2020年12月1日火曜日

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(1) 〔472〕

 天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(1)


『續日本紀』に歩みを進めてみようかと思う。原文、和訳共に古事記・日本書紀のように便利なサイトがあるわけでもなく、それを調達するのに些か手間取ってしまった。そんな訳で前記とは異なる部分もあろうが、作業は相変わらずで、登場する地名・人名を読み解くことにする。

前記持統天皇即位十一年(西暦697年)八月一日、皇太子に皇位を禅譲したと記載された天之眞宗豊祖父天皇(第四十二代文武天皇、大友皇子を第四十一代弘文天皇として)の記事である。「續日本紀卷第一」である。原文(青字)はこちらのサイトから入手、和訳はこちらを参照。

天之眞宗豊祖父天皇。天渟中原瀛眞人天皇之孫。日並知皇子尊之第二子也。〈日並知皇子尊者。寶字二年有勅。追崇尊號。稱岡宮御宇天皇也。〉母天命開別天皇之第四女。平城宮御宇日本根子天津御代豊國成姫天皇是也。天皇天縦寛仁。慍不形色。博渉經史。尤善射藝。高天原廣野姫天皇十一年。立爲皇太子。

書紀と同じように最初は天皇のプロフィールから記載されている。天渟中原瀛眞人天皇(天武天皇)の孫、「日並知皇子尊」(草壁皇子尊)の第二子である。幼名は「輕(珂瑠)王」(祖母の威厳から皇子とすべきかも)であるが、明記されてはいないようである。また父親は即位しておらず、例によって息子が即位した結果「追崇尊號」で「岡宮御宇天皇」と称されたようである。

母親は天命開別天皇(天智天皇)の第四女(阿閉皇女)であるが、後に即位して「平城宮御宇日本根子天津御代豐國成姫天皇」となる。何ともピンチヒッターにしては盛り沢山の名称である。ご本人は”文武両道”のお方だったように記載されている。どうやら漢風諡号の由来のようだが、淡海三船が名付ける前に存在した名称とのことである。

<日並知皇子尊・輕(珂瑠)皇子>
日並知皇子尊・輕(珂瑠)皇子

草壁皇子の別名表記とされているが、「記紀」を通じての地形象形表記なのであろうか?…突然表記手法が異なることも考えにくいが、古事記の大長谷若建命(雄略天皇)が坐した長谷朝倉宮があったと推定した場所をあらためて眺めてみよう。

「日」=「山稜の端が[炎]の形となっている様」、また「知」=「矢+口」=「鏃の形」を表すと読み解いて来た。纏めると、日並知=山稜の端が[炎]の地が並びその傍らに[鏃]の地があるところと読み解ける。

追号された「岡宮御宇天皇」は「岡」=「网+山」と分解される。「記紀」を通じて、岡=谷間の中に山稜がある様と読み解いて来た。「日並」と「知」の地形を表している。舒明天皇の飛鳥岡・岡本宮などの例がある。また、御宇=山稜に囲まれた地で延びる山稜(宇)を束ねる(御)様と解釈した。これらの地形表記はぴしゃりと長谷朝倉宮の場所に当て嵌るものと思われる。

輕皇子輕=車+坙=隙間の突進する様であり、頻出する文字である。別表記の「珂瑠」の珂=王+可=山稜に挟まれた様であり、瑠=王+留=山稜が押し拡げらる様と読み解ける。図に示した並んでいる「日(炎)」を押し拡げるように真ん中の山稜の端が延びている場所を示していると思われる。續紀もしっかりと地形象形表記を踏襲しているようである。

<天之眞宗豊祖父天皇>
天之眞宗豐祖父天皇

即位されて立派な和風諡号が付与されている。弱冠十四歳での即位であるから禅譲された藤原宮を引き継いだと思われる。即ち、この諡号は高天原廣野姫天皇の場所の別表記となる。

眞=いっぱいに詰まった様宗=宀+示=山稜に囲まれた地の高台豐=段差のある高台祖=示+且=積み重なった高台父=交差する様と読み解いて来た。

要するに存在する地形を並べ挙げた表現となっていることが解る。最後の「祖父」は高台が交差するように近付いている様子を丁寧に表しているのであろう。書紀風ではなく、どちらかと言えば、古事記の表記に近いものであろう。読み下して、何らかの意味ある名称とはかけ離れているようである。

尚、和風諡号に倭根子豊祖父天皇とも表記されるそうだが、倭根子=嫋やかに曲がる山稜の麓から生え出た様と解釈すれば、簡略表現と思われる。キーは「祖父」の文字列と言える。「豊」、「祖」は本字体(豐、祖)で表記することが大切である。前者は全く意味が異なる別字である。

平城宮御宇日本根子天津御代豐國成姫天皇(元明天皇)

<平城宮御宇日本根子天津御代豊國成姫天皇>
「御宇」、「日本」、「天津」など壮大な文字列が並ぶ・・・そんな解釈では續紀も読めないであろう。「御宇」は上記した通りで、日本=[炎]の山稜の麓である。更に根子=(麓から)生え出た様を丁寧に付け加えている。

「天津」は高天原にある天津ではない。地形が類似するからこの表現を使っているのである。あらためて天津=擦り潰されたような地が水辺で寄り集まったところである。結果として「天」の地を流れる川が寄り集まった場所を表している。

御代=谷間のある杙のような地(代)を束ねた(御)様と読む。「豐」は上記で述べた通り。成=丁+戊=突き固めた平らな様と読み解いた。図に示した場所が要求される地形要素を満足していることが解る。「天津」は古事記で紐解いた場所に酷似している(こちらを参照)。それを十分に承知して命名したものであろう。

平城宮の平城=平らに広がった突き固められた地と読み解ける。正に元明天皇の簡略和風諡号であろう。それにしても、藤原宮(新益京)に続き、平城宮も田川市夏吉にあったとは、予断を持たず、表記に従って読み解くことであろう。近隣が出自の皇女もいたようだが「記紀」中に一度たりとも登場することのなかった地である。

元年八月甲子朔。受禪即位。庚辰。詔曰。現御神〈止〉大八嶋國所知天皇大命〈良麻止〉詔大命〈乎。〉集侍皇子等王等百官人等。天下公民諸聞食〈止〉詔。高天原〈尓〉事始而遠天皇祖御世御世中今至〈麻弖尓。〉天皇御子之阿礼坐〈牟〉弥繼繼〈尓〉大八嶋國將知次〈止。〉天〈都〉神〈乃〉御子隨〈母〉天坐神之依〈之〉奉〈之〉隨。聞看來此天津日嗣高御座之業〈止。〉現御神〈止〉大八嶋國所知倭根子天皇命授賜〈比〉負賜〈布〉貴〈支〉高〈支〉廣〈支〉厚〈支〉大命〈乎〉受賜〈利〉恐坐〈弖。〉此〈乃〉食國天下〈乎〉調賜〈比〉平賜〈比。〉天下〈乃〉公民〈乎〉惠賜〈比〉撫賜〈牟止奈母〉隨神所思行〈佐久止〉詔天皇大命〈乎〉諸聞食〈止〉詔。是以百官人等四方食國〈乎〉治奉〈止〉任賜〈幣留〉國々宰等〈尓〉至〈麻弖尓。〉天皇朝庭敷賜行賜〈幣留〉國法〈乎〉過犯事無〈久。〉明〈支〉淨〈支〉直〈支〉誠之心以而御稱稱而緩怠事無〈久。〉務結而仕奉〈止〉詔大命〈乎〉諸聞食〈止〉詔。故〈乎〉如此之状〈乎〉聞食悟而款將仕奉人者其仕奉〈礼良牟〉状隨。品品讃賜上賜治將賜物〈曾止〉詔天皇大命〈乎〉諸聞食〈止〉詔。仍免今年田租雜徭并庸之半。又始自今年三箇年。不收大税之利。高年老人加恤焉。又親王已下百下百官人等賜物有差。令諸國毎年放生。

八月一日に禅譲されて、十七日には「大命」されている。天神の御子として大八嶋國を治めるべく日嗣した「倭根子天皇」の所信表明であり、真っ当に振舞えば良きことがあるぞ、と仰っている。今年の「田租雜徭并庸」を半分にし、またここ三年間は税の利息は取らないとも。

懐かしい文字列が見える。食國は辞書によると・・・天皇の統治なさる国。天下。※古事記「汝命は夜の食国(ヲスくに)を知らせ、と事依さしき〈食を訓みて袁須(ヲス)と云ふ〉」・・・と記載されている。三貴神にぞれぞれ分担させ、その一人である月讀命に伊邪那岐命が夜之食國を治めよと命じた時に現れた文字である。

「食」には「手を加えて整える」と言う意味がある。「天皇の統治なさる国。天下」の意味は上記の「詔」の文脈に合致しているように思われる。「天下」は少々拡大解釈の感がするようにも思われるが・・・上記の「是以百官人等、四方食國、治奉任賜國々宰等至」からも「食國」は「四方」にあると記述されている。

一方、古事記の「夜之食國」では、月讀命に天下のような漠然とした地を治めよ、と命じたのではなく、「袁須」(ゆったりとした山稜の端の三角州)がある「夜」(三角州のある谷間)を治めろ、と述べたのである。「月」と「夜」を掛け合わせた巧みな表記である。「夜」は夜麻登にも使われている。

即ち食國は、統治する意味を示すと同時に大八嶋國の人々の大半が「食(袁須)」に住まっていたことを示唆していると思われる。逆に言えば「食(袁須)」が最適な衣食住環境を提供し、そこを統治することを自負していたのであろう。「三貴神」については、長くなるがこちらを参照。

少々余談になるが、本文の表記が通常とは異なっている。これは宣命体と呼ばれ、「詔の一形式。宣命はテニヲハに万葉仮名を用いるなど和文を漢字によって表記したもの」と解説されている。本居宣長が古事記解読に際して、この表記に注目したと伝えられている。上記で言えば「食」を「袁須(ヲス)」と読むことに注目し、「袁須」の漢字が示す意味には全く言及しなかったのである。同時代の賀茂真淵(万葉考など)等の時流に乗っかった解釈を試みたと言える。悲しいかな、それが現在まで続いているわけである。

癸未。以藤原朝臣宮子娘爲夫人。紀朝臣竃門娘。石川朝臣刀子娘爲妃。壬辰。賜王親及五位已上食封各有差。

八月二十日、「藤原朝臣宮子娘」を夫人に、「紀朝臣竃門娘」及び「石川朝臣刀子娘」を妃としている。二十九日に親王、五位以上に食封を与えている。ご登場の三名の女人の出自は、場所も含めて、何とも難解な有様である。

「宮子娘」は藤原朝臣不比等の娘であろうが、場所が「中臣」には見出せない。「竃門娘」は「紀臣」の地と述べているようなのだが、その地に「竈」の地形は存在しない。「刀子娘」は「石川朝臣」の地かと思われるが、系譜ははっきりしない・・・と言う状況で、何らかの訳があっての曖昧な記述なのであろう。後者二人は後に「妃」の格付けを剥奪されている。皇室スキャンダルの様相である

<藤原朝臣宮子娘・鴨君粳賣
● 藤原朝臣宮子娘

とても續紀本文だけでは読み取れないので、少々調べたところを織り交ぜながら述べてみようかと思う。後の聖武天皇を産むわけだから重要人物であることには違いないようである。

ところが、「藤原」と冠されているにも関らず出自が至って曖昧である。藤原不比等の養女説まである。母親が「賀茂比賣」とされるなら、大物主大神の後裔、意富多多泥古を遠祖(鴨君)とする由緒ある家柄となろう。

「藤原(中臣)」と「鴨」とは深い繋がりがあり、疫病対策で多くの神を配置して手柄を立てた「多多泥古」は「神君」の祖となって、神祇に関わっていたと推測される。皇極天皇紀には中臣鎌子連が三嶋に居を構えていたとも記述されている。これらの背景からすると「不比等」と「賀茂比賣」との関係を素直に受け取って良いように思われる。

ただ、「藤原(中臣)」の地には誕生した子を住まわせる場所がなく、「鴨」で養育されたのではなかろうか。「賀茂比賣」の場所は、鴨の脚、「比賣」の地形と推定される。宮=宀+呂=山稜に囲まれた谷間に積み重なった台地がある様であり、子=生え出た様から図に示した崖の麓を示していると思われる。「宮子」の妹に「長娥子」が居たと伝えられている。「我」の地形の端ではなかろうか。

後に三つ子を産んだ鴨君粳賣が登場する。「粳」=「米+更」と分解すると、粳賣=[米粒]のような地がある大きく広がった(更)窪んだ(賣)ところと読み解ける。「賀茂比賣」の西側の谷間を示していると解釈される。併せて図に記載した。

<紀朝臣竃門娘>
● 紀朝臣竃門娘

上記でも少し触れたが、「紀臣」の地に「竈」はあり得ない。山稜の端に巣食った一族なのである。「竈」で関連するのは古事記に登場する紀國之竈山であり、その麓に五瀬命を葬ったと記載されていた。

確かに紀國(書紀では紀伊國)に地形を当てればそれらしき場所が見出せるのであるが、出自としての、即ち皇子の妃となる関係が定かではないようである。

致し方なく、Wikipediaを散策すると・・・、

他の天武天皇の皇女たちと違って、彼女に関する記録はほとんどない。弓削皇子からの相聞歌が『万葉集』2・119~122にあるが、弓削皇子と結婚したという史料はない。また『万葉集』には高安王に嫁いで責められたとあるが、これは紀皇女ではなく託基皇女ではないかという説(吉永登)もある。
このことについて梅原猛著『黄泉の王』では『万葉集』を根拠に、紀皇女は文武天皇の妃であったが弓削皇子と密通し、それが原因で妃の身分を廃されたという仮説を述べている。正当な後継者の軽皇子(文武天皇)が皇族出身の妃を持たないことは考えられず、紀皇女こそ正妃であったが、将来の皇后の不倫という不埒な事件により公式記録から抹消されたということである。しかし真相は不明である。

・・・と記載されている。天武天皇が蘇我赤兄の娘、大蕤娘(後に石川夫人とも)を娶って誕生した紀皇女らしいと推測されて来ているようである。

と言うことで、早速に「紀皇女」を訊ねてみると、些かの驚きを持って、山容を眺めることになった。「紀」(曲がりくねった尾根)の端が一段高くなって、その形は「紀國之竈山」にそっくり(勿論見る角度に依るが)なのである。当然、竈で燃やす木を示す山稜があり、きちんと門構えとなっているいることが解る。

天武天皇の皇女故に不祥事を引き起こしたことを秘匿するためか、正に不明なのだが、陰に藤原不比等の存在が憶測されるところであろう。神格化された天武天皇及び持統天皇への忖度もあって、こんな記述になったのかもしれない。異母兄妹である弓削皇子とは距離も近く(約3.5km)、幼馴染で育ったように思われる。何だか梅原猛氏に寄り添う感じである。

<石川朝臣刀子娘>
● 石川朝臣刀子娘

上記と同じような経緯で、紀皇女の妹の田形皇女かと思いきや、これは別人である。ご本人の出自は不詳なのであるが、文武天皇との間に息子二人が誕生したと知られる。

実に不幸な運命を背負った息子達なのであるが、官吏として生き永らえたようである。せめて出自の場所ぐらいは求めてあげたく思い、図に示してみた。

刀子=小さな刀の様と解釈し、廣成=広がった突き固めた台地の様廣世=広がった地を受け継いだ様と読み解けば、図に示したように配置となることが解る。間違いなく氏素性は明確であっただろうが、抹消されたものと推察される。身分剥奪の理由は、不義密通のようであるが、動かぬ証拠の隠し撮りがあるわけでもなく、陰謀説が飛び交っても不思議ではない。二人の妃は、歴史の表舞台から引き摺り降ろされたのである。

石川朝臣廣成は、後(淳仁天皇紀)に從五位下を叙爵され、その後「高圓朝臣」の氏姓を賜っている。高圓=皺が寄ったような山稜が丸く取り囲まれたところと読み解けば、出自場所の地形を表していることが解る。

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古事記から日本書紀への遷移とは、また異なった異質感を覚える續日本紀、地形象形表記を行っていることは、ほぼ確実のようであるが、一寸先は闇、である。