2020年12月4日金曜日

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(2) 〔473〕

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(2)


即位元年(西暦697年)九月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、和訳はこちらを参照。

九月丙申。京人大神大網造百足家生嘉稻。近江國獻白鼈。丹波國獻白鹿。壬寅。賜勤大壹丸部臣君手直廣壹。壬申之功臣也。

九月三日に京人の「大神大網造百足」の家に「嘉稻」が生えたと記している。また近江國が「白鼈」を献上している。九日に壬申の功(舎人として吉野脱出時から随行)があった丸部臣君手(和珥部臣君手末尾に修正した場所を記載)に直廣壹を授けている。勤大壹からだから七階級の進級となる(おそらく直前に亡くなったのであろう)。

<大神大網造百足・嘉稻
大神大綱造百足:嘉稻

「大神」とは、大物主大神などの神様を意味するわけではなかろう。地形象形表記として解釈すると、大神=平らな頂の麓で高台が延びているところと読み解ける。

大倭=平らな頂の麓の谷間で嫋やかに曲がりながら延びる山稜があるところである。この違いを明確に区別して表記されていることに気付かないと「記紀」は読めない、のである。

すると図に示した愛宕山(大坂山)の山稜が南に延びる場所を表していると思われる。「大網」の「網」=「糸+网+亡」=「山稜の端が見えなくなる様」と解釈した。依網などで用いられていた文字である。大網=平らな山稜の端が見えなくしているところと読み解ける。谷間で網を広げているような地形を表している(国土地理院航空写真1961~9参照)。

百足=ムカデのような形をしているところでも良いし、「丸く小高い地が連なった山稜の端」と解釈することもできる表記である。幾つか登場の例があった。これらの地形要素を満たす場所を現地名の田川郡香春町中津原の浦松に見出すことができる。古事記の「山邊」の地(こちら参照)、その更に麓に当たるところ、「大神」である。ここでも奈良大和への国譲りの丁寧さが伺える、と言うことになろう。

嘉稻は、関連する嘉禾=鼓のように丸く取り囲むように積み上げられた地から稲穂のようにしなやかに曲がる山稜が延びているところが登場していた。持統天皇紀に伊勢國が献上した嘉禾二本である。本文では「獻」の文字が記述されていないようだが、でなければ登場しなかったであろう。「嘉」(鼓)の文字解釈が妥当であったことが確認されたようである。

<近江國・白鼈>
近江國:白鼈

「近江國」はその入江に沿った地域であり、何とも錯綜としているが、時間をかけて探索すると、それらしき場所を見出すことができたようである。

「近江」(斧の形をした入江)はこちらを参照。現在の行橋市がすっぽり海面下にあった様子を推測した図である。

二匹の「鼈」(スッポン)が頭を寄せ合ったような地形を白鼈と表現したと思われる。開拓したのは図に示した「白鼈」の場所であろう。「龜」の文字を使わず「鼈」にしたのは甲羅が薄かったから、現在は共に広大な団地となっているが、かもしれない。

いやいや、しっかりと地形象形した表記であろう・・・「鼈」=「敝+龜」と分解される。「敝」=「八+八+布+攴」と分解される。地形としては、「鼈」=「頭部が二つに岐れている[龜]のような様」と解釈される。その地形を確認することができる。まことに巧みな表記と言える。

獻」の文字がしっかりと記載されていて、「公地」とされている。持統天皇紀も含めて海辺の開拓が随分と進んだことが伺える。入江の中心にあり、早くから切り拓かれたのであるが、やはり耕地とするには環境が厳しかったと推測される。

<丹波國・白鹿>
丹波國:白鹿

「丹波國」の地形は高低差が少なく、判別が難しい。海辺に近づくと一層なのであるが、陰影起伏図を駆使して何とか見出せたのが、右図である。

鹿の角を模したような地がくっ付いている()様を表していると思われる。古事記の伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)の御子、伊賀帶日子命の出自の場所と推定した。

書紀では『壬申の乱』の際に高市皇子に随行して近江大津宮から鹿深越えで逃げた人物、膽香瓦臣安倍の出自の場所である。

正に河川の最下流域、海辺の地である。山間から海辺へと水田稲作が広がって行った様子を伝えていると思われる。平地故に耕地面積の拡大が進捗し、収穫が一気に増大したものと推測される。「白鹿」、神の鹿なんて解釈しては、真に勿体ない、であろう。

冬十月壬午。陸奥蝦夷貢方物。辛夘。新羅使一吉飡金弼徳。副使奈麻金任想等來朝。十一月癸夘。遣務廣肆坂本朝臣鹿田。進大壹大倭忌寸五百足於陸路。務廣肆土師宿祢大麻呂。進廣参習宜連諸國於海路。以迎新羅使于筑紫。

十月十九日に、陸奥蝦夷が地場の物を献上している。二十八日、新羅が使者を遣わしている。十一月十一日に「坂本朝臣鹿田」と「大倭忌寸五百足」とを陸路、「土師宿祢大麻呂」と「習宜連諸國」とを海路で筑紫に遣わし、新羅の使者を迎えさせている。

<坂本朝臣鹿田-阿曾麻呂-宇豆麻佐>
● 坂本朝臣鹿田

この人物の出自を調べると、父親が『壬申の乱』で活躍した坂本臣財であることが分った。それに従って父親の近辺で探索するのであるが、なかなか思うようには見出せず、辛うじて山稜の先端部に鹿の角らしき地形に行き着くことができた。

上記の丹波國の「白鹿」より更に際どい高低差のようである。逆に言えば、この地以外には求めることは叶わないようでもある。

調べた際に後に登場する、彼の息子達の出自の場所を併せて求めた結果を併記した。坂本朝臣阿曾麻呂阿曾麻呂は東側の山稜の端が小高くなっている様に拠った名称であろう。

また坂本朝臣宇豆麻佐は、そのまま読み下すと、宇豆麻佐=囲まれた地で延びた山稜(宇)の端に高台(豆)がある擦り潰された(麻)左手ような山稜(佐)が延びているところと解釈される。「坂本臣」一族は『壬申の乱』を切っ掛けにして一気に統治する領域を拡大したのであろう。それに伴って後裔たちが登用される機会も増えたのではなかろうか。

<大倭忌寸五百足・小東人・水守・淸國>
● 大倭忌寸五百足

「大倭忌寸」は以前の「大倭連」である。大倭大神が鎮座する場所であろう。「百足」は”ムカデ”と読んでも差し支えなかったが、「五百」となっては少々引っ掛りがあろう。

素直に既出の五百=交差するような丸く小高い地が連なった様とすると、その地形が見出せるようである。前出の勾筥作造の西側に当たる。

おそらくこの狭い谷間の出口辺りが出自の場所と推定される。書紀の記述をしっかりと引き継いだ表記と思われる。上記の「鹿田」と同じく、「陸路」で筑紫に向かわさせたと、簡略に記載されているが、果たして・・・。

後(元正天皇紀)に息子の大倭忌寸小東人が登場する。律令の撰定の功で田を賜っている。頻出の東人=谷間を突き通すような様であり、父親の南側の谷間を示していると思われる。「小」は何処を示しているのであろうか?…よく見るとその谷間の入口が三つの山稜の端で囲われた地形をであることが解る。それを小=三角の形で表したのであろう。また長岡と称していたようであるが、この谷間全体が長く延びた「岡」の文字形であり、それを捩った名称と思われる。

更に後(聖武天皇紀)に一族の大倭忌寸水守が登場する。「小東人」と共に「宿禰」姓を賜ったと記載されている。既出の水守=水辺で両肘を張ったように山稜に囲まれているところであり、図に示した「小東人」の西側に当たる場所が出自と思われる。

直後に大倭宿祢清國が登場する。淸國=水辺で四角く区切られたところと読むと、「水守」の北隣の場所と推定される。両者は、現在の金辺川が大きく広がっていた様子を、その名前に残しているように思われる。

<土師宿祢大麻呂・豐麻呂>
● 土師宿祢大麻呂

書紀中、仁徳天皇紀に登場して以来「土師(連)宿禰」は頻度高く記述されているが、この人物の出自(系譜)が今一よく分かっていないようである。

持統天皇紀では土師宿禰根麻呂・甥などの活躍が記載されている。おそらく同根ではあるが、別系統の様子である。

「大麻呂」の名称も漠然していて、なかなか一に特定がし辛い状況かと思われる。図に一応の推定場所を示したが、決め手に欠ける中での場所である。後に頻度高く登場する土師宿祢馬手についてもその出自は明確ではないようである(こちらを参照)。

後(元明天皇紀)に土師宿祢豊麻呂が登場する。豐=段差がある高台と読むが、「根麻呂」の直近に見出せる。父親が「馬手」か「根麻呂」と言われているようであるが、出自の場所からすると後者と思われる。

<習宜連諸國-笠麻呂・熊凝連古麻呂>
● 習宜連諸國

この文字列だけでは何ともし難いのだが、調べると「中臣」が冠されることが分った。あの狭隘な地にまだ登場するのか?・・・杞憂であった。右図に示した通り、正に谷間の奥の奥に当たる場所が残されていた。

習=羽+白=羽がくっ付いたような様と読み解ける。地形象形的には都合よく解釈されるが、通常の「習う、習慣」の意味へと繋げるには諸説があるとのこと。

幾度か登場している宜=宀+且=山稜に囲まれて積み重なった様である。「諸」はやはり諸=言+者=耕地が交差するような様とすると図に示した通りに求められる地形要素を満たす場所であることが解る。

後(元正天皇紀)に中臣習宜連笠麻呂・中臣熊凝連古麻呂が登場し、「朝臣」姓を賜っている。漸く中臣一族の仲間として認知されたのであろう。いや、単なる手続き漏れだったのかも?・・・前者は、「習」=「羽+白(自)」と分解される「羽」の西側が「笠」のような地形をしていることに因む名前と思われる。後者は、熊凝王(熊凝精舎)で読み解いた地形と思われる。

熊凝=山稜の端が隅で途切れて小高く盛り上がった様と解釈したが、些か地形の変化があって曖昧さが残るが、図に示した辺りではなかろうか。更に後(聖武天皇紀)に中臣熊凝朝臣五百嶋が登場する。五百嶋=小高い山が連なって交差する地にある鳥の形ような山稜があるところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。

中臣間人連老で終わりかと思っているとまだまだ先があった・・・するとまだ先がある?・・・現在は谷の出口から地形を眺める習慣がついているのだが、当時は逆だったのかもしれない。古事記が語るように山稜の端は移ろい易く、当てにならない場所だったのであろう。

十二月庚辰。賜越後蝦狄物。各有差。閏十二月己亥。播磨。備前。備中。周防。淡路。阿波。讃岐。伊豫等國飢。賑給之。又勿收負税。庚申。禁正月往來行拜賀之礼。如有違犯者。依淨御原朝庭制。决罸之。但聽拜祖父兄及氏上者。

十二月十八日に「越後蝦狄」の人々に物を与えている。閏十二月七日、播磨・「備前・備中」・周防(周芳)・淡路(古事記の淡道之穗之狹別嶋)・[阿波・讃岐](古事記の粟國・讃岐國)・伊豫等の國に飢饉が発生し、物を与えて免税としたと記載している。二十八日に一般の拝賀礼を禁じたが(淨御原朝庭制)、氏上などは許可されている。

<越後蝦狄>
越後蝦狄

書紀中、越前國は登場するが、「越後」は記載されていない。前があれば後があって当然・・・ではなかろうが、確実に地名が取り揃えられている様相であろう。

越前國は現地名北九州市門司区柄杓田・喜多久、当時はその山手の地と推定した。古事記の「高志前」に繋がる場所である。そのうち、「越中」も登場するのであろう。

「越後」だけでは場所の特定ができないことを承知されているようで、「蝦狄」が付加されている。お陰でかなり容易に見出すことができたようである。

図に示した場所、現地名北九州市門司区春日町にある蝦=カエルの地に、狄=犬+火=平らな頂の[火]の形をしたところを表していると思われる。

論理的記述をモットーにされている書紀・續紀の編者達にすれば「越後」の「越前」との位置関係は些か無理筋のように感じられる。当時とすればこのぐらいのアバウトさは許される?・・・ではないのである。「越國」、「越前」に含まれる「越」、それは古事記の「高志」(皺が寄ったような地の谷間に蛇行する川があるところ)=「越」(鉞の刃のような形が続くところ)の地形を表していた。

ならば上図の奥畑川がそのまま当て嵌まる様相を示していることが解る。その谷間の奥にある地を「越後」と名付けているのである。現在は、地名は固有であり、その定義は地図で確認される。地図が無ければ定義されることはない。それが当時の状況だったと思われる。

<備前國・備中國・備後國>
備前國・備中國

明らかに吉備國を分割して命名した国名であろう。書紀に備後國龜石郡が登場していた。「白雉」を献上したと記載されていた。着実に天皇の統治領域が拡大する有様を伝えていたと解釈した。

それを背景にして「前」と「中」を推測すると、「前」は吉備國の入江(当時は図の青っぽく見える地は海面下)に突き出た半島と思われる。

書紀の欽明天皇紀に「備前兒嶋郡」と記載される。そしてこの半島の先端部は古事記で吉備兒嶋と記載された場所と推定した。古代の名称を大切に用いた地名にしていることが判る。

「吉備」の名称だけでは、今一ピンと来なかったその地形象形表記がここで漸く読み解けたようである。「備」=「人+𤰇」と分解される。「𤰇」=「箙(矢筒)」を象った文字と言われる。備=谷間(人)にある箙の様と解釈される。

図に示した場所が吉備=矢が一杯に詰まった(吉)谷間にある矢筒のようなところと読み解ける。また「吉」=「蓋+囗」であり、蓋をされた矢筒の様の解釈も有効であろう。

「吉備」の地名は竜王山が西麓で極めて特徴的な山容を持つことに着目した命名であることが解る。では「前後」は何に対してなのか?・・・「備」であろう。通説に寄り添って何となく「吉備」が分割されて「前中後」のように受け取りがちだが、それは間違いであることに気付かされた。同様に、後に詳述するが、「筑紫國」、「豐國」が分割されたのではないのである。その一例が垣間見えて実に興味深いところである。

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丸部臣君手(和珥部臣君手)について

書紀及び續紀通じて、同一人物であることには間違いないであろう。續紀は、書紀ではなく、古事記の表記である「丸邇」を引き継いでいるように思われる。丸邇=”丸”の傍らの山稜が延び広がっているところとすると、丸部=”丸”の近隣のところとなろう。要するに”丸”には含まれないが、その周辺の地を表すと解釈される。「部」が意味することは記紀・續紀全般において変わりはないようである。

では、一体”丸”は何処の地を示しているのであろうか?…これまでは、やや漠然と壹比韋辺りかと、想定して解釈を行って来たが、大きな矛盾が発生するわけでもなかった。ところが、續紀を読み進むと、”丸”の中に出自を持つ人物が登場した。丸連男事である。通常の記述に従うと、”丸”の地にある”男事”の地形の傍らが出自の人物となる。

<丸>
あらためて”丸”の正体を突き止める作業に入ると、現地名の田川郡香春町柿下及び赤村内田の大坂山南麓に多くの山稜、谷間が並んでいるが、”丸”と見做せる地形を見出すことは叶わなかった。

「丸」は「丸く小高い様」と解釈するのが通常であろうが、それは人が住む場所ではなく、傍らにある地形であろう。また、容易に見分けられるならば、既に解決済みだったわけである。

暫く地図を眺めると、面白い地形に目が止まったのである。それが”丸”の場所に繋がっていることについては、こちらを参照。左図に結果のみを示した。

即ち、”丸”は現在の田川郡香春町柿下にある薬師谷を示していたことが読み解けたのである。上記の丸連男事は、その”丸”の中で延び出た山稜の端が出自の場所であると推定した。現在は奥深い谷間であり、樹木が生い茂った様相であるが、国土地理院写真(1961~9年)を参照すると、谷間全体に棚田が広がっていることが確認される。

<丸部臣君手・大石>
あらためて丸部臣君手の出自の場所を求めてみよう。君=区切られて高台になっている様手=山稜が手のように延びている様と解釈すると、図に示した”丸”の直ぐ外側の谷間を囲む山稜を表していることが解る。

おそらく手の指先辺りが居処だったのであろう。勿論、この地も上記の写真で棚田が作られていたことが伺える。「部」とされるが、”丸”のほんの一部ではなく、豊かな耕地が開拓されていたように思われる。

息子の大石=平らな頂の崖下の小高くなったところは、「手」の先を表しているのであろう。出自の場所は、図に示した辺りと思われる。

書紀の表記の「和珥」は、”丸”のような一に特定される地形を表すことを避けたものであろう。得意のぼやけた表記としたのである。大坂山南麓に広がった春日・丸邇は、皇統に絡む人材を輩出した地、古事記が記す、その特徴的な地形を何とか曖昧にする必要があったのである。それにしても、大変な回り道をさせられたようである。

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いよいよ古事記の舞台からはみ出た地が徐々に登場しつつあるように思われる。朝鮮半島最南端から壱岐島を経て九州東北部に渡来した「天神族」が長い年月をかけて日本列島に蔓延って行った、本来の姿を示しているのではなかろうか。暫くの間はそんな経緯を読み解くことになるように感じられる。