香具山・耳梨山・畝火山

香具山・耳梨山・畝火山


1. 香具山

幾つかの名称があって、書紀では「香山」、万葉集では「天香具山」、現在の地名表示では「天香久山」などである。「香」は共通であって、名称は「香」の文字で表される地形に基づいていると思われる。

<(天)香具山/賀久山>
古事記の天香山などに用いられた文字であり、「香」=「黍+甘」と分解される。
更に「黍」=「禾+水」と分解される。

「黍(水分を含んだ穀物)を口に入れる様」を表し、それから通常に用いられる意味へと展開したと解説される。

地形象形的には、香=窪んだ地から(甘)山稜がしなやかに曲がりながら延び出た(黍)様と読み解いた。図に示した通り、香春二ノ岳と三ノ岳との間にある窪んだ地から三ノ岳の尾根が「黍」の様に延びている様を表していると思われる。

この窪んだ場所を麻山(擦り潰されたような山)と推定した。即ち、天=阿麻と繋がる表現であることが解る。

「具」は迦具夜比賣などの解釈に類似する。具=鼎+両手=山稜に囲まれた大きな谷間と読み解いた。「香」の山稜に囲まれた大きく深い谷間を表していると思われる。言い換えれば書紀の「香山」、一度だけだが「倭香山」と表記される。「天香山」に対する表現として、申し分なしであろう。「具」、「久」は余分に付加された、万葉集などでは語調を整えるために用いられたように思われる。

また文武天皇紀に賀久山と記載される。は「具」が示す谷間、それが久(く)の形に曲がっている様を表現したのであろう。この山の特徴は、「具」または「賀」の谷間であることを繰り返し述べていると思われる。

持統天皇が衣が干してある山と読んだ山…天之香來山…を「香具山」と記しては間違いである。使われている文字を勝手に変えては、その真意は伝わって来ない。逆に、歌は読み手が自由に、多様に解釈すべきものとするなら、その一側面だけから真実を求める古代の解釈は誤っているとも言える。

<耳梨(成)山/成會山>
2. 耳梨山

書紀本文では「耳成山」である。登場する人名では「耳梨」とあり、万葉集でもこの表記が用いられている。古事記では「耳梨」で、「耳成」の文字列は登場しない。耳=耳の地形であり、古事記の上宮之厩戸豐聰耳命などの例が多くある。

「梨」=「利+木」と分解され、梨=山稜が切り離された様と読み解いた。古事記の木梨之輕王など、それなりに出現する文字である。

耳梨山=耳の形に山稜が切り離されている山と読み解ける。香春二ノ岳の東麓の地形を表していると思われる。

「成」=「丁+戊」と分解される。「土地を突き固めた様」を表す文字と知られる。そのままの地形が「耳」に囲まれた場所を示しているようである。いずれにしても「梨」の表現がこの山麓の有様を的確に表していると思われる。

また文武天皇紀に成會山と記載される。同じように突き固めた様を表すのであるが、それが「耳」ではなく「會」の形と述べている。古事記の建小廣國押楯命(宣化天皇)が坐した檜坰之廬入野宮に含まれる文字であり、會=三角の形に積み重なった様を表していると読み解いた。その地形が西麓に見出せる。

<畝火山>

3. 畝火山

書紀では畝傍山である。古事記、万葉集では「畝火山」と記載されている。残念ながら現在の香春一ノ岳の山容は当時のままではあり得ない状態であり、現存する写真を基に推測するしか道はないようである。その推測から、この山は「飛鳥」の姿をしていたと推定した。

一~三ノ岳の山稜を「畝」と見做し、一ノ岳の「飛鳥」が羽を広げた姿を「火」と表現したものと思われる。これらの写真を信じれば、「畝火山」の地形象形表現は実に適切であろう。

書紀本文に幾度か登場したが、あらためて述べると、「傍」=「人+旁」と分解され、更に「旁」=「凡+方」に分解される。「方」=「刃が広がった鋤の様」を示すと解説される。傍=谷間にある刃が広がった鋤のような様と読み解ける。

山容を「火」と見るか、「鋤の先端」と見るかの違いであり、どちらも当時の香春一ノ岳の姿を表していると思われる。忘れてはならないことは、人=谷間が付加されることであろう。

「畝傍」と記載すると、その山は「谷間」に存在していることを示す。書紀、万葉集、勿論古事記も、その舞台は「大和三山」と名付けられた山がある地ではないのである。また文武天皇紀に宇尼備山と記載される。

<宇尼備山>
宇=谷間に延びる山稜がある様尼=背中合わせに並ぶ様備=谷間に箙の地がある様と解釈して来た。

殿服部造、神服部連の「服」=「箙」を示す。また後飛鳥岡本宮の別称兩槻宮、法興寺が表す地形は「箙」に類似する地形と思われる。

これらのが香春一ノ岳の東~南麓に所狭しと並んでいることが解る。実に見事に言い換えた表記である。「記紀・續紀」を通して徹底した地形象形表現を行っているのである。

「服部」の場所、「備」を「箙」とすることなど文字解釈の確からしさを高めてくれた別名表記である。あらためて思うに、”記号”ではなく”象形”に基づいて創られた漢字、倭人がその”象形”に着目して編み出した地形象形表記、それがあった故に「記紀・續紀」の書物が生まれたと推測される。谷間の水田稲作地形象形、史上、稀有な民族と言えるであろう。

取り上げるほどのことではないが、古事記に「香山之畝尾(木本)」の文字列が記載されている。勿論これは「天香山」のことなのだが(こちらを参照)、それを引っ張り出して来て「畝尾山」とし、「畝火(傍)山」の別名と解釈している方もおられる。都合の良い文字列を脈絡なく使うと言う典型的な例であろう。