2020年12月14日月曜日

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(5) 〔476〕

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(5) 


即位三年(西暦699年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、和訳はこちらを参照。

三年春正月壬午。京職言。林坊新羅子牟久賣。一産二男二女。賜絁五疋。綿五屯。布十端。稻五百束。乳母一人。癸未。詔授内藥官桑原加都直廣肆賜姓連。姓賞勤公也。是日。幸難波宮。甲申。淨廣參坂合部女王卒。二月丁未。車駕至自難波宮。戊申。詔免從駕諸國騎兵等今年調役。

一月二十六日に藤原京の京職が言うには、林坊に住む新羅子牟久賣が二男二女の四つ子を産んでいる。絁(絹)・綿・稲などを与え、更に乳母を宛がっている。二十七日、内藥官(宮中の医事担当)の「桑原加都」(天武天皇紀に登場した侍医の桑原村主訶都)に、お褒めのお言葉に加えて直廣肆位と姓連を授けている。

同日、難波宮に行幸されている。二十八日、坂合部女王(淨廣參位)が亡くなっている。出自の確認が難しい人物であるが、鏡姫王かもしれない。二月二十二日に行幸から帰還されている。二十三日に車駕に従う諸國の騎兵等の調役を免じている。

三月己未。下野國獻雌黄。甲子。河内國獻白鳩。詔免錦部郡一年租役。又獲瑞人犬養廣麻呂戸給復三年。又赦畿内徒罪已下。壬午。遣巡察使于畿内。検察非違。夏四月己酉。越後蝦狄一百六人賜爵有差。

三月四日に下野國が「雌黃」を献上している。<前記で伊勢國が「雄黃」(石黃)を献上した記事があったが、共に硫化砒素系鉱物である。詳細について興味ある方はこちらを参照(雄黃雌黃)。薬物と毒物の歴史の従って、現在では殆ど用いられなくなったようである。絵画の黄顔料としても多用されていたことが知られている>。

九日に河内國が「白鳩」を献上し、それ故に「錦部郡」の一年間租役を免じている。獲瑞人の「犬養廣麻呂」の戸には三年間免除するとも述べている。更に畿内の徒罪以下の者を赦している。久々に大規模の開拓が行われたのであろう。「瑞鳥」と記述しない気配りである。

二十七日に巡察使を遣わして非違を調べさせている。四月二十五日に越後蝦狄の百六人が爵位を賜っている。石船柵の修理に文句を言わずに従ったのかもしれない。そう、素直に従えば爵位という有難い身分が得られる、それを励みにした時代である。

<河内國錦部郡-白鳩・犬養廣麻呂>
河内國錦部郡:白鳩

「錦部郡」は書紀にも登場せず、さて何処にあった郡か、と些か戸惑わされる地名である。錦=金+帛=谷間の高台が広がり延びた様と読み解いた。部=近隣の地を示していると思われる。

ただこれだけでは場所の特定に至らず、むしろ「白鳩」の助けを借りることになった。白は例のごとしの解釈として「鳩」は如何に読むか、であろう。

「鳩」=「九+鳥」とすると「九」は「究」に用いられるように「詰まって曲がって様」を表していると解説される。「丸く小高い様」と解釈すれば、「鳩」の体形を示しているように思われる。白鳩=丸く小高い鳩のような形の地がくっ付いているところと読み解ける。

これらの地形要素を満たしそうな場所を探索すると、現地名行橋市長尾付近に見出せる。一羽の鳩は些か変形しているようだが丸く小高い地形であったように思われる。確かに山麓が入組んで複雑な地形であり、この地を開拓するのは並大抵ではなかったように思われる。

● 犬養廣麻呂

当事者の名前が歴史に残ったわけで、犬養廣麻呂犬養=平らな頂の麓の谷間がなだらかに延びた様、頻出の文字列である。「廣麻呂」はおそらく谷間の出口だったのではなかろうか。「獲瑞人」は近隣住人、の通例に従っていることも合せて納得できるところである。東側の河内國更荒郡:白山雞が書紀の持統天皇紀に登場していた。

五月辛酉。詔曰。圖勲之義。肇自前修。創功之賞。歴代斯重。蓋所以昭壯士之節。著不朽之名者也。汝坂上忌寸老。壬申年軍役。不顧一生。赴社稷之急。出於萬死。冐國家之難。而未加顯秩。奄爾隕■(フォントなし)。思寵往魂用慰冥路。宜贈直廣壹。兼復賜物。丁丑。役君小角流于伊豆嶋。初小角住於葛木山。以咒術稱。外從五位下韓國連廣足師焉。後害其能。讒以妖惑。故配遠處。世相傳云。小角能役使鬼神。汲水採薪。若不用命。即以咒縛之。

五月八日に東漢一族の坂上忌寸老(坂上直老)が亡くなった後に爵位直廣壹と物を与えた記事であるが、何故か長々と前置きが記述されている。壬申役の功臣で、将軍吹負が倭京を手中にした時、それを不破へと知らせた使者の一人として登場していた。

他二名が大伴連安麻呂(後に大納言)・佐味君宿那麻呂(撰善言司)であり、彼らはその後も活躍の場が与えられいたようだが、「老」にはその機会が与えられなかったことを悔いたためかもしれない。東漢一族への配慮と見做しておこう。

二十四日に「役君小角」を伊豆嶋に流している。島流しの定番である。その経緯が語られるのであるが、元々「小角」は「葛木山」に住まっていて、その時弟子の一人に韓國連廣足(榎井倭麻呂に併記)がいた。後に典薬頭に出世する。ところが「妖惑」で世間を騒がせたことを讒言されて島流しにされたと伝えている。余りの霊力を恐れたのかもしれない。二年ばかりで赦されて帰還したと伝えられる。

<役君小角・葛木山>
役君小角・葛木山

修験道と言えば「役小角」であり、後世に多くの伝説を残した、正にレジェンドの元祖のようである。よもやの読み解きになって些か戸惑うところもあるが、この名前も地形象形表記であろう。

「役」=「彳+殳」と分解される。「殳」は戈の一種を表す文字である。現在の福智山山系で「戈」の形を探すと、雲取山の山稜が、その山系から突き出たようになっていることが解る。

この形をと表現したと思われる。すると小角=三角形の角のような様の地が「戈」の先端に見出せる。役君小角の出自の場所はその麓辺りと推定される。

別名に役優婆塞があったと知られる。既出の「優」=「人+憂」=「谷間が曲がりくねる様」、「婆」=「端」であり、「塞」=「塞がれた様」と解釈すると、優婆塞=谷間で大きく曲がりくねる地の端が塞がれたようなところと読み解ける。「小角」の麓の谷間の様子を表記していることが解る(詳細はこちら参照)。

葛木山は、何処の山を示しているのであろうか?…この地に修験道で有名な山が幾つも並んでいる。「葛」は、「葛城」でも用いられる文字であり、「葛」が「木質化」してゴツゴツとした表皮の様から干乾びたような地を表すと読み解いた。即ち「葛」を「木」としてみた解釈である。すると「葛木」は被った表現となり、些か落ち着きが悪い。

「葛」の特徴である「総状花序」の形を採用していると思われる。図に示したように葡萄の総(房)のように密集して蝶形花を下から咲かせることが知られている。葛木=総状花序のような山稜と読み解ける。突き出た雲取山山稜が示す「役」の形の別名表記と思われる。幾つかの麓は、花が咲いたように丸く小高くなっていることも申し分のないところであろう。

「葛」が示す意味を「渇いた」、「総状花序」と解釈することも有効であろうが、「葛城」の場合と同じく地形象形表記として葛=遮られて閉じ込められたような様と読み解くと、葛木=遮られて閉じ込められた(葛)ような山稜(木)があるところと解釈される。雲取山(葛木山)と福智山(葛城山)との間にある深い谷間に多くの山稜が櫛のように並んでいる場所を表していると思われる。畿内北限の地、赤石櫛淵と表記されていた。

何度も述べたように漢字が示す複数の意味を自由に用いて表記している。正に万葉の表現なのだが、地形象形として、その万葉は収束するのである。この構造を理解しない限り「記紀」、「續紀」は解読できないことになる。勿論、まだ一部を覗いただけだが、万葉集もその範疇であると思われる。

天武天皇紀に「得鹿角於葛城山。其角、本二枝而末合有宍、宍上有毛、毛長一寸。則異以獻之。」と記載されている。鹿角献上の物語だが、この地を開拓したと解釈し、この葛城山を福智山と推定した。「葛木」と「葛城」、現在の葛城山と金剛山、どっちが葛木山?…ややこしい、なんてことにはならない・・・それにしても曖昧な話が大好きな日本人、それに慣らされた歴史であろう。

六月戊戌。施山田寺封三百戸。限卅年也。丙午。淨廣參日向王卒。遣使弔賻。丁未。命直冠已下一百五十九人。就日向王第會喪。庚戌。淨大肆春日王卒。遣使弔賻。

六月十五日、山田寺に封戸三百、期限三十年として与えている。二十三日に「日向王」が亡くなっている。翌日直冠位以下の者百五十九人が会葬している。二十七日に「春日王」が亡くなっている。<日向王、春日王(同一名の人物が持統天皇即位三年四月逝去)は、書紀以来詳述しない、できないのであろう>

秋七月辛未。多褹。夜久。菴美。度感等人。從朝宰而來貢方物。授位賜物各有差。其度感嶋通中國於是始矣。癸酉。淨廣貳弓削皇子薨。遣淨廣肆大石王。直廣參路眞人大人等監護喪事。皇子天武天皇之第六皇子也。

七月十九日に多褹(多禰)夜久(掖玖)菴美(阿麻彌)・「度感」等が地場産物を献上している。爵位を授け物を与えている。度感嶋は初めて「中國」(倭國)に通じたと記載している。既に詳述したこちらを参照。

二十一日に天武天皇之第六皇子の弓削皇子が亡くなっている。大石王を遣いに出し、路眞人大人(父親の路眞人迹美に併記)等に葬儀を執り行わさせている。

「〇〇王」の出自の場所は、本当に難しい、と言うか全く情報が欠落していて、恣意的に記載しないとしか思いようのない有様である。該王も同様であるが、「飛鳥」の近隣で「大」とくれば忍坂大室、とするとその近隣として引用の図の「土形君」と記載した場所辺りではなかろうか。

<度感>
度感

前記で少々触れた島であるが、「多褹(多禰)・夜久(掖玖)・奄美(阿麻彌)」に連なる地を表していると思われる(こちら参照)。

度感の頻出の「度」=「广+廿+又」と分解される。動物の革を拡げる様を表す文字と知られている。「渡」の略体字でもある。即ち「度」=「端から端へ行き渡る様」を示している。

見慣れない「感」を紐解いてみよう。「感」=「戊+一+囗+心」と分解される。それぞれの文字要素は、地形象形に用いられており、それをそのまま繋げると「感」=「地の中心に戊(先の広がった武器)のような形をした山稜が延びている様」と解釈される。

「度感」を読んでは、全く意味不明となるが、上記の地形象形表記を纏めると度感=端から端に延びて行き渡る山稜の真ん中に戊のような地があるところと読み解ける。図に示した場所を表していると思われる。「夜久」の東隣である。現地名は太宰府市と筑紫野市の境となる。

通説では「度感(トク)」と読んで徳之島とする説があるが不詳とのこと。読みが類似する、怪しい限りであろう。種子島、屋久島、奄美大島までは忠実に、上手く転写したのだが、「度感」は放棄されたのであろう。いや、三つも合えば十分、と考えたのかもしれない。

<伊豫國:白燕>
八月己丑。奉南嶋獻物于伊勢大神宮及諸社。壬辰。賜百官人祿各有差。壬寅。伊豫國獻白燕。

八月八日に南嶋(上記四島)の献上物を伊勢大神及び諸社に奉納している。十一日、百官人の禄を与えている。二十一日、伊豫國が「白燕」を献上している。

伊豫國:白燕

「燕」は、同じ鳥でも燕の形を捩った尾が延びた様を表しているのであろう。些か見辛い様子ではあるが、古事記の大雀命の西側にある岩尾山の南麓の地形を示していると思われる。二羽の燕に挟まれた谷間を開拓したと推測される。

九月丙寅。修理高安城。辛未。詔令正大貳已下無位已上者。人別備弓矢甲桙及兵馬。各有差。又勅京畿。同亦儲之。丙子。新田部皇女薨。勅王臣百官人等會葬。天智天皇之皇女也。

九月十五日、高安城を修理させている。二十日、正大貳以下無位の者それぞれに兵器を備えさせ、また京及び畿内にも用意させている。二十五日に天智天皇の皇女である新田部皇女(天武天皇との間に舎人皇子を産む)が亡くなっている。百官達が会葬したと記している。

「倭國高安城」は、天智天皇即位即位六年(西暦667年)十一月の記事に築城されたと記載されていた。それから三十二年が過ぎようとしている。その間西海からの敵の侵攻を見ることはなかったのであるが、それに越したことはなかったであろう。