天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(7)
六月庚辰。薩末比賣。久賣。波豆。衣評督衣君縣。助督衣君弖自美。又肝衝難波。從肥人等持兵。覓國使刑部眞木等。於是勅竺志惣領。准犯决罸。
六月三日、「薩末」の「比賣」、「久賣」、「波豆」、「衣評」が「衣君縣」を取り締まっている。加えて「衣君弖自美」の取り締まりを補佐している。また「肝衝難波」が兵器を持つ「肥人」を従えて覓國使(住むのに適する国土を探す使者)の刑部眞木等を脅かしたと記載している。それ故に「竺志惣領」に命じて犯罪に準じて罰を決めさせている。
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「南嶋」探索の使者に関する記事であれば、記載された「薩末」→「薩摩」、「竺志」→「筑紫」と置き換えて読み下されているのが現状であろう。「音」が類似する文字の置換えは、「記紀」などの解釈において頻繁に、遠慮なく行われる行為である。
万葉仮名に慣らされたことに拠るのであろうが、漢字は表意文字であって、表音文字ではない。倭人たちは漢字に表音の機能を付加することによって、更なる多様な意味を表せることに気付いたのである。そんな洒落た表記に惑わされ放しの有様と言える。
後の大寶二年(西暦702年)に「薩摩多褹」の表記が登場する。詳細は後日となるが、「薩摩」と「多褹」(現在の福岡市中央区・南区)のである。「竺」と「筑」の違いは、幾度も述べて来たように全く異なる地形を表している。「薩末」と「薩摩」の区別もせず、また「竺紫」と「筑紫」も同じ表記として解釈しては、「記紀・續紀」が伝えることを読み取れない、のである。
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薩末・衣君縣
地形象形に用いられたと思われる薩末の「薩」の文字は、書紀に二度出現していた。薩麻之曲と筑紫君薩野馬(薩夜麻)である。
前者の「薩麻」は耽羅國(現在の済州島)を示すと解釈したが、Google Mapからの推定であって些か不確かなところも見受けられたが、後者で確かにされたと思われる。
薩=艸+阝+產=生え出た山稜が並んで延びている様と読み解いた。南嶋へ派遣された「刑部眞木」が関わる記事であることから現地名の福岡市辺りを探索すると、図に示した場所が見出せる。多褹(書紀では多禰)の南側に位置する場所である。幾つにも岐れた山稜の一部が「多褹」となったり、「薩末」となっている。頻出の「末」は「麻」に置き換わる文字ではなく、末=山稜の末端を表す文字である。
● 薩末比賣・久賣・波豆・衣評 この薩末の地に四人の人物が住まっていたと記載している。既出の文字列である比賣=並んで窪んだところ、久賣=くの字に曲がって窪んだところ、波豆=端で高台があるところと解釈される。図に示した、それぞれの場所にその地形を見出せる。衣評の衣=山稜の端、初出である評=言+平=平たく耕地にされた様と解釈すると、「薩末」のもう一方の山稜の端の地形を表していると思われる。
その地に衣君縣があると言う。図に示した「縣」=「ぶら下げた首のような様」の地形を表すと解釈した。「衣」=「山稜の端」であり、纏めると衣君縣=山稜の端の台地がぶら下がったようなところと解釈される。
● 衣君弖自美 「衣君縣」の周辺に地を表していると思われる。「弖」=「弓+一」と分解される。「氐」の異字体とも言われ、「ぶつかって弓なりなる様」をことから、弖=行き着いた様と解釈される。頻出の自=端、美=羊+大=谷間が広がった様である。纏めると弖自美=行き着いた端で谷間が広がったところとなる。
この四人の合議で「衣君」を補佐しながら縣が統治されていたのであろう。集権化された國の使者から見れば、やや昔ながらの有様であることを述べていると思われる。魏志倭人伝に記載されている邪馬壹國の統治体制を彷彿とさせる記述であろう。編者は、多分にそれを意識していたのではなかろうか。
● 竺志惣領・肝衝難波・肥人
まさか、まさかで博多湾岸の地形を読み解くことになろうとは・・・地形象形表記であるならば、全くお構いなしで読み進めてみよう。
先ずは、読みなれた「難波」を含む「肝衝難波」から・・・肝衝難波の肝=月+干=山稜の端の三角州が二股になった様と読み解ける。
それが突き当たった(衝)ところが難波と述べているのである。分かりやすい表記であろう。図に示した場所である。すると、最後の肥人=谷間に山稜の端の三角州(月)が渦巻くように小高くなった(巴)地があるところと読み解ける。
竺志の「竺」は、古事記が記す竺紫日向に用いられた文字である。古事記以来、初めて續紀でおめもじ叶った気分である。「竺」=「山稜に二つの切れ目がある様」と読み解いた。纏めると、竺志=山稜が途切れて蛇行する川が流れているところと読み解ける。その地形を「肝」の西側の山稜に見出せる。
惣領は、「竺志」⇒「筑紫」の置き換えに合せて「大宰」として解釈されているようであるが、そもそも大宰(平らな頂から囲まれて延びる山稜が断ち切られたような様)も地形象形表記と解釈した。姓の連、臣、宿禰など全て同じ経緯である。このルールに従うならば「惣領」も立派な地形表記、その場所を図に示した。
物部の「物」=「牛+勿」がポイントである。その山稜の西麓が表していることが解る。「領」=「令+頁」と分解される。「頁」=「平たく広がった様」と解釈すると、領=平たく広がった地が揃っているところと読み解ける。
彼らの視点からすると北から素性のしれない輩が侵略して来たわけで、穏やかにことを進めるわけには行かなかったであろう。火種が燻る地域となったと推測される。
甲午。勅淨大參刑部親王。直廣壹藤原朝臣不比等。直大貳粟田朝臣眞人。直廣參下毛野朝臣古麻呂。直廣肆伊岐連博得。直廣肆伊余部連馬養。勤大壹薩弘恪。勤廣參土部宿祢甥。勤大肆坂合部宿祢唐。務大壹白猪史骨。追大壹黄文連備。田邊史百枝。道君首名。狹井宿祢尺麻呂。追大壹鍜造大角。進大壹額田部連林。進大貳田邊史首名。山口伊美伎大麻呂。直廣肆調伊美伎老人等。撰定律令。賜祿各有差。
六月十七日に律令を撰定したことに対して以下の者に禄を与えている。
刑部親王・藤原朝臣不比等・粟田朝臣眞人・下毛野朝臣古麻呂・伊岐連博得・伊余部連馬養・「薩弘恪」・土部宿祢甥・「坂合部宿祢唐」・白猪史骨(寶然)・「黄文連備」・「田邊史百枝」・「道君首名」・「狹井宿祢尺麻呂」・「鍜造大角」・「額田部連林」・「田邊史首名」・「山口伊美伎大麻呂」・調伊美伎老人等
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既出の人物はリンクを参照。若干補足すると「伊岐連博得」は書紀の引用文書の著者名「伊吉博得(德)」と思われる。彼は「天神族」ではないが、その才覚で連姓を与えられたようである。原著が現存していないのは真に残念なところであろう。「白猪史骨」は「寶然」、ホウネン→ホネ、かつ地形象形も満たすと言う離れ業の命名である。
「忌寸」姓は嫌われたのか、「伊美伎」となっている。また、薩弘恪は、斉明天皇紀に鬼室福信が連れて来た唐人(續守言等)の一人、音博士となり四町の水田を与えられていた。後(元正天皇紀)に薩妙觀が登場し、河上忌寸氏姓を賜っていることから、おそらく倉梯河上に住まっていたのではなかろうか。
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● 坂合部宿禰唐
多くの人材を輩出している坂合部宿禰(連を改姓)一族であろう。それ故に特定される居場所もかつての中心地から外れて来ているように感じられるが、どうであろうか・・・。
「唐」=「庚+口」と分解される。地形象形表記で用いられるのは極めて少ないように思われる。この文字要素から唐=四方に張り出て広がる様と解釈されている。そのまま地形に当て嵌めることができる文字である。
図に示した坂合部の端にその地形が見出せる。現在は広い工場敷地となっていて、些か当時とは異なる地表だったかと思われるが、基本的な形には変わりはないように伺える。
● 黄文連備
かつては黃書造と記載された一族であろう。現地名京都郡みやこ町犀川大村が出自と推定した。名前が「備」と記述されるのであるが、吉備・備前・備中・備後などに用いられている。
備=人+𤰇=谷間にある箙の地形と読み解いた。「吉備」=「矢が一杯詰まった[箙]の地」である。古事記の「吉備兒嶋」で早々に登場する文字であるが、その示す意味を理解するには多くの時間を要した文字の一つである。
すると「黃書造」の西側に小ぶりな「箙」が見出せる。”蓋”らしきものがなく「吉備」とは言えなかったのであろう。「黃書」は画師として登場し、また天智天皇紀には水臬(水準器)を献上したことも記載されていた。なかなかに有能な高麗系渡来人一族のようである。
後(元正天皇紀)に壬申の功臣であった「黃書造大伴」の子、粳麻呂が登場する。既出の「粳」=「米+更」と分解され、更に「更」=「丙+攴(卜+又)」=「山稜が二つに岐れた様」と解釈した。粳=山稜が二つに岐れて米粒のように小高くなったいる様と読み解いた。図に示したように谷間に延びる山稜の端が小高くなっている場所が見出せる。この麓が出自の場所と推定される。
● 田邊史百枝・田邊史首名
田邊史鳥が孝徳天皇紀に登場していた(高向史玄理を団長とする遣唐使に判官として参加)。現地名は京都郡みやこ町勝山黒田と推定し、その地で両名の出自の場所を求めてみよう。
図に示した通り、「百枝」、「首名」供に「鳥」の両翼に当たる場所であることが解る。既出の百=一+白=丸く小高いところが連なる様であり、枝=木+支=山稜が岐れた様と解釈したが、該当する地形を表していると思われる。
首名=山稜の端の三角州にある首の付け根のようなところと読み解ける。孝徳天皇紀以降殆ど登場することがなかった「田邊史」一族であるが、その学識などが引き継がれていたのであろう。人選に間違いはない、と言ったところかもしれない。
● 道君首名
この道は、越の道だそうで、天智天皇が娶った「越道君伊羅都賣」に含まれて、誕生したのが施基皇子であった。これだけ情報が揃えば、求める出自の場所を図に示したようになると思われる。
「首名」は上記の「田邊史首名」と同じ解釈となる。今度は、既に「道」で用意された「首」があるから、一層明解である。
これだけ接近しているのだが、「首名」と「伊羅都賣」との関係は定かではないとのことである。位置関係からすると越國守阿部引田臣比羅夫との関係も密接なように思われる。いずれにせよ、出雲に関わること故に、書紀と同様、曖昧にされていることは間違いであろう。
● 狹井宿禰尺麻呂
天智天皇紀に狹井連檳榔が登場していた。物部一族である。場面は百濟救援の船団を送り込むのであるが、当時の資料がやや不確かなところがあるのか、一説に言う、の中での登場である。
今回は、正真正銘の本文、それも律令撰者として、である。さて、「檳榔」はアジマサではなく、山稜が迫ったところと読み解いたが、「尺麻呂」は何と・・・これも幾度か登場の文字である。
直ぐ近隣に尺の形をした谷間が見出せる。その谷間の出口辺りが出自の場所と推定される。邇藝速日命の末裔達が狭い谷間を隈なく開拓して行ったのであろう。「尺麻呂」の登場もこの記事だけのようで、消息は不詳とのことである。
● 鍜造大角
「鍜造」は、「記紀」に登場することはなく、調べると後に「守部」に改名した河内國を出自とする氏族であることが分った。「鍜」及び「守」の地形を探索することになる。
「鍜」は「錏鍜(アカ)」で用いられ「兜の首筋を守る防具」と知られている。また「鍜」=「金+叚」と分解すると、「金属で覆う様」と解釈される文字と思われる。
そんな文字情報で河内國、と言っても些か広いが、現在の京都郡みやこ町勝山浦河内上河内にそれらしき場所が見出せる。地形象形的には、鍜=三角の形で覆い被せた様と読み解く。大角=平らな頂の麓にある角の様と読み解けば出自の場所はその山稜の端辺りと推定される。
頻出の守=山稜に囲まれて蛇行する川がある様であり、隅に角がある谷間を表していることが解る。この改名は、なかなかに洒落ていて、兜の防具のように谷間(首)を守るような配置になっていることを表している。見事な地形象形表記が行われたことが推察される。
通常、「鍜」は「鍛」に置き換えられて解釈されているようであるが、鍛=金+段=三角の形をして段々のある様では、ありふれた表記となろう。それが目的かもしれないが・・・。
● 額田部連林
孝徳天皇紀に法頭に任命された額田部連甥が登場していた。「額田部」は、現地名田川郡香春町の愛宕山から西に延びる山稜が椿台と呼ばれる台地で「額」の形になっていることから名付けられたと解釈した。
多くの山稜が並んで延びる麓を「林」と呼んだのであろう。図に示した「額田部連甥」の北側の谷間を表していると思われる。
「額田部連」は古事記の天津日子根命が祖となった額田部湯坐連に出自する地であり、「天神族」の古くからの一族と記述されている。「記紀」を通じて、決して頻度は高くはないが、人材供出の地であったに違いない。ただ、既に宿禰姓を賜っている筈なのであるが、傍系故に連姓のままなのであろう。「湯坐」は、御子の産湯を担う役職?、「湯」の解釈、何とかならないものか・・・。
後に額田(首)人足・千足が登場する。人足は新羅への使者の一人であったと記載されている。「部」が付かない、所謂本家の「額田」の地を表していると思われる。「額」(現在の椿台と呼ばれている高台)の麓と推定される。人足=谷間で山稜が長く延びたところであり、おそらくその端が出自の場所と思われる。
千足は「人足」の長男であり、明經(儒教の経典に通じている)第二博士として褒賞を賜ったと記載されている。「千」=「人+一」=「谷間が寄り集まった様」と解釈すると、千足=谷間が寄り集まった傍らで山稜がなだらかに延びているところと読み解ける。図に示した父親の谷間の出口辺りと推定される。
● 山口伊美伎大麻呂
「山口」を含む氏名は、仏師の漢山口直大口が記載されていた。「大麻呂」を「大口」の孫とする系図があるとのことで、その近隣が出自の場所と思われる。
通説では東漢一族のように扱われているが、”漢”の山口であって、犀川(今川)が直角に曲がる地、難波=漢で表記される場所であろう。
仏師の役目は東漢一族の役目ではなかったと推測される。「大麻呂」の登場は、これ以降は記載されることがなく、情報は少ないようである。
後(元明天皇紀)に山口忌寸兄人が美濃國の大目の役割で登場する。系譜から「大麻呂」の子と知られていることから図に示した場所が出自と推定される。兄=谷間の奥が広がった様と解釈される。更に後(孝謙天皇紀)に、もう一人の息子、山口忌寸人麻呂が遣新羅使に任じられたと記載される。人の脚の形をした山稜が延びている麓が出自と思われる。
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いやぁ、何とも凄まじいばかりの地名・人名の出現で・・・先は長い
・・・。