2020年11月25日水曜日

高天原廣野姬天皇:持統天皇 (8) 〔471〕

高天原廣野姬天皇:持統天皇 (8) 


即位十年(西暦696年)正月からの記事である。引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらどを参照。

十年春正月甲辰朔庚戌、饗公卿大夫。甲寅、以直大肆授百濟王南典。戊午、進御薪。己未、饗公卿百寮人等。辛酉、公卿百寮、射於南門。二月癸酉朔乙亥、幸吉野宮。乙酉、至自吉野。

正月七日に公卿大夫と宴会を催している。十一日百濟王南典(①-)に直大肆位を授けている。即位五年(西暦691年)正月に百濟王禪廣(①-善光)等と共に登場しているが、無位だったようである。この後も活躍されて従三位まで昇進されている。十五日に薪を献上。公卿百寮人等と十六日に宴会、十八日には射会を行っている。二月三~十三日に吉野行幸。

三月癸卯朔乙巳、幸二槻宮。甲寅、賜越度嶋蝦夷伊奈理武志與肅愼志良守叡草、錦袍袴・緋紺絁・斧等。夏四月壬申朔辛巳、遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。戊戌、以追大貳授伊豫國風速郡物部藥與肥後國皮石郡壬生諸石、幷賜人絁四匹・絲十絇・布廿端・鍬廿口・稻一千束・水田四町、復戸調役、以慰久苦唐地。己亥、幸吉野宮。五月壬寅朔甲辰、詔大錦上秦造綱手、賜姓爲忌寸。乙巳、至自吉野。己酉、以直廣肆授尾張宿禰大隅、幷賜水田卌町。甲寅、以直廣肆贈大狛連百枝、幷賜賻物。

三月三日に「二槻宮」に行幸されている。斉明天皇の後飛鳥岡本宮の別名として「兩槻宮(天宮)」が記載されていた。十二日に「越度嶋蝦夷伊奈理武志」と「肅愼志良守叡草」に袴、斧などを与えている。四月十日に恒例の「廣瀬大忌神・龍田風神」を祭祀している。二十七日、「伊豫國風速郡物部藥」と「肥後國皮石郡壬生諸石」に追大貳位を授け、併せて布、稲、水田などを与えている。長く唐の地で苦労を慰めるために調役を許している。

四月二十八日~五月四日、吉野行幸。五月三日に秦造綱手(秦造熊に併記)に「忌寸」姓を授けている。八日に「尾張宿禰大隅」に直廣肆位を授け、併せて水田四十町を与えている。十三日、大狛連百枝(大狛造百枝)に直廣肆位と賻物を贈っている。

<越度嶋蝦夷伊奈理武志・肅愼志良守叡草>
● 越度嶋蝦夷伊奈理武志・肅愼志良守叡草

登場人物の固有人名が付いて、「蝦夷」、「肅愼」との融和は着実に進んでいたことを示しているのであろうが、やはり何処か雰囲気の異なる名称である。

その前に「越度嶋」と記載されているが、前出の「渡嶋蝦夷」が「越」にも居たような感じに受け取ってしまいそうだが、これは”罠”であろう。

前出の越智で用いられた越=足+戉=鉞の様と紐解いた。すると越度=鉞の地が渡す様と読み解ける。図に示した場所を表していると思われる。かつては兩箇蝦夷と表記された蝦夷の別名となる。

伊奈理武志の居場所を求めてみよう。伊=谷間で区切られた山稜も含めて見慣れた文字の羅列のように見えるが、「奈」は古事記では地形象形表記として用いられていない文字である。辞書を頼りに調べると本字は「柰」=「木+示」と分解される(大きな実がなる木)。

地形象形的には柰=山稜の端が高台となっている様と読み解ける。確かに「那良」の地形を「奈良」に置き換えることは難しいようである。纏めて読み解けば、谷間で区切られた山稜()の端の高台()が区切られて()戈のようになった地()が蛇行する川()の傍にあるところ、となる。

肅愼志良守叡草は、勿論肅愼國に住まっていたのであろう。現地名は北九州市門司区清見であり、古事記の熊曾建之家があった地と記載していた場所である。この人名も殆どが見慣れた文字であるが、地形象形表記と思われる「叡」は古事記には出現せず、書紀も極僅かである。

「叡」=「睿+又」と分解される。更に「睿」は「谷」、「目」の文字要素を含み、「かしこい、奥深く見通す」などの意味を表すと知られるが、地形象形的にはそのまま叡=奥深い谷間と解釈される。すると文字列は、山稜に囲まれて流れる蛇行する川(守・志)がなだらかになった地()で奥深い谷間()から延びる山稜に挟まれた小高い()ところと読み解ける。肅愼國の中心の場所であろう。勿論、熊曾建の家があった場所と思われる。

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少々余談になるが、上記の取って付けたような名前については前記した宋書倭國伝の『倭國の五王(讃・珍・濟・興・武)』に関連しているように思われる(こちら参照)。五王が朝鮮半島及び倭國を代表するほどの広い領域を確保したと上表することから歴代の天皇に比定する作業が行われ、極めて曖昧でありながら通説となっているのが現状である。

上記の越度蝦夷、肅愼の人物名は、明らかに融和した(させた)後に付けられた”倭風”名称であり、彼らは本来の”韓風”名称、おそらく一文字、を持っていたのではなかろうか。「讃・珍・濟・興・武」時代に新羅を出自の場所とし、日本列島に移住していたこと、それが朝鮮半島及び倭國を代表する発言の根拠となろう。

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<伊豫國風速郡>
伊豫國風速郡

「伊豫國」の郡では、銀が産出した宇和郡が登場していた。おそらくその近隣と目星をつけて探すと、その西隣にあることが解った。

「風」は龍田風神で用いられている。風=凡+虫=[凡]の形に囲まれて曲がりくねった地がある様と読み解いた地形である。

現在の白山山稜の平らは尾根から東に延びる山稜が示す地形を表している。幾度か登場の速=辶+束=束ねた様と読み解いた。「虫」の山稜が寄り集まった地形を表現していると思われる。

いつの間にやら「風早」に置き換えられているが、通常の意味から置換え可と考えられたのであろうが、全く異なる地形を表すことになる。書紀に「風早」の地はなく、それは”倭風”の名称ではないのである。

● 物部藥

白村江の戦いで捕虜となったのであろう。物部一族と解釈されているようだが、直接的な繋がりは求められない。既に述べたように「物部」は物=牛+勿=[勿]の形に山稜が延びる様と読み解いた。この地に住まう人々が「物部」を名乗っていたのである。彼ら一族と言われる氷連、置始連など隣接しても「物部」と名乗っていない。と言うことは、「風速郡」に「物部」地形がある筈、である。

本元に比べたら些か小ぶりではあるが、立派に要件を満たすような地形を示している。風速郡の南端に位置する。「藥」=「艸+絲+白+木」と分解される。書紀では好まれて使用される文字であり、人名に多用されている。簡単に訳せば、山稜に挟まれた丸く小高いところである。これも小ぶりながらちゃんと揃っているようである。

<肥後國皮石郡・壬生諸石>
肥後國皮石郡

「肥後國」は推古天皇紀に一度の計二度の登場である。また「肥國」としては宣化天皇紀に「筑紫肥豐三國屯倉」として、その存在を示す記述が辛うじてあるくらいの表記である。

古事記では、速須佐之男命が降臨する鳥髮の肥河が流れる「肥國」=「出雲國」であり(こちら参照)、現地名は北九州市門司区大里(旧地名)と推定した。

勿論これでは不味いわけで、何とか暈した表現をせざるを得ない状況に陥った書紀編者は、結局省略手法を採用したことになる。

即ち「肥國=出雲」ではなく、新たに「肥」(山稜の端が渦巻くように高くなった様)の地を設定したのである。そして、その背後に「肥後國」を設けたと解釈することができる。しかしながら「肥前國」の登場はずっと後になる(續日本紀、西暦740頃)。当然ながら、書紀・續紀には「肥國」は登場しない。

同様の手法が越前・越後に用いられている(詳細は續紀にて、越後の推定場所はこちら)。古事記の「高志」・「高志前」の「高志=越」と置き換えることから、「越前」は「越國」の下流域に置くのだが、「越後」は、全く異なる「高志」(皺が寄ったような谷間で蛇行する川があるところ)の川(谷間)の奥にある國とされていると解釈される。実に巧みに矛盾なく記載された書物群である。

話しが横道に逸れすぎるので、元に戻して、「肥後國」の現地名は北九州市門司区伊川である。おそらく南は越國、東は飛騨國・阿多との境、北側は風師山の東麓を含む地域を示しているのではなかろうか。皮石郡は、風師山東南麓に横たわる地()がを剝いだようにつるりとした様を表している思われる。

● 壬生諸石

既出の文字列である壬生=ふっくらとした地から生え出た様であり、諸石=耕地が交差する傍にある山麓の地と読み解ける。図に示した場所と推定される。「壬生」もその一族との解釈があるようだが、上記と同じく地形に基づいた命名と思われる。

この地の下流域は古事記の高志國之沼河比賣の出自の場所と推定した。また大毘古命の子、建沼河別命(阿倍臣の祖)も関係する地であり、古くから開けていたのであろうが、その最上流域に登場する人物はいなかった。「肥後國」も含めて貴重な記述であろう。

<尾張宿禰大隅・稻置>
● 尾張宿禰大隅

「尾張連」が「宿禰」姓を賜った、その一人であろうが、直廣肆位(48階中上位1/3に入る)、また水田40町も、と言う破格の褒賞であろう。

調べると、『壬申の乱』の時、天武天皇が桑名から不破へ移動する際に自宅を提供したようである。「筑紫大宰」の動静は把握できたとしても、その他は不明であり、この支援は、心理上も、極めて意味があったと推測される。

持統天皇がその恩に報いた、のであろう。「隅」はそのままの意味として解釈できるが、敢えて「隅」の文字を使ったのはより詳細は場所を示すためではなかろうか。

隅=阝+禺=よく似た形の積み重なった地が二つ並んでいる様と読み解ける。「隅」ではあるが、更にそれを満足する地形を探すと図に示した場所が見出せる。古事記の尾張連之祖意富阿麻比賣の出自の谷間の出口辺りと推定される。

後(續紀の元正天皇紀)に壬申の功臣であった「大隅」の子、稻置が登場する。功績に基づいて田を賜っている。稻=禾+爪+臼=しなやかに曲がる山稜の端が指を広げたような様置=网+直=真っ直ぐな地が閉じ込められている様と解釈した。すると父親の西側にある谷間がその地形を示していることが解る。

この親子が住まっていた場所は、桑名郡から不破郡に抜ける際、山裾を通り抜ける脇であることが解る。謀反人に自宅を提供するには、それなりの事前の協力取り付けがなければ不可であろう。尾張國司守小子部連鉏鉤も含め、尾張の造反は決定的であったと思われる。朝廷の処遇に何らかの不満が蓄積していたのかもしれない。 

六月辛未朔戊子、幸吉野宮。丙申、至自吉野。秋七月辛丑朔、日有蝕之。壬寅、赦罪人。戊申、遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。庚戌、後皇子尊薨。八月庚午朔甲午、以直廣壹授多臣品治、幷賜物、褒美元從之功與堅守關事。

六月十八~二十六日に吉野行幸。七月初め、日蝕あり。二日、罪人を赦している。八日に恒例の「廣瀬大忌神・龍田風神」を祭祀している。十日に「後皇子尊」(皇子高市)が亡くなっている。八月二十五日、多臣品治に直廣壹位を授け、物を与えている。当初から従い、鈴鹿關を堅守したことを褒められている。近江朝将軍田邊小隅から防いだ功績は大きく(「莿萩野の戦い」と名付けよう)、これを破られると桑名が危うかったのである。

「後皇子尊」は「後の皇太子」の意味であろうが、実際には立太子した記述はないようである。「草壁皇子尊の後」と読め、当時の実情は皇太子の役割(諸臣がそう見ていた)を果たしていたのではなかろうか。いずれにしても冠位と資産は圧倒的であった。柿本人麻呂が万葉集最長の挽歌を献じているようで、いつの日か読み下してみようかと思う。

九月庚子朔甲寅、以直大壹贈若櫻部朝臣五百瀬、幷賜賻物、以顯元從之功。冬十月己巳朔乙酉、賜右大臣丹比眞人輿杖、以哀致事。庚寅、假賜正廣參位右大臣丹比眞人資人一百廿人、正廣肆大納言阿倍朝臣御主人・大伴宿禰御行並八十人、直廣壹石上朝臣麻呂・直廣貳藤原朝臣不比等並五十人。

十一月己亥朔戊申、賜大官大寺沙門辨通、食封卅戸。十二月己巳朔、勅旨、緣讀金光明經、毎年十二月晦日度淨行者一十人。

九月十五日に若櫻部朝臣五百瀬(稚櫻部臣五百瀬)に直大壹位を授け、賻物を贈っている。十月十七日に右大臣丹比眞人に杖を与えているが、職務を辞したようである。二十二日に右大臣丹比眞人に正廣參位を授け、従者を百二十人を与えている。また、大納言阿倍朝臣御主人(布勢朝臣御主人)と大伴宿禰御行にそれぞれ八十人を、石上朝臣麻呂(物部麻呂朝臣)と藤原朝臣不比等(藤原朝臣史)に五十人の従者を与えている。

十一月十日に大官大寺(高市大寺)沙門辨通に食封三十戸を与えている。十二月初めに金光明經を読経し、毎年十二月晦日(三十日)に修行者十人を出家させることになったと述べている。

十一年春正月甲辰、饗公卿大夫等。戊申、賜天下鰥寡孤獨篤癃貧不能自存者、稻各有差。癸丑、饗公卿百寮。二月丁卯朔甲午、以直廣壹當麻眞人國見爲東宮大傅、直廣參路眞人跡見爲春宮大夫、直大肆巨勢朝臣粟持爲亮。三月丁酉朔甲辰、設無遮大會於春宮。

即位十一年(西暦697年)正月七日に公卿大夫等と宴会を催している。十一日に身寄りのない者などに稲をそれぞれ与えている。十六日に公卿百官と宴会。二月二十八日に當麻眞人國見を東宮大傅(皇子の教師)に、路眞人跡見を春宮大夫(皇子の世話係長官)に、巨勢朝臣粟持を副長官にそれぞれ任命している。三月八日、無遮大會を春宮(皇子の宮)で開催している。

上記で「後皇子尊」と記述されたように皇子高市が亡くなって、皇統継続の危機が発生した様子が伺える。世継が思うように行かないのは、常世なのであろう。些か気忙しい雰囲気が醸し出されている。ところで東宮、春宮の主は誰?…立太子しているのか?…など些か不明な、暈した表記となっている。そうしなければならなかった訳は?…最後に「皇太子」と記述されるが、固有の名称は省略である。

夏四月丙寅朔己巳、授滿選者、淨位至直位、各有差。壬申、幸吉野宮。己卯、遣使者祀廣瀬與龍田。是日、至自吉野。五月丙申朔癸卯、遣大夫謁者詣諸社請雨。

四月四日に「淨位至直位」の滿選者(有資格者)に授けている。七~十四日、吉野行幸。帰還の日に恒例の「廣瀬・龍田」(簡略に)を祭祀している。五月八日、大夫謁者を派遣して諸社で雨乞いをさせている。

六月丙寅朔丁卯、赦罪人。辛未、詔讀經於京畿諸寺。辛巳、遣五位以上、掃灑京寺。甲申、班幣於神祇。辛卯、公卿百寮、始造爲天皇病所願佛像。癸卯、遣大夫謁者詣諸社請雨。秋七月乙未朔辛丑夜半、赦常𨰃盜賊一百九人、仍賜布人四常、但外國者稻人廿束。丙午、遣使者祀廣瀬與龍田。癸亥、公卿百寮、設開佛眼會於藥師寺。

八月乙丑朔、天皇、定策禁中、禪天皇位於皇太子。 

六月二日、罪人を赦している。六日に京及び畿内の諸寺で読経させている。十六日に五位以上の者を遣わして京の寺を払い清めさせている。十九日、幣を神祇に奉らさせている。二十六日、初めて公卿百官が天皇の病の為に仏像を造っている。また、大夫謁者を派遣して諸社で雨乞いをさせている。

七月七日の夜半に盗賊等百九人を赦している。布を、外国人には稲を二十束与えている。十二日に恒例の「廣瀬・龍田」を祭祀している。二十九日に公卿百寮が藥師寺で仏像開眼の会を行っている。

八月初め、天皇は禁中にて皇太子(輕皇子、後の文武天皇)に天皇位を禅譲したと記載している・・・日本書紀の長~い物語が閉じられている。

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途中でも述べたが、持統天皇の頻繁な、三十数回の吉野行幸の理由については、過去に幾つかの推論がなされているようである。これらの諸説を整理された方がおられて、❶景勝遊覧・宴遊、❷風雨の順調祈願、❸三霊場での禊ぎ、❹天武帝・天武朝追懐、❺人間性の回復・蘇生、❻国家の安寧祈願、❼その他の副動機(地方巡守や神仙境憧憬など)となるらしい。

これら七つの目的で行幸された、と言っても良いような感じであろう。これだけの回数となれば、真実の目的が暈ける、ある意味それが狙いだったのかもしれないが、そんな状況なのかもしれない。舒明天皇が頻繁に有間温湯に行幸され、年越しまでされたと記述されていた。都での居心地が悪かったのでは?…と推察したが、思惑外れの皇子草壁崩御、太政大臣皇子高市を前面にした政事だったのかもしれない。

梅原猛氏の「吉野」は、夫天武と苦楽を共にした思いがその地を「仙境」とさせたと解釈するのも結構だが、この持統天皇は、なかなかに強かな女性であったと思われる。息子が外れたら孫に繋ぐ、思えば斉明天皇も勝るとも劣らない強かさの持ち主だったように感じれらる。対唐・新羅の国防戦略は彼女が画策したものであった。結果的には失敗となったが、それがあった故の百濟支援と思われる。

倭國→俀國→日本國の混乱期は女性天皇で救われて来たようである。世界の大国がそれぞれの思惑で割拠する時代に小国日本の進むべき道は”やまとなでしこ”の中に潜んでいるのかもしれない。いずれにしても、その後も吉野行幸は続き、後の聖武天皇が最後と言われる。奈良大和から北九州市小倉南区平尾台まで通うわけにはいかなくなった・・・のではなかろうか。

最後に「万葉集巻一・二十八」に持統天皇の歌が掲載されている。他にも多くの叙情的な内容の歌を作られているようだが、美しい風景を想起させる叙景的な内容を持つ歌と知られている。百人一首にも選ばれた有名歌である。

[原文]春過而 夏來良之 白妙能 衣乾有 天之香來山
[訓読]春過ぎて夏来るらし白栲の衣干したり天の香具山

<天之香來山>
春過の「春」=「屯+艸+日」と分解される。「屯」=「中に籠っている様」であり、日差しの中で今にも飛び出して来そうな草が土中に籠っている様を表す文字と知られる。

「過」=「辶+咼」と分解される。「丸まりながら動く様」と解説される。「咼」=「関節の骨」を象った文字と知られ、「丸い形」を示すことから導かれる解釈である。

「而」は「長く垂れた顎鬚」を象った文字と知られる。これを文字要素として用いた「儒」は續紀及び魏志倭人伝の「侏儒」に含まれていた。纏めると春過=谷間の山稜が丸まって小高く連なり長く延びた様と読み解ける。

夏來良之の「夏」=「覆い被さる様」と解釈されている。上記の「春」から草木が茂って覆い被される季節を表している。今來などで使われた「來(来)」=「山稜が長く延びて広がる様」と読み解いた。

頻出の「良」=「なだらかな様」、「之」=「蛇行する川」として纏めると、夏來良之=覆い被さるように延びて広がった地の傍でなだらかに曲がりながら流れる川がある様となる。図に示したように藤原宮・新益京の地形を示していることが解る。「来るらし」と訓されるが、「良之」は立派な地形象形表記である。万葉歌の示す万葉の表記であろう。

白妙能は「妙」=「女+少」と分解される。「嫋やかに曲がって山稜の端が削り取られた様」、即ち「春」の山稜と気付かされる。「栲」=「木+考」と分解され、「山稜が曲がって延び切った様」と読み解ける。地形的には類似の様子であろう。ここでも「能」は略しては勿体ないのである。「能」=「熊」=「隅」の関係をしっかりと示している。白妙能=くっ付いて並ぶ嫋やかに曲がって端が削り取られた山稜の隅と読み解ける。藤原宮の東側の小高い山を指し示していると思われる。

衣乾有の「衣」は、その小高い山の東~南麓を內藏衣縫造の出自の場所と推定したところと思われる。「乾」、「干」は共に「立て掛けて乾かす様」を意味する。更に細かい表記は、「有」=「右手+月」と分解され、「腕の様に曲がった尾根の谷間にある三日月の様」と読み解いた。前出の有間温湯などに多用された文字である。すると、衣乾(干)有=衣を立て掛けて乾かすような山稜の間に三日月の形の山稜がある様と読み解ける。

天之香來(具)山の「天」=「阿麻」=「擦り潰されたような台地」である。「香」=「黍+甘」と分解して、「窪んだところからしなやかに曲がって延びる山稜がある様」と読み解いた。古事記の天香山など幾つかの例がある。「來(来)」は上記と同様の解釈であろう。

纏めると、天之香來山=擦り潰されたような台地で窪んだところからしなやかに曲がって延びて更に長く広がっている山稜があると読み解ける。「天」は高天原廣野姫天皇に繋がっているのである。恐れ入った感じであろう。地形の特徴を余すことなく盛り込んだ”歌”であることが解る。あらためて持統天皇の藤原京・藥師寺・新益京への思いが伝わって来るようである。

「具」は読み手が付けた表記のように思われるが、しいて訳せば「具」=「山稜に囲まれた大きな谷間」と解釈した。例えば迦具夜比賣などがある。すると「香具山」は「香春三ノ岳」の山容を表しているようである。文字を変えては、示す場所が異なる。当たり前のことだが、無神経であろう。上記の「妙」→「栲」はたまたま何とか繋がっているが・・・俗に言われる大和三山「香具山・耳梨山・畝火山」の詳細はこちら・・・。

古事記本文で味わった歌の解釈であるが、やはり万葉集も同様の表現を行っているようである。勿論、従来より言われるように、持統天皇が藤原宮を訪れて詠われた歌であったことが明らかになったと思われる。そして藤原宮、藥師寺、新益京の場所をより確実にしているのである。

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さてさて、万葉集に進むべきか、續日本紀などを紐解くべきか・・・悩ましいところである。