2020年12月18日金曜日

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(6) 〔477〕

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(6)


即位三年(西暦699年)十月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、和訳はこちらを参照。

冬十月甲午。詔赦天下有罪者。但十惡強竊二盜不在赦限。爲欲營造越智。山科二山陵也。辛丑。遣淨廣肆衣縫王。直大壹當麻眞人國見。直廣參土師宿祢根麻呂。直大肆田中朝臣法麻呂。判官四人。主典二人。大工二人於越智山陵。淨廣肆大石王。直大貳粟田朝臣眞人。直廣參土師宿祢馬手。直廣肆小治田朝臣當麻。判官四人。主典二人。大工二人於山科山陵。並分功修造焉。戊申。遣巡察使于諸國。檢察非違。

十月十三日に恩赦を行っているが、十悪(仏語。身・口・意の三業がつくる十種の罪悪:殺生、邪淫など)や強盗の罪の者はこの限りではない、とされている。これは「越智山陵」と「山科山陵」の二つの山陵を造営するためだったと記載されている。越智山陵は天武天皇紀に登場し、斉明天皇陵(小市岡上陵)である。「山科山陵」については記述されたことがなく、調べると天智天皇陵であることが分かった。推定した場所を下記する。

二十日に二陵の役割分担が示されている。越智山陵の担当は、衣縫王當麻眞人國見土師宿祢根麻呂田中朝臣法麻呂の判官四人、主典(四等官)二名、大工(木工職人の長)二名となっている。一方の山科山陵は、大石王粟田朝臣眞人土師宿祢馬手・「小治田朝臣當麻」の判官四人と主典・大工は上記同様の布陣とのことであった。二十七日、諸國へ巡察使を派遣している。

<山科山陵>
山科山陵

「山科」は天智天皇が弟の大海人皇子(後の天武天皇)、藤原内大臣等を従えて守猟を行った場所として記載されていた。現地名京都郡みやこ町花熊にある山科=山稜が段々になっている様を示すところの麓と推定した。

崩御後半年余りで『壬申の乱』となり、墓所を完成するには時間が足りなかったのかもしれないし、天武・持統天皇紀には表立った造営を行うわけには行かなかったのかもしれない。

天武天皇の妃の多くが、勿論持統天皇も含めて、天智天皇の娘であり、時が来れば皇祖である斉明天皇の墓所と併せ修復・造営を目論んでいたように思われる。その地を近江大津宮の山裏、天智天皇の思い入れが今も眠っているようである。

<小治田朝臣當麻・一族>
● 小治田朝臣當麻

書紀では「小墾田」と記述された場所である。古事記の記述に戻った?…ようである。と同時に、そう多くなかったのがこの後続々と登場されることになる。

最初の人物「當麻」の出自の場所には些か戸惑わされた…さすがに”當麻”である。古事記で紐解いた「當」=「當の文字形」としては、極めて特徴的な地形にのみ当て嵌まるようで、他の場所で見出せることは叶わないであろう(こちらを参照)。

ところが「當」の字源はなかなかに複雑なようで、通常の表す意味は明確なのであるが、解釈は様々である。

「當」=「尚+田」と分解して、「尚」=「平らに広がった様」として同じ大きさの「尚」がぴったりと合わさる様を表すとする解釈がある。即ち「當」は左右対称形であり、その左半分と右半分が合わさった形と見做すのである。当然、文字形が地形に合致することになる。

この解釈で探すと図に示した、かつての蘇我馬子の胴体が見る角度によって左右対称な高台であることが解る。現在は広いグランド場となって地表の様子は不明で残念なのだが、推測は可能なように思われる。上記したように残り七名の小治田朝臣が登場するが、その出自の場所を併せて示した。詳細はご登場の際に、とする。

十一月辛亥朔。日有蝕之。甲寅。文忌寸博士。刑部眞木等自南嶋至。進位各有差。己夘。施義淵法師稻一万束。襃學行也。

十一月初めに日蝕があったと伝えている。四日、文忌寸博士、「刑部眞木」等が南嶋から帰還し、それぞれの爵位を進めたと記している。二十九日に義淵法師(法相宗の僧侶、後に僧正)に対して長年の学行を褒めて稲一万束を与えている。

<刑部眞木>
● 刑部眞木

文武天皇即位二年(西暦698年)四月に派遣されているから、かれこれ一年半以上滞在したようである。当人の名前は記述されておらず、八人の中の一人であろう。

「形部」は忍壁皇子(刑部皇子)と同じく、古事記の忍坂大室近隣に関わる人物であることには間違いないと思われるが、「眞木」は何と解釈するか?…「山稜が一杯集まった様」であるが、この辺りでは一に特定することは不可能である。

「眞」=「鼎+匕」と分解される。これがヒントになった。古事記が語るには、この地は、そもそも生尾土雲八十建の地であった。そして雲=具毛と訓されていた。「具」=「鼎+廾」と分解される。即ち「鼎」に「匙」を添えるか、「両手」を添えるかの違いとなる。

古事記と續紀は共に、図中の窪んだところを「鼎」で表現していることになる。續紀も、しっかりと地形象形表記をした書物であることが判る。出自不詳の「大石王」の場所も併せて示した。

十二月癸未。淨廣貳大江皇女薨。令王臣百官人等會葬。天智天皇之皇女也。甲申。令大宰府修三野。稻積二城。庚子。始置鑄錢司。以直大肆中臣朝臣意美麻呂爲長官。

十二月三日に大江皇女が亡くなっている。四日に大宰府に「三野城」、「稻積城」の修理を命じている。二十日、初めて鑄錢司(銭貨鋳造)を設置し、中臣朝臣意美麻呂を長官に任命している。

三野城稻積城については全く情報がなく、名称から推測してみると、「三野城」は三野國こちら(東朽網小学校)辺り、「稻積城」については、大伴君稻積の出自の場所近隣のこちら(大積小学校)辺りではなかろうか。

四年春正月丁巳。授新田部皇子淨廣貳。癸亥。有詔。賜左大臣多治比眞人嶋靈壽杖及輿臺。優高年也。二月乙酉。上総國司請安房郡大少領連任父子兄弟。許之。戊子。令丹波國獻錫。己亥。令越後佐渡二國修營石船柵。壬寅。遣巡察使于東山道。検察非違。丁未。累勅王臣京畿。令備戎具。

即位四年(西暦700年)正月七日、新田部皇子に淨廣貳位を授けたと記している。天武天皇が藤原鎌足大臣の娘、五百重娘を娶って誕生した皇子である。後に皇族爵位の最高位まで上り詰めることになったようである。十三日に左大臣の多治比眞人嶋(丹比眞人嶋)が靈壽杖(鳩杖とも)及輿臺を賜っている。

二月五日、上総國司が「安房郡」の大少領の父子兄弟での連任を申し出て、許されている。「上総國」は前記の下総國に併記したが、詳細は下記する。書紀には「下総國」は出現しないが「上総國」は登場する。何とも捩じった表記のようだが後日としよう。

八日に丹波國に錫を献上させている。前記で「伊勢國獻白鑞」の記載があり、「白鑞(錫)」と解釈したが、これも”土地”かも・・・。十九日、越後國と「佐渡國」に石船柵の「修営」を命じている。即位二年の十二月に越後國に「修理」を命じていたが、管理しろと言うことなのかもしれない。

二十二日に東山道に巡察使を派遣。二十七日、京及び畿内の王や臣に兵器を備えるように命じている。

<上総國安房郡>
上総國安房郡

しっかり国譲りされた後では悩むことなくその地を求めることができるのであるが、勿論その由来は不詳なのだが、本著はしっかりと地形象形表記として求める必要がある。

頻出の安=山稜に囲まれて嫋やかに曲がる様であり、房=戸+方=平らな尾根が広がった様と読み解ける。延びる山稜から脇に張り出し広がったところを表している。

広大な宅地となって当時の山稜の姿を伺うことは難しいが、下総國も含めて山稜の延びて行く有様は想像できる。図に示したようにその延びる山稜から横に生え出て広がった様子を見出せる。

現在の行政区では主稜線は沼新町、張り出たところは上吉田となっている。土地の区分の経緯を反映しているのではなかろうか。「連任」を許可しているが、特段に人を送り込む、代替の人材である必要性がない土地だったのであろうか。

<佐渡國>
佐渡國

佐渡嶋ではない。古事記の佐度嶋は「渡りを助くる島」と解釈した。大海原に浮かぶ標識のような島であった。ではこの表記は何と解釈できるのであろうか?…「渡」が表す意味である。

頻出の「佐」=「人+左」=「谷間にある左手のような様」、「渡」=「氵+度」=「水辺で跨ぐように山稜が延びている様」とすると、佐渡=谷間にある左手のような山稜が水辺で跨ぐように延びているところと読み解ける。

図に示した地域を「佐渡國」と称していたと思われる。「渡」は、渡嶋蝦夷(兩箇蝦夷)が棲息していた場所として書紀の斉明天皇紀に登場していた。そして、北隣は肅愼國と推定した場所となり、南隣は越後國(越後蝦狄)となる。

「夷狄」に囲まれた地であり、再編があったり、変遷を経るようである。”国譲り”は、大変な作業だったかもしれないが、何とも楽し気な雰囲気であろう。「倭人」の末裔たちが生真面目に行った結果が現在に繋がっているのである。

三月己未。道照和尚物化。天皇甚悼惜之。遣使弔賻之。和尚河内國丹比郡人也。俗姓船連。父惠釋少錦下。和尚戒行不缺。尤尚忍行。甞弟子欲究其性。竊穿便器。漏汚被褥。和尚乃微笑曰。放蕩小子汚人之床。竟無復一言焉。初孝徳天皇白雉四年。隨使入唐。適遇玄弉三藏。師受業焉。三藏特愛。令住同房。謂曰。吾昔往西域。在路飢乏。無村可乞。忽有一沙門手持梨子。与吾食之。吾自啖後氣力日健。今汝是持梨沙門也。又謂曰。經論深妙不能究竟。不如學禪流傳東土。和尚奉教。始習禪定。所悟稍多。於後隨使歸朝。臨訣。三藏以所持舎利經論。咸授和尚而曰。人能弘道。今以斯文附屬。又授一鐺子曰。吾從西域自所將來。煎物養病。無不神驗。於是和尚拜謝。啼泣而辞。及至登州。使人多病。和尚出鐺子。暖水煮粥。遍与病徒。當日即差。既解纜順風而去。比至海中。船漂蕩不進者七日七夜。諸人怪曰。風勢快好。計日應到本國。船不肯行。計必有意。卜人曰。龍王欲得鐺子。和上聞之曰。鐺子此是三藏之所施者也。龍王何敢索之。諸人皆曰。今惜鐺子不与。恐合船爲魚食。因取鐺子抛入海中。登時船進還歸本朝。於元興寺東南隅。別建禪院而住焉。于時天下行業之徒。從和尚學禪焉。於後周遊天下。路傍穿井。諸津濟處。儲船造橋。乃山背國宇治橋。和尚之所創造者也。和尚周遊凡十有餘載。有勅請還止住禪院。坐禪如故。或三日一起。或七日一起。倏忽香氣從房出。諸弟子驚怪。就而謁和尚。端坐繩床。无有氣息。時年七十有二。弟子等奉遺教。火葬於粟原。天下火葬從此而始也。世傳云。火葬畢。親族与弟子相爭。欲取和上骨斂之。飄風忽起。吹■灰骨。終不知其處。時人異焉。後遷都平城也。和尚弟及弟子等奏聞。徙建禪院於新京。今平城右京禪院是也。此院多有經論。書迹楷好。並不錯誤。皆和上之所將來者也。

三月十日に道照和尚が亡くなって、和尚に関して、逸話などを含めて長々と記述されている。書紀の孝徳天皇紀白雉四年(西暦653年)の遣唐使の中に名前が挙がっている(學問僧:道昭)。この時は二船団で一方が遭難する事件も発生している。上記されているように「玄弉三藏」に気に入られ、多くの教えを体得したと知られる。

彼が学んだ法相宗は当時の主流派…西暦705年以降華厳宗が隆盛…であった。帰国後は飛鳥寺(法興寺)を拠点として禅院を各地に造って広め、また多くの土木事業を行っている(宇治橋については、こちら参照)。遺言により初めて火葬(粟原)されたことが知られている。

出自は、河内國丹比郡、俗姓船連、父惠釋である。父惠釋は、書紀の皇極天皇即位四年(西暦645年)六月の記事に、『乙巳の変』のどさくさ時に蘇我臣蝦夷等が天皇記・國記などを焼き払うのを「船史惠尺」が未然に防ぎ、中大兄皇子に献上したと記載されていた。船氏関係は野中川原史滿が登場していたが、詳細は未解読、あらためて読み解くことにする。

<船史惠尺(釋)・道昭(照)・船連秦勝>
● 船史惠尺(釋)・道昭(照)

「野中川原史滿」の「史」=「真ん中を突き通す様」と読み解いた。「船」=「船のような様」とすると、船史=船のような山稜が真ん中を突き通している様と読み解ける。

幾度か登場の惠=山稜が取り巻くような様であり、図に示した谷間がぐるりと取り囲まれているところを表していると解釈される。「史」はその隙間を突き抜けるような配置となっていることが解る。

はそのままの文字形が当て嵌まる谷間であり、「史」が突き抜けるところにある場所と思われる。天武天皇紀に登場した大分君惠尺の解釈に類似する。

別名に「釋」が用いられると言う。「釋」=「采+睾」と分解される。すると釋=丸く小高いところが連なって延びた山稜を表してると読み解ける。纏めると「船史惠尺(釋)」は、山稜の二つの丸く小高くなった麓が出自の場所と求められる。

息子の「道昭(照)」は、その西側の「首」の地形の周りが出自の場所と推定される。彼ら親子もしっかりと地形象形した名前を持っていたことが解る。「惠釋」が持ち出した國記などは現存していないようであるが、天智天皇の後裔が続かなかったことも消息不明の一因だったのかもしれない。

後に因幡守船連秦勝が登場する。秦=艸+屯+禾=枝分かれした二つの山稜が延びている様勝=朕+力=盛り上がった様と解釈して来た。図に示した場所で「船」の地を持ち上げるようなところと推定される。そもそも「勝」は「船を両手で持ち上げる様」を象った文字であり、そのズバリの地形象形であろう。

甲子。詔諸王臣讀習令文。又撰成律條。丙寅。令諸國定牧地放牛馬。夏四月癸未。淨廣肆明日香皇女薨。遣使弔賻之。天智天皇之皇女也。

三月十五日に諸王・臣に令を読み習わしている。十七日に諸國の牧(場)地を定め、牛馬を放牧させている。四月四日、明日香皇女(飛鳥皇女)、天智天皇の皇女、が亡くなっている。阿倍倉梯麻呂大臣の娘、橘娘が母親であった。持統天皇とは仲の良かった皇女だったようである。

五月辛酉。以直廣肆佐伯宿祢麻呂。爲遣新羅大使。勤大肆佐味朝臣賀佐麻呂爲小使。大少位各一人。大少史各一人。

五月十三日に大使佐伯宿祢麻呂(佐伯連麻呂)、小使「佐味朝臣賀佐麻呂」等を新羅に遣わしている。

<佐味朝臣賀佐麻呂・笠麻呂>
● 佐味朝臣賀佐麻呂

「佐味」は書紀の天武天皇紀に佐味君宿那麻呂が登場していた。現地名築上毛町野間にある山稜が途切れたような地が出自の場所と推定した。

「宿那」の小高い地が並ぶところの西側が「賀」=「押し広げられたような谷間」となっていることが解る。「佐」=「人+左」=「谷間にある左手のような様」と解釈した。

纏めると賀佐=押し広げられた谷間にある左手のような山稜が延びているところと読み解ける。出自の場所は、その腕のような山稜の端、即ち手に当たる場所と推定される。「宿那麻呂」との繋がりが明記された資料を見出せなかったが、親子、兄弟の関係であったように思われるが定かでない。

後に佐味朝臣笠麻呂が登場する。例によって山稜の端の「笠」の形が由来であろう。北側の山稜の麓を表していると思われる。登場人物の繋がりは、やはり定かではないようである。