2020年12月11日金曜日

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(4) 〔475〕

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(4)


即位二年(西暦698年)七月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、和訳はこちらを参照。

秋七月己末朔。日有蝕之。乙丑。以公私奴婢亡匿民間。或有容止不肯顯告於是始制笞法。令償其巧。事在別式。又禁博戯遊手之徒。其居停主人。亦与居同罪。乙亥。下野備前二國獻赤烏。伊豫國獻白鑞。癸未。以直廣肆高橋朝臣嶋麻呂爲伊勢守。直廣肆石川朝臣小老爲美濃守。乙酉。伊豫國獻鑞鑛。

七月初めに日蝕があった。七日、公的及び私的な奴婢で逃亡して民間に隠れている者を報告しない場合に対する鞭の刑を始めて制度化し、その逃亡中の仕事を弁償させている。また賭博を禁じ、その場所を提供した者も同罪としたと記載している。

十七日に下野國と備前國が「赤烏」を、また伊豫國が「白鑞」(錫)を献上している。二十五日、「高橋朝臣嶋麻呂」を伊勢守に、また「石川朝臣小老」を美濃守に任じている。二十七日に伊豫國が「鑞鑛」(鉛)を献上している。

<下野國:赤烏>
下野備前二國獻赤烏

備前國赤烏については前記で述べた。交差する山稜が延びる谷間に鎮座する「烏」(鳥)の地形の麓を開拓し、公地として差し上げたと推測した。

「赤鳥」ならば、そんな鳥もいるかも、であるが「烏」とくれば鳥ではないことを明かしているように・・・いや、実存したのかもしれないが・・・。

下野國は、書紀の天武天皇紀に唐突に登場した國であった。通説では「下毛野國」とも表記される、などと解釈されているが、「毛野」とは全く無縁の地である。現地名は北九州市門司区上吉田・吉志に跨る地域である。

多くの谷間がある地形であり、その一つが「赤烏」の様子を示していると見做したのであろう。この地は古事記が語る天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で誕生した天津日子根命が祖となった地、茨木國造の地と推定した。古くから天神達の統治領域と主張していたのである。

<高橋朝臣嶋麻呂>
● 高橋朝臣嶋麻呂

「高橋」の氏名は天武天皇紀の『八色之姓』で「高橋公(眞人)」が記載されていた。「眞人」ならばその地の人物となるわけだが、そうではないようである。

調べると天武紀の姓制度の改定に伴って、膳臣→膳朝臣とはせずに「氏」も変えて「高橋朝臣」に変更したとのことである。言ってくれよ、と言いたいところだが、知らなかったのが落度、である。

「膳臣」は頻出であって、図に示した現地名田川郡赤村内田であり、多くの人材を輩出している。「膳」の文字解釈はとてもユニークで、かつその通りの地形を表していて、実に明解であった。それを「高橋」と言う。

高=皺が寄ったような山稜の様橋=木+夭+高=小高い山稜がしなやかに曲がっている様と解釈した。古事記の天浮橋でお馴染みの文字である。「膳」ほど的確ではないが、それなりにきちんと象形した表現であることが解る。「嶋」の二通りの解釈、「山が鳥模様」ではなく、「中之島」の状態になっていることを表しているようである。

『八色之姓』改定の直前に登場する膳臣摩漏(壬申の功で死後大紫位を贈られている)が「膳」の氏名の最後であることも確認できた。地形の別名表記で変更される改名、これも一つのパターンとして把握するべき事柄であろう。

<石川朝臣小老>
● 石川朝臣小老

蘇我倉山田石川大臣以来に絶えることなく人材輩出である。大臣となった連子臣の一族(蟲名もその一人)、連子大臣は石川大臣の弟、「蟲名」は息子となる。

彼らがこの谷間の東側を席巻するが、前記したように出自不詳の「刀子娘」はその西側だったように思われる。「小老」も連子大臣系列ではないようで、やはり西側の谷間が出自と推測される。

簡単な名前「小老」なのだが、案外難しい。頻出の小=三角形の様が一つの解釈である。老=海老のように曲がった様、繋げると三角が海老のように曲がった様となる。

これで良いのか?…と思いつつ、探索すると、地形の見極めが些か難しくなっているが、三角形が曲がっている地形が見出せる。きちんと整形して眺めると確かにそれらしき姿に見えて来る。

八月戊子朔。茨田足嶋賜姓連。丙午。詔曰。藤原朝臣所賜之姓。宜令其子不比等承之。但意美麻呂等者。縁供神事。宜復舊姓焉。丁未。修理高安城。〈天智天皇五年築城也。〉癸丑。定朝儀之礼。語具別式。

八月初め、「茨田足嶋」が「連」姓を賜っている。「茨田」も一般的な地形象形表記であって、幾度か登場する地名であろう。さて、何処か?…下記する。十九日に「藤原朝臣」の姓は、(鎌足の)子の不比等が受継ぐものとし、「意美麻呂」(中臣朝臣々麻呂)等は神事を担う故に旧姓(中臣)に復帰せよ、と命じられている。

二十日、高安城(天智天皇五年に築城)を修理させている。書紀の記述は天智六年(西暦667年)十一月で、他の二城と合わせた記述であった。これを落成とすれば着工は即位五年だったのかもしれない。いずれにせよ三十年余りが過ぎて一部老朽化進んでいたのであろう。二十六日に朝儀の礼を定めている。

<茨田足嶋>
● 茨田足嶋

結局のところ足嶋=山稜が長く延びた端が島(鳥の形)となっているところと読んで、現地名の京都郡みやこ町勝山大久保の地に落ち着いたようである。

勿論、この地は古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の子、「日子八井命」が祖となった茨田連の場所と推定したところである。

近隣は多くの登場人物がひしめき合っている地なのであるが、何故かすっぽりと抜け落ちていた。地名ピースが埋まって、一安心、のようである。上流域は古くから開けていたが、下流域の水田稲作の難しさを示す事例のように伺える。

藤原一族、鎌足は参謀としての役割を果たし、不比等以後いよいよ彼らが律令国家を作り上げることになる。神事は中臣朝臣意美麻呂(後に中納言、大中臣朝臣と称す)に任せたようである。あの狭い、北九州市小倉南区長行の、谷間から羽ばたいた一族であろう。現在は特養老人ホームこくらの郷となっている。

九月戊午朔。以无冠麻續連豊足爲氏上。无冠大贄爲助。進廣肆服部連佐射爲氏上。无冠功子爲助。甲子。下総國大風。壞百姓廬舎。丁夘。遣當耆皇女侍于伊勢齋宮。壬午。周芳國獻銅鑛。乙酉。令近江國獻金青。伊勢國朱沙雄黄。常陸國。備前。伊豫。日向四國朱沙。安藝長門二國金青緑青。豊後國眞朱。

九月初め、冠位の無い「麻續連豊足」を氏上とし、同じく無冠の子、「大贄」を助役としている。また「服部連佐射」(進廣肆は四十八階中の最下位)を氏上とし、無冠の子、「功子」を助役としたと述べている。無冠やら低位の者を唐突に登場させるのだが、目的は何?…と勘繰ってしまいそうだが・・・「麻續」、「服部」の場所解読のために、となりそうである。

七日に「下総國」(書紀では登場しない)が大風で百姓の廬舎(小屋)が壊れたとのこと。十日に當耆皇女(託基皇女の別名)を伊勢齋宮として仕えさせている。二十五日、周芳國が銅鑛、二十八日には近江國が金青(紺青)、伊勢國が朱沙、雄黃(石黃)、常陸備前伊豫日向の四国が朱沙、安藝長門の二国が金青、緑青、「豊後國」が眞朱をそれぞれ献上している。

<麻續連豊足>
● 麻續連豐足

「麻續連」は、勿論「記紀」には登場しないようである。そのまま文字解釈を行えば、麻續=擦り潰されたような地が連なっている様となる。また豐足=山稜が延びた端が段差のある高台となっている様となる。

これだけの情報から一に特定するのは困難であろうが、図に示した科野國に含まれる地形が限りなく該当しそうな雰囲気である。

すると績麻郊と言う港があった場所、その交差する山稜の一つが地形要求を満たすと思われる。

住宅地への開発が発達している地で、息子の大贄=平らな頂の丸く小高い地が連なった様の地形を見出すことが更に難しいようで、一応それらしきところを候補とした。現地名は北九州市小倉南区葛原である。

<服部連佐射-功子>
● 服部連佐射

「服部」の氏名も錯綜していて、決して単純な系譜ではないように伺える。ただ「連」姓を持って名称であってそれなりの出自であると思われる。

天武天皇の連姓を与えた三十八氏の中に殿服部造の名前が見られる。他の「服部」は見当たらず、上記に類似して連姓を賜ると同時に「殿」を省略するようになったのではなかろうか。

残すは二人の登場人物の名前がこの地に収まるか?…であろう。幾度か登場の射=矢を射る時のように弓を大きく曲げる様と読み解いた。

元々この地形は服=箙と解釈したが、その底の部分を表していることが解る。頻出の佐=谷間ある山稜が左手のような形をしている様で、この場合ならば「射」の麓が出自の場所であることを示している。

無冠の息子の名前、功子功=工+力=山稜が押し突き通すように延びている様と読み解ける。子=生え出た様であり、図に示した山麓辺りと思われる。どうやらこの親子の出自の場所であることが解ったようである。そして「服部」氏の頭領となったと告げている。

<下総國・上総國>
下総國

「記紀」には登場しない國である。Wikipdiaの一部を引用すると・・・、

この下総国のほかにも、国の名前に「上」「下」や「前」「後」と付くものがいくつかあるが、いずれも都(近代以前の概念では畿内)に近いほうが「上」「前」と考えられている。上総国と下総国の場合、西国からの移住や開拓が黒潮にのって外房側からはじまり、そのため房総半島の南東側が都に近い上総となり、北西側が下総となった。また、毛野から分かれた上野・下野と同じく、「上」「下」を冠する形式をとることから、上総・下総の分割を6世紀中葉とみる説もある。

・・・とのことである。

さて、古事記では倭建命が「走水海」(書紀では駿河國が面する海)で遭難し、そこから東へ進むと「邇比婆理」に届いたと詠われた地が記載されている(こちら参照)。この二つに岐れた葡萄の”ふさ”のような地を「上・下総(總)國」と名付けたと思われる。勿論、南側、下流域を「下總國」としたのである。

「総」は「總」の俗字であって、文字が示す意味は正字体である「總」で読み解くことになる。「總」=「糸+悤」に分解される。更に「悤」=「囱+心」と分解され、「一ヶ所に纏めて通す様」を表す文字と知られる。地形象形的には總=山稜が一ヶ所に集まっている様と読み解ける。逆に見れば、一ヶ所から広がった”ふさ”のような様と言える。

挿入歌の中で用いられた「邇比婆理」(近付いて並でいる端が区分けされた地)の表記は極めて大雑把であり、「總」を用いた表現は実態に即したものであろう。まぁ、「東(アズマ)國」が誕生した歌の時代、少々の粗っぽさは目をつぶれるかもしれない。

この地は大きな谷間にあり、大風が吹き抜ける通り道に当たる。「壞百姓廬舎」は、そんなことも告げているように思われる。尚、旧字体に関して、引用した原文では「豐」→「豊」に置き換えられているが、以前にも述べたようにこれらは別字であり、元に戻して解釈する。

<豐前國・豐後國>
豐後國

筑前・筑後に引続き、「豐前・豐後」の登場である。これらが国譲りされる前の姿があるとは、即ち律令制定以前にも存在していたとは、かなり大きな衝撃を受ける羽目になった。「記紀」が全く解読されていない現状を端的に示すものであろう。

「筑前」には「宗形」が付加されてその場所を求めることは容易であったが、「豐後」は無情報である。頼りは「筑前・筑後」を分けるのは「筑」の地形、「備前・備後」の「備」の地形ということである。

ならば「豐」の地形となるが、「山麓にある段差のある高台」となれば、辺り一面の有様となり、果たして「豐」が分岐点になり得るのか?…と疑念が生じる。

「豐」の文字を垂直に読んだのが、上記の解釈である。それを水平に見ることもあり得る。すると実に見事な「豐」を描く山稜を見出すことができた。現地名は京都郡みやこ町犀川上高屋の蔵持山の山稜である。その前後にある國を名付けたと思われる。

現在の行政区分も「みやこ町」が南北に細長く延びて、田川郡・京都郡・築上郡が縦列する場所を含んでいることが解る。間違いなく何らかの由来があって現在の区分となったことが推測される。

実は書紀の景行天皇紀に「豐前國長峽縣」が登場し、その地を「京」と号したと言う記述があった。古事記は全く語ることをしない領域である。「豐前(平野)」、「長峽(川)」、「京(みやこ)」の文字が並べば、その地は決まりのようなものとして片付けられたであろう・・・曖昧この上なしではあるが・・・。

何を告げているのか?…現在のみやこ町の中心地は蔵持山の北麓であった。故にその背後の「豐後國」が英彦山山系に届くまでの谷間を占めていたのである。上記したように「上下」、「前後」を都(畿内)を中心とした配置とする解説が上手く適用できるではないか・・・呑気なことを述べている場合ではない。「近江」、「遠江」もしかり、である。

現在は巨大なダム湖に隠された場所も含んでいるようにも思われるが、詳細は不明である。大分県の旧名としての名残があるのみだが・・・おっと失礼、伊良原小・中学校が地図に記載されている。本著は、まだまだ国譲りしない、させない、のである。

冬十月庚寅。以藥師寺構作畧了。詔衆僧令住其寺。己酉。陸奥蝦夷獻方物。十一月丁巳朔。日有蝕之。辛酉。伊勢國獻白鑞。癸亥。遣使諸國大祓。己夘。大甞。直廣肆榎井朝臣倭麻呂竪大楯。直廣肆大伴宿祢手拍竪楯桙。賜神祇官人。及供事尾張美濃二國郡司百姓等物各有差。乙酉。下総國獻牛黄。

十月四日、藥師寺の造営が完了し、僧侶を住まわせている。二十三日に陸奥蝦夷が特産物を献上。十一月初め、日蝕あり。五日に伊勢國が白鑞(錫)を献上。七日に諸國に使いを遣って大祓を行っている。二十三日、大甞を催し、「榎井朝臣倭麻呂」が大楯、大伴宿祢手拍が楯桙を担っている。神祇官人、また奉仕した尾張美濃二國郡司百姓等に物を与えている。二十九日に下総國が「牛黄」を献上している。

<榎井朝臣倭麻呂-弄麻呂・韓國連廣足>
● 榎井朝臣倭麻呂

「榎井」は初登場なのであるが、「朴井」の別名と知られている。「物部朴井連」で書紀に登場した面々を図に示したが、親子関係の資料が乏しいようで、系譜は定かでない。

「榎」=「木+夏」と分解される。「夏」の文字解釈は決して簡単ではないようで、古事記では羽山戸神の後裔に夏高津日神が登場し、「夏」=「風師山の平らな頂の様」と解釈した程度である。

一応、夏=覆い被さる様と一般化すると図の「朴」で表される山稜の形を示しているように思われる。曖昧さは拭い切ることは難しく、「朴」の文字が端的な表記ではなかろうか。倭=人+委=谷間(人)が嫋やかに曲がる(委)様とすれば、少々見辛いが、小川の蛇行している場所を出自と求めることができる。

後(元正天皇紀)に榎井連弄麻呂が朝臣姓を賜ったと記載されている。弄=玉+廾=丸く小高い地の傍で両手を延ばしたような様と読み解けば、図に示した場所と推定される。谷奥でひっそりと住まっていた人物を見直したのであろう。「弄」=「もてあそぶ」の意味であるが、何とも良くできている文字構成である。

少し後に韓國連廣足なる人物が登場する。当初は「物部韓國」と称していたらしいのだが、「物部」を省略するようになったとか・・・「朴井」とよく似た経緯のようである。地形的に「物」から近接するが外れている場所なのである。むしろ自然な流れだったように思われる。

それはともかく「朴井」の南に接する場所に見事な韓國=山稜に取り囲まれた地が存在する。更にその囲いから廣足=延び出た山稜が広がっている様も見出せる。讒言して伸し上がっていったようである。

下総國牛黃は、土左國に類似すれば(こちら参照)、何となくそれらしき地形が見出せるが、残念ながら広大な団地の影に隠れているようである。

十二月辛夘。令對馬嶋冶金鑛。丁未。令越後國修理石船柵。乙夘。遷多氣大神宮于度會郡。丙辰。贈勤大貳山代小田直廣肆。

十二月五日に對馬嶋に金鉱の精錬を命じている。銀が採れたが、金もだったようである。二十一日に越後國に「石船柵」(磐舟柵)の修理を命じている。二十九日、「多氣大神宮」を「度會郡」に遷している。三十日に山代小田に直廣肆を贈っているが(三階級特進)、亡くなられたのであろう。

<神郡>
多氣大神宮・度會郡

持統天皇即位六年(西暦692年)三月の記事に「神郡」が登場する。伊勢大神宮の所領を示すようであるが、調べると、当初は度會郡多氣郡の二つであったと知られている。

その時の図を再掲したが、おそらく多氣大神宮は現在の意吉神社辺りに鎮座していたのではなかろうか。

「度會郡」は、外宮があった地、即ち古事記の外宮之度相神と伊勢大神宮との間の地を示すと思われる。

遷された「多氣大神宮」の場所などは定かではなく、少し調べた程度ではこの遷宮についての記述は見当たらないようである。いずれしても「神郡」は幾多の変遷を遂げて来ているのが実情であろう。

石船柵(磐舟柵)は、孝徳天皇紀の大化四年(西暦648年)に造られたと記載されている。およそ五十年が経って随分と老朽化が進んでいたのではなかろうか。肅愼國、その背後に控える新羅の脅威が幾分減ったとは言え、気を緩めるわけには行かなかったと思われる。越前國の負担ではなく、新興の越後國としているのは公平性を保つためなのかもしれない。