天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(3)
二年春正月壬戌朔。天皇御大極殿受朝。文武百寮及新羅朝貢使拜賀。其儀如常。甲子。新羅使一吉飡金弼徳等貢調物。己巳。土左國獻牛黄。戊寅。供新羅貢物于諸社。庚辰。遣直廣参土師宿祢馬手。獻新羅貢物于大内山陵。
元旦に天皇は太極殿で百寮やら新羅の使者が拝賀し、常の儀礼のように受けている。三日、新羅の使者が調物を献上したと記している。また八日には土左國が「牛黄」(強心、解毒薬として用いられてる)を献上している。さて、そのものなのか、「牛黄」のような土地なのか・・・下記でそれとして探索してみよう。
十七日に新羅の貢物を諸社に、また、十九日に土師宿祢馬手を遣わして「大内山陵」に供えている。持統天皇紀に天武天皇の大内陵と記載されていた。欽明天皇紀に「大内丘」の記述があり、それを踏まえて「山」の文字を付加したのであろう。
<土左國:牛黄> |
土左國:牛黄
「牛黄」は牛の胆嚢などで発生する胆石であって、丸く固まった形をしていると知られる。すると図に示した場所に丸く小高い地が見出せる。
また「黃」=「四方に広がった様」を表す文字であって、それを用いると牛黃=牛の皮を四方に広げたような様と読み解ける。
今も残る山稜が示す地形であり、丸く小高いところは牛の頭部に該当すると見做せるようである。おそらくこの頭を取り囲む小ぶりな谷間を開拓したのであろう。
この地の標高は極めて低く、図で水田となっている場所は、ほぼ全て当時は海面下であったと推測される。谷間が浅く稲作地を広げるのは並大抵のことではなかったように思われる。貴重な開拓地、それを献上した、と記載しているのである。
二月壬辰朔甲午。金弼徳等還蕃。丙申。車駕幸宇智郡。癸夘賜百官職事已上及才伎長上祿各有差。丙午。賜武官祿各有差。
二月三日に新羅の使者が帰国。五日、「宇智郡」に行幸されている。<これは後に「大倭國宇智郡」とも記載され、「倭國」にあった郡と思われる>。十二日に百官の職事以上と才伎長上に、また十五日は武官に対して、個別に禄を与えている。
宇智郡
「倭國」と言ってもかなり広く、付加情報がない状況では探し辛いのであるが、頻出の宇=囲まれた地で山稜が延びている様とすると、倭國の諸々とした山稜の端からなる地形では限られた場所と思われる。
目に付いた地を左図に示した。これも頻出の智=矢+口+日=[鏃]の地と[炎]の地からなる様と読み解いた。するとこれらの地形要素が揃った場所が見出せる。
後に有智郡とも記載されるようである。有=又(手)+月=手を曲げて囲んだような地に三角州のある山稜が延びている様と読み解いた。有間温湯などで用いられていた文字である。確かに「宇」よりも「有」が示す地形が適切かもしれない。
現地名は田川市伊加利である。前出の「雌雞化雄」として開拓した地を献上した倭國飽波郡の南側に当たるところである。行幸の目的は記載されないが、彦山川の中流域が開拓されている状況の視察だったのかもしれない。
三月乙丑。因幡國獻銅鑛。丁夘。越後國言疫。給醫藥救之。己巳。詔。筑前國宗形。出雲國意宇二郡司。並聽連任三等已上親。庚午。任諸國郡司。因詔諸國司等銓擬郡司。勿有偏黨。郡司居任。必須如法。自今以後不違越。辛巳。禁山背國賀茂祭日會衆騎射。壬午。詔以惠施法師爲僧正。智淵法師爲少僧都。善往法師爲律師。
三月五日に因幡國が「銅鑛」を献上している。これは銅を採掘したのであろう。調べると宗像金山として江戸時代には大きな賑わいがあったとこちらのサイトに記載されている。河東鉱山(福崎区)、湯川山麓(田野・上八区)、孔大寺山麓(池田区)などが挙げられているが、「因幡國」(古事記の稻羽、書紀では因播)は上八区に当たる場所と推定した。
七日に越後國が疫病が流行っていると伝えて来た。医薬を給して救ったと述べている。病に名称が付けられるのはもう少し後代になってからのようである。「疫」に関する記述は崇神天皇紀が最初(古事記も同様、詳細はこちら)、欽明・敏達天皇紀に散見されてその後暫くはなかったようである。尚、續紀に記載された疫病を詳細に解析されている論文のこちらを参照。
九日に「筑前國宗形郡」及び「出雲國意宇郡」の郡司については、三等以上の親族を続けて任命することが許されている。共に神の国であって特別な待遇だったのであろう。続けて十日に諸國の郡司の選別に当たっては法に従って偏りのないようにしろ、と命じられている。
二十一日に、「山背國賀茂」の祭に際して寄り集まって騎射することを禁じている。賀茂祭を調べると以下のように記載されている。
賀茂祭は大宝(たいほう)(701~704)の神祇(じんぎ)令にはまだみえず、嵯峨(さが)天皇の819年(弘仁10)に至って初めて中祀(ちゅうし)に列せられた。しかし、前日(申(さる)の日)に山城(やましろ)国司の行う賀茂国祭は早く698年(文武天皇2)に行われたことが『続日本紀(しょくにほんぎ)』にみえる。『本朝月令(ほんちょうがつりょう)』の引く秦(はた)氏本系帳の説によると、祭りの起源は、欽明(きんめい)天皇朝、暴風雨の害が賀茂神の祟(たた)りによると占われたので、4月吉日を選び、馬に鈴をかけ走駆させ祭ったところ、五穀成就豊年を迎えたことに由来するという。賀茂祭に走馬(はしりうま)の行われるのもこれに基づくという。つまり、本来、秦氏などの鎮斎していた賀茂神が、京都遷都以降、皇城鎮護の神としてしだいに神威を高めるに及び、その祭りも氏神的祭祀から国家的祭祀へと発展し、賀茂祭の形態を形成するに至った。その古姿の名残(なごり)を伝えたのが賀茂国祭であった。
二十二日に僧正、僧都、律師の任命を行っている。
筑前國宗形郡
「筑前」の登場である。”国譲り”後ではなく、即ち博多湾岸周辺を表すのではなく、既にこの時代に「筑前」と言う地名があったことを示している。
重要なことは郡の名称として「宗形」が付加され、「記紀」を通じて”不動”の地を含む国であることが示唆している。
すると「筑前」が意味するところも、即ち「筑」が示す場所を求めることが可能と思われる。古事記の解読で「筑」は立派な地形象形表記であることに辿り着いた。そして書紀が実に様々な場所に用いていることが解った。
例示すれば、人名では田口臣筑紫、采女臣筑羅などがある。即ち「筑」が示す山稜の姿を象っているのである。ならばこの宗像の地にも「筑」と表記できる山稜があるのか?・・・山稜の端であって高低差は些か小さくなっているが、図に示した場所に見出せる。この「筑」の東側を「筑前」と表記したと思われる。
宗形=山稜に囲まれた高台(宗)が四角く区切られている(形)様と読み解ける。この表記で表される地域は、図に示した範囲ではなかろうか。天武天皇の御子、高市皇子の母親、胸形君德善女尼子娘が住まっていた場所などは含まないのかもしれない。
図には後に登場する「筑後國山門郡」の「許勢部形見」の出自の場所を示した。詳細な文字解釈は省略するが、「筑後國」は現在の福津市を示しているように思われる。前記の備後國と同様に「記紀」には登場しない地域である。
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少々余談になるが・・・上記したように「宗形」の東側にある古事記の竺紫日向之高千穂之久士布流多氣に含まれる「竺」の地形の山稜ではなく、西側の山稜は「筑」の形を表している。従来よりの解釈では「筑」=「筑紫」であり、その「前後」にある国を名付けたものと信じ込まれ、「筑紫」は「前後」を合せた総称表現であろうと言われている。この曖昧な解釈で千数百年が経ったのである。
<竺紫日向・筑紫日向> |
古事記は「竺紫日向」、書紀は「筑紫日向」と記述する。古事記では「筑紫日向」の文字列は登場しないし、書紀では「竺紫日向」とは言わない。
「竺紫」は上図に示した遠賀郡岡垣町の西側にある孔大寺山山系、一方の「筑紫」は同町の東側、戸切山の東、遠賀町に接する谷間を表しているのである。
西から見るか、東からか、視点が異なるだけで、「日向」の地には変わりがない。古事記は”高天原(壱岐)”を視点とし、一方書紀は”飛鳥”を視点で記述したことを告げているのかもしれない。
「竺紫」と言う、極めて率直な地形象形ではなく、思惑あっての異なる表現、「記紀」編者達の巧みな文字使いに翻弄・・・いや、筑紫=博多湾岸~筑紫平野に釘付けされていれば、殆ど惑うことはないか?・・・。
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出雲國意宇郡
「出雲國」の地で、既出の文字列である意宇=山稜に取り囲まれた地から山稜が延び出ているところと解釈した地形を求めることになる。
すると前出の於友郡の南に接する場所であることが解る。正に葦原中國の地であり、出雲國の中心の郡を示していると思われる。
古事記は「出雲國」を意富斗と表記した。富=山麓の坂を表すと読み解き、その地の全体を示す表現であった。「宇」を用いることによって、その裾野が広がった地が中心となる郡であることを表していると思われる。
宗形(胸形)と出雲、『天神族』にとって渡来した日本列島における最初の土地であり、この二つの地を足掛かりにして羽ばたくことができたのである。「記紀」が記す時代の前史がある場所なのであろう。
山背國賀茂
「山背國」に「賀茂」の地形があることを表していると気付いた。読み流していると「賀茂=鴨」で葛城の「鴨」と錯覚しそうなのであるが、「賀茂」は立派な地形象形表記であった(例えばこちら参照)。
「賀」=「狭い谷間を押し広げたような様」と読み解いた。頻出の伊賀で用いられている。あらためて述べると、「茂」=「艸+戊」と分解され、「戊」=「先の広がった鈍器」の形を表す文字である。地形象形的には、「茂」=「山稜の端が広がっている様」と読み解ける。
纏めると、賀茂=押し広げられたような狭い谷間に端が広がった山稜が延びているところを示すと解釈される。図に示したように京都郡みやこ町犀川大村にある。国土地理院航空写真1961~9年を参照すると、より明確に、その地形を確認することができる。葛城の鴨(賀茂)に、スケールは小さくなるが、極めて類似していることが解る。
既に幾度か近隣を出自を持つ人物が登場していたが、この谷間とその出口に該当しなかった。唯一古事記の伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)紀に登場した山代大國之淵の居場所と推定したところが重なる。
上記で引用した中に「秦氏などの鎮斎していた賀茂神」と記載されている。この地は秦一族が住まっていた地でもある。現在の葵祭に繋がる祭りとのことである。また井上光貞氏の論考があるとのこと(引用したこちらを参照)・・・、
カモ社は古の昔から、いまの上賀茂の地にあって、奈良時代のはじめまで、カモ社といえばこの社、一つだけであった。文武朝以来、天平の初年まで、祭の日には制止を加えられるほど殷盛をきわめたカモ社とは、このカモ社に他ならなかった。しかるに、おそらく天平の末年から天平勝寶二年(750)にいたる間に、カモ社の分社がとりたてられてもう一つのカモ社、下鴨社が出来上り、上カモ社の封戸十四戸に対し、天平勝寶二年、封戸十戸を賜わることとなった。分社の理由は不明だが、上カモ社の祭の盛大に手を焼いた国家の、宗教政策の結果ともみられるだろう。
・・・と記され、賀茂社と下鴨社の二つに分かれたと知られる。図に示した三諸神社は二つあり、上流・下流の位置関係である。残念ながらこれらの神社の由来などは定かではない。
夏四月壬辰。近江紀伊二國疫。給醫藥療之。侏儒備前國人秦大兄。賜姓香登臣。壬寅。遣務廣貳文忌寸博士等八人于南嶋覓國。因給戎器。戊午。奉馬于芳野水分峯神。祈雨也。
四月三日に近江國と紀伊國で疫病が発生、医薬を給して治療を行っている。また「侏儒備前國」の「秦大兄」に「香登臣」の姓を与えている。十三日に文忌寸博士(勢)等八人を南嶋(多禰嶋など)に遣わして、兵器を持たせて覓國(国を探し求める)させている。持統天皇即位九年(西暦695年)に多禰に派遣されている。さて、方位「南」で良いのであろうか?…「西」では?・・・。
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関連する記事が文武天皇即位三(699)年七月十九日に「多褹。夜久。菴美。度感等人。從朝宰而來貢方物。授位賜物各有差。其度感嶋通中國於是始矣」と記載されている。「多褹」=「多禰」、「夜久」=「掖玖」、「菴美」=「阿麻彌」であろう。文忌寸博士等は、十一月四日の記事に「甲寅。文忌寸博士。刑部眞木等自南嶋至。進位各有差」と記載されている。「刑部眞木」の出自の場所は、古事記の忍坂の土雲(具毛)の場所と推定されるが、詳細は登場の時に述べる。「度感」についても、後に登場の時に述べることにする。
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二十九日に「芳野水分峯神」に馬を奉じて雨を祈願している。「芳野」=「吉野」として解釈されているようである。訓が同じ、だからであろうが、文字の示す地形は全く異なる。そもそも奈良吉野とされている地に「野」がない。紀伊山地に含まれる山岳地帯を「吉野」としたことに無理があったと思われる。
侏儒備前國
「侏儒」=「小人」、これが通説である。魏志倭人伝に登場した侏儒國を小人の国と訳すわけであるが、既述したように小人に掛けた地形象形表現である。
侏儒=長くしなやかに延び広がった谷間に断ち切られたような山稜があるところと読み解いた。倭人伝では更に重ねられた表記であって、阿蘇山の溶岩流が流れる様も暗示していると推測した。
ここは素直に谷間が縊れている様を述べているのであろう。備前國があった場所、現在の下関市永田郷にある谷間は谷奥が大きく広がり、また途中で縊れた地形を示している。
古事記の日子人之大兄王の出自の場所としたところである。即ち備前國が「侏儒」の地形をしていることを表すのであって、その地の人かどうかは、読み手に任せる記述と思われる。
詳細は省略するが、阿蘇(熊本)の地形と微妙に異なっている。この地は谷間に突き出た山稜が断ち切られた地形であり、熊本は谷間に延びる山稜に段差がある地形である。續紀編者の文献上に知識とその地が何処の場所を示すかは把握していることを示している。がしかし、地図のない時代では、訪れたことがないことも曝しているようである。
● 秦大兄(香登臣)
登場人物は秦大兄であり、図に示した秦=山稜が細かく分岐した山稜が大きく二つに岐れている様の場所に住まっていたと推定される。「大兄」の文字列は、古事記と續紀の記述が繋がっていることを示している。香登臣という氏姓を与えたと記載しているが、山稜の端が細かく分岐していれば「秦」とする安易な名前に終止符を打ったのであろう。
頻出の文字列の組合せである、香=禾+甘=四角く窪んだ地(甘)から延び出た稲穂(禾)のような様と読み解ける。谷間の西側の山稜の姿を現している。登=癶+廾+豆=谷間の奥の高台と読み解いた。纏めると香登=[香]の山稜の傍らにある[登]の高台を表していることが解る。勿論居場所が変わることはなく、”倭人風”の立派な名前にされたようである。そして備前國の有様を精緻に象った表記であることが示されている。
翌月の記事に備前國が赤烏を献上している。頻出の赤=大+火=平らな頂の尾根から山稜が交差するように延びた谷間であり、その谷間に「烏」のような地形があるところを表していると思われる。図に示した通りの麓を開拓して献上したのであろう。
<芳野水分峯神> |
芳野水分峯神
すると平尾台の北端、貫山の南麓近隣に四方台と名付けられた場所が地図上に記載されている。正に峰にある野が四方に広がった様相である。おそらくそこに社が建てられていたのではなかろうか。
奈良吉野(青ヶ峰)には、立派な神社が建てられている。後に雨乞いではなく子守神としての信仰が盛んとなったようである。
上記でも述べたように紀伊山地の中の一つの峰が「水分」しているとは到底思えないが、訳分かんないからご利益があったのであろうか・・・。
五月庚申朔。諸國旱。因奉幣帛于諸社。甲子。遣使于京畿。祈雨於名山大川。乙亥。遣使于諸國。巡監田疇。甲申。令大宰府繕治大野。基肄。鞠智三城。
五月初め、諸國が旱魃となったようで、「幣帛」を諸社に奉納したと記載している。五日に京及び畿内に使いを出して、「名山大川」(名の有る山や大河)に於いて降雨を祈願している。十六日、諸國に使者を派遣して田を監視させている。二十五日に大宰府に大野、基肄(椽)、「鞠智」の三城を修繕させている。
<鞠智城> |
鞠智城
書紀には登場しない城である。修理をするのだから既に設置されていたのであり、持統天皇紀以前であることには違いない。
大宰府に命じていることから筑紫にあったとして、その場所を求めてみよう。鞠=鞠のような様であろう。頻出の智=知+日=鏃と炎の形がある様と解釈する。
案外分り易い地形と思われ、直ぐに北九州市小倉南区小文字にある、それこそ「鞠」のような地形に目が止まる。加えて「鏃」と「炎」の地形がその麓に横たわっていることにも気付くことができる。
前出の三足雀の場所、その天辺にあった城であろう。椽(基肄)城と大野城との中間に位置する。港である「海岸」の背後に控える城であり、洞海湾経由からの侵入への対応もさることながら、常日頃の監視場所としても重要であったと推測される。逆に、「海岸」の港ができた時にあった監視所を城とした故に設置の期日が曖昧になっていたのかもしれない。
六月丙申。近江國獻白樊石。壬寅。越後國蝦狄獻方物。丙辰。奉馬于諸社祈雨也。丁巳。直廣參田中朝臣足麻呂卒。詔贈直廣壹。以壬申年功也。
六月八日に近江國が「白樊石」を献上している。勿論土地の開拓に成功したのであろう。下記でその場所を求めることにする。十四日、越後國蝦狄がその地の特産物を献上。二十八日に諸社に馬を奉納して降雨祈願を行っている。二十九日、田中朝臣足麻呂が亡くなり、壬申の功より二階級特進している。
<白樊石> |
近江國:白樊石
せめて郡名などを…とないものねだりをしても致し方なしである。近江國で「白樊石」が示す地形を求めよう。白=くっ付いて並ぶ様に変わりなく、石=山麓の区切られた地として、残るは「樊」の文字解きである。
辞書によると樊=鳥籠の意味を示すと解説されている。何となく分ったような気分となるが、全部分解してみると・・・、
「樊」=「木+爻+木+大(手+手)」・・・となる。両腕で抱え込んだような形で交差する木があるものを表している。確かに「鳥籠」である。
具体的になって来たら、図に示した場所に「鳥籠」を見出すことができたようである。忠実に交差する山稜があり、全体を包むような山稜に囲まれた地形と見做せる。その麓に区切られた台地がくっ付いて並んでいて過不足なく要求される地形要素を満たしていると解る。現地名は京都郡苅田町新津と尾倉の境である。前出の近江國蒲生郡の北隣に当たる。
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なかなかペースが掴めず、進みが遅い・・・暫く辛抱の時であろうか・・・。