺りと推定される。

<山口伊美伎大麻呂-兄人-人麻呂>
● 山口伊美伎大麻呂

「山口」を含む氏名は、仏師の漢山口直大口が記載されていた。「大麻呂」を「大口」の孫とする系図があるとのことで、その近隣が出自の場所と思われる。

通説では東漢一族のように扱われているが、”漢”の山口であって、犀川(今川)が直角に曲がる地、難波=漢で表記される場所であろう。

仏師の役目は東漢一族の役目ではなかったと推測される。「大麻呂」の登場は、これ以降は記載されることがなく、情報は少ないようである。

後(元明天皇紀)に山口忌寸兄人が美濃國の大目の役割で登場する。系譜から「大麻呂」の子と知られていることから図に示した場所が出自と推定される。兄=谷間の奥が広がった様と解釈される。更に後(孝謙天皇紀)に、もう一人の息子、山口忌寸人麻呂が遣新羅使に任じられたと記載される。人の脚の形をした山稜が延びている麓が出自と思われる。

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いやぁ、何とも凄まじいばかりの地名・人名の出現で・・・先は長い
・・・。














2020年12月18日金曜日

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(6) 〔477〕

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(6)


即位三年(西暦699年)十月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、和訳はこちらを参照。

冬十月甲午。詔赦天下有罪者。但十惡強竊二盜不在赦限。爲欲營造越智。山科二山陵也。辛丑。遣淨廣肆衣縫王。直大壹當麻眞人國見。直廣參土師宿祢根麻呂。直大肆田中朝臣法麻呂。判官四人。主典二人。大工二人於越智山陵。淨廣肆大石王。直大貳粟田朝臣眞人。直廣參土師宿祢馬手。直廣肆小治田朝臣當麻。判官四人。主典二人。大工二人於山科山陵。並分功修造焉。戊申。遣巡察使于諸國。檢察非違。

十月十三日に恩赦を行っているが、十悪(仏語。身・口・意の三業がつくる十種の罪悪:殺生、邪淫など)や強盗の罪の者はこの限りではない、とされている。これは「越智山陵」と「山科山陵」の二つの山陵を造営するためだったと記載されている。越智山陵は天武天皇紀に登場し、斉明天皇陵(小市岡上陵)である。「山科山陵」については記述されたことがなく、調べると天智天皇陵であることが分かった。推定した場所を下記する。

二十日に二陵の役割分担が示されている。越智山陵の担当は、衣縫王當麻眞人國見土師宿祢根麻呂田中朝臣法麻呂の判官四人、主典(四等官)二名、大工(木工職人の長)二名となっている。一方の山科山陵は、大石王粟田朝臣眞人土師宿祢馬手・「小治田朝臣當麻」の判官四人と主典・大工は上記同様の布陣とのことであった。二十七日、諸國へ巡察使を派遣している。

<山科山陵>
山科山陵

「山科」は天智天皇が弟の大海人皇子(後の天武天皇)、藤原内大臣等を従えて守猟を行った場所として記載されていた。現地名京都郡みやこ町花熊にある山科=山稜が段々になっている様を示すところの麓と推定した。

崩御後半年余りで『壬申の乱』となり、墓所を完成するには時間が足りなかったのかもしれないし、天武・持統天皇紀には表立った造営を行うわけには行かなかったのかもしれない。

天武天皇の妃の多くが、勿論持統天皇も含めて、天智天皇の娘であり、時が来れば皇祖である斉明天皇の墓所と併せ修復・造営を目論んでいたように思われる。その地を近江大津宮の山裏、天智天皇の思い入れが今も眠っているようである。

<小治田朝臣當麻・一族>
● 小治田朝臣當麻

書紀では「小墾田」と記述された場所である。古事記の記述に戻った?…ようである。と同時に、そう多くなかったのがこの後続々と登場されることになる。

最初の人物「當麻」の出自の場所には些か戸惑わされた…さすがに”當麻”である。古事記で紐解いた「當」=「當の文字形」としては、極めて特徴的な地形にのみ当て嵌まるようで、他の場所で見出せることは叶わないであろう(こちらを参照)。

ところが「當」の字源はなかなかに複雑なようで、通常の表す意味は明確なのであるが、解釈は様々である。

「當」=「尚+田」と分解して、「尚」=「平らに広がった様」として同じ大きさの「尚」がぴったりと合わさる様を表すとする解釈がある。即ち「當」は左右対称形であり、その左半分と右半分が合わさった形と見做すのである。当然、文字形が地形に合致することになる。

この解釈で探すと図に示した、かつての蘇我馬子の胴体が見る角度によって左右対称な高台であることが解る。現在は広いグランド場となって地表の様子は不明で残念なのだが、推測は可能なように思われる。上記したように残り七名の小治田朝臣が登場するが、その出自の場所を併せて示した。詳細はご登場の際に、とする。

十一月辛亥朔。日有蝕之。甲寅。文忌寸博士。刑部眞木等自南嶋至。進位各有差。己夘。施義淵法師稻一万束。襃學行也。

十一月初めに日蝕があったと伝えている。四日、文忌寸博士、「刑部眞木」等が南嶋から帰還し、それぞれの爵位を進めたと記している。二十九日に義淵法師(法相宗の僧侶、後に僧正)に対して長年の学行を褒めて稲一万束を与えている。

<刑部眞木>
● 刑部眞木

文武天皇即位二年(西暦698年)四月に派遣されているから、かれこれ一年半以上滞在したようである。当人の名前は記述されておらず、八人の中の一人であろう。

「形部」は忍壁皇子(刑部皇子)と同じく、古事記の忍坂大室近隣に関わる人物であることには間違いないと思われるが、「眞木」は何と解釈するか?…「山稜が一杯集まった様」であるが、この辺りでは一に特定することは不可能である。

「眞」=「鼎+匕」と分解される。これがヒントになった。古事記が語るには、この地は、そもそも生尾土雲八十建の地であった。そして雲=具毛と訓されていた。「具」=「鼎+廾」と分解される。即ち「鼎」に「匙」を添えるか、「両手」を添えるかの違いとなる。

古事記と續紀は共に、図中の窪んだところを「鼎」で表現していることになる。續紀も、しっかりと地形象形表記をした書物であることが判る。出自不詳の「大石王」の場所も併せて示した。

十二月癸未。淨廣貳大江皇女薨。令王臣百官人等會葬。天智天皇之皇女也。甲申。令大宰府修三野。稻積二城。庚子。始置鑄錢司。以直大肆中臣朝臣意美麻呂爲長官。

十二月三日に大江皇女が亡くなっている。四日に大宰府に「三野城」、「稻積城」の修理を命じている。二十日、初めて鑄錢司(銭貨鋳造)を設置し、中臣朝臣意美麻呂を長官に任命している。

三野城稻積城については全く情報がなく、名称から推測してみると、「三野城」は三野國こちら(東朽網小学校)辺り、「稻積城」については、大伴君稻積の出自の場所近隣のこちら(大積小学校)辺りではなかろうか。

四年春正月丁巳。授新田部皇子淨廣貳。癸亥。有詔。賜左大臣多治比眞人嶋靈壽杖及輿臺。優高年也。二月乙酉。上総國司請安房郡大少領連任父子兄弟。許之。戊子。令丹波國獻錫。己亥。令越後佐渡二國修營石船柵。壬寅。遣巡察使于東山道。検察非違。丁未。累勅王臣京畿。令備戎具。

即位四年(西暦700年)正月七日、新田部皇子に淨廣貳位を授けたと記している。天武天皇が藤原鎌足大臣の娘、五百重娘を娶って誕生した皇子である。後に皇族爵位の最高位まで上り詰めることになったようである。十三日に左大臣の多治比眞人嶋(丹比眞人嶋)が靈壽杖(鳩杖とも)及輿臺を賜っている。

二月五日、上総國司が「安房郡」の大少領の父子兄弟での連任を申し出て、許されている。「上総國」は前記の下総國に併記したが、詳細は下記する。書紀には「下総國」は出現しないが「上総國」は登場する。何とも捩じった表記のようだが後日としよう。

八日に丹波國に錫を献上させている。前記で「伊勢國獻白鑞」の記載があり、「白鑞(錫)」と解釈したが、これも”土地”かも・・・。十九日、越後國と「佐渡國」に石船柵の「修営」を命じている。即位二年の十二月に越後國に「修理」を命じていたが、管理しろと言うことなのかもしれない。

二十二日に東山道に巡察使を派遣。二十七日、京及び畿内の王や臣に兵器を備えるように命じている。

<上総國安房郡>
上総國安房郡

しっかり国譲りされた後では悩むことなくその地を求めることができるのであるが、勿論その由来は不詳なのだが、本著はしっかりと地形象形表記として求める必要がある。

頻出の安=山稜に囲まれて嫋やかに曲がる様であり、房=戸+方=平らな尾根が広がった様と読み解ける。延びる山稜から脇に張り出し広がったところを表している。

広大な宅地となって当時の山稜の姿を伺うことは難しいが、下総國も含めて山稜の延びて行く有様は想像できる。図に示したようにその延びる山稜から横に生え出て広がった様子を見出せる。

現在の行政区では主稜線は沼新町、張り出たところは上吉田となっている。土地の区分の経緯を反映しているのではなかろうか。「連任」を許可しているが、特段に人を送り込む、代替の人材である必要性がない土地だったのであろうか。

<佐渡國>
佐渡國

佐渡嶋ではない。古事記の佐度嶋は「渡りを助くる島」と解釈した。大海原に浮かぶ標識のような島であった。ではこの表記は何と解釈できるのであろうか?…「渡」が表す意味である。

頻出の「佐」=「人+左」=「谷間にある左手のような様」、「渡」=「氵+度」=「水辺で跨ぐように山稜が延びている様」とすると、佐渡=谷間にある左手のような山稜が水辺で跨ぐように延びているところと読み解ける。

図に示した地域を「佐渡國」と称していたと思われる。「渡」は、渡嶋蝦夷(兩箇蝦夷)が棲息していた場所として書紀の斉明天皇紀に登場していた。そして、北隣は肅愼國と推定した場所となり、南隣は越後國(越後蝦狄)となる。

「夷狄」に囲まれた地であり、再編があったり、変遷を経るようである。”国譲り”は、大変な作業だったかもしれないが、何とも楽し気な雰囲気であろう。「倭人」の末裔たちが生真面目に行った結果が現在に繋がっているのである。

三月己未。道照和尚物化。天皇甚悼惜之。遣使弔賻之。和尚河内國丹比郡人也。俗姓船連。父惠釋少錦下。和尚戒行不缺。尤尚忍行。甞弟子欲究其性。竊穿便器。漏汚被褥。和尚乃微笑曰。放蕩小子汚人之床。竟無復一言焉。初孝徳天皇白雉四年。隨使入唐。適遇玄弉三藏。師受業焉。三藏特愛。令住同房。謂曰。吾昔往西域。在路飢乏。無村可乞。忽有一沙門手持梨子。与吾食之。吾自啖後氣力日健。今汝是持梨沙門也。又謂曰。經論深妙不能究竟。不如學禪流傳東土。和尚奉教。始習禪定。所悟稍多。於後隨使歸朝。臨訣。三藏以所持舎利經論。咸授和尚而曰。人能弘道。今以斯文附屬。又授一鐺子曰。吾從西域自所將來。煎物養病。無不神驗。於是和尚拜謝。啼泣而辞。及至登州。使人多病。和尚出鐺子。暖水煮粥。遍与病徒。當日即差。既解纜順風而去。比至海中。船漂蕩不進者七日七夜。諸人怪曰。風勢快好。計日應到本國。船不肯行。計必有意。卜人曰。龍王欲得鐺子。和上聞之曰。鐺子此是三藏之所施者也。龍王何敢索之。諸人皆曰。今惜鐺子不与。恐合船爲魚食。因取鐺子抛入海中。登時船進還歸本朝。於元興寺東南隅。別建禪院而住焉。于時天下行業之徒。從和尚學禪焉。於後周遊天下。路傍穿井。諸津濟處。儲船造橋。乃山背國宇治橋。和尚之所創造者也。和尚周遊凡十有餘載。有勅請還止住禪院。坐禪如故。或三日一起。或七日一起。倏忽香氣從房出。諸弟子驚怪。就而謁和尚。端坐繩床。无有氣息。時年七十有二。弟子等奉遺教。火葬於粟原。天下火葬從此而始也。世傳云。火葬畢。親族与弟子相爭。欲取和上骨斂之。飄風忽起。吹■灰骨。終不知其處。時人異焉。後遷都平城也。和尚弟及弟子等奏聞。徙建禪院於新京。今平城右京禪院是也。此院多有經論。書迹楷好。並不錯誤。皆和上之所將來者也。

三月十日に道照和尚が亡くなって、和尚に関して、逸話などを含めて長々と記述されている。書紀の孝徳天皇紀白雉四年(西暦653年)の遣唐使の中に名前が挙がっている(學問僧:道昭)。この時は二船団で一方が遭難する事件も発生している。上記されているように「玄弉三藏」に気に入られ、多くの教えを体得したと知られる。

彼が学んだ法相宗は当時の主流派…西暦705年以降華厳宗が隆盛…であった。帰国後は飛鳥寺(法興寺)を拠点として禅院を各地に造って広め、また多くの土木事業を行っている。遺言により初めて火葬(粟原)されたことが知られている。

出自は、河内國丹比郡、俗姓船連、父惠釋である。父惠釋は、書紀の皇極天皇即位四年(西暦645年)六月の記事に、『乙巳の変』のどさくさ時に蘇我臣蝦夷等が天皇記・國記などを焼き払うのを「船史惠尺」が未然に防ぎ、中大兄皇子に献上したと記載されていた。船氏関係は野中川原史滿が登場していたが、詳細は未解読、あらためて読み解くことにする。

<船史惠尺(釋)・道昭(照)・船連秦勝>
● 船史惠尺(釋)・道昭(照)

「野中川原史滿」の「史」=「真ん中を突き通す様」と読み解いた。「船」=「船のような様」とすると、船史=船のような山稜が真ん中を突き通している様と読み解ける。

幾度か登場の惠=山稜が取り巻くような様であり、図に示した谷間がぐるりと取り囲まれているところを表していると解釈される。「史」はその隙間を突き抜けるような配置となっていることが解る。

「尺」はそのままの文字形が当て嵌まる谷間であり、「史」が突き抜けるところにある場所と思われる。天武天皇紀に登場した大分君惠尺の解釈に類似する。

別名に「釋」が用いられると言う。「釋」=「采+睾」と分解される。すると釋=丸く小高いところが連なって延びた山稜を表してると読み解ける。纏めると「船史惠尺(釋)」は、山稜の端で谷間の出口辺りが出自の場所と求められる。

息子の「道昭(照)」は、その西側の「首」の地形の周りが出自の場所と推定される。彼ら親子もしっかりと地形象形した名前を持っていたことが解る。「惠釋」が持ち出した國記などは現存していないようであるが、天智天皇の後裔が続かなかったことも消息不明の一因だったのかもしれない。

後に因幡守船連秦勝が登場する。秦=艸+屯+禾=枝分かれした二つの山稜が延びている様勝=朕+力=盛り上がった様と解釈して来た。図に示した場所で「船」の地を持ち上げるようなところと推定される。そもそも「勝」は「船を両手で持ち上げる様」を象った文字であり、そのズバリの地形象形であろう。

甲子。詔諸王臣讀習令文。又撰成律條。丙寅。令諸國定牧地放牛馬。夏四月癸未。淨廣肆明日香皇女薨。遣使弔賻之。天智天皇之皇女也。

三月十五日に諸王・臣に令を読み習わしている。十七日に諸國の牧(場)地を定め、牛馬を放牧させている。四月四日、明日香皇女(飛鳥皇女)、天智天皇の皇女、が亡くなっている。阿倍倉梯麻呂大臣の娘、橘娘が母親であった。持統天皇とは仲の良かった皇女だったようである。

五月辛酉。以直廣肆佐伯宿祢麻呂。爲遣新羅大使。勤大肆佐味朝臣賀佐麻呂爲小使。大少位各一人。大少史各一人。

五月十三日に大使佐伯宿祢麻呂(佐伯連麻呂)、小使「佐味朝臣賀佐麻呂」等を新羅に遣わしている。

<佐味朝臣賀佐麻呂・笠麻呂>
● 佐味朝臣賀佐麻呂

「佐味」は書紀の天武天皇紀に佐味君宿那麻呂が登場していた。現地名築上毛町野間にある山稜が途切れたような地が出自の場所と推定した。

「宿那」の小高い地が並ぶところの西側が「賀」=「押し広げられたような谷間」となっていることが解る。「佐」=「人+左」=「谷間にある左手のような様」と解釈した。

纏めると賀佐=押し広げられた谷間にある左手のような山稜が延びているところと読み解ける。出自の場所は、その腕のような山稜の端、即ち手に当たる場所と推定される。「宿那麻呂」との繋がりが明記された資料を見出せなかったが、親子、兄弟の関係であったように思われるが定かでない。

後に佐味朝臣笠麻呂が登場する。例によって山稜の端の「笠」の形が由来であろう。北側の山稜の麓を表していると思われる。登場人物の繋がりは、やはり定かではないようである。