魏書・隋書・後漢書・唐書東夷伝新釈

魏書・隋書・後漢書・唐書東夷伝新釈


漢字を用いた地形象形も古事記の表記ではすっかり馴染んで(?)来たように感じられるが、果たして他の書物では如何?…中国史書の魏志倭人伝など、勿論これは立派な漢文であろうが、そこに登場する地名・人名を「倭人」が名付けたとしたら古事記の表記と同じではなかろうか。そんな思い付きで読み解きを試みた。古事記新釈はこちら。尚、中国史書全体の日本語訳はこちら又はこちら参照。
 
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<目 次>

Ⅰ. 魏志倭人伝新釈
1. 邪馬壹國への道程
2. 周辺諸国:其の壱
3. 周辺諸国:其の弐
4. 登場する倭人  
4-1. 王・官   
4-2. 大夫等   
Ⅱ. 隋書俀國伝新釈
   1. 海岸・彼都への道程
  2. 登場する倭人    
    多利思北孤=??天皇
Ⅲ. 後漢書倭伝新釈
  1. 倭奴國       
    2. 東鯷⼈・夷洲・澶洲 
Ⅳ. 唐書東夷伝新釈
1. 旧唐書     
2. 新唐書     

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Ⅰ. 魏志倭人伝新釈
 
1. 邪馬壹國への道程

まさか?…と思いつつも、先ずは、特に「邪馬壹國」に至る行程の記述で登場する国名などを地形象形的に紐解くことにした。古事記のように複数回登場、あるいは異なる表記での検証などは望むべくもなく、全て古事記の読み解きに従うことにする。

あらためて従来よりの「邪馬台国」の比定地を眺めてみると、いやいや凄まじい・・・行程解釈の基本は古田武彦氏の『邪馬台国はなかった・・・』の論理に準拠する(写本無謬説も含めて)。

<魏志倭人伝(抜粋)>

倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國
從郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里

始度一海 千餘里 至對海國 其大官日卑狗 副日卑奴母離 所居絶㠀 方可四百餘里
土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活 乗船南北市糴

又南渡一海 千餘里 名日瀚海 至一大國 官亦日卑狗 副日卑奴母離 方可三百里
多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴

又渡一海 千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒
水無深淺皆沉没取之

東南陸行 五百里 到伊都國 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王
皆統屬女王國 郡使往來常所駐

東南至奴國 百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸
東行至不彌國 百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家
南至投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸

南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支
次日奴佳鞮 可七萬餘戸

登場する国は、對海國一大國末盧國伊都國奴國、⑥不彌國、⑦投馬國、⑧邪馬壹國である。倭人伝全体では多くの不祥な国名が記されているが、下記(邪馬壹國周辺諸国:その二)に纏めて述べることにする。尚、「其北岸狗邪韓國」と記される狗邪韓國については、この段の最後に述べる。
 
對海國・一大國

<對海國>
對海國一大國は、全員一致で、それぞれ対馬と壱岐島である。対馬は古事記では「津嶋」と表記されている。図に示したように津(入江)の島を示していると読み解いた。

詳細はこちらを参照願うが、海図からでも明らかなように複雑に入り組んだ入江を形成している。

Wikipediaには…、

対海国(つかいこく、對海國)とは、中国の史書に記述される倭国中の島国である。「魏志倭人伝」でも版によって表記が異なり現存する最古の版である紹熙本では「對海國」とされ、紹興本では「對馬國」とされることから、魏志倭人伝での誤記ではないかとさ(れ?)る。

…と記載されている。

對」=「業+土(大地)+寸(手)」と分解される。「業」=「ギザギザした様」を表すと解説される。地形象形的に解釈すると對」=「手のように突き出た地がギザギザになっているところ」と紐解ける。

對海國」はその對」がある海の国だと述べているのである。「対()馬」も無理矢理解釈すれば、対になった馬(山稜)となろう。「馬」=「馬の背の頂の山稜」が最もな解釈であろう。ちょっと対馬の山稜とは掛離れているが・・・。

更に『古事記』の「津嶋」(多島海の浅茅湾)は、現在の対馬全体の特徴を表す表記と解釈されるが、「對海國」の表記はその下島(南部)を示すものと思われる。島の大きさを表す「方可四百餘里」が下記の一大國の「方可三百里」からも示唆されるところである。また更に国の中心地については後に述べるが、「有千餘戸」(倭人伝中の最小戸数)からも、かなり限られた地域であると推測される。

魏志倭人伝の誤記?…では決してないことが解る。現在の地名からして何とも読み辛い「對海」が実に適切な地形を表していることが解る。勿論「馬」も間違いではない。この島は中央部の「津」が特徴的な島であるが、より的確な表記をしたのであろう。残念ながらその努力は報われなかったようである。

「馬」は何となく解るが、「海」は不詳・・・だから誤記とする。写記した人へのリスペクトは微塵も感じられない有様であろう。手にした貴重な情報が零れ落ちて行くのである。

『古事記』の伊邪那岐・伊邪那美の国(島)生みの段で「津嶋」の別名が「天之狹手依比賣」と記される。「狹手」=「狭い山稜が突き出た様」を表している。「手」=「突き出た山稜」と紐解いた。上記の「對」に対応する表現であろう。下記の「伊伎嶋」も含めて詳細はこちらを参照。

次の一大國は壱岐島とされる。古事記では伊伎嶋(山稜と谷間が互いに切り刻んだような島)であるが、この地は「天(阿麻)」(擦り潰された台地)と読み解いた(古事記冒頭の段の天神十七柱の配置図も参照)。
 
<一大國・高天原:壱岐>

Wikipediaを引用すると…、

一支国(いきこく、一支國)とは、中国の史書に記述される倭国中の島国である。

魏志倭人伝では「一大國」とされ他の史書では「一支國」とされることから、魏志倭人伝は誤記ではないかとされているが、誤記ではないとする説もいまだ根強い。

1993年、長崎県教育委員会は壱岐島の原の辻遺跡が一支国の跡であると発表し、話題となった。

…とある。上記と同じく「一支」は、現在の壱岐島の文字と類似するからであろう。では「壱岐」は何を意味しているのか?…「支・岐」が示すところは?…解っているのであろうか?・・・。

では倭人伝の「一大」は何と読み解けるか?…一(一様に)・大(平らな頂の山稜)となる。何のことはない全く同様の地形を表していることが解る。

そもそも「天」=「一+大」と分解されるのである。どうやら魏志倭人伝の地名表記は地形象形、と言うか倭人の表記を使っている(若干の置換えもあるかもしれないが…)と思われる。

「一大」は誤記ではないとする説もいまだ根強い・・・結構なことだが、誤記説が排除されていないことを憂う・・・と言いながら、古事記における「天」の解釈が確信に至ったかも、である。どうでも良いことになるが、原の辻遺跡は全くの無関係であろう。遺跡・遺物から古代を読み解くこと、ある意味百害あって一利なし、それは言い過ぎかも?・・・少なくとも遺跡は重要な意味を持っている筈・・・。

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大=大きい?・高=高い?

古事記で地形象形として用いられる「大」は、更に分解して、総じて「一+人」=「平らな頂の山稜(麓)」を表していると読み解いた。古事記中に381回出現する(因みに「王」は386回)。例えば出雲國は大斗(意富斗)と表記される。

また大倭豐秋津嶋の大倭は「大和」ではない。平らな山頂(尾根)から山稜が嫋やかに延びるところと解釈される。これらの文字を含む大倭帶日子國押人命(孝安天皇)が坐した葛城室之秋津嶋宮の場所を推定した例が挙げられる。「大和」に坐した天皇なのに「大倭」が付いたり付かなかったり、意味不明だ!…ではなく「大倭」なところに坐したか否か、なのである。

上記の「高天原」の「高」=「皺が寄ったような筋目がある様」と読む。「高い」と解釈しては全く伝わって来ない。『古事記』は、”神話風”に記述された「地政学書」であろう。勿論『魏志倭人伝』も、である。

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方可四百餘里」及び「方可三百里」の解釈も「何となくそのようである」に留まっているのが現状であろう。後に求められた各地の詳細な位置からするとこれらの距離も概略の値ではなく、実測されたものかもしれない。
 
對海國:方可四百餘里

「狗邪韓國」から一海を渡って着船したところは、「對海」(現在名は浅茅湾又は浅海湾)の入口、即ち対馬の西側に当たる場所であろう。その海を東(現在名は三浦湾)に抜けることになる。現在は幾つかの運河が掘られて容易に「對海」を抜けることが可能であるが、当時に運河はあり得なかったと推測される。
 
<對海國>
ならば「船越」するのが常套手段であり、現存する地名にも「大船越」、「小船越」が見出せる。

最も大きな運河は「万関瀬戸」であり、1,900年旧大日本帝国海軍によって開削されたとのことである。

その少し南側に1,671年に開通した「大船越瀬戸」がある。現在は漁港としての活用がなされているとのことである。

使者は迷うことなく「小船越」を通り抜けたと思われる。標高差10m以下、距離100m前後の細い谷間を抜けると三浦湾に繋がる入江に達することができる。

それから南下して對海國の中心地、現在の阿須浦に向かうことになる。概略の航路を図に示した。

暫しの休息を得て、次に向かうのであるが、まだ「瀚海」に向かわず、沿岸に沿って進んだと推測される。島の南東の端に達して、いよいよ次の「一大國」に向けて沿岸を離れたのであろう。

図に示した通り、「對海」の入ってからちょうど48km進んだところである。上記の「八百餘里」に該当する(60m/里)。下記する末盧國~伊都國及び伊都國~(奴國)~不彌國における換算里程数に一致する。即ち海上船行ではあるが、沿岸海路ならば陸上歩行によって求めた距離に置換えることができたのであろう。「對海」航行の際は、それが難しく、「餘里」とアバウトな表記となったと思われる。
 
一大國:方可三百里

<一大國>
瀚海」を「千里餘里」渡って着船したのが現地名のタンス浦と推定した(下図参照)。

大国主命の末裔の系譜が新羅を巡った後に留まった地である。「一大國」は「高天原」の西の端と推定した。

対馬と同様に壱岐島の東南端まで沿岸海路で向かい、そこから次の「末盧國」に渡ったと思われる。

忠実に沿岸海路を求めてみると36km(六百里)となる。「餘」が付かないのは、自信あり、の表れかもしれない。

尚、一部の岬は当時は島状の地形であったと推定した。いずれにしても恐るべき精度であることが解る。

古代人の数値が”ええ加減”なのではなくて、そっくりそのまま読み取る方に返すべきであろう。

方可四百餘里」及び「方可三百里」と簡単に記載されていることから”ええ加減”な印象を受け、現在に至っている。確定的な比定地であれば尚更のこと記載された内容との検証が可能となるのではなかろうか。

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末盧國

さて、諸説紛々の地名比定に入って行こう・・・。
 
<末盧國>
末盧國からは文字の地形象形を検証するわけには行かず、この文字列そのものを紐解くことになる。

古事記に登場する息長帶比賣命が立寄った筑紫末羅縣に関連する解釈もあるが、全て文字列の類似が根拠である。「末」の地形表記は「山稜の端」とした。

「盧」の関連する文字は古事記に登場する大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)が坐した黑田廬戸宮に含まれる「廬」である。

それに含まれる「盧」=「虍+囟+皿」と分解される。「虍」=「虎の縦縞の様」と読んで地形象形的には盧=虎の縦縞()のように僅かな隙間()が揃って並んでいる(皿)ところと解釈した。

その極めて特徴的な地形が、山稜の端、現在の東松浦半島の東側に見出せる。地形形成の基本的なところに拠るのであろうか、ほぼ東側全域に見られる断崖が「虎の縞模様」を呈しているのである。

「末盧」の解釈は様々になされて来ているが、総て現存地名との類似性に根拠を求めている。松浦などであるが「盧」が示す地形を根拠にした説は見当たらないようである。上記の「黑田廬戸宮」以外にも古事記に「盧」に関連する文字列が登場する。

例えば、安康天皇紀に五處之屯宅と言う文字列が登場する。「處」=「虍+処」と分解して「五つの縦縞のような山稜があるところ」と読み解いた。総て「虎の縦じま」で読み解けるのである。日本列島には棲息していない「虎」を用いた地形象形は「倭人」の出生の地を伺わせるものであり、彼らが対馬、壱岐島を経て日本列島に広がって行ったことを物語っていると思われる。

そして「末盧國」の領域は、その崖下の場所と推定される。決して東松浦半島全域でもなく、松浦川河口付近の平野部、松浦潟などを含むものではない。極めて限定された地にあった国であると推定される。「盧」が地形象形として用いられていると解釈して初めてその国の有様が浮かび上がって来たのである。

・・・とここまで比定場所について古田武彦氏の説に異論を唱えているわけではない。がしかし、いよいよ邪馬壹國へ向けて旅立つことになる。

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佐賀県唐津市の東松浦半島(上場台地)の先端に屋形石の七ッ釜と言われる場所がある。玄武岩の柱状節理が見られるところとして国の天然記念物に指定されているそうである。これが半島東部の特異な形状を作っていると思われる。それを「盧」で表記したと読み解ける。

「末盧國」について原文に「濱山海居」と記されている。断崖の裾の狭い場所であったことが伺える。この国の広さと「有四千餘戸」と記された戸数の関係は、この後の国々の戸数に関連して極めて重要な意味を持っていると思われる。

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伊都國

<伊都之尾羽張神>
伊都國は「イト」と呼ばれているようである。通説では福岡県糸島市、福岡市西区(旧怡土郡)付近に関連付けられている。

「伊都」の文字列は、古事記中重要な場所を示す、「天」の中心地である。

天石屋に坐していた伊都之尾羽張神、最強の建御雷之男神の父親であり、銘刀の作者でもある(古事記の図を再掲)。

伊都=燚(イツ)と読む。火山が寄り集まった地を表すと解釈する。そんな地が末盧國の東南にあるか?…背振山山系の西側一帯に広がり、南は多良岳・雲仙岳に繋がる火山帯に包まれた場所である。
 
ここで博多湾岸に向かう従来の説とは大きく異なることになる。通説の糸島半島は、おそらく火山性の山で成り立っていたかと思われるが、当時は半島ではなく、その名の通り「糸島」であったと推測される(半島の付け根は標高5m以下)。向かうには「陸行」ではなく「水行」となる。福岡市西区(旧怡土郡)とすると「燚」を求めることは不可能であろう。
 
<伊都國>
更に末盧國から「東南」の方角にはない。東~東北方に当たる。これを末盧國から向かい始める方向が東南だから、倭人伝の筆者はそれを記載した、かのような説明がなされている。

次の段で述べるが、奴國と投馬國へは実際に向かうことはなく、方角を記したとするのであるが、これも向かい始める方角のことなのであろうか?・・・天子への報告書ではあり得ない。

怪しげな解釈のままであろう。「伊都」の示す意味も明らかにされてはいない。「糸(怡土)」の読みの類似に拠る解釈である。

「末盧國」について「草木茂盛行不見前人」と記されている。そんな未開の地を陸行するくらいなら同じ玄界灘に面する「伊都國」に直行すれば済む筈であろう。

「末盧國」を経由する必然性があった、東南の内陸に向かうために・・・未開の地とすることは倭國の水際防衛を意味するのである。外海に開かれた無防備な港湾の都はあり得ない、と思われる。

それにしても古事記に登場した文字列そのものであること、それが地形象形した表記であることに些か驚かされた。「伊都國」は「燚」の中央部、現在のJR岩屋駅の近隣と推定した(登山関連のサイトから可能な限り山の名前を抜き出してみた)。現地名は唐津市厳木町本山・岩屋辺りである(厳木[きゅうらぎ]の由来は後述)。

尚、『古事記』では「伊」=「人+|+又」(谷間で区切られた山稜)と解釈する。伊豫之二名嶋の伊豫・の例がある。「都」=「者+阝(邑)」と分解すると「者」=「台上で枝を集めて燃やす」様を象った文字と解説される。伊都=谷間で区切られた山稜に燃える高台が寄り集まっているところと読み解ける。重層の地形象形表記なのである。後に登場する「一大率」、「鬼國」などと関連しているが詳細は下記を参照。

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「都」は呉音「ツ」、漢音「ト」と知られる。古事記では決して「ト」と読まれることはない。例示すれば上記の「伊都(イツ)」の他に角鹿(都奴賀:ツヌ[ノ]ガ)がある(現在の敦賀ではなく、下関市門司区喜多久と推定)。具体的な例示は避けるが、挿入される歌でも「都(ツ)」と読むことで解釈される。

現在でも両用されているとは言え「伊都(イト)」=「糸、怡土」が”確定”したような解釈はあり得ないであろう。「伊都國」を博多湾岸から外すと、「邪馬壹國」を瀬戸内海の遥か彼方、近畿に持って来ることは絶望となる。九州説と近畿説の両者の妥協の産物なのであろうか?・・・。

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奴國・不彌國

<奴國・不彌國>
奴國の導入部に「行」が付かないことから、実際に向かったのではないと看破したのは実にお見事である。

さて「奴」は何と解釈するか?…この文字は古事記多用される文字の一つで、計53回登場する。

その代表的な例は高志前之角鹿(都奴賀)であろう。「奴」=「女+又(手)」と分解される。

嫋やかに曲がる手(腕)のような山稜と紐解いた。

真っ直ぐな山稜は少なく、大抵は曲がっている。重要なのは、その先端が「手」のように幾つかに分岐しているところを表している。それを「腕」を含めた「手」と見做している。

多久市西多久町の山稜にその地形を見出せる。そして「伊都國」から東南の方角にある。女山(船山)の裏手に当たる。確かに「不彌國」へ向かう行程からすると脇に外れることになろう。

そして行程は不彌國へと進む。これに含まれる文字も古事記に登場する。「不」=「花の子房」を象った文字で「咅」と同義であると解説される。例えば大毘古命の御子、建沼河別命が祖となった阿倍臣、また、袁祁之石巢別命(顯宗天皇)陵の片岡之石坏岡上などにも含まれていた。図には「不」の文字形そのものを示した。


「彌」=「広がり渡る様」の文字と言われる。不彌=子房のある花が広がり渡ったようなところと読み解ける。その地は多久市北多久町に見出すことができる。現在の標高からすると、その東側は有明海に面していたと推測される。

古事記の近淡海國(現豊前平野)では現在の標高約6~8m付近のところが当時(35世紀)の海岸線であったと推定した。故にこの地より南方へ水行二十日で「投馬國」に至ると記載されている。海が南の方角で面していることは遠望する上で至極自然であろう。北に向かって海を眺めながら南の國に思いを巡らす、そんな記述は行わない、のでは?・・・。

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ここで末盧國伊都國奴國、⑥不彌國までの方角と里程数の確認を行ってみよう。魏志は、現在の唐津市佐志浜町にあった港に着き、そこから「陸行」で伊都國に向かったと記されている。末盧國の記述に「草木茂盛行不見前人」とあり、藪漕ぎの如くに進んだのであり、国と国とに端境にあるところは更に険しい道を歩んだのであろう。東南陸行 五百里 到伊都國」東南方向で五百里だから、概ね30km程度の「陸行」と思われる。
 
<末盧國→伊都國>
唐津市佐志の谷間を南に向かうのであるが、東に向かうことは叶わなかったと推定される。

図に示したように当時の唐津湾は虹の松原の砂洲が延びた内側は、巨大な汽水湖の様相であったと推測される。

松浦川およびその支流の徳須恵川、半田川の上流域にまで広がり、徳須恵川では日岳の東北麓辺りまでが汽水の状態であったと思われる(現在の標高5m以下)。

即ち陸路ならば佐志の谷間から日岳の麓に迂回する必要があったことが解る。

まかり間違っても現在の国道203号線あるいはJR唐津線のようなルートは選択されなかったのである。

『古事記』の秋津(宗像市)橘小門之阿波岐原(遠賀郡岡垣町)と極めて類似した地形を示している。

豊かな漁場であり、小舟を浮かべて縦横に往来していた場所であろうが、賓客には、それを用いることは避けたのであろう。倭國の水際防衛である。

日岳の麓に届いたなら後は山越えのルートになる。岸岳南麓を迂回し、相知町佐里辺りで松浦川を渡渉する。ここまでの上流であれば大河松浦川を越えられるであろう。日ノ高地山北麓の谷間をすり抜けて、平山川を渡渉する。引き続いて相知町押川の谷間を登れば厳木町本山に届く。現在のJR岩屋駅近隣である。Google Mapの距離計算によれば、ジャスト30kmとなった。


末盧國から東南の方角を忠実に従ったとすると、有明海に抜けるとした記述も散見される。がしかし、直線距離で判断しては「陸行」の見積もりを大きく外してしまうことになろう。「水行」の距離測定に誤差が生じるのとは異なり、歩測でかなりの精度を有していたと思われる。勿論「道」は如何様にも変化することは重々承知の上で・・・。ほぼ一日で歩くことのできる距離ではなかろうか。
 
<伊都國→奴國→不彌國>
続いて奴國不彌國に向かう。伊都國、現在の厳木町本山のJR岩屋駅辺りを出発したとして、厳木川沿いの道を進んだと推定した。

上記の末盧國からの道筋とは地形が大きく異なり、山深い谷間を進むしか選択の余地はなさそうである。

厳木、中島、牧瀬を東南方向に進むと笹原峠(現地名多久市北多久町小侍)にぶつかる。

北部方面からの外敵の侵入に対して、実に天然の防御地形であることが解る。この地点で岩屋駅辺りからの距離が約6kmに達する。即ち百里となる。

そしてこの地は奴國の北端に当たるところと推定される。「行」が付かない故に実際に向かわなかった。その通りである。奴國の地に踏み込むが、その国を訪れたわけではないことを表していると解釈される。

と同時に東に向きを変えてて不彌國へと歩んだのである。伊都國から不彌國の中央部への総歩行距離はGoogle Mapで約11.9kmと表示された。奴國の地、笹原峠から約5.9kmで不彌國に達すると読み解ける。上記の末盧國から伊都國、伊都國から(奴國)不彌國への歩行距離、凄まじいばかりの精度であろう。

上図<奴國・不彌國>に示したように、奴國は北部方面(笹原峠)及び西部方面(女人峠)、不彌國は東・南部方面で古有明海に面した国防体制を敷いていたことが読み取れる。極東の最果ての国ながら、優れものの国であることを、決してあからさまにせずに陳寿は記述したように感じられる。彼の優しさが招いた「邪馬台国論争」なのかもしれない。

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邪馬壹國

さて、「投馬國」は後で述べるとして、いよいよ「邪馬壹國」である。「帯方郡」から「万二千里」対馬と壱岐島の島巡りを入れるとピッタシ、と言う見事さに敬意を払って(実際に巡行したかどうかではなく、空間として加える要あり)、上図に示したように「不彌國」に接する場所であろう。

では「邪馬壹」は何と紐解けるか?…「邪」=「牙+阝(邑)」と分解できる。「牙」=「∨」が「阝」=「邑」(集まる)して「∨∧∨∧…」象形から「曲りくねった様」と読める。「よこしま」の意味もこれから派生する。古事記中に出現した文字列は、ほぼ「曲りくねった様」で解釈できる。

しかしながら、ここでの「邪馬」はもっと直截的に地形を表していると思われる。即ち「邪」も「馬」も、各々の「形」そのものを表していることが解った。
 
<邪馬壹國>
山稜が作る模様が「馬」の姿を示し、その頭部に二つの「牙」がある、そのものズバリの地形象形を行っているのである。

「壹」は如何に紐解けるのか?…「臺」の誤りだとか、一時はその話題で古代史が賑わった経緯がある。

果たして「壹」なのか、それとも「臺」なのか・・・。

「壹」=「吉+壺」と分解される。更に「吉」=「蓋+口」と分解される。

即ち「壹」=「いっぱいものが詰まっている壺に蓋をする」様を表す文字と解説される。

これによって単に「一」を示すばかりではなく「一つに纏める、専ら、総(じ)て」などの意味を表すことができる文字となっていると解釈される。


<壹>
古事記に登場する天押帶日子命が祖となった壹比韋臣などがある。上記の「牙」と同様に倭人伝は、文字形をより直接的に用いているようである。

図に「馬」の文字がその姿を象形しているとして、各部位を矢印で示した。「頭部」には「牙」はない、故に「邪」を付加したのである。

山稜の形を「馬」に喩えるのは古事記でも常套の手法である。例えば天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で誕生した天津日子根命が祖となった馬來田國造は、尾根から延びる複数の枝稜線を馬の脚と見做したと解釈される。福岡県行橋市の御所ヶ岳・馬ヶ岳山系に極めて類似する地形と思われる。

邪馬壹=牙のある馬のような山稜が蓋をしているところと紐解ける。上図<奴國・不彌國>から分るように「伊都國」から細い谷間をくぐり抜けた後の「奴国」、「不彌國」がある「壺」のような谷間に蓋をするように横たわって、一つに纏めたような山稜を表している。

古田武彦氏は、「邪馬壹國」の場所を明確に示してはいない。博多湾岸の何処である。「壹」=「一つに纏める、総べる」と解釈しても一応の意味は通じるようだが、「蓋」を使ってより直截的な地形象形となっている(古田氏は「二つとない、唯一の」のような解釈だが…)。とは言え「不彌國」は当然としても「奴國」も邪馬壹國」に接するとした慧眼を再見することになった。

こうしてみると、古事記の地形象形は、少々穏やか(読む方にとっては解読し辛い?)なのかもしれない。何となくそのような気がするのだが・・・倭人伝は気遣うところなし、かも・・・。

「邪馬」→「耶馬」とも表記されるようである。「耶」は「邪」の異形字とのことだが、「耶」=「耳+阝(邑)」と分解される。「牙」→「耳」となる。「牙」は見ようによっては「耳」の形でもある。これもなかなか興味深い置換えであろうが、「耳」の位置として適切か?・・・単に「邪」(卑字?)を回避したのでは本来の意味するところが暈けて来るようである。

「邪馬壹國」は最も南に位置する配置となった。倭人伝には更に多くの国が記載されている。果たしてどうなるのか・・・下記を参照。ところで、調子に乗って、女王「卑彌呼」は何と紐解けるか?…文字解釈によって図に示したところとなったが、結果的には坐した(古事記的表記で)ところは「邪馬壹國」の中央である。詳細は不明だが、遺跡があるとか・・・。

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『魏志倭人伝』以外の中国史書では「臺」の文字を使う。「邪馬臺國」である。「臺」→「台」と置換えて「邪馬台国」と通称される。そもそも「臺」と「台」とは別字なのだが、通用されて来たとして現在もこの置換えが当たり前とされている。上記の「壹」と同じくこの文字を紐解いてみよう。

説文解字によると「臺」=「之+至+高」と分解される。「之」は「進む」と「止まる」の二つの動作を含意する文字である。『古事記』では「之」=「蛇行する川」と読み解いた。「蛇行する」とは「進みつつ止まる形」を表していると解釈される。「至」=「矢が突当たった様」の象形(下図参照)である。「高」=「高い」とすると…臺=曲りくねりながら行き着いた高いところと読み解ける。


<至>
「臺」の通常使われる意味「物見台(うてな)、高く平らな土地」なども文字の構成要素から解釈できるようであるが、上記のように紐解くと、文字が持つ深層の意味が読み取れる。すると、邪馬臺=牙のある[馬]の地形で曲りくねりながら行き着いた高いところと読み解ける。

「壺」の外から見れば「壹」(蓋の地)であり、その中から覗けば「臺」(行き着いた高台)であると解る。即ち「壹」は極めて的確な地形象形であると同時に「臺」も「邪馬」の配置を的確に表現しているのである。日本の古代史は、何と無益な論争を行って来たのであろうか、実に愚かな歴史を刻んだものである。

「臺」と「台」の置換えはともかくとして、ジャーナリスティックな『邪馬台国はなかった・・・』も無益な論争に加担したと気付くべきであろう。古田氏は後に「邪馬一国」という表記も行っているが、「壹」→「一」の置換えはあり得ないのである。

少し余談になるが・・・『古事記』には「臺」が一度だけ登場する。大雀命(仁徳天皇)紀の説話に大后の石之日賣命が嫉妬に狂って彷徨う場面で、仁徳さんが坐したところを「天皇坐高臺」と記述されている。難波之高津宮を示すのが「高臺」である。これらの高=皺が寄ったような筋目の山稜と解釈した。

あらためて読み解くと、高臺=皺が寄ったような筋目の山稜が曲りくねりながら行き着いた高いところとなる。高津宮は山頂・中腹にあるのではなく、山麓の小高いところにあったと述べているのである。漢字を使い勝手のために簡略化したり、元の文字が持つ一側面の意味を他の文字で置換えたりすることに慣れてしまった現在では古文書が伝える深層を読み解くことは叶わない、と気付かされる好例であろう。

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投馬國

<投馬國>
⑦投馬國は「南至投馬國 水行二十日」と記される。「投馬」を紐解いてみよう。「投」=「扌(手)+殳」と分解される。「殳」=「動かさずに止める」とされ、「投」=「ピッタリと収める」の意味を示すと解説される。「投入、投薬」などで用いられている。

「邪馬壹國」の南方にそれを求めると、現在の島原半島辺りではなかろうか。当時はほぼ島の地形であり、有明海を塞ぐようにピッタリとはまっているように見える。

この地形が驚異の干満差(6m日本最大)を生じることになる。そして広大な干潟を形成する有明海の特徴を示すのが「投馬國」なのである。それを見逃す筈はない、のではなかろうか。後に「侏儒」=「阿蘇」も登場する。

さて、女王國から「水行二十日」の距離は不確かだが、「水行」するのが当たり前の場所であることには違いはないであろう。雲仙岳の山稜を「馬の形」に見做したと思われる。

通説は諸説があって定まらないが、「投馬(ツマ)」の訓から類似の地名とするようである(「水行二十日」については、後の裸國黑歯國への「船行一年」に関連、後に述べる)。

「戸数」について・・・「邪馬壹國」の比定地、これも根拠の一つとして挙げられているようだが、博多湾岸、有明海など、それに面する現在の中心都市の大半は、海面下であったことを棚に上げているように感じられる。


<投馬國俯瞰図>
「末盧國」について「有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前人」、また「伊都國」は「千餘戸」と記述されている。

上記の「末盧國」、「伊都國」の居住可能な面積に基づくと「邪馬壹國」の「可七萬餘戸」及び「奴國」の「有二萬餘戸」は、あり得なくもないように思われる。

参考にする古事記の近淡海それは現在の行橋市を示すが、その中心地はものの見事に海面下であったと推定した。

時と共に広がった、埋め立てた扇状地、古事記の時代と大きく変化したのは、この地形である。大河の河口付近、多数の川が注ぐ入江を俎板に載せることは”危険”な作業であろう。

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②一大國⑥不彌國については「戸」ではなく「家」と記載されている。「戸」=「出入口」の扉を象った文字、一方「家」=「宀+豕」であり、家畜を屋根で覆った状態を表すと解説される。おそらく「戸」は出入口のある建屋で、「家」は出入口が(定かで)ない建屋のことを述べているのではなかろうか。人が住まう場所であったり収穫した穀物を保管する「戸」がある建屋とそれ以外とを区別して表記したと推測される。戸(家)の数から人口を見積もることは難しいようである。

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少々余談になるが、御眞木入日子印惠命(崇神天皇)紀に疫病多発説話が載せられている。その時天皇が取った防御の手段は都への出入口に神々を配置して塞ぐことであった。日常の利便性を考えれば一方は川であることが重要であろうが、その他は山で取り囲まれた地形でなければ外敵に対応することは叶わなかったのであろう。

この説話は天皇が坐した師木水垣宮の在処を示すと共に当時の都が具備すべき場所の地形を見事に示していると思われる。断じれば「邪馬壹國」は、博多湾岸にはあり得ないことを述べているのである。勿論奈良大和はこの条件を満たすであろう。古事記の記述範囲外で事実として存在する奈良大和に何故都は置かれたのか、崇神天皇紀の「疫病多起」が物語っていると憶測される。

上図に示したように「邪馬壹國」は、北から天山~[笹原峠]~女山(船山)・八幡岳~[女山峠]~徳連岳~鬼ノ鼻山~両子山~[牛津川(古有明海)]で取り囲まれた地形を示している。古事記の「師木」との類似性をあらためて気付かされる場所である。[ ]で括ったところが外界へ通じる通路である。

「伊都國」に郡使が「往來常所駐」と記された意味が明瞭に伝わって来る。[笹原峠]は北からの外敵の侵入を抑える”関所”であったことが解る。差し詰め古事記の[金辺峠]に該当するものであろう。古代の都が置かれた地形、それを偲ばせる記述であることが解る。

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狗邪韓國

從郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里」の記述に登場する国であり、「倭国の北岸」を示すと解釈されている。帯方郡から向かった先は「對海國」に向かうための場所、朝鮮半島の南岸であり、なんとも北と南が入り乱れてスッキリしない解釈のままである。

「狗邪韓國」については世界大百科事典によると…、

3世紀の朝鮮の弁辰十二国のうちの一つ。狗邪は加羅(から)(加耶)で,後の釜山・金海の地。《魏志倭人伝》に〈韓国を歴て,乍(あるい)は南し乍は東し,其の北岸,狗邪韓国に到る七千余里〉とみえる。《魏志韓伝》には弁辰狗邪国とある。この国の位置からして,狗邪韓国は,倭と朝鮮半島の帯方郡通交のさいの中継地として古くから重要な地帯であったことを思わせる。
 
<狗邪韓國>
…と記載されている。漠然とした理解なのは、「狗邪韓國」そのものが明確になっていないからだと思われる。


上記の「邪」、また後に登場する「狗」を用いた命名ならば同様に地形象形した表記であろう。

「狗」は「犬+句」と分解する。「犬」=「平らな頂の山稜」と読み解いた。

後の「狗奴」では平坦な頂と解釈するが、この場合は山稜の尾根がなだらかになっている様と読み解く。

「邪」も上記と同様に「牙が集まった様」とする。重要なのが「韓」、「韓國(カンコク)」と読んでしまっては、勿体ない。

「韓」=「倝+韋」と分解される。「倝」=「高くなる様」と解説され、「韋」は「圍(囲)」の原字である。すると「韓」=「高くなったところで囲まれた様」を意味すると読み解ける。

通常、「井桁(井戸のまわりの囲い木)」の意味で用いられる。『古事記』の大年神の御子に韓神が登場する。大国主命と八上比賣の御子、御井神が坐したところと推定した。また葦原中國の「葦」も類似する解釈である。

これで「狗邪韓國」の場所が特定できる。図に示したように慶尚南道金海市進礼(面)の地形が見事に合致することが解る。「牙」のある頭部に当たる龍蹄峰[723m]~大岩山[669m]~南山峰[410m]~テジョン山[290m]、また東側は北からムルン山[313m]~ファンセ山[392m]~メボン山[339m]に取り囲まれた盆地となっている。

『古事記』に登場した神々の配置も併せて示した。「狗邪韓國」を取巻くように大國主命の後裔等を並べたことになる。『魏志倭人伝』と『古事記』が相補って「韓國」の詳細を語っているように見受けられる。因みに「伽耶」の「伽」=「寄り添い侍る」、「耶」=「邪」=「牙が集まったところ」とすれば現在の伽耶大学のある南北に広がる谷間を示していることが解る。

上図から解るように「狗邪韓國」は「北岸」(現地名金海市進永・翰林)を有している。即ち洛東江(当時の流域・川幅は、より広い範囲を示していた)に面していたと推定される。それを「其北岸狗邪韓國」と記したと読み取れる。おそらく帯方郡を発って「韓國」の北方である現在の忠清南道牙山市辺りで上陸して「韓國」内を「乍南乍東」して「陸行」南下し、「北岸」に辿り着いたと読み解ける。朝鮮半島西岸の「水行」はあり得ないことになるが、「隋書」の時代とは異なる(下記参照)。

この盆地の東南の出口(現在は高速道路が走る)から暫くすると巨大な入江に突き当たることになったであろう。現標高が定かでないが、洛東江河口が大きく広がった海であったと推測される。この地が、對海國との航路の発着所と推定される。残念ながら韓国地図の詳細が入手できず、その発着場所の特定は叶わないようである。

「韓國」の由来も「山稜に囲まれた様」に拠るのかもしれない。朝鮮半島の75%が山岳地帯であり、最高標高も2,000mを越えることはないとのことである。『古事記』に登場する比比羅木はその地形を表していると紐解いた。

余談だが・・・「新羅」の「新」=「辛(刃物)+木+斤(斧)」であり、「木を斧で切った様」から派生する意味と解説される。「比比羅木」の図にある通り、「新羅」の地に奇麗に並んだ山稜の筋目が見える。

「百濟」は「百」=「一+白」=「一様に小高いところがある地形」、「濟」=「水+齊(斉)」とすれば、一様に小高いところが水(海)の傍らで等しく並び揃っているところと紐解ける。『古事記』の応神天皇紀に登場した古波陀の地、その地形を示していると読み解ける。どうやら、朝鮮半島も「倭人」が持ち込んだ漢字による地形象形で名付けられているように思われる。

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読み解き初めの魏志倭人伝、詳細を云々するのは時期尚早、ともあれ登場する倭国の地名、それは地形象形の表記であることが確認できた、ことで良しとしよう。

不幸(?)にも「伊都國」、「奴國」、「不彌國」そして「邪馬壹國」の比定場所は、従来に提案されたものの中には含まれていないようである(唐津から多久に抜ける提案はいくつか見受けられるが、古有明海に突き抜けてしまうようである)。

既に何処かで述べたように、漢字を用いた地形象形の表現は、決して古事記オリジナルではないと思われる。当時は当たり前、そして的確にその地の情報を含めた命名となっていたのであろう。それをグジャグジャにしたのが日本書紀である。律令制以後は、それを行うと死罪だったのかもしれない・・・。

古事記はこの地のことを全く語らない。九州本土においては胸形(現宗像市)より西方は登場しないのである。この地の存在を知らない訳はない筈、天神達の本拠、壱岐島はこの地の方が近い。何故か?…日本の古代の根幹に関わることだと感じるが・・・。

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最後に「倭」の文字ついて述べておこう。従来では、古事記の解釈も含めて、「倭」=「大和(ヤマト)」とされているようである。しかしながらこの文字が持つ意味は、全く繋がらないことが解る。

「倭」=「人+委」と分解される。更に「委」=「禾+女」と分解できる。「禾」は「稲穂のしなやかに曲がる様」を、「女」は「嫋やかに曲がる様」を象った文字である。即ち「委」=「しなやかに嫋やかに曲がっている様」を表している文字と解説される。地形象形的には、弱弱しく畝りながら全体としてしなやかに曲がっている山稜を示していると解釈される。

古事記はこれを多用し、例えば「大倭」、大倭豐秋津嶋や大倭日子鉏友命(懿徳天皇)、大倭帶日子國押人命(孝安天皇)、大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)、大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)など和風諡号に出現する。「大倭」=「平らな頂からしなやかに畝って延びる山稜」と読み解ける。

「倭(ヤマト)」では、全く日本の古代を知ることは不可能である。いや、そうすることで奈良大和と恣意的に関連付けることが目的だったのであろう。御眞木入日子印惠命(崇神天皇)、古事記原文に「故稱其御世、謂所知初國之御眞木天皇也」と記されている。「大倭」が付いていない。何故?…訝しがっている方もおられるように、「大倭」の表す意味が全く読み取れていないのである。

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2. 周辺諸国:其の壱 

上記で「邪馬壹國」は、現在の佐賀県多久市にあったと推定した。古事記の地形象形手法と類似して「邪馬」=「牙のある馬」の地形を表していると読み解いた。また「壹」=「吉(蓋+囗)+壺」と分解され、その「馬」が「壺のような谷間の出口で蓋をするように横たわっている」地を示していることが解った。

「壹」と「臺」の論争の中で、仮に「壹」とすれば、一体何を意味しているのかは、全く解き明かされて来なかったようである。いやむしろ「臺」の方が意味としては捉えやすく感じられたであろう。「壹」を主張するならば、それが示す意味をあからさまにする必要があったのである。

魏志倭人伝は「邪馬壹國」のみに拘ることなく、「倭地」の全体を記述している。中国の皇帝に報告する上において肝心なところでもある。実地検分したかどうかを巧みに暈しながらの記述、使者の文章をじっくり味わって、読み解くことになる。
 
狗奴國

「其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 自郡至女王國 萬二千餘里」

「邪馬壹國」の南方に「狗奴國」があるのだが、そこは女王には属していないと告げている。後の大騒動もこの地が絡む。では何処にあったと推定できるか?…上記と同様にして「狗奴」の文字を紐解くことになる。
 
<狗奴國>
「狗」=「犭(犬)+句」と分解される。「犭(犬)」は古事記の猨田毘古大神・猨女君に含まれている。「平らな頂の山稜(麓)」と読み解ける。

邇邇芸命の降臨に際して登場する道案内役、猨女君は天宇受賣命が授かった別名である。

地形的には山稜の末端近く平坦になったところを示すと思われる。それが「句」=「勹+口(大地)」で「[く]の字に曲がった大地」を表している。

「奴」は上記の「奴國」と同様に解釈できるであろう。この二つの地形が寄り集まったところを示していると思われる。現地名は佐賀県鹿島市である。

「狗奴國」の全体を知ることはできないが、「狗奴」の地を中心に長い谷間を利用して人々が住まうことができたのであろう。「邪馬壹國」と変わらない広さのように伺える。

「倭地」の詳細が語られた後に次の一文が続く・・・、

「女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里 又有裸國黒齒國 復在其東南 船行一年可至」

・・・解釈は、正に百花繚乱の有様で、取り分け「邪馬壹國」(女王國)の東側が海に面してない説は苦戦の様相である。暫し「陸行」してから「渡海」するとか、「渡海」には海辺を歩くことも含む、九州北部の東岸まで…勿論奈良大和説では紀伊半島東部まで…支配していた、など・・・東に海がない場所は女王國ではない、とバッサリ切り捨てることであろう(例えば博多湾岸から朝倉市、熊本市辺りに比定した説などなど)。

では、先に求めた現地名多久市の「邪馬壹國」は如何であろうか?…東はJR佐賀駅がある?…前記で南方が開いていると記したが、当然東も海に面していたと推測する。古有明海の状態は決して単純ではないが、福岡県の遠賀川流域、長峡川流域と同様に現在の標高10m前後まで「忍海」(古事記:海と川が混じり合うところ)と思われる。(地質の海成層調査から古代の有明海の海水準を見積もられた詳細な報告がある。こちらを参照)
 
<倭地・侏儒國・裸國黑歯國>
当時の海岸線が何処にあったかは推定の域を脱せないが、間違いないことは多久市の「邪馬壹國」の東側は海であったと思われる。

勿論JR佐賀駅の場所は海面下ということになる。この古有明海の様相こそが極めて重要な「倭地」の姿である。

登場する国名、距離・方角、行程期間などを読み解いてみよう。
 
侏儒國

渡海千里余りで倭種の国に届く。「倭地」である(詳細は下記)。

その南方にあるのが「侏儒國」と呼ばれる地だと述べている。

「小人国」と解釈される。記載された身長もそれを示していて、この解釈で疑いの目を向けられることはないようである。

女王國を去って四千里の距離と告げられる。女王國から東方の倭地までの距離を千里とすると、現在の熊本市辺りが該当することになる。勿論ここは倭種が住まうところではないことも告げている。

「侏儒」は「小人」で良いのであろうか?…登場する国名は地形象形しているのではなかろうか?…「侏」=「人+朱」と分解される。

「朱」は「木を斧で切る」の意味を示し、「切り株」を表す文字である。それから「短い、小さい」へと意味が展開すると解説される。小人に繋がる文字である。
 
<侏儒國>
ところが「朱」=「赤い(朱色)」の意味もあり、切り口の木の色から発生したとも解説される。
「朱砂」に含まれる。

「儒」=「人+雨+而」と分解される。儒教の「儒」で特殊な文字なのだが、強いて訳せば「柔らかい、穏やかな人」となろう。

「柔らかい」という意味は「而」から発生していて、これは「長く垂れた髭」の象形である。

「人」=「細長い谷間」を象ったと解釈される。古事記に頻度高く登場する地形象形である。

例えば大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)が伊那毘能若郎女を娶って誕生した御子に日子人之大兄王が居た。吉備國の細長い谷間とその奥の地に坐した御子と読み解いた。

さて、これだけの要素から地形象形的には何を表しているのであろうか?…細長い谷間の傍らに赤いものが雨のように降って山腹を伝って流れて(垂れて)来たところと紐解ける。阿蘇山の噴火による流れ出る溶岩の地を表していると解る。「倭人」に「伊都(燚)」の認識があるならば、阿蘇山は欠かせないものであろう。それを「侏儒」と表記したのである。

もう一度「侏」、「儒」の文字解釈に立ち戻ると、「侏」=「人+朱」であり、「朱」=「断ち切られた様」と組合わせれば、侏=谷間にある山稜が途中で断ち切られたような様と読み解ける。図に示した場所で山稜が途切れたいる様子が伺える。儒=人+雨+而=谷間が長くしなやかに延び広がっている様と解釈される。「侏」と「儒」とが段差になっている山稜が谷間に延びている地形を表していることが解る。幾重にも重ねた表記であろうが、巧みな文字使いであることには違いないようである。

「侏儒」=「小人」に拘るならば・・・確かに熊本に居た。がしかし追いやられ種子島に移住した(ホントに小人?)・・・何の痕跡も残さずに・・・のではなかろうか?・・・。
 
裸國黒齒國

その「侏儒國」から東南の方角に「裸國黑齒國」があったと言う。熊本市から東南方は宮崎市がピッタリと当て嵌まる。「裸で歯を黒くしている人々」が住まう地?…ではなかろう。上図に示したように「裸」=「衣を脱いで果物(つるりとした)ような」様を表記する。地形的には山稜が途絶え、凹凸の少ない平野の有様と読み解ける。

「裸」に含まれる「衣」は、古事記に登場する重要な文字である。例示すると伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)紀に登場した三川之衣がある。衣=山稜の端の三角州と読み解いた。「首と襟が作る形」を模していると解釈した。現在の北九州市にある足立山南西麓の地とした。勿論、豐國に含まれる。この地はすっかりと国譲りされて、現在の豊田市(かつては挙母の地名)辺りとなっているのだが・・・即ち、裸國=山稜の端の三角州が凹凸の少ない平野となっているところと読み解ける。

「黑」=「囗+米+土+灬(炎)」と分解される。前記で引用した古事記の大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)が坐した黑田廬戸宮に含まれる。谷間で炎のような山稜が延び出たところと読み解ける。それが歯のように並んでいる様を表しているのである。地図からでは「裸」の国は現在の西都市辺り、それに加えて「黑齒」の地形は現在の宮崎市周辺となろう。実に的確な表記と思われる。

「侏儒國」から東南、直線距離は、せいぜい三千里?…「船行一年」と記述される。あり得ない距離と読んでしまうところである。がしかし、これは重要な意味を有している。「○千里」の表現とは異なる。類似の表現は不彌國から投馬國への「水行二十日」である。即ち「不彌~投馬國の距離」=「水行二十日」である。正確な距離は求め辛いが、多久市から宮崎市への船行距離は、概ね十数倍、およそ一年かかることになる(現在の宇土半島、当時は島として記載)。

間違いなく実際に訪問した記述ではなく、伝聞であり、倭地の概略を詳らかにする試みであろう。「投馬國」は「邪馬壹國」からでも目視できた。あれが倭地の南限と教えられ、そこへの所要日数を確かなものとして、絵に描いた「裸國黑齒國」への行程を割り出したのではなかろうか。報告書としての整合性、それが第一だったのである。

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少々余談になるが・・・上記が示すことは、南北に走る九州山地の横断は不可能だったことである。魏志倭人伝、古事記が記す時代、九州は東西に分断された世界であったことが解る。更に憶測すれば、そのように見せ掛けたとも言える。日本の古代を理解する上において極めて重要な事柄に属する。

それぞれの伝・記が語る舞台は、表向きには、相互に関わることなく存続したのであろう。古田武彦氏の「失われた九州王朝」、王朝には些か引っ掛かるが、勿論博多湾岸は蚊帳の外でもあるが、その歴史認識は的を得た表現であろう。

しかしながら、伊邪那岐・伊邪那美が生んだ「筑紫嶋」を現在の九州全体とする、またそれに引き摺られるように「邪馬台国」を九州北部全体に跨るような曖昧な解釈が古代史上画期的な「九州王朝説」を”大乱”の状態に陥れたように感じられる。

室伏志畔氏が提唱する「楕円国家説」(博多湾岸[西朝]と行橋湾岸[東朝])は、氏の”幻想”が導いた興味深い提案であるが、本著は独立した(少なくとも表向きには)二つの「円」として解釈することを提唱するものである。

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<倭地>
「参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里」と記述される。「倭地」の全体像である。

女王國から東へ「渡海渡海千餘里」を基準にして右回りで「倭種」の国、「投馬國」、「狗奴國」をぐるりと廻った距離は凡そ「五千里」であることが解る。

「倭地」は、古有明海を取り囲む地であると述べているのである。古代は、山稜で分断され、海で繋がる世界であったと歴史が教えている。

地中海しかり、日本海も、そして古事記では古遠賀湾・洞海(湾)がその役割を果たしている。「倭地」の中心を島(陸)と考えているようでは、全く古代は見えて来ないであろう。

中国からの使者は、九州西部を伺わさせられたのであろう。北東部は絶対に開示できない場所なのだから。遁走し「天」を本拠地とした倭人達は、もっともっと東へ向かう必要を感じたであろう。西からの脅威を回避するために・・・。

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女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種」と記されたところについては『後漢書倭伝』では具体的に、「自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種而不屬女王」と国名及び女王には属さないと記されている。
 
<拘奴國>
上記の福岡県筑後市、八女市で良いのか、「拘奴國」を紐解いてみよう。この文字は古事記には登場しない。

「拘」=「手+句」と分解され、字源を調べると「句」=「鉤型に区切る」ところに「手で押込める」イメージから「拘束する」意味を表すようになったとのことである。

図に示したように、嫋やかに曲がる山稜の[手]のような端が[く]の字形に取り囲んでいるところである。

杞憂することなく八女市(郡)・筑後市(築後市は、おそらく当時は海面下)と比定し得る。

通説では「狗奴國」の誤りだとか、むしろ倭人伝の方が間違えているとか(南・東の方位も含めて)、何かと誤謬説が蔓延っているようである。また『魏志倭人伝』と『後漢書倭伝』で「里」の長さ異なり、後者では「千餘里」が「五~六餘里」に該当するとして解釈されている場合もある。「水行」、「陸行」共に現在からすると極めて曖昧な(誤差の大きい)記述と思われる。貴重な情報を単に誤写とせずに解釈することが重要であろう。

上図<倭地>を眺めると、この両国は有明海を東西で挟んだ国であることが示されている。即ち「邪馬壹國」及びその旁國は、古有明海の北部一帯を占有していたことが解る。現在の河川名で言えば、東は宝満川・筑後川の北西岸及び西は塩田川・鹿島川の北岸に挟まれた地域となる。当時は、各々の川は巨大な入江を形成していたと推察される。

『後漢書倭伝』では『魏志倭人伝』に記述された「邪馬壹國」に至るまでの国々及びその南方にある国々については省略されている。記すまでもなく自明となっていたのであろう。その中で「倭種」とだけ記されて国名がなかったところを追記したと推測される。「拘」と「狗」を「似たような字」と読んでいるようでは古史書を解読できない、と思われる。

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「水行」、「渡海」の距離について、蛇足だが・・・「狗邪韓國」~「對海國」~「一大國」~「末盧國」の三回の渡海は、全て「千里」と記載されるが、現実の距離とは全く相違することになる。勿論これについては既に多数の方が論じておられて、古代の渡海の距離は「陸行」とは異なり、極めてアバウトなものであったと推論されている。

そんな背景で、「侏儒國」までの距離「四千餘里」及び「倭地周旋」の距離「五千餘里」をイメージするには「女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種」の距離を基準にしたのが上記の結果である。

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冒頭に「倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國」と記述される。具体的な国名は後に記述される。「自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡」

詳細は下記するとして・・・、
 
<旁國>

・・・と推定される。例えば「巳百支國」は、吉野ケ里遺跡のあるところなど、古有明海に臨む緩やかな傾斜地、そこに多くの人々集まり住まっていたことを伝えている。その中心の地にあったのが「邪馬壹國」であったことが示されている。

古事記で使用される文字が大半であるが、目新しいのは、「好、姐、對、呼、華、躬、惟」などである。しかしそれらも要素に分解すると、ほぼ全ての文字解釈が可能であった。多くの、天神達を含め様々な「倭人」が日本列島に渡来し、漢字を用いて国(地)名を付けたのだろう。地名も、ましてや番地もない、白紙の状態で行う、それは自然の成り行きであったと推察される。

3. 周辺諸国:其の弐

流石にこれらの地名の比定は学術論文にはし難いようで、現在の類似地名で当てて行くと言う手法しか見出せていない以上、サイトの検索では幾つか見出せる程度である。

さて、これらの旁國の地名を『古事記』で読み解くのであるが、大半がそこに出現した文字であることが判る。勿論漢字の持つ多様性に準じて些か解釈が異なる場合もあろうが、漢字の原義を違えていることはあり得ないであろう。いや、それが違っているなら、『古事記』では読み解けない、と言える。
 
斯馬國・都支國・伊邪國・好古都國

地図上の東側から①斯馬國、④都支國、③伊邪國、⑥好古都國の場所を求めた結果である。現地名では佐賀県の鳥栖市~三養基郡に跨って広がる古有明海の東北部に位置する。

「斯馬國」の「斯」=「其+斤」と分解され、「(斧で)切り(箕で)分ける」と解釈する。古事記で頻出の文字である。別天神の一人、宇摩志阿斯訶備比古遲神、また大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)の和風諡号などに含まれる。「馬」は、それぞれが馬の背のように二山になっていると見做したと思われる。斯馬國=馬を切り分けたところと解釈される。現地名は鳥栖市村田町辺りである。

「邪馬壹國」、また奴國の官名「兕⾺觚」などは平面的に捉え、「投馬國」また對海國の別表記「對馬國」などは垂直面的に捉えていると思われる。いずれにしても地形象形する「馬」の登場の頻度は高い。身近な、そしてその身体の特徴が地形、とりわけ山稜を表すことに都合が良いのであろう。それは現在に通じるようである。現天皇陛下の最も好まれる山の一つ、甲斐駒ヶ岳にも含まれている。
 
<斯馬國・都支國・伊邪國・好古都國>
「都支國」は頻度高い文字の組合せであって、都支國=山稜の端を集めたところと読み解ける。

ありふれた地形で、特定し辛いかと思えば、意外に特徴的な場所が見出せる。現地名は三養基郡白壁辺りと思われる。

続く「伊邪國」の「伊邪」は、そのものズバリが古事記で用いられている。

若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)が坐した伊邪河宮である。伊邪國=僅かに曲りくねるところと読める。

現地名は三養基郡東尾辺りであろうが、おそらくその中心は南部であって、「都支國」の西側に当たるところではなかろうか。

好古都國」の「好」=「女+子」と分解される。「好」そのものは古事記に登場しないが(地形象形外で1回のみ)、分解すれば頻出の文字となる。「子」=「生まれる」の意味だが、地形象形的には「生え出る」と訳す。「好」=「嫋やかに曲がる(山稜)から生え出たところ」と読み解ける。

「古」は古事記頻出であるが、二通りの解釈がある。一つは「古」の原義「頭蓋骨」の象形から「丸く小高い地形」と読む。二つ目は「古」=「固」として「固める、定める」の意味を表すとする場合である。「都」=「集まる」とする。

ここでは前者が適するであろう。好古都國=嫋やかに曲がる(山稜)から生え出た丸く小高い地が集まるところと読み解ける。現地名は三養基郡原古賀辺りである。「古」は残存地名かもしれない。ところで「好古都國」=「コウコツコク」とでも読むのであろうか・・・。

この地には四つの大河が流れる。東から沼河、通瀬川、寒水川、切通川である。なだらかな斜面を流れて古有明海に注ぐ。これらの川沿いに広大な耕地が作られていたのであろう。内海に注ぐ川、豊かさが手に取るように判る地形である。

古事記の舞台、九州東北部は急斜面の山麓が直ちに海、川に届く地形である。唯一の内海は洞海(湾)だが、これも急峻な谷で囲まれた地形であった。この地形差から生じる人々の生き様の違いが日本の古代の原風景であろう。いつの日かそんな目で眺めてみようかと思う・・・。
 
彌奴國・巳百支國・不呼國

上記の四つの国が納まってくれると「旁國」の比定は否応なしに加速する。⑤彌奴國、②巳百支國、⑦不呼國を紐解いてみよう。

「彌奴國」は倭人伝で頻出となる文字列、そのまま彌奴國=広がり渡る山稜が腕(手)にように延びたところと読み解ける。その通りの地形が「好古都國」の対岸に見出せる。その中央を流れる井柳川の両岸かどうかは定かでないが、実になだらかで広大な地であることには変わりはないようである。

田手川を挟んで「巳百支國」があったと推定する。「巳」=「蛇のようにくねる」と読める。次の「百」は何と解釈するか?…古事記の「百」=「一+白」と分解して「一様に並ぶ丸く小高いところ」と紐解いた。

いくつか例示すると大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)紀に登場する五百木之入日子命の「五百木」に含まれる。この地は伊豫国に当たる。また神代紀の八尺勾璁之五百津之御須麻流之珠の「五百津」にも含まれる。

ちょっと違ったところでは品陀和氣命(応神天皇)の御子、若野毛二俣王が娶った百師木伊呂辨にも含まれている。全て上記の解釈と思われる。頻度高く使用されることから、汎用的に使われるのではなかろうか。それが倭人伝に通じるか?・・・。
 
<彌奴國・巳百支國・不呼國>
図を拡大すると、巳百支國=蛇のようにくねって延びる山稜の端で一様に小高いところが連なっていることが解る。

その先端部に、世間ではここが邪馬台国、いや、伊都国などといわれる吉野ヶ里遺跡がある。現地名は神埼郡吉野ヶ里町・神埼市神埼町である。

魏志倭人伝の表記も地形象形していると、ほぼ確信に至ったようである。

「不呼國」は頻出の文字の組合せであろう。不呼國=花の胚のような形が曲がりながら延びる山稜の端にあるところと読み解ける。図に示した通りの場所と思われる。現地名は神埼市神埼町とある。

吉野ヶ里遺跡は、邪馬壹國であったり、伊都國であったり様々に比定されている。奈良大和の遺跡も含めて、それが発見・発掘されるたび比定地として騒がれる。そしてなんら課題解決には至らない。古代は浪漫、それはいつまで経っても不詳であることを意味するようである。
 
姐奴國・呼邑國

次は⑧姐奴國、⑪呼邑國である。「姐奴國」の「姐」の文字は古事記に登場しない。「姐」=「女+且」と分解すると関連する文字となって来る。「且」は「段々になっている様」を象形した文字と解釈する。古事記では伊邪那岐・伊邪那美の国(島)生みの粟國、その別名大宜都比賣の「宜」に含まれる。図に示したように山稜の端が段になって並んでいる様を模した表記と思われる。

姐奴國=嫋やかに曲がる腕(手)のような山稜が段になって並んでいるところと読み解ける。現地名は佐賀市金立町辺りと思われる(図拡大)。
 
<姐奴國・呼邑國>
「呼邑國」は嘉瀬川を挟んで西側にある場所と推定した。「邑」=「囗+巴」と分解できる。

「囗」は「ある区切られた地」を示し、「小高いところ」と訳すことにする。

「巴」は後にも登場するが、「蛇が這っている様」で「巳」と比べるとより蛇行した様を示すと思われる。

呼邑國=曲がりながら延びる山稜の端で小高いところが大きく畝って連なるところと読み解ける。この地には古墳もあり、山と海の恵みが豊かなところであったと推察される。

現地名は佐賀市大和町辺り、北西部に当たる場所である。嘉瀬川は背振山地の西部の台地を貫き、有明海に注ぐ大河である。この地も人が住まうのに実に恵まれた自然環境を有していたようである。
 
華奴蘇奴國・蘇奴國・對蘇國

⑫華奴蘇奴國、⑪蘇奴國、⑨對蘇國に共通する文字は「蘇」である。古事記の中でも重要な文字の一つである。登場するのは建内宿禰の御子、蘇賀石河宿禰に含まれる。後の宗賀一族(一般的には蘇我一族)の礎となった地の名前である。「蘇」=「艹+魚+禾」と何ともごちゃまぜの文字構成である。

「蘇」は古代の乳製品を表すと言われる。乳固形分と水とが入り混じったものである。「蘇生」は生と死が混在するところか「よみがえる」の意味を表す。実に奥深い意味を示す文字なのである。これを地形象形に用いた。即ち「(いろんなものが)寄り集まったところ」としたのが古事記である。「蘇賀」=「様々な山陵が向き合い田が積重なった谷間」と解釈できる。

その他にも神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の御子、神八井耳命が祖となった阿蘇君の「阿蘇」=「魚の形をした山稜と稲穂の形をした山稜が並んでいる台地」であり、また、大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)の孫、蘇賀石河宿禰の「蘇賀」=「魚の形をした山稜と稲穂の形をした山稜が並んで谷間を押し拡げているところ」(こちら参照)と解釈する。
 
<華奴蘇奴國・蘇奴國・對蘇國>
前置きが長くなったが、図に示した通り、尾根が大きく湾曲する山麓の様相を表していると思われる。


尾根が曲がると稜線が寄り集まるように山麓に延びる、これは自然の造形であろう。そこに様々な形の山稜の端の地形が生じる。古事記を含めた古代人の地形認識と思われる。

これ等三國の名称は、華奴蘇奴對蘇の三つの文字列から成っていることが解る。

華奴=手のように嫋やかに曲がりながら延びた山稜(奴)の前が花のように細かく岐れている(華)ところ蘇奴=手のように嫋やかに曲がりながら延びた山稜(奴)の前が魚の形と稲穂の形をした山稜が並んでいる(蘇)ところ對蘇=魚の形と稲穂の形をした山稜が並んでいる(蘇)前にギサギサとした山稜が延びているところと読み解ける。

「蘇」は「魚」が表す四つに細かく岐れた山稜の端と「禾」の稲穂の形の山稜が並んでいる地形を表現している。その地形を図に示した山稜の端に確認することができる。『古事記』が記した「阿蘇」、「蘇賀」の地形、倭人達に共通する地形表記であろう。また、これら三國が揃っていること自体が推定場所の確からしさを物語っているように思われる。現地名は小城市小城町である。
 
鬼國・為吾國・鬼奴國

⑬鬼國、⑭為吾國、⑮鬼奴國、さて「鬼」の登場である。この文字そのものは古事記に出現しないが、関連する文字が使われる。速須佐之男命が神大市比賣を娶って誕生した宇迦之御魂神の「魂」に含まれる。「大きく丸い頭に手足が付いている」様を象った文字と解説される。現在の北九州市門司区にある桃山を含めた「三つの桃」形の山を表すと推定した。
 
<鬼・一大>
それを頼りに「邪馬壹國」の周辺を探すと、唐津市にある「作礼山」の頂上が池を丸く取り囲むような山容であることが解った。

また明瞭な稜線が長く延びていて、「鬼」の文字形を示していることも伺える。

調べるとこの山は霊場として、英彦山系列の修験道の場所として名高いことも判った。

現在は頂上付近にまで車道が通じている(かつてはキャンプ場があったとか)ようだが、地形的にはなかなか急峻な斜面と思われる。

地質的には、かなり古い時代の火山(背振山西側)であって、現在の池のところが火口部なのかもしれない。更にほぼ同程度の標高で奥作礼山があり、周囲を遮る山もなく、なかなか優れた山容をしているように見受けられる。

ここを鬼の頭として挙げられた国は当て嵌まるのであろうか?…山麓辺りの地形を眺めながら探すと、極めて興味深い文字使いがなされていることが解った。
 
<鬼國・為吾國・鬼奴國>
「鬼國」は直下の場所、現地名では唐津市厳木町平之辺りであろう。かなりの標高(400m前後)であるが、集落らしきところが見出せる。


加えて傾斜地にも関わらず、その面積は広く開かれているように伺える。背振山地の南麓の様相とは全く異なる地形に人々が住まっていたのであろう。

「為吾國」は何と紐解くか?…「吾」は古事記に登場する。天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で誕生した、天神族奔流の正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命に含まれている。

「吾」=「五+囗」と分解され、「五」の古文字は「X」の字形(図参照)であると知られる。山稜が作る形で交差するようなところを示していると解釈する。

「鬼國」の直下に岩詰・詰ノ本と言う地名がある。山稜がくっ付くように寄り合い、細い谷間を「為」(形成している)場所である。

これを「為吾」と表記したのではなかろうか。複数の山稜が寄り集まって形成される特異な地形、谷間であることが解る。「五」=「X」やはり古事記と全く同様の表記がなされているようである。

「鬼奴國」は更に麓に近付いた谷間を表していると思われる。現地名は厳木町浦川内である。鬼怒川なんて言う聞き慣れた川があるが、案外上記のような由来なのかもしれない。勿論そうは伝えられてはいないが・・・。
 
一大率

ところで作礼山の西南麓に「伊都國」が配置されると読み解いた。それで思い出させられるのが、この国に「一大率」が置かれていたと記述される。原文は…、

自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史 王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯

…である。この文字列の解釈も依然スッキリとはしていない状況のようである。

<一大率>
「一大國」は壱岐島であると、ほぼ異論なく認知されている。ただ、それは対馬からの行程からして間違いない、と言うことであって、「一大」の意味は不詳であろう。上記で「一大」=「一+大」=「天」と読み解き、一大=一様に平らな頂の山稜(麓)と解釈した。天(
阿麻)=擦り潰された台地の表記に繋がることが解った。

すると「一大率」の「一大」も同じであろう・・・「平らな頂の山稜(麓)」、作礼山(~奥作礼山)の頂を示していると紐解ける。上図に、薄く色付けした場所を示す。

一大率=一様に平らな山の統率者(かしら、おさ)と読み解ける。即ち、鬼國のかしら、おさを意味することになる。だから「諸國畏憚之」したと述べているのである。

確かに記述された前後の文脈からすると、間違いのない解釈と思われる。ところで、何故「率」の文字を用いたのであろうか?…妙に「頭、長」の意味だけとすると、女王との関係は?…なんてことにもなる。伊都の王が実権を握って、女王は神懸かりの役割だった、のような読み方もされている。やはり、「率」は地形象形として用いられているのではなかろうか。

「率」=「玄+八+八+十」と分解される。これらの文字要素は全て地形を表していることが解る。纏めると、率=大きく開いた二つの谷間(八+八)がしなやかに曲がって延びる山稜(玄)の傍らで一つになってなっている(十)ところと読み解ける。図に示した場所、現在の厳木川と楠川の合流地点、そこに延びている山稜の姿を表しているのである。現地名は唐津市相知町田頭である。正に伊都國の入口であり、そして邪馬壹國への対外拠点としての位置付けであろう。

更に憶測が許されるなら、鬼=鉄と置換えられるかもしれない。天石屋に坐していた伊都之尾羽張神刀工であり、天照大御神天石屋に隠れる。鉄は国家なり、なのである。鉄の支配が国を治めることであった時代、いや、近代まで続く普遍の事柄である。更に厳木町岩屋(JR岩屋駅)もある。全て揃っている?…かもしれない。

「伊都」と「一大」と「鬼」、これらのキーワードは邪馬壹國連合の”超機密事項”に関連する。些か曖昧に、かつ最低限の記述を倭人伝著者が行ったと受け取るべきであろう。定説化している「伊都」=「糸、怡土」では、全く見えて来なかった古代の姿である。
 
邪馬國・巴利國・支惟國

⑯邪馬國、⑱巴利國、⑲支惟國に進む。「邪馬國」はあまり深く考えることなく「邪馬壹國」の裏側、馬の背の部分であろう。この地は古有明海の深く入り込む入江の口に当たる場所であって、細かく分かれた稜線の合間(谷間)が豊かな地である。

流石に斜度が大きく、現在も池が多く作られている。正にこんな地形が古事記の舞台なのである。古事記ならもう少し凝った名前にしたのかもしれない・・・。現地名は杵島郡大町町辺りである。
 
<邪馬國・巴利國・支惟國>
「巴利國」の「巴」上記で紐解いた。山稜が大きく枝分かれしている様を表したと思われる。

「利」=「稲を刃物(鋤など)で刈取る」様を表していると解説される。

筋目がくっきりと見える山腹を示している。

巴利國=大きく曲がって畝る山稜の間が鋤取られたようになっているところと読み解ける。現地名は武雄市北方町辺りである。

「支惟國」について、これも文字は違えど、古事記風である。「惟」=「心+隹」と分解される。「中心にある小鳥」と解釈される。

「支」=「延びた山稜」であるが、図に示した構図では「小鳥を支えている」ようにも見受けられる。これで支惟國=中心にある小鳥を支えるところと読み解いておこう。現地名は北方町と朝日町に跨るようである。
 
<躬臣國>
躬臣國

⑰「躬臣國」の「躬」=「身+弓」と分解される。

「身」=「身籠る」とすると「躬」は「弓の地形が身籠ったようなところ」と読み解ける。

臣」=「目の地形」とすれば、臣國=弓の地形が身籠ったようなところの傍らにある目の地形と紐解ける。

そのままの表現で現地名の武雄市武雄町に見出すことができる。「」は古事記に登場しないが、分解するとそれらしき地形象形表記になると思われる。

一方「臣」は頻出する。「臣」は尊称の一つとされる。がしかし、「臣」=「谷間の入口」を示し、そこに坐していたことを表す文字と紐解いた。多くの神、命が住まうには適した土地だったと思われる。
 
<烏奴國・奴國>
烏奴國・奴國

⑳烏奴國、㉑奴國で最後である。「烏奴國」は烏の形を模しているのであろう。武雄市と杵島郡に跨る山稜がある。

その山稜の形、特に北側の部分を烏に見立てたと推測される。この山稜、現在は東西共に陸に囲まれているが、当時は海に面していたと思われる。

更に東側は殆ど平野部がなく、山稜の麓は直に海となっていたと推測される。

それを根拠に「烏奴國」は西側、現在の武雄市橘町辺りと推定した。この島の周辺が広々とした水田になるにはかなりの時間を要したのではなかろうか。

「奴國」、再びの「奴國」同じ or 異なる、と諸説があるようだが、女王國の尽きるところと記載される以上、同一ではあり得ない。そんなことを思い浮かべながら、探すと、何とも奇妙なところが見つかった。現地名の杵島郡白石町、この山稜から突き出たところ。この突き出たところの上部でのみ住まうことができたように思われる。

海産物が豊かな場所だったのかもしれない。いずれにしても特異な地形である。それを示したかった?…そうかもしれない・・・。地図では省略されているが、この国の直ぐ南は「狗奴國」に近接する場所である。

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あらためて冒頭の全地図を眺めると、有明海の北~北西沿岸にずらりと並んだ国々を示していることが解る。「邪馬壹國」、古田武彦氏の本を手にしてから、早五十年の歳月が流れた。色々と疑問なところも感じながら、原本(写本)に忠実に解釈する姿勢に、そして読み替えることなく解釈できるということに、日本の古代史は解釈不能に陥ると誤写だとする学問と知らされた。

その後四十五年間、とんとご無沙汰している間に、全くの様変わりをしていたことに驚きを隠せなかった。いや、その変貌ぶりが、現在あらためて古代の日本を見つめてみようと言う作業を後押ししているような感覚である。学会(殆ど不詳であるが…)及び分野外の方々のご高説が氾濫するものの、古文書を解釈する手法に何らの工夫もなく、現地名との類似性が頼りの読み解きに埋没しているように伺える。

漢字学にしても、相変わらず白川漢字学(学とは言い難いが…)が持て囃されているようである。古事記にも魏志倭人伝にも「奴」が多用される。所詮は中華思想による卑字と片付ける前に、何故「奴」を?…と問う記述が見当たらない。嶋(山)だらけの日本には、多様な「奴」の地形がわんさとある。

古事記と魏志倭人伝、何とか自分なりに納得できる解釈を行えたように思われるが、まだ他にもある。知力・体力の続く限りに追及してみようかと思う。

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4. 登場する倭人

上記までで「邪馬壹國」及びその「旁國」の全体像が見えて来たように思われる。更に各国の詳細を眺めてみようかと思う。と言っても原文は極めて簡略な記述であり、手掛かりは登場する「官」の名前であろう。おそらく、いやきっと名付けられた名前は地形に基づくものと思われる。古事記に類似するならば・・・。

4-1. 王・官

①對海國、其⼤官曰卑狗、副曰卑奴⺟離
②⼀⼤國、官亦曰卑狗副曰卑奴⺟離
③伊都、官曰爾⽀、副曰泄謨觚柄渠觚
④奴國、官曰兕⾺觚、副曰卑奴⺟離
⑤不彌國、官曰多模、副曰卑奴⺟離
⑥投⾺國官曰彌彌、副曰彌彌那利
⑦邪⾺壹國、女王(卑彌呼)之所都、官有伊⽀⾺、次曰彌⾺升、次曰彌⾺獲⽀、次奴佳鞮
⑧狗奴國、男子為王、其官有狗古智卑狗
⑨狗奴國、男王卑彌弓呼素
卑弥呼宗女壹與

古事記に頻出する文字もあれば見慣れぬものも見受けられる。さて、どうなるか、中心の国、「邪馬壹國」から北方に向かい、後に他の国を紐解いてみよう。
 
邪馬壹國

「牙のある馬が蓋をするような」姿をした国と紐解いたが、さすが女王の住まう地で「官」の数が最も多い。の宗女「壹輿」も含めて配置してみたのが下図である。女王「卑彌呼」は何と読み解けるか?…超有名な女王について、様々に語られて来ているが、天照大御神と同一人物にまで発展しているとか・・・。

現在からすればとても名前に用いられている文字列ではない。それは古事記も全く同様であり、多分に地形象形した表記であることを伺わせる。
 
<邪馬壹國>
「卑」の文字は天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で誕生したとされる天之菩卑能命に含まれている。

「卑」は通常「卑しい」の意味で使用されるが、「丸く扁平な酒器」を象った文字と知られている。低く平らな、薄く扁平なが原義と解説される文字である。

山稜の端で低く平らな地形を示していると解釈される。既出の彌=広がり渡るである。

「呼」の文字は古事記に登場しない文字であり、「呼」=「口+乎」と分解される。「乎」=「∴(小さなもの)+丂」と分解される。

これから「呼」=「口から何か小さなものが曲りくねりながら出る」様を表す文字、即ち「呼ぶ」になったと知られる。地形象形的には「谷間から曲りくねる山稜が生え出た地形」を示していると解釈される。纏めると、卑彌呼=谷間から曲がりながら生え出た山稜の端が丸く平たく広がっているところと解読される。

これらの地形要素を満たすところを求めた結果が上図に示した場所、現在の多久市南多久町の牟田辺と推定した。現在も延々と続く「邪馬台国論争」そして何と500ヶ所以上もある候補地、だが卑彌呼の居場所までは突止められてはいない?…ようだが・・・。

四人の官名が記される。「伊」=「僅かに」、「支」=「分ける」とすると伊支馬=僅かに「馬」を分けるところと紐解ける。古事記の壱岐島の国名「伊伎國」=「僅かに分かれた国」と読み解いた。東西に流れる川によって南北が分断されているように見える島なのである。「伊支馬」は、現在の天ヶ瀬ダムがある深い谷間、その下流の地に居たと推定される。現地名は多久市南多久町大字長尾辺りである。

「彌馬」=「広がり渡る[馬]」として「邪馬壹國」を表すとする。「升」=「斗+一」と分解される。古事記に頻出の斗=柄杓の地形と読み解いたが、それに「一」が加わる(図中の古文字参照)。見事に合致する地形が見出せる。彌馬升=広がり渡る[馬]の地で[升]の形のところと紐解ける。現地名は多久市東多久町大字納所辺りである。

「彌馬」が続く。「獲」=「犬+蒦」と分解される。「蒦」=「枠で囲む」の意味を持つとされる。通常は「犬」=「犭(獣)」の代表しているが、「犬」=「平らな頂の山稜(麓)+小高いところ」、は「大」の変形と見做している。「獲」=「平らな頂の山麓の枠で囲まれたようなところ」と読み解ける。

纏めると彌馬獲支=広がり渡る[馬]の地で平らな頂の山麓が延びた山稜で囲まれたところと紐解ける。最後の「支」=「山稜が延びたところ」である。現在の天満宮のある延びた山稜で囲われた地となっている。実にきめ細やかな表記であろう。現地名は多久市東多久町大字別府である。

既出の「奴」=「腕(手)のように曲がって延びる山稜」として、古事記には全く出現しなかった文字列に進む。「佳」は何と読めるか?…通常は「美しい、優れている」などの意味を示すのだが、地形象形的ではない。そもそも「佳」=「人+圭」と分解され、更に「圭」=「土+土」となる文字から何故「美しい」の意味が生じたのであろうか?…そこに解がありそうである。

「土+土」はピラミッド状に積み重ねた様を表すそうで、奇麗に整った情景を示すと解説される。角がスッキリして、「∟」、「∠」の形である。即ち「佳」=「角、隅」を表していると読み解ける。「鞮」=「革+是」である。「革」は動物の革を展ばした図形を示し、「廿」は頭、その以下は胴体、手足を模していると解説される。

「是」=「匙」であって、スプーンの形を示す。すると「鞮」=「大きな頭の[匙]のような形」を示している。地形象形的には「山稜の端が動物の大きな頭のようなところ」と読み解ける。全て纏めると奴佳鞮=角にある曲がって延びる山稜の端が動物の大きな頭のようなところと解釈される。現地名は多久市多久町である。

「邪馬壹國」の中に奇麗に女王と「官」が納まったように見受けられる。また「官」は中央の女王の場所を挟むように、「馬」の頭、脚の先に鎮座していたことも解った。流石の布陣であろう。卑彌呼の宗女壹輿も同じく地形を示していると思われる。

輿=牙とされる。何とも理解し辛いことなのだが、「牙」が噛み合っている様から「物のやり取り」を表し「与える」と言う意味に用いられるようになったと解説される。これで解けた。即ち、壹=谷間に蓋する地牙のような山稜が噛み合っている様の位置を表していると解釈される。従来では「臺輿(台与)」とされる場合がある。がしかし、これでは本来の居場所は伝わって来ない。「壹」と「臺」の問題もどうやら決着したようである。
 
不彌國

満開の花のような国、である。複数の山稜が並ぶ国に「多模」と副の「卑奴⺟離」の「官」が居たと伝える。「多」は古事記に頻出の文字である(339回;「王」386回)。「山稜の端の三角州」と読み解いた。果たしてそれが通じるのか?…これが適用されるとなると、ほぼ間違いなく「魏志倭人伝」中に用いられた倭の地名・人名は地形象形表記と確信されるのだが・・・。
 
<不彌國>
「模」=「木(山稜)+莫」と分解される。「莫」=「隠れて見えない」様を表す文字と解説される。

「墓」(土で隠れて見えない)に含まれる。ならば「模」=「山稜で隠れて見えない」と読み解ける。

言うまでもなく「木(山稜)」は古事記に頻出、かつ最も重要な文字である。

狭い谷間から僅かに見える三角州の山稜の端の地形が見出せる。現地名は多久市北多久町である。

「不彌國」では花が咲き誇って、谷間が狭いようであるが、最も狭いところと推定した。逆に満開の花の地にこそ生じる地形なのであろう。

そして日本列島に定着した倭人達は、白紙の地に漢字を用いて地名及びその地を出自に持つ人名としたことが解る。古事記は、その伝統・文化を忠実に踏襲したと推察される。蛇足だが、日本書紀はそれに該当しない。

「卑奴母離」は幾度か登場する。当然解釈は同じでなければならない。「卑」、「奴」は上記と同様。「母」は古事記にもそれなりの頻度で登場する。代表的な例を…大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)が和知都美命の比賣、蠅伊呂泥(意富夜麻登玖邇阿禮比賣命)を娶って夜麻登登母母曾毘賣命が誕生する。また黄泉國に居た豫母都志許賣にも「母」が含まれていた。

「母」=「女+・+・」と分解される。女性が乳飲子を逞しい、いや頼もしい両腕で抱える様を象形した文字と解説される。地形象形的には、その両腕が強調されたものと読み解いた。「離」は腕が閉じているところが開いた状態を示すのであろう。
 
<奴國>
卑奴母離=低く平らな山稜の端で母の両腕で抱え込まれたような地が開いたところと紐解ける。

多久市東多久町に見出せるその地は、古有明海に面する港の機能を持っていたのであろう。

そこに「副官」が居たことも併せて重要な意味を示しているように伺える。
 
奴國

「官」に「兕⾺觚」、副に「卑奴⺟離」が居たと記されている。「兕(ジ)」=「一角獣」なのだそうである。それを頼りにして見ると、「馬」の地形(若干ゴルフ場となって曖昧さはあるが…)とその頭部が見出せる。

觚」=「角+瓜」とすれば、「角が瓜の形」と読める。その通りの地形を表していることが解る。現地名は多久市多久町とある。「卑奴⺟離」を探すと図に示したところではなかろうか。現地名は多久市西多久町である。

兕⾺觚=瓜の形をした角がある[馬]のような地形と紐解ける。兕⾺」は「一角がある馬」を示す。「邪馬」は「牙がある馬」、また上記の「彌馬」は「広がり渡る馬」と解釈された。「〇馬」は「〇形をした馬の地形」を表しているのである。それが倭人伝の表記法である。「邪馬(ヤマ)」→「山」などの置換えは、全くの誤りである。
 
伊都國

「伊都國」は、Wikipediaによると…、

伊都国(いとこく)は、『魏志倭人伝』にみえる倭国内の国の一つである。『魏志倭人伝』によれば、末廬国から陸を東南に500里進んだ地に所在するとされ、福岡県糸島市、福岡市西区(旧怡土郡)付近に比定している研究者が多い。 

…と記載されている。「邪馬壹國」の所在を九州内に求めようが、はたまた奈良大和に持って来ようが、この地までは大きな違いがないと、通説化しているようである。
 
<伊都國>
既に述べたように「伊都(イツ):燚」と読む。古事記の伊都之尾羽張神に登場する表記と推定した。

「伊都」は火山の集まったところであり、極めて特徴的な地形表現なのである。アジア大陸の辺境にあって、プレートがひしめき合うところでマグマが地表付近に迫る場所なのである。

大陸の住人がこれを文字にしない、筈がない・・・妄想はこれくらいにして・・・。

さて、「官」が「爾⽀」、「副」が「泄謨觚柄渠觚」と記述される。

「爾」=「近い」の意味を示す。類似では邇邇藝命に含まれる「邇」が古事記に頻出する。

「支」=「分れる、枝稜線」の両方で同じ地形を表現できる。爾支=接近して分れる・枝稜線が接近するところである。現地名は唐津市厳木町(きゅうらぎまち)本山である。

副官の「泄謨觚柄渠觚」は何と読み解けるであろうか?…「泄」=「洩れる、漏らす」、「謨」=「言+莫」だから上記の「模」と同様に解釈すると「[言]で隠れて見えない」となる。古事記で頻出の「言」=「刃物で耕地にする」と読み解いた。「謨」=「耕地で隠れて見えないところ」を表す文字と紐解ける。

觚」も上記で登場、「角が瓜」である。山稜を何らかの動物の角に見立てて、それが「瓜」の形をしていると表現していると思われる。すると泄謨觚=辛うじて見える耕地で隠された「瓜」の形をしたところと読み解ける。現地名は厳木町岩屋とある。

「柄」=「木(山稜)+丙」と分解される。「丙」=「囲われた地で二つに分かれる」様を象った文字と解説される。「渠」=「溝」の意味である。柄渠觚=囲われた地で二つに分かれる溝の傍らにある「瓜」の形をしたところと読み解ける。上図に示した場所の地形をくどいくらいに説明している文字列と思われる。

実にきめ細かい表記と感じられるのは、上記の「模」は山稜に挟まれた狭い谷間であったが、この地は同様に狭い谷間なのだが、その出口は水田地帯となっている。現在地図から当時を偲ぶには些か時間が経っているが、同様の状態であったように思われる。古事記に比べて直截的に感じられるが、古事記編集者の趣向に拠るものか?・・・使者が倭人の言葉を素直に取ったとすれば、何となく理解できそうな気分である。

末盧国には「官」がいない。伊都國が兼ねていたのかもしれない。ところで厳木町(きゅうらぎまち)と読むそうなのだが、「厳」は「イツ」とも読める。唐津市のサイトに…、

唐津市厳木町厳木(きゅうらぎまちきゅうらぎ)2010年現在

「厳木」という文字はどうしてあてられたのでしょうか。「松浦記集成」によれば、松浦川の西厳木に開闢(かいびゃく)以来という大楠があり、切り倒した時に川を越えて東に渡り今の厳木に及んだといいます。人間の尊厳さ同様の厳(いつ)かしさがあったので、清らかなる木、「きよら木」が語源だとされています。

…と書かれている。本著者は、「燚」と叫んでいる様子である。
 
<一大國>
一大國

「一大」=「一+大」=「天」の文字遊びは、実にお気に入りである。従来よりこの地は壱岐島としか考えられないとして、記述された文字の示す意味を解読された例が見当たらないようである。

官は「卑狗」、副は「卑奴母離」と記される。「狗」は「狗奴國」と同様に「平らな頂の山稜が[く]の字に曲がったところ」と読める。

簡単そうなのだが、地形的に見合う場所を壱岐島全体から見出すことは、かなり困難を伴う。

むしろ「卑奴母離」の地形がそれを助けてくれたようである。この地形は容易に見出せて、現在の勝本町本宮西触にある火箭の辻の北麓を示していると解る。

それが見出せると「卑狗」は、その北側の本宮山の麓が浮かんで来た。気付けば、低山ばかりだが、平らな頂となっている場所は極めて希少であった。

ところでこの地は大国主命の後裔達が住まっていた場所と読み解いた。新羅国を彷徨った系譜は、最後に「天」に舞い戻り、終焉を迎える。
 
<大国主命の娶りと御子④:天>
布忍富鳥鳴海神(新羅の王子)は若盡女神(本宮山)を娶って天日腹大科度美神(火箭の辻北麓)を誕生させる。

その御子が遠津待根神を娶って遠津山岬多良斯神(タンス浦北側)を誕生させて系譜は閉じることになる(当時の壱岐の主たる港は勝本港ではなくタンス浦では?)。

即ち古事記はこの地が天神一族の末裔が住まっていたところと告げているのである。少々憶測の域になるが、使者を導いたのは天神一族と考えられる。

中国本土から遁走した彼らがすべきことは、中央の山地で分断された九州東部を案内するのではなく、西部に誘導した、と考えられる。

不彌國から投馬國まで「水行二十日」、裸國黑歯國まで「船行一年」の記述は、天神達の策略を物語るものではなかろうか。魏志倭人伝と古事記、行間にある深い繋がりを伝えているようであるが、後日の課題としよう。
 
對海國

記述は簡略である。ギザギザの山稜の端が突き出た海では、入江となってはいるが、陸に平地がなく、とても旅の途中で休息できる環境ではなかったであろう。古事記で求めた津嶋縣直は現在の阿須浦にあったと推定した。津を抜けてすぐの入江である。
 
<對海國>
官は「卑狗」、副は「卑奴母離」と一大國と全く同じである。

この狭い地で求めた場所は図に示した通りである。数少ない山稜の端の地形が、幸運にもこれらの文字列の地形を示してくれている。

現地名は対馬市厳原町(いづはらまち)である。

天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で誕生した天之菩卑能命の息子、建比良鳥命が祖となった地として記載されている。

天神達の息のかかった場所としているのである。官、副は使者から見た表現なのであろう。

再び倭国に戻って「邪馬壹國」から南の国について述べてみよう。女王國に属さない「大乱」を惹き起す国「狗奴國」である。
 
狗奴國

⑧狗奴國、男子為王、其官有狗古智卑狗
⑨狗奴國、男王卑彌弓呼素

と二度にわたって記載されている。⑧の王名は記されていないが、官名が記される。いずれにしても「王」が居たわけで「邪馬壹國」の女王と対峙する形式であろう。何だか同じような名前・・・住まうところの地形が類似するからである。
 
<狗奴國>
官名「狗古智卑狗」に含まれる「古」は古事記で「丸く小高いところ」を意味する。頭蓋骨の象形とされている。

興味深いのが「智」である。古事記では「智」=「矢+口+日(炎)」と分解し、「矢+口」=「矢の口」=「鏃」と紐解いた。

狗古=[く]の形に曲がった平らな丸く小高いところであり、智卑狗=[鏃]の形の低く平らな[く]の形に曲がったところと読み解ける。

どうやら「日(炎)」は省略気味のようであるが、この二つの地形が寄り合うところを表していると解釈される。

卑彌弓呼素」は何と紐解けるであろうか?…「弓」は別として登場していないのは「素」の文字で、これは「稲羽之素菟」に用いられた文字である。「白」ではなく「素(モト)」の意味と解釈した。「素」の文字解釈は決して単純ではないようで、「素」=「垂+糸」で生糸の作成に関わる文字とのことである。即ち糸を垂らして乾燥させているところを象形するとされる。

それから「白」、「素(モト)」などの意味を派生して来ていると解説される。図を見ると、実に単刀直入に生糸を垂らしている様を示していることが解る。谷間の両脇にある曲がる(奴)山稜を糸に見立てた表記である。

卑彌弓呼素=低く広がる台地が弓なりに糸を垂らすように山稜が谷間から生え出たところと読み解ける。確かに「卑彌呼」に対して更に地形表現が付加された名前となっている。がしかし、谷間の先にある小高く平らな地形、それが「王」が住まう場所であることを伝えているのである。
 
<投馬國>
投馬國

さて、最後に「投馬國」にも官名が記載されている。官は「彌彌」、副は「彌彌那利」とある。

この地は雲仙岳の噴火によって流れ出た溶岩が大地を作り、それが浸食されて形成された地表面を示していると思われる。

実に広々とした平坦な地形であり、それを実に簡明に「彌」と表現したのであろう。二つあるように見受けられる地形を「彌彌」と表し、それを官名に用いた。

やや地形的特徴が大規模過ぎて個々の官及び副官の居場所を求めるには不向きなのであるが、それらしきところ図に示した。

一見難解に見えた文字列も、古事記の記述に準じて地形象形表記として読み解けたように思われるる。そしてそれぞれの国の詳細に入り込めたことにより、魏志倭人伝が記す内容と古事記の記述が、実は見事に繋がっていることも伺い知れた。勿論、推測の域に入ることになるが、これら二書に記載された内容を同じルールで解読されたことは、間違いなく日本の古代を知る上において重要な役割を果たすのではないかと、心密かに自負している次第である。


4-2. 大夫等 

魏志倭人伝に登場する国名及び卑弥呼や壹輿などの人名も古事記における文字解釈が通用しそうな感じになって来た。邪馬壹國とその連合国の配置も、それなりに古代の国々の様相を示しているようである。

それにしても「伊都國」の解釈は重要であることが解った。通説が殆ど異論なく比定されていることへの反旗を翻すことになった。当然のこととして、従来では古事記の天石屋に坐す伊都之尾羽張神の示す意味が読み取れていない以上、当然の帰結であろう。

大陸プレートの東の端、複数のプレートが鬩ぎ合う場所は火山のだらけの地になるのである。これを記述していないとは、逆にあり得ないことである。地形的な表記が関連すれば、尚更のことと思われる。古事記と比較して、判り易く、原文が短いからか無数の推論がサイトに載せられている。地名(現在のものも含めて)、人名の類似性(殆ど無理矢理だが)から、自信満々に御説を述べられている、ようである。

現代の邪馬壹國研究の第一人者が九州の地名と奈良大和の地名の類似性から「邪馬台国東遷」説なるものが提唱されている。またそれに集う人々もいる。「邪馬台国よ、永遠に~!!」を目的とするのであろう。

さて、更なる登場人物も紐解いてみようかと思う。多くは、帯方郡の官吏が付けた名前と解釈されているようだが、前記と同様、倭人(中国江南からの渡来人としておこう)が名付けたものと推測される。

①三名の大夫

倭人伝原文(抜粋)…、

景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏將送詣京都

其四年 倭王復遺使大夫伊聲耆掖邪狗等八人 上獻生口 倭錦 絳青縑 緜衣 帛布 丹木 拊 短弓矢 掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬

…と記されている。女王の使いは大夫と自称している。その三名の人名らしきものである。「景初二年」に関する古田武彦氏の論考に甚く感動した記憶が蘇った。「景初三年」の間違いとして片付けれていた、その当時(今も変わらない?)の通説を見事に論破している。その中で日本書紀の雑駁な引用も露わにされていた。大御所の説に逆らうことができない、忖度(媚び諂いであろう)構造の社会である。
 
難升米

ともあれ、一人づつ紐解いてみよう。「難」は古事記でも重要な文字の一つである。「難波」の文字列である。これが通説では固有名詞化しており、疑いもなく現在の大阪難波と繋がっている。古事記を隅々まで読めば、この「難波」は幾度か登場し、前後関係から大阪難波に繋がる筈もない場所(人名)なのである。

大雀命(仁徳天皇)が坐した難波之高津宮は、正に大阪難波に関連付けられて来た表記である。勿論全く異なるのだが、詳細不明ながら世界遺産となった通称の仁徳天皇稜などが、あたかも史実のような取扱いになっている。他の出現例は袁祁命(顕宗天皇)が娶った難波王などがある。これらの例から「難波」=「難しい波」の通りの使われかたをしていると読み解いた。

「難」=「革+火+隹(鳥)」と分解される。「鳥の革を火で炙った時の様子」から水分が蒸発して縮こまり「大きく曲がった様」を示していると解説される。即ちスムーズな状態ではなく、ギクシャクした状態であり、上記「難波」は波(流れも)の状態を表していると解釈される。それを踏まえて「難波王」は福岡県田川郡添田町を流れる犀川(現今川)が甚だしく大きく曲がるところに坐していた比賣と読み解いた。
 
<難升米・伊聲耆・掖邪狗>
「升」は前記の彌馬升で登場した。「升」=「斗+一」であって柄杓の形に「一」を加えた文字である。

「米」=「米の形」とすると、難升米=甚だしく曲がる[升]の地にある[米]粒の形をしたところと紐解ける。「彌馬升」の少し南側の山麓の地を示していると推定される。
 
伊聲耆

古事記で多用される「伊」=「小ぶり、僅か」と解釈する。他の解釈もあるが、それは続く文字列に依存すると考える。

「聲」、「耆」は共に出現しない。「聲」は通常使われる「声」の旧字体であり、「真っ直ぐに通る」と言う「声」の性質をその表していると解説される。それを地形に当て嵌めることにする。

「耆」=「老+日」と分解すると「老」が示す地形が浮かんでくる。海老のように「大きく曲がった様」を表すと読み解く。

伊聲耆=大きく曲がった傍らで僅かに真っ直ぐになったところと紐解ける。谷間及びそこに流れる川の様相を示していると推察される。
 
掖邪狗

「邪」と「狗」は頻出。その通りに解釈できるであろう。「掖」の文字は古事記に登場する。第五代天皇、御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇)の宮があった場所を葛城掖上宮と名付けられている。「掖」=「腋」であって、人体の胴体と両腕の隙間を表す文字である。そこを「谷間」と見做して表記したと解釈される。

掖邪狗=[牙]の地と平らな頂の山稜が[く]に曲がっている地との谷間と紐解ける。三大夫は「邪馬」の頭部にズラリと配置されていることが解る。「邪馬壹國」は卑弥呼、壹與を初めとして、「官」(伊⽀⾺・彌⾺升・彌⾺獲⽀・奴佳鞮)の四人と「大夫」(難升米・伊聲耆掖邪狗)の三人の名前が挙げられ、それぞれが住まう(出自)の地形に基いた命名をされていたことが解る。

それにしても「升」の地は重要なところであったことが伺える。古事記の「斗」の地形も多くの人材を生んだ。古代における柄杓の地は、人々を豊かにする地形だったのであろう。魏志倭人伝と古事記の文字使いの類似性、それは文化も共通することを示すものであろう。「倭人」と言う一つの根っこから広がって行った日本の古代を曝しているのではなかろうか・・・。

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『後漢書東夷伝』に「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」(安帝の永初元年[107年]、倭国王帥升等が生口160人を献じ、謁見を請うた)と記述されている。魏志倭人伝の時から百数十年以前の出来事である。ここに登場する人物にも「升」が付く。前記の「彌馬升」、「難升米」と合せて三名である。

「帥」=「𠂤+巾」と分解される。「旗の下で集団を率いる」意味を示す文字と解説される。「升」を率いるならば、何となくその中央の山稜の端辺りをイメージできそうである。「巾」を90度回転すると、「升」の原字に類似するようである。「𠂤」=「土を積み重ねる様」を象ったと解釈すると、帥=[升]の地形の中央で段々に積重なった山稜の麓と紐解ける。

「難升米」の少し北側辺りではなかろうか。いずれにしても「升」の地形の中央、初期の倭国王の居場所として申し分なし、のように思われる。「升」の地は、正に奔流の地だったことが解る。「卑弥呼」が登場する「其國本亦以男⼦為王 住七⼋⼗年 倭國亂相攻伐歴年 乃共⽴⼀⼥⼦為王 名⽇卑弥呼 事⻤道能惑衆 年已⻑⼤ 無夫婿 有男弟 佐治國」の記述に繋がるようである。

尚、古事記では「師」が登場する。「師木」に含まれていたが、「𠂤」の解釈は積み上げるのではなく、「横に連なる」と読み解いた。師木=山稜の端で小高いところが[師](諸々)と連なっているところである。「巾」と「帀」の違い、とする紐解きである。

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都市牛利

ところで上記原文では大夫難升米等と記されるが、この朝貢(古田氏によれば戦中遣使)に甚く感動されて大そうな下賜品を頂戴することになったと記載されている。この制詔文の中に大夫難升米に「都市牛利」が随行していたことが記されている。この人物も「邪馬壹國」の住人であろう。さて、何と紐解くか?…後半の「牛利」から始めることにする。
 
<都市牛利>
「牛利」の「牛」は、「邪馬」と同じく「牛」の姿を表していると思われる。

前記の「邪馬壹國」の官名に「奴佳鞮」があった。これに含まれる「鞮」が示すところが「牛」の地形をしていた。

「利」も前記の「巴利國」で紐解いたように「鋤取ったように切り離された様」と解釈する。

図に示したようにこの牛は見事に切り離されていることが解る。

だが、二つの谷間で切り離されているわけで、どちらなのであろうか?…それには「都市」の意味を読み解く必要がある。現在で用いられる意味では毛頭ない・・・。

やはり「都」は「伊都」で用いられて意味、即ち「燃える台地」と解釈する。「市」=「集まる」とすると都市=燃える台地が集まったところと読み解ける。

これで「都市牛利」の居場所を推定することが可能となった。図に示した現地名は多久市多久町、多久聖廟がある近隣となる。この地も火山性の山が点在するところと推定される。山稜の末端部でありながら、小高くなったところが寄り集まった、その谷間に居たと思われる。難升米は率善中郎将、都市牛利は率善校尉となったそうである。

②狗奴國との不和

前記で「狗奴國」は女王に属さないと記述されていた。「邪馬壹國」及びその連合国は戦乱の時代に突入したと述べている。

倭人伝原文(抜粋)…、

其八年 太守王頎到官 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遺倭載斯烏越等詣郡 相攻擊狀 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書 黃幢 拜假難升米 爲檄告之 卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定 政等以檄告壹與 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹

…卑弥呼の「冢」は何処にあるのでしょうか?…古事記は陵墓名(場所)を記しているが、他国の史料には載せられないかな?…さて、苦戦の状況を訴えたのである。

載斯烏越

特に職位がないので、臨時に戦況を伝えさせたのであろう。古事記に出現するが「載」=「載せる」の意味を示す。この場合は「荷物」と解釈する。「車」は二輪車を象ったものである。車輪と荷台を表している。

既出の「斯」=「其+斤」(切り分ける)と解釈する。すると前半の「載斯」=「荷台に載せた荷物のようなところが切り分けられた」となる。地形象形的には載斯=小高くなった台地が切り分けられたところと読み解ける。

<載斯烏越>
「烏」は前出の「烏奴國」に関連するところであろう。烏越=烏が越えて行く(遠ざかる)ところと読み解ける。

纏めると載斯烏越=小高くなった台地が切り分けられて烏が遠ざかるところと紐解ける。

実に直截的な表記となっている。前出の烏奴國及び奴國があったところ、当時は古有明海に突出た島状の地形であったと推定される場所である。

その南北に延びる島が途中で切り分けられたような形になっているところ表したものと思われる。その北部を飛び去ろうとする「烏」の姿に模した。

「載斯烏越」は二名の名前のように訳されている場合も見受けられるが、文字解釈は単独である、と結論される。そして過不足なくその人物の居場所を表しているようである。

この地から敵である「狗奴國」まで約6km(海上)、正に最前線に居た人物であろう。その激戦の生々しい戦況を報告させたと記載されている。所謂、古鹿島湾海戦、だったのかもしれない。どうも、隣国とは反りが合わないようである・・・。

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使大倭

最後にもう一人の登場人物「使大倭」について述べておこう。倭人伝原文には…「収租賦有邸閣 國國有市 交易有無 使大倭監之」…と記されている。この人物の解釈も様々にあるようで、古田武彦氏によって詳細に論述されている。その解釈に異論を挟む余地は…勿論真実かどうかは別として…ないようである。即ち「使大倭」と言う役職名とする。

上記で述べたように古事記の「大倭」は「大きな倭(国)」の意味ではなく、「平らな山頂から嫋やかにしなやかに延びる山稜の麓」を表す。図<旁國>が示すように背振山山系の西側に広がる山塊、近接する天山~作礼山山系から延びる山稜の麓に「倭國」の中心地がある。それに拠って「大倭」とし「使大倭」と名付けたのではなかろうか。中国の慣例(役職名)に従いつつ、自らの言葉を用いていると思われる。

③卑彌呼以死大作冢
<卑彌呼冢>

「倭國」は争いが絶えない地であったと伝える。卑彌呼が亡くなるとまた争乱の時代になる。

そして同じかつてと同じように宗女壹與を立てたと伝えている。亡くなった卑彌呼の埋葬に関して「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘步。狥葬者奴婢百餘人」と記されている。

Wikipediaによると…、

邪馬台国が畿内にあるとすれば卑弥呼の墓は初期古墳の可能性があり、箸墓古墳(宮内庁指定では倭迹迹日百襲姫命墓)に比定する説がある。四国説では徳島市国府町にある八倉比売神社を、九州説では平原遺跡の王墓(弥生墳丘墓)や九州最大・最古級の石塚山古墳、福岡県久留米市の祇園山古墳(弥生墳丘墓)などを卑弥呼の墓とする説がある。 

…とされている。邪馬壹國、卑彌呼が”坐した”場所が不確かなら、墓も同様の有様である。墓が見つかれば不確かさが解消すると信じられているようである。「徑百餘步」の情報のみからでは特定に至らないが、敢えて試みると、少し谷を登った中腹辺りにそれらしきところが見出せる。

現地名は多久市南多久町下多久牟田辺となっているが、示したところはその中心の場所である。かつては桐野と呼ばれていたらしいが詳らかではない。「卑彌呼・邪馬台国ロマン」を維持するならば、発掘作業などは控えた方が良いのかもしれない・・・。

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魏志倭人伝の舞台も古事記の舞台も、そこに登場する「倭人」は同じ根っこの人達であることが、ほぼ明確になったと思われる。対馬、壱岐島を経て九州島及びその周辺に広がった「倭人」は九州島を東西に分断する山地を挟んで、見事に棲み分けたものと推察される。

中国本土に対して九州西部の「倭人」達は付かず離れず、東部はより積極的に離れようとした人達であったのかもしれない。古有明海を中心とする、その沿岸地帯は実に豊かな地であったと推察される。その地を手放すことは、あり得なかったであろうし、何とかその状態を保ちたい気持ちが強く働いたのであろう。

一方、東部は悲惨な状態で、まともな耕地は極めて少なく、彼ら自らが何世代にも渡って開墾しなければならない状況だったのである。頼みとする出雲(豐葦原水穂國。現地名は北九州市門司区大里)は同族間争いで惨めな状態が延々と続き、結局は彼らの発展に寄与することは殆どなかった。がしかし、それを乗越えた東部の連中は、大きな飛躍を成遂げることになる。それが古事記の記述の中心だと思われる。

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Ⅱ. 隋書俀國伝新釈

中国の史書、『魏志倭人伝』に登場する倭国の国名及び卑弥呼や壹輿などの人名も『古事記』の文字解釈、即ち地形象形の表記をしていることが解って来た。中国における史書にはいくつかの、時代毎に存在するようであるが、詳細には後に読み解くことにして、その内の一書、『隋書俀国伝』(魏徴撰、西暦636-56年)に記された内容が興味深い。

その史書の全体については後として、下記の一文を読み解いてみようかと思う。隋書の記載内容そのものは、それまでとはかなり異なり、登場人名も感じが違っているようである。尚、全文の読み下しなどはこちらのサイトを参照した。

隋書原文(抜粋)…、

明年 上遣文林郎裴淸使於俀国 度百濟行至竹島 南望聃羅國都斯麻國逈在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀 俀王遣小徳阿輩臺従數百人設儀仗鳴皷角來迎 後十日又遣大禮哥多毗従二百餘騎郊勞 既至彼都

…日本の古代史では超有名な「日出處天子致書日没處天子無恙云云」の文書を差し出した後日談となる(明年:大業四年、西暦608年)。「帝覧之不悦」だったが、倭国との国交断絶するわけでもなく、「裴世清」の派遣に繋がって行く(帝に憚って「世」の字を省略?)。元気そうな輩がいるようだから、ちょっと見て来い、かもしれない。

1. 海岸への道程

さて、「裴世清」が倭に向かう行程が魏志とは大きく異なる。「狗邪韓國」は登場しない。「百濟」~「竹島」(聃羅國を望む)~(都斯麻國を経る)~「一支國」~「竹斯國」~「秦王國」~(十餘國を経る)~「海岸」に到着すると記載されている。

「都斯麻國」、「一支國」は現在の対馬、壱岐島に該当するであろう。また「百濟」は良く知られた場所であり(現在の全羅北道辺り)、「聃羅國」は「耽羅國」であって現在の済州島として間違いのないところと思われる。『古事記』で百濟=古波陀と読み解いたところである。先ずは「一支國」までの行程を再現してみた。
 
<百濟國→一支國>
「百濟」は広大であって寄港した場所として現在の格浦港辺りを想定してみたが、根拠は希薄である。

次の「竹島」については、やはり興味深い場所なのであろうか、幾人かの方が推定されている。

珍島、莞島などが挙げられているが、特定するには至ってないようである。

そこで「聃羅國を望む」を頼りにその北方の島を当たってみることにした。

多数の島が並ぶ中で、おそらく火山性の山が島となったと推定されるが、外輪山のように窪んだ中心を持つ島が見出せる。甫吉島と名付けられているようだが、その地形を象った命名ではなかろうか。

即ち竹のように中が空洞になっている様子を示していると思われる。その南西麓にボジュッ山があり、まるで天然の灯台のような形をしていることが解る。その麓に寄港したと推定される。
 
<竹島>
それにしても「狗邪韓國」から対馬に渡る時に比して、航海距離が大幅に増えることになる。

航海、造船技術が著しく進歩したのであろう。勿論、大型化による食料などの備蓄も格段に増えたことが推測される。この島のほぼ真南に耽羅国があると記述している。

ところで「聃(耽)羅國」は、Wikipediaによると…、

耽羅の起源については太古の昔、高・梁・夫の三兄弟が穴から吹き出してきたとする三姓神話がある。それによると、高・梁・夫の三兄弟が、東国の碧浪国(『高麗史』では日本)

から来た美しい3人の女を娶り、王国を建国したことが伝えられている。歴史的な記録としては3世紀の中国の史書『三国志』魏志東夷伝に見える州胡が初見であり(「三姓神話」)、朝鮮人とは言語系統を異なるものとするのが通説である(これには異説もある)。

…と記されている。「耽羅」の由来は如何なものなのであろうか?・・・。
 
<聃(耽)羅國>
済州島は中央の漢拏山の噴火でできた島の様相をしており、均整のとれた美しい島となっている。

また、その山麓に無数の小さな噴火口の跡が残っているのが伺える。地形的には特異な形状を示しているようである。

その無数の噴火口を拡大してみると「耳朶(タブ)」の形をしていることが解る。「聃(耽)」=「大きな耳朶」の意味を表す文字である。聃(耽)羅國=大きな耳朶が連なったところと読み解ける。

この地も、おそらく倭人達が一時は占有したのであろう。上記の「竹」、「聃(耽)」の文字を使って地形象形したのではなかろうか。

先に進もう・・・上記で寄港地間が延びたと推論したように「都斯麻國」に立寄ることはなかった。加えて、南北にはそれなりの間隔が空いているが、東西には「都斯麻國」と「一支國」との距離は少ない(半分強)。従って、直行することになる。

これまでの表記と異なり、何故「都斯麻國」としたのか?…この文字列も読み解ける。「都」=「集ま(め)る」、「斯」=「其+斤」=「切り分ける」、「麻」=「細かく、細く、狭く」となる。『古事記』で頻出の文字が並んでいる。都斯麻國=細かく切り分けられた地を集めたところと読み解ける(地図はこちら)

魏志倭人伝の「對海國」、古事記の「津嶋」はこの島の中央部の入組んだ入江を象形した表記であった。これに対して上記は現在の対馬の全体を表す表現となっている。原文には「都斯麻國逈在大海中」と記されている。正にある距離を置いて、遠くから眺めた表現なのである。対馬はスルーである。

この記述に関して、対馬から壱岐島は南(東南)なのに、やはり中国史書の方角記述は怪しい・・・何かと史書の原文(写本)を疑うように解釈する。魏志倭人伝の方角を恣意的に変更し得る根拠にもなっているようである。「南→東」は十分に考えられる間違い、であると・・・怪しいの読み手であろう。

尚、上記の百濟國南西の海を東進する航路は、重要な意味を持っていることが後に解る。本著の末尾に記した『宋書倭国伝』(倭の五王として知られる)に関連する考察を参照。

次は、いよいよ九州本土に上陸である。「竹斯國」と記載される。間違いなく「筑紫(國)」とされているようである。そして博多湾岸となる・・・が、果たしてその解釈で良いのであろうか?・・・。
 
<竹斯國>
「斯」の文字が使われている。意味があるから「筑紫」とはしなかったのである。

上記したように「斯」=「切り分ける」である。「紫」にその意味はない。

この「竹斯」は「竺紫」を示すことが解る。『古事記』で「竺」=「竹+二」と分解すると、「幾つかの横切るところがある山稜」と読み解いた。

伊邪那岐が禊祓をした竺紫日向之橘小門之阿波岐原そして天孫邇邇芸命が降臨した竺紫日向之高千穗之久士布流多氣に登場する地である。

『古事記』では「竺紫日向」であって「筑紫日向」は出現しない。「竺紫」と「筑紫」をごちゃまぜにしたのが日本書紀である。更に博多(湾岸)は「筑紫」ではなく、「筑前」である。この錯綜とした有様を保持するならば、「竹斯國」が示すところは永遠に読み解けることはないであろう。

ここからが「隋書」が伝える真骨頂の記述に入る。彼らは現在の波津港辺りに着岸した後、響灘の外海を通過せずに遠賀郡岡垣町にあった汽水湖に進入したと予測される。『古事記』の「日向國」、その港は「橘小門」だったと伝えているのである。伊邪那岐が生んだ衝立船戸神が守る船着き場であったと推定される。
 
<秦王國>
内海に入ったら、そのまま古遠賀湾を突き進むことになる。おそらく山稜の端が低くなった谷間を縫うように進んだのであろう。

当時は既に確立されたルートがあったと思われるが、今は知る由もない。

船は、時には陸地を引き摺られて丘を越えたのかもしれない。常套手段であろう。上図に示したところは全て現在の標高でおよそ10m以下の場所である(二か所の谷間)。

伊邪那岐命の禊祓で誕生したと記載される三柱の綿津見神及び墨江之三前大神(三柱の筒之男命)の居た入江を突き進んだと推定される。海人族阿曇連の出自の場所を通り越えて古遠賀湾を進むと、広大な山稜にぶち当たることになる。だが、そこは既に開拓された船路があったのである。

邇邇芸命の御子、火遠理命(山佐知毘古、後の天津日高日子穗穗手見命)が豐玉毘賣命に出会う前に通った味御路である。詳細はこちらを参照。

細い谷間の水路を抜けると洞海(湾)に入る。その少し手前に「秦王國」があったと推定した。『古事記』に登場しない「秦」=「舂+禾」と分解される。「禾(穀物)を臼でつく」様を表す文字と解説される。日本では応神天皇紀に帰化した漢民族の子孫に付けられた姓と言われる。その意も含めて地形象形した表記であろう。

図中に古文字を示した。「禾」と二つの手で脱穀している様を表している。「手」=「延びた山稜」と解釈して、「秦」の文字形をそのまま当て嵌めたと読み解ける。「王」=「大きく広い」様を意味し、秦王=[秦]の形に稲穂が大きく広がったようなところと紐解ける。現地名は北九州市八幡西区大字陣原・則松辺りと思われる。その地の人は「華夏(中国)」と同じ、と述べている。
 
<十餘國・海岸>
「王」の解釈は、上記で矛盾はないのだが、文字形そのものから「横切る谷間がある」と読めるかもしれない。

現在は道路・宅地開発などで不鮮明ではあるが、「味御路」に類似する地形を表しているようである。

実は『古事記』ではこの場所は登場しない。すぐ隣は淡海之久多綿之蚊屋野と表記され、雄略天皇が市邊之忍齒王を惨殺する場所である。

狩りをする場所として記載されている。空白地帯ではなく天神族との関わりがなかっただけ、なのかもしれない。原文は「又經十餘國達於海岸」とのみ記され、方角が付加されていない。

何故か?…書き忘れたのではなかろう…洞海(湾)を進むからである。従来の一説に瀬戸内海を進むという解釈がある。東西に広がる内海を進む故に方角を省略したとする。奈良大和にあった国を登場させるには格好の記述とされているようである。

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「秦王國」の場所は、『古事記』に登場しない地名故に今一つ検証するには至らないのであるが、「其人同於華夏以為夷洲疑不能明也」と記述されていることを頼りに「秦(人)」に関わる地名などが残存しているかどうかをネットで検索することにした。どう言う訳かなかなかそれらしきサイトが見出せなかったのであるが、実に興味深い記述があることが解った。


<秦氏>
油獏氏のブログの「鷹」の神祇。八幡の鷹見神社群と題する投稿がある。

「鷹」が示す秦氏の住地、その中心となった場所が北九州市八幡西区の帆柱山・権現山(鷹見神社奥宮)の麓であったと述べられている(図参照)。

この地から九州東北部へ侵出し、「田川、英彦山、香春、宇佐へと繋がっている」と記されている。

香春岳の銅山の開発は秦氏が行ったとも言われるそうで、すると神倭伊波禮毘古命が忍坂大室(田川郡香春町採銅所と比定)で出会った生尾土雲八十建は、先住の秦氏なのかもしれない。吉備における「鉄」の取得は、やはり「銅」に優ったということであろうか。

紀元前二百年頃に消滅した「秦國」から逃げ延びた人々の行く末の一つが古遠賀湾~洞海(湾)であったことを示している。「倭人」が同じく逃亡の憂き目に合う以前の出来事であろう。中国大陸における抗争が引き起こす民族移動の歴史を伺わせていると思われる。いずれにせよ「倭人」が保有する水田稲作の威力は絶大であり、九州から本州へと一気に広がりつつ、その稲作技術を進化させていったと推測される。

地形とそこに住まう人々の出自が上手く合致した表記であることが解った。だからこそ竹斯國以降は「秦王國」の記載のみで残りはその他の表記としたのであろう。正に当時のランドマーク的存在の地域だったと推測される。

東隣は『古事記』で出現する「八坂」(八幡東区祇園辺り)の地である。御眞木入日子印惠命(崇神天皇)紀に八坂之入日子命が登場する。唐突な記述に感じられたが、おそらくこの地を開拓したのは「秦人」なのであろう。そして天神達と姻戚関係を結んで洞海(湾)沿岸を豊かな水田に変貌させた、と思われる。

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さて、裴世清らが乗った船の最終目的地を「海岸」と記述する。こんな一般名詞では何も分からない…確かにそうであろうが、「海岸」という固有の地名があり、洞海(湾)という「洞」のような海を進む故に方角は不要としたのである。『古事記』には、この一般名詞のような地名が登場する。
 
<海岸>
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命が玉依毘賣命を娶って四人の御子が誕生する。

五瀬命、次稻氷命、次御毛沼命、次若御毛沼命、亦名豐御毛沼命、亦名神倭伊波禮毘古命」と記述される。

神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の誕生である。その四人兄弟の二番目、稻氷命について下記ように記されている。

爲妣國而入坐海原也」は、妣国を治め、「海原」に侵入して坐したことを表している。

後の帶中津日子命(仲哀天皇)の后、息長帶比賣命(神功皇后)が朝鮮から帰国して、品陀和氣命(応神天皇)を生んだ場所を宇美と呼んでいる。

これで前進したようである。海岸=海(宇美)の岸と読み解ける。当時は図中の青っぽく見えるところは海であり、現在の小倉の中心街は海面下にあった。

そしてそこには神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が一時滞在した「筑紫之岡田宮」、後に帶中津日子命(仲哀天皇)が坐した「筑紫訶志比宮」を中心とする筑紫國があった場所である。裴世清が歓迎を受け、この地に留まったと思われる(俀國の都、「邪靡堆」については下記3. 邪靡堆と邪馬臺で述べる)。

通説では「宇美」は現地名の福岡県糟屋郡宇美町に比定されている。筑前・筑後の地名は全て後代に名付けられたものであろう。現存する地名で推論する手法から脱却しない限り古代は見えて来ない、と断じる。また「海岸」は、九州の”何処か”の東岸や大阪難波にある”何処か”の海岸と推定されている。現地レポした裴世清に対して真に失礼な解釈である。

残念ながら「十餘國」は定かではない。八幡東区にはもう少し細かく分かれた国があったのかもしれないが、『古事記』では「八坂」だけである。また現在の戸畑区は全く出現しない。

ところで、「海岸」に裴世清が到着した記述の後に「自竹斯國以東皆附庸於俀と付加される。「俀=倭」と置換えて読むと、何とも違和感のある表記である。俀國伝に登場する地名でも都斯麻以後「俀=倭」の筈であろう・・・隋書解釈の議論がかつて盛んに行われていた時に話題となった一文ではあるが、決め手に欠ける結末のようである。
 
<竺紫日向>
竹斯國=竺紫日向(現地名遠賀郡岡垣町)から東、それこそ『古事記』に登場する「天神族」が治めた地である。

伊邪那岐命が黄泉国から脱出して禊祓をした場所、また邇邇芸命が降臨した竺紫日向の東方の地に彼らは拡散して行ったと読み解いた(図を再掲)。

この地より神倭伊波禮毘古命が東方にある筑紫之岡田宮(上図<海岸>参照)へ向かった。「竺紫=筑紫=竹斯」と読んでは、混迷に陥るだけであろう。

たった十一文字の文こそ、それが読み解けてこそ『中国史書』と『古事記』との繋がりが明らかになって来ると思われる。

「日出處天子致書日没處天子無恙云云」と宣ったのは、間違いなく『古事記』に登場する「天神族」である。そして正史・日本書紀に繋がり現在に至るのである。

『古事記』の舞台が中国史書に登場した。「邪馬壹國」の舞台と置き換わったのである。と同時に歴史の時が急激にその速さを増す時代に突入したことを告げているようである。
 
2. 登場する人物

ところで「日出處天子致書日没處天子無恙云云」を述べたのは誰か?…様々に推論されているのだが、今一歩確からしさに欠ける有様のようである。推古天皇とすると男王の記述と合わず、ならば聖徳太子か?…「王」ではないが、聖徳太子のことを「王」と記したものがある、などなど・・・。

いずれにしても苦肉の解釈であろう。ならば隋書に登場した人物名を紐解いてみよう。ひょっとしたら『古事記』に登場した天皇他に当て嵌まるかもしれない。

隋書原文(抜粋)…、

開皇二十年、俀王姓阿每、字多利思比孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言、俀王以天爲兄、以日爲弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。高祖曰「此太無義理。」於是訓令改之。王妻號雞彌、後宮有女六七百人。名太子爲利歌彌多弗利。無城郭。
 
多利思北孤=??天皇

開皇二十年(西暦600年)に「王姓阿毎多利思北孤阿輩雞彌」が遣使したと記されている。姓が「阿毎」、字が「多利̪思北孤」、號が「阿輩雞彌」である。『古事記』に頻出の「阿」=「台地」とする。「毎」は、それなりの頻度で登場するが、ほぼ「~ごとに、つねに」の意味を表しているようである。地形象形的に用いられていないことから、あらためて紐解いてみる。
 
<阿毎多利思北孤>
「毎」=「母+屮」と分解される。「母」=「両腕で子を抱える様」、「屮」=「草に関連する部首」とされているが、文字形からすると山稜から延びる枝稜線の象ったと解釈できそうである。

すると「毎」=「両腕を伸ばしたような稜線で囲まれたところ」と読み解ける。阿毎=両腕を伸ばしたような稜線で囲まれた台地となる。

「阿毎(アマ)」=「天」と置換えると、天=大=一様に平らな頂の山稜と読める。これらが示す地形の麓に居た王であると思われる。

この地形に当て嵌まる『古事記』の天皇は、誰であろうか?…最終章の天皇、欽明天皇から推古天皇までの和風諡号、即ち彼らの出自の場所の地形を見直してみた。

すると、「阿毎」に合致する天皇はただ一人、橘豐日命(用明天皇)であることが解った。明らかに古事記の名称とは異なるが、「多利思北孤號阿輩雞彌」も同じく地形象形表記と思われる。
 
<多利思北孤阿輩雞彌・阿輩臺>
字の「多利̪思北孤」に含まれる古事記頻出の「多」=「山稜の端の三角州」である。

前記の「都市牛利」で紐解いたように「利」=「切り離す」と解釈する。

図に示したように山稜の端の三角州が他の山稜と切り離された地形となっていることが解る。

「思」は古事記の思金神と類似して「頭蓋の泉門」を示すとすると、「思」=「囟+心」=「凹んだ地の中心」となる。

「北」=「左右、又は上下に分れた様」、「孤」=「子+瓜」=「生え出た丸く小高いところ」と読み解くと、その中心の地が周囲の山稜から分かれて丸く小高くなっていると述べている。

多利思北孤=山稜の端の三角州が切り離されて細分された中心の地が孤立した丸くこだかいところと紐解ける。「北」→「比」(ヒコとなる)の誤りとするのが通説だとか…一文字も変更することはあり得ない。この文字列で明確な意味を表しているのである。現在の國埼八幡神社辺りと推定される。

古事記の橘之豐日命は「橘」(上流に向かって無数に枝分かれした谷間[川])の地にある「豐」(多くの段差がある高台)で「日」(山稜の末端が[炎]のように突き出ているところ)に坐していた命と紐解いた。「橘」と「豐」でほぼ特定されるが、「多利思北孤」はより鮮明になっていることが解る。中国史書に現れた倭の地・人名は直截的と述べたが、正にその通りの結果と思われる。

「號阿輩雞彌」の「輩」=「非+車」と分解される。『古事記』に登場する「非」=「狭い谷間」である。「車」=「ずるずると連なる様」から、「阿輩」=「狭い谷間からずるずると連なったところ」と読み解ける。「雞」=「奚+隹」であって「繋がれた鳥」を意味する。その文字通りの地形を象った表記であろう。纏めると阿輩雞彌=狭い谷間からずるずると連なった地で繋がれた「隹」のような形が広がったところと読み解ける。全く矛盾のない表現であろう。

『新唐書東夷伝』に「用明 亦曰目多利思比孤直隋開皇末 始與中國通」と記載されている。「北」→「比」としているなど、些か誤字脱字の懸念が浮かぶが(列記された漢風諡号の例では、海達、雄古など。参照Wikipedia)・・・。阿毎多利思北孤=橘之豐日命(用明天皇)とする上記の結果と矛盾はないようである。

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余談だが「隹」は古事記のキーワードの一つである。例を挙げれば大雀命(仁徳天皇)など、山麓の地形を「鳥」の形に見立てた表記が数多く出現する。「嶋(山+鳥)」も含めて古事記読み解きに欠かせない解釈であろうかと思われる。人為的な開発(採石・宅地)、昨今のような豪雨による山腹の変貌に耐えて今日までその地形が残されていることに畏敬する。

尚、「比」は「北」の誤りである。「比」は「くっ付いて並ぶ」の意味を示す。字形は極めてよく似ているが、故に書き換えたのであろうが、「北」は「離れている様」を示す。

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后の「雞彌」は何とも優雅な広々とした地を占有していたのであろうか。天皇、ご寵愛か・・・先に太子を読み解いてみよう。
 
<利歌彌多弗利・哥多毗>
利歌彌多弗利」と記される。「利」、「彌」、「多」は上記と同じとして「歌」は何と解釈するか?…『古事記』に登場する文字なのである。

いえいえ、挿入歌ではない。垂仁天皇紀に天皇に見捨てられた二人の比賣の中の一人、歌凝比賣命である。

「歌」=「可+可+欠」と分解されて、「二つの谷間が並ぶ大きく開いた出口」のことを意味している。

「弗」=「弓+ハ」と分解される。「広がり分れる、飛び出る様」を象った文字と解説される。「沸」で表される水の様である。その特徴が見事に当て嵌まる地形が見出せる。「多利思北孤」の直ぐ北側に当たるところである。

利歌彌多弗利=切り離された広がる二つの谷間の出口で飛び出た山稜の端の三角州が切り離されているところと読み解ける。通説では「利」→「和」の誤り…万葉仮名の用法から、と言われているとのことだが、太子の名前は万葉仮名ではない。「多利思」→「帶(タラシ)」の聞き間違い?…だとか。命懸けで著述している時代のことを暢気な現代人があれやこれやと読んでるわけである。

さて、この地は『古事記』では何と表記されていたか?…橘豐日命(用明天皇)が宗賀之稻目宿禰大臣之女・意富藝多志比賣を娶って誕生した多米王(山稜の端の三角州が[米]粒の形をしているところ)の出自の場所と解る。「多弗利」の表記に合致すると思われる。

実は「多米王」の名前は二度登場する。山稜の端の三角州の北側の部分は「足取王」が居た場所でもある。おそらく時が経って「利歌彌多弗利」が両方を統治したのではなかろうか。后の「雞彌」=「意富藝多志比賣」となる。宗賀(蘇我)の権勢、正に飛ぶ鳥を落とす勢いと言えるのであろう。

「日出處天子致書日没處天子無恙云云」と言わしめた背景には、上記のような過大に膨らむ野望・野心が働いていたのかもしれない。そしての勢いは、決して尋常ではなかったようである。

使者に「阿輩臺 」が登場する。多分國崎八幡神社の南西側の小高いところ、それを「臺」で表したのであろう(上図<多利思北孤阿輩雞彌・阿輩臺>参照)。もう一人の使者「哥多毗」は、おそらく「利歌彌多弗利」の近隣の「哥」(二つ並んだ谷間)の地形で「毗」のところであろう。

毗」は「毘」の異字体である。『古事記』に頻出する文字、「田を並べる」(毘古など)の解釈に加えて「臍」(那毘など)とする場合があった。山稜が延びたところで凹になった地形を表している。上図<利歌彌多弗利・哥多毗>に示した場所ではなかろうか。彼らの出自は不詳だが、宗賀(蘇我)一族が要職を占めていたことが解る。
 
<阿蘇山>
阿蘇山
 
また「阿蘇山」が記載されている。上記で侏儒と読み解いた山である。「阿蘇」の由来を調べると、これがまた何とも頼りないものばかりである。

「阿蘇」の文字列は、古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の子、神八井耳命が祖となった阿蘇君に用いられている。阿蘇=台地に魚の形をした山稜と稲穂の形の山稜が並んで延びているところと解釈した。

その地形を「阿蘇山」の西麓、即ち「侏儒國」の地に見出せる。紛うことなく地形象形表記なのである。かつ、それは「阿蘇山」を西側から眺めた表現である。名付けられた時の視点は、西麓にあったことになる。

根子岳、高岳、中岳、杵島岳、烏帽子岳の五峰を阿蘇五岳(あそごがく)と呼ぶそうである。広大なカルデラ火山、有明海の東岸に聳える山を、やはり見逃す筈がなかったのである。そして、西麓に住まう人々が名付けた名称が今に残されたのである。

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登場する人物名が全て無難にその出自の場所に比定することができるようである。新唐書に記載された用明=多利思北孤の記述が真実を伝えていると結論される。一方、通説は推古=多利思北孤とされるが、男性であることが明らかな大王とは合致せず、聖徳太子を当てる解釈もある。勿論新唐書が疑わしいというものも含めて…。

日本書紀の記述に従えば、遣使した開皇二十年(西暦600年)は、推古天皇八年と推定されており、これも推古紀の出来事とする根拠の一つになっているようである。資料によると在位は、用明天皇:西暦585-7年、崇峻天皇:587-92年、推古天皇:592-628年とある。また推古紀の遣使は「唐」に向かったと記載されている。

隋書と日本書紀の暦年に合せた解釈では混迷に陥るだけであろう。『隋書俀国伝』(魏徴撰、西暦636-56年)の成立年からすると閲覧可能と思われるが、少し後の「白村江」(天智天皇二年、西暦663年)の出来事など俀(倭)國と中国との関係は複雑になりつつある状況であったと推測される。

「倭(俀)國」から「日本國」へと名称が変わる時期、日本書紀にとっては真実があからさまになることを避けた故のことではなかろうか。「日出處天子致書日没處天子無恙云云」の文言が残れば良し、としたのであろう。

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3. 邪靡堆と邪馬臺

本伝に登場する地名・人名の詳細が明らかになって来ると、冒頭の段の文言が読み解けるようになると思われる。隋書が記す「俀國」の前歴は「邪馬壹國」である。そして連綿と続く同一の国として扱われている。

間違いなく隋書に現れた「俀國」は『古事記』が記述する天神族の国であることが解った。中国の使者は「邪馬壹國」を引継いだように聞かされたのであろう。「邪馬壹國」は、大倭豐秋津嶋に悠久の昔からあったと・・・そして正史・日本書紀は奈良大和にあったと・・・更に今もそうであるのが”正論”なのである。

「俀」=「人+妥」と分解される。更に「妥」=「爪+女」である。「爪」=「下向きの手の形」とすれば、「[女]を手なずける様」と解釈される。それから「落ち着く」などの意味を表す文字となる。更に「下向きの手」で「まとめる」などの意味も生じると解説される。

裴世清は、確かに古文書に記された「倭國」だが、決して同じではないと感じたであろう。それを「俀」の文字で表記したと推測される。「倭」に含まれる[女]、倭国の象徴である。「俀國」は、その[女]を「爪(まとめる)」た国を表している。「邪馬壹国」(倭國)の領域が漠然とした解釈しかできず、また『古事記』が記す天神族の舞台も全く読み取れずのままである日本の古代史では、到底理解できない記述であろう。

隋書俀國伝原文…、

俀国在百済新羅東南⽔陸三千⾥於⼤海之中 依⼭島⽽居 魏時譯通中國三⼗餘國 皆⾃稱王夷⼈ 不知⾥數但計以⽇ 其國境東⻄五⽉⾏南北三⽉⾏各⾄於海 地勢東⾼⻄下 都於邪靡堆 則魏志所謂邪⾺臺者也 古云去樂浪郡境及帶⽅郡並⼀萬⼆千⾥在會稽之東與儋⽿相近

と記述されている。魏志倭人伝、後漢書倭伝などに記載された内容を要約したように伺えるものであろう。百濟新羅の東南三千里、帯方郡から⼀萬⼆千⾥などは先書に記載された内容そのものである。

通説には「邪⾺臺」、「壹」ではなく「臺」を用いた表記を採用していることから種々の説が発生することになったようである。勿論奔流は「臺」であり、本来は異なる文字でありながら「台」と表記されることになる。更に「台(ト)」と読ませて「ヤマト」に繋がるところである。

隋書は全く異なる文字列ながら「邪靡堆」と記している。「靡」=「ビ、ヒ:漢音、ミ、マ:呉音」である。読みは「ヤマタイ」と読めることから「ヤマト」に結び付けているのである。がしかし「靡」と「馬」は異なる意味を示す文字であり、何故そうしたのか?…邪靡堆」が示す、即ち地形は何と紐解けるであろうか?・・・。

邪魔壹國の「邪」は「牙が集まったところ」と読み解いたが、「牙」に続く文字に動物は存在せず、本来の「邪」=「曲りくねった様」と読む。勿論「牙」の「∨∧」のような様から発生する意味である。「靡」=「麻+非」と分解される。「麻」=「細い、狭い」とすると「非」=「挟まれたところ」を象った文字と思われる。上記の「阿輩鶏彌」に含まれれる「輩」の文字解釈に類似する。
 
<邪靡堆>
結果「邪靡」=「曲りくねって狭く挟まれたところ」と読み解ける。更に「堆」=「土+隹」であり、「鳥の形に盛り上がった地」と解釈される。

「隹」は『古事記』で多用されるが、例えば大雀命(仁徳天皇)などで登場した。「鳥」の形をしたところと解釈した。

纏めると邪靡堆=曲りくねって狭く挟まれた鳥の形に盛り上がった地と紐解ける。「邪馬壹國」とは、全く異なる地形を表していることが解る。

さてそれは如何なる場所を示しているのであろうか?・・・これこそ現在の香春一ノ岳、二ノ岳、三ノ岳の山容を指し示していると気付かされる。

『古事記』は、香春一ノ岳の山容を飛鳥と表記した。残念ながら現在はその山容を見ることは叶わないが、現存する画像(上図参照)にその姿が留められている。伊邪本和氣命(履中天皇)紀に遠飛鳥と呼ばれたところである。隋書は俀國の中心地を「邪靡堆」と表記したのである。邪靡堆=遠飛鳥となる。

皆⾃稱王夷⼈ 不知⾥數但計以⽇ 其國境東⻄五⽉⾏南北三⽉⾏各⾄於海 地勢東⾼⻄下」この文言も魏志倭人伝で記載された「周旋可五千餘里」と同様に扱われているのが現状であろう。明らかに違っていることに気付く筈である。後者は海を巡る、即ち有明海沿岸に並ぶ国々を表し、それに対して前者は「」であることを述べていると思われる。だからこそ「地勢」が付加されている。

ただ、「夷⼈」は距離が計れず、所要日数でしか把握できないと述べ、「月」でその島の大きさを記述している。使者は、勿論実地検分せず、伝聞記述であることをあからさまにしていると解る。「夷人」は、間違いなく、彼らの統治の領域は「」と…大倭豐秋津嶋と言ったかどうかは定かではないが…伝えたのであろう。

『古事記』の倭人、即ち天神族は、かつての「邪馬臺」を十分に認識し、それを引継いだことにするために同じ音である「邪靡堆(ヤマタイ)」としたのである。そして文字を変えることによってその場所は全く異なるところを表した。

また「阿毎多利思北孤」及び王子の居場所の「利歌彌多弗利」は、『古事記』では「橘豐日命(用明天皇)」及び「多米」であることを上記で述べた。隋書俀國伝との繋がりを”隠蔽”するために、実に手の込んだ記述を行ったのである。「橘」の地形象形を読み解くには伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)紀の説話に登場する登岐士玖能迦玖能木實の解釈ができなければならない。

「利歌彌多弗利」と「多米」の表記は、まるで『隋書』と『古事記』が逆になったような表記である。一方が詳細な地形象形ならば他方は簡略に、自在な表現を行っていると思われる。天神族の巧妙な文字使い、混迷の日本の古代史、むべなるかなであろう。
 
海岸・彼都

「邪靡堆」の場所は『古事記』の「飛鳥」の地であったことが解った。一方隋書の裴世清は「海岸」から先の行程は記述することなく、即ち赴くことは無く「既至彼都」と記されている。『古事記』に従うと「海岸」と「邪靡堆」とは遠く離れた場所にある筈なのに「既に至った」という表現とは相容れないのである。

サラリと読み飛ばしては実に多くの情報を見逃すことになるようである。「彼」=「彳+皮」と分解されるが、「皮」=「覆い被さる、斜めに傾く」の意味があると解説される。「皮を剥がす時に斜めになっている様」に基づく意味である。類似する「波」=「海面が皮を剥がす時のようになっている様」を象った文字と知られている。注目は「斜めに傾く」である。

もう一つの文字要素「彳」は何と解釈されるであろうか?…通説では”十字路の左半分”と解釈されている。古文字の形を参考しながら「彳」=「人+人」と分解してみると「彳」=「二つの谷間が並んでいる様」と解釈される。結果として「彼」=「かの、あの」という指示代名詞ではない・・・とすると、『古事記』に登場する宮が浮かんで来る。
 
<海岸・彼都>
帶中津日子命(仲哀天皇)が坐した筑紫訶志比宮である。「訶志比」=「耕地にされた谷間で蛇行する川が並んで流れているところ」と紐解いて現在の北九州市小倉北区にある足立山西麓の谷間と推定した。

また「訶志比」=「傾(カシ)い」と置換えて、傾斜地にある宮とも読み解いた。即ち彼都=二つの谷間が並ぶ斜めに傾いた地にある都=訶志比宮と解釈される。

更に「都」の解釈を行うと、「都」=「者+阝(邑)」と分解される。「者」=「薪を集めて燃やす様」を表す文字と解説されている。

地形象形的には山稜が寄り集まって[炎]のような光景を示す時に使われる文字である。『古事記』の大長谷若建命(雄略天皇)紀に登場する引田部赤猪子に含まれる「猪」=「犭(突き出た口)+者」が示す場所と解る。

天皇の都と思わせつつ、地形を表す、これも実に巧妙な表記であることが読み取れる。「海岸」、「彼都」一般的な普通の名称の表記で固有の場所を表現していたと解る。『古事記』で紐解いた「海」の解釈を転載すると…、

「宇美(ウミ)」=「海(ウミ)」と掛けられた表記と思われる。若干戯れの感があるが、更に踏み込むと「妣國」の意味と繋がって来る。

ここは豫母都志許賣が居た場所の麓である。「海」=「氵(水)+毎」と分解され、「毎」=「母+屮(草)」と解説されている。即ち豫母」の地形を示す「妣國」の麓にある水辺の草原のような地を表していると読み解ける。

通常の「海」=「水が次々と盛り上がる(生まれ出る)様」から示す意味を、その文字の要素に還元して再構成した解釈を行い、地形象形の表記としたものと思われる。唐突に登場するかのように錯覚させられる表現ではなく、既に布石が打たれていたのである。恐るべし、古事記であろうか・・・。

漢字を用いた地形象形表記であると気付かなければ、到底理解できないところであろう。日本の漢字文化から全く抹消されてしまっていることに愕然とする思いである。

魏志倭人伝の陳寿、隋書俀國伝の魏徴の二人の撰者の聡明さに優るとも劣らない古事記の太安萬侶と言えるであろうか・・・中国史書の成立年からすると参照できたのかもしれない。とりわけ隋書の記述との整合性は見事である。

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少々余談になるが、『古事記』における橘豐日命(用明天皇)の段は…、

弟、橘豐日命(用明天皇)、坐池邊宮、治天下參歲。此天皇、娶稻目宿禰大臣之女・意富藝多志比賣、生御子、多米王。一柱。又娶庶妹間人穴太部王、生御子、上宮之厩戸豐聰耳命、次久米王、次植栗王、次茨田王。四柱。又娶當麻之倉首比呂之女・飯女之子、生御子、當麻王、次妹須加志呂古郎女。此天皇、丁未年四月十五日崩。御陵在石寸掖上、後遷科長中陵也。

…と記されている。上宮之厩戸豐聰耳命(後に聖徳太子と言われる)等の名前が見えるが、上記に関わる事柄は皆無である。一方、『日本書紀』では推古天皇紀に関連すると思われる記述がある。その時の中国の時代は唐だと言う。

古事記は語らず、日本書紀は何処かずれているという有様で、間違いなくこの時代の国書に恣意的な匂いを感じざるを得ないのである。そして隋書俀國伝こそが、真実を語っているのではなかろうか。

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大陸から遁走する一族は、東へ東へと一族の居場所を求めて移住した。落ち着いた場所に、恰も古から棲みついていたかのように・・・西から佐賀県多久市・福岡県田川市(郡)・奈良県橿原市(→京都市→東京都)、かつてのアジア大陸の最果ての地に落ち着いたと言うことであろう。

昨日のTVは、第百二十六代天皇即位一色であった。その眩いばかりの美しい映像に他国の賓客もきっと目を見張ったであろう。現存する『古事記』、『日本書紀』、各『風土記』及び『万葉集』など、流浪の民がそのアイデンティティを記すために残した、世界に類をみない書物であろう。悠久の時の流れが輝いていると感じられた。(2019.10.23)

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Ⅲ. 後漢書倭伝新釈

『魏志倭人伝』は陳寿によって三世紀末に書かれたが、先行する漢の時代については、范曄が記した『後漢書倭伝』は五世紀になって成立したと伝えられる。従って倭伝も魏志倭人伝からの引用を主たるところとしているようであるが、既に幾つか引用したが、中に魏志に記載されていない部分を補足する形で記述されている。

倭国王帥升は、中国史書に記載された最初(古)の倭人名である。上記した『魏志倭人伝』の彌馬升・難升米と合せて「升」の文字を含む三名の内の一人である。また、「邪馬壹國」の地がこの時点で覇権を握っていたことが解る。勿論上記の古有明海沿岸における抗争は絶えずの状況であったと思われるが・・・。

他の史書、例えば『宋本通典』、『翰苑』などに倭面土(上)國王帥升と記されている。「面」=「平らに広がった様」であり、「土(上)」=「盛り上がった様」を表すと解説されている。面土(上)=盛り上がったところを平らに広げた地と読み解ける。「邪馬」の地形と矛盾することはないが、特定する表現ではないようである。いずれにしても「帥升」の場所は「升」で決まりである。

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少々余談だが・・・Wikipediaに倭國王帥升の所在地を先人達が推定した記述が引用されている。『古事記』も含めて全く解読されなかった現状が集約されているように思われる。倭面土=ヤマト、面土=イトなど、倭人は文字を知らないと言う記述に引き摺られて音読みからの解釈、それが現在まで繋がっていることに愕然とする。

使者に対して、距離測定ができず、文字を使わず(一般人はともかく)、そして都に踏み入れさせないという周到な国防対応をした倭人の姿を読み解けなかったことを示しているようである。

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1. 倭奴國

「倭國王帥升」の記述の直前に「建武中元⼆年倭奴国奉貢朝賀使⼈⾃稱⼤夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」と記されている。所謂「漢委奴国王印」の印綬が登場する。江戸時代に志賀島で発見されたとされている。

建武中元二年[57年]だから「帥升」よりも五十年早い時と伝えている。「倭奴國」の解釈も様々で「倭奴(イド)」=「伊都」としてみたり、「倭の奴國」=「奴國」として魏志倭人伝に登場する、遠くて詳らかではない国(21国)の内の「奴國」で、それが極南界にあったとする説などがある。

この「倭奴國」を後の「狗奴國」(投馬國を含めて…従っていたか否かに関わらず)と解釈する。北部(後の邪馬壹國)に敵対する勢力が先立って朝貢したと考えるのである。漢にしてみればより遠い地域からの貢は大歓迎であろう。だから印綬したと思われる。五十年後は北部が倭國を代表するようになったが「狗奴國」は、やはりそれに属さない国であったと推定される。

上記で古有明海沿岸地域の相克を思い浮かべたが、その一端が記されていたものと推察される。江南の倭族が極東の地で棲みつき、そして幾多の葛藤を抱えながら大陸との付き合い方を模索していたのであろう。日本、勿論朝鮮半島の国も、古代よりその定めの中に棲息して来た、そして未来も変わりはないように思われる。

⾃稱⼤夫」ならば「狗奴」とは言わずに「倭奴」と自ら名乗ったのではなかろうか。王名が記載されてれば、と思っても致し方なし。言わずもがなだが、范曄の誤記ではない、きっと・・・。倭國は乱れて、卑弥呼が擁立される。魏志に繋がるところである。

全くの憶測の領域だが、鹿島市から嬉野市~有田町~伊万里港へと抜ければ、壱岐島へのルートとなる。ヒト・モノ・(カネ)が揃えば主導権も握ることができたであろう。様々な国が割拠する時代であったことには違いはないように思われる。

2. 東鯷⼈・夷洲・澶洲

さて、後漢書には付記された箇所が存在する。(維基文庫 巻85)

會稽海外有東鳀人,分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海,求蓬莱神仙不得,徐福畏誅不敢還,遂止此洲,世世相承,有數萬家。人民時至會稽市。會稽東治縣人有入海行遭風,流移至澶洲者。所在絕遠,不可往來。 

魏志には記述されない内容である。會稽海外=會稽海(東シナ海)・外(外側)と読み解く。「外」=「月+卜」と分解される。「月」=「欠けて行く様」を表し、残った「外側」の意味を示すと解説される。この文字列だけからも現在の東シナ海を取り囲む列島(台湾を含めて)の島々のことであることが解る。従来では済州島やら日本列島(本州)を登場させているが、全く論外であろう。


<東鯷⼈・夷洲・澶洲>
東鯷⼈」とは?…「倭人」ではない。これは地形象形表記なのであろうか?・・・。

鯷」=「魚+是(匙)」と分解され、「匙のような魚」=「カタクチイワシ」とのことである。これで現在の沖縄本島の形を象ったと解る。

「東」は「東方にある」と解釈できるが、「東」=「地平線から日が突き抜けて来る様」を表す文字と知られる。

すると鯷人=海面から突き出て来た[匙]のような島に住まう人と紐解ける。分為⼆⼗餘國」と記述されていることから既に多くの人々が住んでいたところであることが解る。

余談だが・・・カタクチイワシは天敵から身を守るために密集隊形を採るようであるが、沖縄諸島、奄美群島などの名称があるように、「匙」の地形も去ることながら、群れだった島々を表しているとも思われる。「鯷」の文字を使うことによって地形の詳細を示しているのであろう。

現在の南西諸島の原・住人のことを示していると思われる。この地に倭族(人)が入り込んで行く余地はなかったと推察される。

上記と同様にして「夷洲」は「夷」の本来の意味も重ねているが、文字形そのままを適用したのであろう。現在の石垣島の地形を表していると思われる。


「澶」=「氵+亶」と分解される。更に「亶」=「㐭+旦」と分解され、「㐭」=「米倉」の象形と解説される。『古事記』に頻出の「旦」=「地平線から日が昇る様」で、すると「亶」=「米が倉から出て来る様」を表したものとされる。

纏めると澶=海上に食み出た[米粒]のようなところと読み解ける。現在の台湾を、そのままの形で表記していることが解る。

所在絶遠不可往來」の文言に捉われて、台湾などでは近過ぎるのでは?…と訝ってられる方もおられるようだが、「往来」するには遠いところとの理解であろう。魏志倭人伝の「旁余國」に類似して、どうやら詳細記述が不可の場合に付加される決まり文句のような感じである。
 
徐福

「蓬萊神仙」とは東方の海上に住まう不老長寿の仙人たらんことを願う紀元前四世紀以降に誕生した思想である。それを求めて彷徨った方の伝説が記されている。日本各地に残る伝説、その由来は不詳だが、徐福は「澶洲」に留まったのであろう。彼が命じて更なる東に向かった「男⼥數千⼈」の内の幾ばくかが日本列島に漂着したのかもしれない。

ところで台湾には3,000m級の山が200有余座あると言われる(日本は21座)。最高峰は玉山(かつては新高山とも)の3,952m(東アジア最高峰)である。「米粒」の中心地は、正に日本アルプスを遥かに凌ぐ急峻な山岳地帯と知られている。がしかし、無念にも神仙には出くわさなかったのであろう。

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倭人が行った地形象形と些か雰囲気が異なるようではあるが、やはり地形を漢字で表記するという基本的なところは同じであった。漢字を生み出し、それを流布させた人々は、大切なものを大切なもので表すことに努力をしたのであろう。ある意味現在に通じることでもある。

一方日本人は日本語を漢字で表記することに長けた(実際は倭人が)のであるが、それ故に、他言語を容易に取り込むことに通じたのである。ともあれ、誰も気付かなかった漢字による地形表現、もっと大切にしたいものである・・・。

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最後に中国史書『宋書倭国伝(夷蛮伝倭国)』(南朝梁の沈約撰、西暦488年)について述べる。この書には、倭國の五王(讃・珍・濟・興・武)が朝貢(西暦420~479年)したと記録されている。同時代資料としての価値が高いとされている。

推定年代から五人の天皇に比定したり、また「九州王朝」の王だとか、色々と推測されて来ている。とりわけ上表文が記載されている最後の「武」を雄略天皇として、ほぼ日本列島を支配した王のような解釈がなされているようである。

本著が述べるところからすると、この五王の名称は、倭人が付けたものではない、と結論付けられる。狗邪韓國など洛東江下流の南西部に侵入した”非倭人”が騙ったものと推測される。宋書に記された倭國の”倭”は朝鮮半島南部にあったとする奥田尚氏の論考がある。

『新唐書東夷伝』に「用明 亦曰目多利思比孤直隋開皇末 始與中國通」と記載されている通り、この地を失った”本来”の倭國は、「隋」の時代まで東アジアの歴史の表舞台に登場することはなくなったのである。

憶測の域になるが、『魏志倭人伝』に記された「邪馬壹國」及びその他の諸国は、『宋書倭國伝』に登場する”倭國”によって帯方郡への道筋を断たれ、また百濟國西南の航路を辿るには航海技術が未熟であったと推測される。古有明海という内海での航海で事足りたことは外海に乗り出す技術を育むことを阻んだのではなかろうか。
 
<宇都志日金拆命・阿曇連>
『古事記』に伊邪那岐の禊祓で誕生した
綿津見神の子、宇都志日金拆命阿曇連の祖となる記述がある。

『古事記』はその一族のことを詳らかにすることはないが、後に海人族として名を馳せる一族となったと伝えられる。

Wikipediaによると瀬戸内海から近畿地方は言うに及ばず、伊豆から更には現在の山形県、内陸の長野安曇野にまで及ぶと言われ、中国、朝鮮半島との交易を促したと伝えられている。

「俀國」が対馬(對海國)を経ることなく帯方郡、更には中国本土に向かうことができたのは、「綿津見神」を祖先とし優れた航海技術を獲得した「阿曇族」の航海技術に依るものと思われる。

「阿曇一族」の隆盛こそが「倭國」から「俀國」への主役交替に最も重要な役割を果たしたのではなかろうか。古有明海は豊か過ぎた、のである。そして国々が並立する緩い連合体制であり、抗争が絶えない地域と、中央集権とまでには至らないが、それに限りなく近い体制を整えた地域との格差を伺わせるのである。

深読みすれば、『古事記』が「阿曇族」について詳細に語らないのは、その発達した航海技術の先に彼ら「天神族」の行く末が依存するからではなかろうか。「日本國」の登場は『古事記』の範疇ではないからである。

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Ⅳ. 唐書東夷伝新釈
1. 旧唐書

Wikipediaよると「完成と奏上は945年(開運2年)6月だが、その翌年には後晋が滅びてしまうため、編纂責任者が途中で交代するなど1人の人物に2つの伝を立ててしまったり、初唐に情報量が偏り、晩唐は記述が薄いなど編修に多くの問題があった。そのために後世の評判は悪く、北宋時代に『新唐書』が再編纂されることになった。しかし、逆に生の資料をそのまま書き写したりしているため、資料的価値は『新唐書』よりも高いと言われる。」と記されている。

何せ極東から中央アジアまでを統一した大帝国であり、その記載量は膨大なものになるのは当然の結果と思われる。更に拡大膨張したとは言え物理的に全土を支配するには困難な状況故に決して安定した統治でもなかったことが伝えられている。

とりわけ東夷となれば、その情報の収集・検証に割く時間も少なかったであろう。「隋」の時代からもその兆候は見え隠れしており、かつ東夷そのものも激動の様相であり、情報の時間的変動も加わっていたと推測される。


そんな背景の中で『古事記』の読み解き手法を適用してみることにした。とは言え、その範疇を大きく逸脱した時代である。どこまで通じるか、憶測の領域を突き進むことになる。


『隋書俀國伝』に続いて『旧唐書東夷伝』に登場する「倭」に関係するところを抜き出してみると、『隋書』で記された「俀國」(但し「俀」は使われず「倭」となっている)、更に「日本國」という表記が登場する。中国史書には「倭奴國」、「倭國」、「俀國」、「日本國」の四つの国名が揃うことになる。

未だに王道を歩く、「邪馬壹國」が奈良大和にあったとする説を唱える人達にとっては、単に名前を変えただけのことと簡単に片付けられているようだが、各中国史書に記された付随する詳細な、かつ重要な記述の相違などが全く無視されているようでもある。

一方、古田武彦氏が唱えた「九州王朝」の存在を信奉する人々にとっては、決して簡単ではなく、その枠の中で種々の議論が噴出しているようである。とりわけ『隋書』の「俀國」について、その地に登場する「竹斯國」を「竹斯=筑紫」と置換えて、現在の博多湾岸の地に比定した結果がもたらす混迷状態のようである。あるいは早々と「俀國」を奈良大和に持って行く説も現れて来る有様である。

簡単に言えば、古田氏の「多元国家論」が中途半端だったことに由来するのであろう。多元国家が群雄割拠する江南の地を脱出した「倭族」は着地した日本列島でも「多元」であった。即ち一元的な「九州王朝」は存在せず、その地も「多元」であったと考えるべきなのである。

さて、旧唐書の原文を引用する…日本語訳はこちらこちらなどを参照。

倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中。依山島而居、東西五月行、南北三月行。世與中國通。其國、居無城郭、以木爲柵、以草爲屋。四面小島五十餘國、皆附屬焉。其王姓阿每氏、置一大率、檢察諸國、皆畏附之。設官有十二等。其訴訟者、匍匐而前。地多女少男。頗有文字俗敬佛法。並皆跣足、以幅布蔽其前後。貴人戴錦帽、百姓皆椎髻、無冠帶。婦人衣純色裙、長腰襦、束髮於後。佩銀花、長八寸、左右各數枝、以明貴賤等級。衣服之制、頗類新羅。

貞觀五年、遣使獻方物。太宗矜其道遠、敕所司無令歲貢、又遣新州刺史高表仁、持節往撫之。表仁、無綏遠之才、與王子爭禮、不宣朝命而還。至二十二年、又附新羅、奉表、以通起居。

日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。或曰、倭國自惡其名不雅、改爲日本。或云、日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。又云、其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山爲限、山外卽毛人之國。

長安三年、其大臣朝臣真人來貢方物。朝臣真人者、猶中國戶部尚書、冠進德冠、其頂爲花、分而四散、身服紫袍、以帛爲腰帶。真人、好讀經史、解屬文、容止溫雅。則天、宴之於麟德殿。授司膳卿、放還本國。

開元初、又遣使來朝、因請儒士授經。詔、四門助教趙玄默、就鴻臚寺教之。乃遺玄默闊幅布、以爲束修之禮、題云、白龜元年調布。人亦疑其偽。所得錫賚、盡市文籍、泛海而還。其偏使朝臣仲滿、慕中國之風、因留不去、改姓名爲朝衡、仕歷左補闕、儀王友。衡、留京師五十年、好書籍。放歸鄉、逗留不去。天寶十二年、又遣使貢。上元中、擢衡、爲左散騎常侍、鎮南都護。貞元二十年、遣使來朝、留學生橘逸勢、學問僧空海。元和元年、日本國使判官高階真人、上言「前件學生、藝業稍成。願歸本國、便請與臣同歸。」從之。開成四年、又遣使朝貢。


倭奴國・倭國・俀國

『隋書』の記述に沿って要約した記述から始まっている。ただ「俀國」の表記は採用せず「倭國」としている。『隋書俀國伝』を読み解いた通り、「俀」の文字は、過去に遡って複数ある「倭國」を「爪(下向きの手の形)」で纏めた(抑えつけた)ような意味を表していると解釈した。実に上手い表現ではあろうが(魏徴撰)、旧唐書の撰者は、押し並べて「倭國」と見做すと読んだのであろう。

倭人の中に「倭奴族・邪馬族」(古有明海沿岸地域)と「天神族」(大倭豐秋津嶋:福智山・貫山山塊の山麓を主とする地域)とがあって、『隋書』に「俀國」と記されたのは「天神族」の国と明確に区別できなかったのである。勿論「天神族」は、過去の朝貢実績を根こそぎ頂くという奸計を行い、それが罷り通ったのは「倭奴族」間の小競り合い及び航海(造船)技術の停滞していたものと推測される。

「古倭奴國」と記されている。『後漢書』の記述で「倭(人)」が初めて朝貢(西暦57年)した記録に基づくものである。既に読み解いたように「倭奴國」=「狗奴國」(『魏志倭人伝』で「邪馬壹國に属さない国として登場)とした。極東から中央アジアまでを領土とした大帝国の唐から見れば、これらの地域差は”誤差”であったろう。一つにひっくるめて「倭國」したくなるのは当然かもしれない。がしかし、その狭い地域の中での抗争、あるいは全く関わることなく存在していたのが倭人達の逃亡先に作った国々であったと思われる。
 
<阿毎多利思北孤>

阿毎

「其王姓阿每氏」と記載されている。『隋書』に記載された「俀王姓阿每、字多利思比孤、號阿輩雞彌」をそのまま引き継いだ表記となっている。

図を再掲すると『古事記』で「橘之豐日命」の別名表記であると結論された。

「天(阿麻)」の読みを巧みに取り入れた命名である。「姓」も「字」も「號」も無く名付けられていたものを”漢風”にした名前であろう。

『魏志』に「郡使往來常所駐」である「伊都國」に「特置⼀⼤率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國」から一大率を取り上げている。

『隋書』には一大率の記述はない。即ち「伊都國」に「駐」することはなく、「竹斯國」に直行したと伝えている。「邪馬壹國」及びその連合国にとって対外折衝の場所であった場所をスルーしており、「倭國」と「俀國」の場所が異なることを示していたのである。
 
<海岸・彼都>
『旧唐書』の撰者が実際に「倭・俀國」に向かった使者の情報に基づく記述ではなく、既述の資料を要領よく纏めた体裁をとったものであることが解る。

勿論「俀國」における「伊都國」の役割は「彼都」がある場所、『古事記』における「筑紫國」が担っていたことになる。

中国史書と古事記の記述が繋がった、重要なところであり、図を再掲した。

いずれにしても「地図」(当時にない概念であろうが…)は国防上最重要な情報であった筈で、『魏志』の陳寿の記述には見事な配慮がなされていると既述した。後の撰者が文字面だけで読むんだ結果が混乱を招くことになったと思われる。

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全くの余談だが・・・昨日幕末に発生したシーボルト事件に関する新たな資料が見つかったとの報道があった。「江戸時代後期の1828年にフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが国禁である日本地図などを日本国外に持ち出そうとして発覚した事件。役人や門人らが多数処刑された。1825年には異国船打払令が出されており、およそ外交は緊張状態にあった。」とされる事件である。

持ち出し発覚(江戸露見説)の様子を克明に記した資料とのことで通説の台風による座礁船から見つかったという説は翻されたようである。元々オランダ側の資料との齟齬が解消したとのことである。何故台風座礁説などが登場したのかは憶測の域であるが、国禁の地図、オランダ側資料の正確さなど上記と重なる内容を示している。

また、列強に包囲されたかのような状況も「倭(俀)國」の立場に通じるものがあろう。そんな緊張状態における地図の重要性は想像以上のものであったと思われる。現在は何百もの衛星が天から見つめる時代、いや高度三千メートルからドローン攻撃もあり得る、時代は変わったようである。(2019.12.28)

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「倭(俀)國」の人々の様子や風俗は『隋書』に準拠するようであるが、「頗有文字、俗敬佛法」が加わっている。身分格差は大きくあるものの着実に進化していることを示しているように思われる。『古事記』は「佛法」のことは語らないが、その訳は定かではない。何かを意味しているような気もするのだが・・・。

貞観五年、二十二年(西暦631年、648年)の二度、遣使したと伝えている。『隋書』記載された遣使は大業三年(西暦607年)、そして裴世清が「俀國」を訪れたのが明年の大業四年(西暦608年)とある。おそらく帰国したのが大業六年(西暦610年)、「隋」はその八年後(西暦618年)に唐によって滅ぼされたと知られる。

「貞観」の遣使は日本書紀に記載された天皇紀では、舒明天皇~皇極天皇~孝徳天皇紀に該当する(西暦629~654年)。本ブログの解読からすると「俀國」の「邪靡堆」に坐した天皇となる。日本の歴史の真っ暗闇にどっぷりと浸かった時代を迎えることになる。

引き続いて旧唐書東夷伝の後半部分を読み解いてみよう。いよいよ「日本國」の登場である。
 
日本國

「倭奴國」、「倭國」、「俀國」に続く名称、中国史書の撰者にとっては、今一掴みどころのない国名変更のようにも思えるが、彼らは辛抱強く付き合ってくれたようである。「日出處天子致書日没處天子無恙云云」などと小生意気な文を述べたりするが、極東最果ての地を抑えることは中国本土の国にしても価値があったのであろう。「隋書」は彼らの大人の対応を記している。

貞觀二十二年(西暦648年)の遣使を最後に音沙汰がなかった、勿論その時点で唐は大帝国になっていたが、長安三年(西暦703年)に、今度は「日本國」として遣使したと告げている。該当部分を再掲する。

旧唐書東夷伝(抜粋:日本語訳はこちらこちらなどを参照)…、

日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。或曰、倭國自惡其名不雅、改爲日本。或云、日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。又云、其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山爲限、山外卽毛人之國

長安三年、其大臣朝臣真人來貢方物。朝臣真人者、猶中國戶部尚書、冠進德冠、其頂爲花、分而四散、身服紫袍、以帛爲腰帶。真人、好讀經史、解屬文、容止溫雅。則天、宴之於麟德殿。授司膳卿、放還本國。

開元初、又遣使來朝、因請儒士授經。詔、四門助教趙玄默、就鴻臚寺教之。乃遺玄默闊幅布、以爲束修之禮、題云、白龜元年調布。人亦疑其偽。所得錫賚、盡市文籍、泛海而還。其偏使朝臣仲滿、慕中國之風、因留不去、改姓名爲朝衡、仕歷左補闕、儀王友。衡、留京師五十年、好書籍。放歸鄉、逗留不去。天寶十二年、又遣使貢。上元中、擢衡、爲左散騎常侍、鎮南都護。貞元二十年、遣使來朝、留學生橘逸勢、學問僧空海元和元年、日本國使判官高階真人、上言「前件學生、藝業稍成。願歸本國、便請與臣同歸。」從之。開成四年、又遣使朝貢。

どうやら遣使の態度は尊大で、中国側は「倭(俀)國」の時の控え目な態度とは大きく異なったように受け取られたようである。「日出處天子・・・」を引き摺っていることは間違いなかろう。

「又云、其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山爲限、山外卽毛人之國」と記載されている。勿論遣使の言葉そのままであって実地検分したわけではない。かつては、「倭國在百濟・新羅東南、⽔陸三千⾥、於⼤海之中、依⼭島⽽居」と記述されていた地形とは全く異なっていることが解る。「毛人之國」が登場する。

遣使が朝臣真人と記載されているが、「粟田真人」とされ、「春日粟田百済」の子と言われる。「春日粟田」は、『古事記』で御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇)が尾張連之祖奧津余曾之妹・名余曾多本毘賣命を娶って誕生した長男坊である天押帶日子命が祖となった地、粟田臣に登場する。現地名は田川郡赤村内田小内田辺りと推定した。

春日は、同じく天押帶日子命が祖となった地で、元々は邇藝速日命が「哮ヶ峰」に降臨した後に「鳥見之白庭山」(戸城山)に移り、その北西麓の地(赤村内田)を示す名称である。その更に西側に「丸邇一族」が隆盛する(田川郡香春町柿下)。皇統に関わるところでもあり、多くの有意な人材を輩出した地である。

物腰は温雅で経書・史書を好んで読むとのことで則天(則天武后:中国では武則天、中国史上唯一の女帝)に気に入られたのか手厚くもてなされた様子が記述されている。『隋書』の記述以降の「倭國」の急速な発展を伺い知ることができる内容である。

『隋書俀國伝』は遣使の名前を伝えないが、従来より「小野妹子」とされている。「近江国滋賀郡小野村(現在の大津市小野)の豪族で、天足彦国押人命を氏祖とする小野氏の出身」とWikipediaに記載されている。勿論上記の天押帶日子命が祖となった小野臣(現地名は田川郡赤村内田小柳辺り、「粟田」の北隣)に出自を有する人物であったと推定する。「春日」の地に関連する人材が遣使の役割を果たしていたことを伝えている。
 
白龜元年調布

開元初(西暦713年)の遣使は、儒学者にによる経典の教授を請願したと述べている。学ぶことへの飽くなき要求は既にこの時点で明らかであろう。その返礼に白龜元年調布の話題が登場する。何じゃこれは?と言われるところ、後の解釈も様々である。こんな元号は「九州王朝」にも無いとか、例によって誤写だとか、もったいない解釈が横行していようである。

白龜」を調べると、中国の故事に「白亀の恩」と言うのがあるとのことである。晋書(唐の太宗の命により編纂、西暦648年)に記載された物語に由来する。するとこれは元号ではなく、実に洒落た「調布」(租税:租庸調の布)を意味することになろう。

経典教授の返礼に名付けた布、恩に報いることを示している。しかも晋書に記載された内容を踏まえていることを表しているのである。あらてめて白龜元年調布の文字列を眺めると、報恩元年の貢ぎ物としての意味が伝わって来る。洒落た、では真に失礼な解釈であって、日本國の”知性”を顕在させている。

またそれを「人亦疑其偽」と受け流す旧唐書の撰者の”知性”を表す記述と思われる。「恩に報いることの始まりって、本当かい?」「大丈夫だろうね?」って気持ちを表している。近隣諸国とは、こんな遣り取りで付き合うことが肝要なのかもしれない。

所得錫賚、盡市文籍、泛海而還」昭和三十年代の高度成長期の日本であろう。学ぶことへの貪欲さが薄れては日本は成り立たない国である。そして白龜元年調布のような文言を携えて教えを乞う姿勢が肝心であろう。それにしても「元号」に有るとか無いとかを論議しているようでは国の行く末が案じられる。類似の考察をされているサイトがある。
 
朝臣仲滿

その時の副使に朝臣仲滿(阿倍仲麻呂)が居たと伝える。Wikipediaには「阿倍仲麻呂(あべ の なかまろ、文武天皇2年(698年) - 宝亀元年(770年1月)は、奈良時代の遣唐留学生。姓は朝臣。筑紫大宰帥・阿倍比羅夫の孫。中務大輔・阿倍船守の長男。弟に阿倍帯麻呂がいる。唐名を「朝衡/晁衡」(ちょうこう)とする。唐で国家の試験に合格し、唐朝において諸官を歴任して高官に登ったが、日本への帰国を果たせずに唐で客死した」と記載されている。

大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)紀の大毘古命の子、建沼河別命が祖となった阿倍臣に出自があると思われるが、当人は一族がその地を離れた後に誕生したのではなかろうか。遣使の中でも一際優秀な人材であったようである。上元中、擢衡、爲左散騎常侍、鎮南都護」と記され、上元中(西暦760~2年)には、皇帝の側近となり、現在のベトナムの北・中部を統治する長官に抜擢されたと伝えている。

在唐中の天寶十二年(西暦753年)にも遣使があり、藤原清河・大伴古麻呂・吉備真備他だったようである。凄まじいばかりの中国詣であったが、日本書紀などでは彼ら遣使の命懸けの様子が語られている(Wikipedia参照)。貞元二十年(西暦804)には「留學生橘逸勢、學問僧空海」が記載され、開成四年(西暦806年)の遣使で旧唐書の記述は終わりを告げている。

空白の五十年

貞觀二十二年(西暦648年)から長安三年(西暦703年)までの五十有余年間、遣使の記述が見られない。『旧唐書』の百濟國に関する記述に「倭衆」という表記が登場する。「倭國」として最後の遣使の後、僅か十年余りで百濟國は滅亡する(西暦660年)ことになる。新羅國の策略がまんまと成功して唐と組んで百濟國を殲滅してしまうのである。

この当たりの政略は実に見事であろう。後に朝鮮半島を新羅國が統一するのであるが、その伏線として、重要な出来事が連続して起こることになる。中国は隋代から高句麗には随分と梃子摺っていたが、南の百濟國を手中に収めることによってついに滅亡させる(西暦668年)。百濟國滅亡から十年経たない内に成遂げられたのである。極東における新羅國の存在が大きくクローズアップされた時代であろう。

そのような時代背景の中で「倭國」は「日本國」へと変貌したのである。『日本書紀』には『旧唐書』に記載された以外の幾つかの遣使を述べ、「白村江」での百濟・倭連合の大敗(西暦663年)、壬申の乱など、なかなか賑やかに伝えている。「白村江」の戦いは、『旧唐書』の「倭國」関連では「空白」である。上記したように、これに関連する記述が『旧唐書』の百濟國関連の項にある。

抜粋して引用すると…、

於是仁師、仁願及新羅王金法敏帥陸軍以進。仁軌乃別率杜爽、扶餘隆率水軍及糧船。自熊津江往白江、會陸軍同趣周留城。仁軌倭兵白江之口、四戰捷、焚其舟四百艘、煙焰漲天、海水皆赤、賊衆大潰。餘豐脫身而走、獲其寶劍。偽王子扶餘忠勝、忠志等、率士女及倭衆幷耽羅國使、一時並降。百濟諸城、皆復歸順、賊帥遲受信據任存城不降。

…簡明な記述であり、仁軌(劉仁軌)に投降したのは参戦していた倭兵(衆)である。白江は「白村江」とされている(現地名の比定は未達)。即ち唐はこの事件を「倭國」との関係とは見做していないと思われる。飽くまで百濟國関連であり、そこに応援部隊としての「倭人」が存在しても意に介せずの態度を示していると思われる。一方の『日本書紀』は何万もの大軍で支援した格好を取り、更に戦後処理で登場する郭務悰を迎え入れた様子が記載されている。

同一の事件を関係する国によって異なる取扱いがあっても何ら不思議ではないが、『日本書紀』の取扱いには些か不自然さが感じられる。当時にそれだけの兵力を動員する財力があったのか、また奈良大和を中心として軍船の手配及び朝鮮半島を経由せずに直接中国に向かうことが可能であったのか、など幾つも列挙できるが、憶測の域に入るのでこれで止めることにする。

一方中国史書の方は、撰者が参考にしたと思われる『旧唐書』以外の史書、例えば『唐会要』(この書の元になったものを含め)などには「倭國」に関連する記述が散見されるようである。

永徽五年(西暦654年)に「倭國」が琥珀、碼碯を献上して、その立派なのに高宗が喜び、危急のことがあれば、助けよと述べた。

顕慶四年(西暦659年)に「蝦夷國」を「倭國」の遣使が伴って来た。

・・・<百濟國滅亡(西暦660年)・白江戦(西暦663年)・高句麗國滅亡(西暦668年)>・・・

咸亨元年(西暦670年)に「倭國」が高句麗征伐を祝して遣使を送った。

『日本書紀』に記載された時期、内容も概ね合致しているようであるが、正史『旧唐書』の「倭國伝」からは抹消されている。上記の「劉仁軌伝」登場の「倭兵(衆)」ではなく「倭國」からの遣使と認識しながら未記載なのである。

中国側から見れば隋代では「俀國」と名乗り、元々は「倭(奴)國」だと主張し、派遣した使者はその地にまるで中国と変わらないような人々が住まい(秦王国)、遣使はそれぞれなかなかの人物で皇帝にかわいがられるような有様、要するに”曲者”の雰囲気を醸し出していると見ていたのであろう。

そして唐は新羅國と手を結んで百濟・高句麗國を殲滅させる戦略をとる中で百濟國への支援に走った「倭國」に大いなる不信が募っていた時代であったと思われる。「倭國」の様子を伺う時期であり、さりとて「新羅國」の抑えには「倭國」が必要であり、距離を置いた関係を保つ戦略を採用したと推測される。それは更に「倭國」への無言の圧力として作用したのである。

中国史書には登場しない「郭務悰」が派遣されて来るが(西暦664~9年)、戦後の占領統治策を講じるわけでもなく、朝鮮半島南部及び倭國の実情査察を主たる目的にしてのではなかろうか。勿論「倭國」はおっかなびっくりの状況ではあったと思われるが・・・。詰まるところ、本当の意味での「空白」の時期は、西暦672~703年の三十二年間と見積もられる。天智天皇から文武天皇の期間に当たるようである。

いずれにしても660年の百濟國滅亡は、「俀國」に住まう「天神族」にとっては大変な出来事であった筈で、唐の侵入もさることながら新羅國の勢いを防ぎ切れない様相を感じ取っていたのであろう。彼らは更に「東へ」と逃亡する、その重要な動機付けになったと推測される。勿論「倭衆」が大移動するためのプロパガンダの役割を持たせていたのである。

2. 新唐書

Wikipediaによると「『新唐書』(しんとうじょ)は、中国の唐代の正史である。五代の後晋の劉昫の手になる『旧唐書』(くとうじょ)と区別するために、『新唐書』と呼ぶが、単に『唐書』(とうじょ)と呼ぶこともある。北宋の欧陽脩・曾公亮らの奉勅撰、225巻、仁宗の嘉祐6年(1060年)の成立である。」と記され、唐末の戦乱の影響で資料的に欠落部が多かったのが宋代になって見出された資料を加えて纏められたとのことである。尚、日本語訳はこちらを参照。

新唐書東夷伝(日本伝)…、

日本、古倭奴也。去京師萬四千里、直新羅東南、在海中、島而居、東西五月行、南北三月行。國無城郛、聯木爲柵落、以草茨屋。左右小島五十餘、皆自名國、而臣附之。置本率一人、檢察諸部。其俗多女少男、有文字、尚浮屠法。其官十有二等。其王姓阿每氏、自言、初主號天御中主、至彥瀲、凡三十二世、皆以尊爲號、居筑紫城。彥瀲子神武立、更以天皇爲號、徙治大和州。次曰綏靖、次安寧、次懿德、次孝昭、次天安、次孝靈、次孝元、次開化、次崇神、次垂仁、次景行、次成務、次仲哀。仲哀死、以開化曾孫女、神功爲王。次應神、次仁德、次履中、次反正、次允恭、次安康、次雄略、次清寧、次顯宗、次仁賢、次武烈、次繼體、次安閑、次宣化、次欽明。欽明之十一年、直梁承聖元年。次海達。次用明。亦曰、目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通。次崇峻。崇峻死、欽明之孫女、雄古立。次舒明、次皇極。其俗、椎髻、無冠帶、跣以行、幅巾蔽後、貴者冒錦。婦人衣純色裙、長腰襦、結髮于後。至煬帝、賜其民錦綫冠、飾以金玉。文布爲衣、左右佩銀蘤、長八寸、以多少明貴賤。

太宗貞觀五年、遣使者入朝。帝矜其遠、詔有司、毋拘歲貢。遣新州刺史高仁表、往諭。與王爭禮、不平、不肯宣天子命而還。久之、更附新羅使者、上書。

永徽初、其王孝德卽位、改元曰。白雉。獻虎魄大如斗、碼碯若五升器。時、新羅、爲高麗百濟所暴。高宗、賜璽書、令出兵援新羅。未幾、孝德死、其子天豐財立。死、子天智立。明年、使者與蝦蛦人偕朝。蝦蛦、亦居海島中、其使者鬚長四尺許、珥箭於首、令人戴瓠立數十步、射無不中。天智死、子天武立。死、子總持立。咸亨元年、遣使賀平高麗。後稍習夏音、惡倭名、更號日本。使者自言、國近日所出、以爲名。或云、日本乃小國、爲倭所幷、故冒其號。使者、不以情、故疑焉。又妄夸。其國都、方數千里。南、西、盡海。東、北、限大山。其外卽毛人云。

長安元年、其王文武立、改元曰太寶。朝臣真人粟田、貢方物。朝臣真人者、猶唐尚書也。冠進德冠、頂有華蘤四披、紫袍帛帶。真人好學、能屬文、進止有容。武后、宴之麟德殿。授司膳卿、還之。文武死、子阿用立。死、子聖武立、改元曰白龜。開元初、粟田復朝、請從諸儒受經。詔、四門助教趙玄默、卽鴻臚寺爲師。獻大幅布爲贄。悉賞物貿書以歸。其副朝臣仲滿、慕華不肯去、易姓名曰朝衡、歷左補闕、儀王友。多所該識。久乃還。聖武死、女孝明立、改元曰、天平勝寶。天寶十二載、朝衡復入朝、上元中、擢左散騎常侍、安南都護。新羅梗海道、更繇明、越州朝貢。孝明死、大炊立。死、以聖武女、高野姬爲王。死、白壁立。建中元年、使者真人興能、獻方物。真人、蓋因官而氏者也。興能、善書。其紙似繭而澤、人莫識。貞元末、其王曰桓武、遣使者朝。其學子橘免勢、浮屠空海、願留肄業。歷二十餘年、使者高階真人來請、免勢等俱還。詔可。次諾樂立、次嵯峨、次浮和、次仁明。仁明直開成四年、復入貢。次文德、次清和、次陽成。次光孝、直光啓元年。

其東海嶼中又有邪古、波邪、多尼三小王。北距新羅、西北百濟、西南直越州。有絲絮、怪珍云。

…『旧唐書』には「倭國伝」と「日本伝」の二本立ての記述であったのが「日本伝」のみとなっている。また天御中主から始まる皇統の記述が、些か誤字、衍字もあるが皇極天皇まで列記されているのも、それまでの中国史料とは大きく異なる内容を示している。度重なる遣唐使の派遣で「日本國」の有様が伝えられたものと思われる。

とは言え、伝えらた天皇名は所謂「漢風諡号」であり、『隋書』に登場する阿毎多利思北孤阿輩鶏彌の名前は用明天皇の別名として記載されている。上記したように誤字、衍字が多数見られる史書であることから、『新唐書』の資料的価値を低く見て、この記述を真面に取り上げられていないのが現状であろう。

「漢風諡号」は淡海三船によって西暦762~4年に一括撰定されたと”想像”されているが、それ以前にも見受けられており、曖昧さが拭い切れないようである。言い換えると『新唐書』の諡号が誤りだと言い切れない部分もあることになる。正史『日本書紀』の記述を鵜呑みにすることだけは避けたいものである。

『隋書俀國伝』及び『旧・新唐書東夷伝』の解釈が学術的に行われていないのは、史料批判に耐えないものではなく、寧ろそれらが記載する内容、即ち『日本書紀』などに記される内容との齟齬が大きいように思われる。簡単に言えば、相変わらず通説から外れた論考には学術的価値は無いという風潮なのである。

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初主號天御中主、至彥瀲、凡三十二世、、皆以尊爲號、居筑紫城。彥瀲子神武立、更以天皇爲號、徙治大和州と記されている。少々補足的に述べてみると・・・。

『古事記』によると彥瀲=天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命である。確かに神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の父親に当たる。神話風に記述された『古事記』では凡三十二世を辿ることは不可のようである。祖父である火遠理命(日子穗穗手見命)が五百八十年間在位したと伝えているが、個人が、ではなく世襲名でそれくらいの年数とすれば、三十世代が経過したのかもしれない。

『古事記』は邇邇芸命以下鵜葺草葺不合命が坐した地を竺紫日向と伝える。その中心にあったのが高千穂宮である。「筑」と「竺」はそれらの文字が示す場所が全く異なることを『古事記』が記している。それが読み解けていない現状では、「筑紫」=「竹斯」となってしまうのである。『隋書』に登場する竹斯國=竺紫日向である。『新唐書』の撰者は「日本國」の遣使の語るところに拠って、彼らが言う「日本國」は神武天皇以来奈良大和に移ったと…史実に基づくことだと主張したであろう。

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仲哀死、以開化曾孫女、神功爲王。勿論「三韓征伐」のような記述はないが、「王」と記したのは日本側も「神功天皇」とは告げなかったからであろう。開化天皇及び新羅王子の天之日矛の末裔である。『宋書』には別名「息長足姫」が記載されている通り、正確さには欠け、不十分ではあるが皇統の重要なところは記述されているようである。

欽明之十一年、直梁承聖元年。梁の承聖元年(西暦552年)である。此の頃、百濟を経て仏教が伝わったと知られる。仏教公伝の年次については西暦538 or 552年など幾つかの説があり、またそれ以前にも私的には伝わっていたこともあって、年次の重要性は低いと言う説もある。これに関連する『日本書紀』の記述にも怪しげなところがあると指摘されており、不祥な様相である。唐突に記された「欽明之十一年、梁の承聖元年」は何を示そうとしたのであろうか?・・・。

南朝の梁とされることは三国・南北朝時代を経て隋(西暦581~618年)が統一を果たす前の時代である。西暦220年まで続いた後漢から三百数十年間の群雄割拠時代の末期に当たる。「倭國」関連は、漢代の建武中元二年(西暦57年)に始まり、三国時代の魏代(西暦220~265年)に盛んな朝貢が行われたと伝えられている。晋代では泰始元年(西暦265年)の前後に幾度となく朝貢したと記されている(晋書倭人伝)。

およそ百年間の空白を経て宋代になると「倭の五王」として登場する。既述したように上記の「倭國」とは異なる国(朝鮮半島南部、所謂加羅辺りか?)と推定した。即ち次に登場するのは『隋書』の開皇二十年(西暦600年)の「阿毎多利思北孤」の遣使ということになる。『旧・新唐書』は宋代における「倭國」との関わりを略しているのである。

『旧唐書』では空白のように思われたところも(別伝で記述されていたが)、次の段「永徽初・・・」で纏められている。要するに西暦265年からおよそ百三十数年間は「倭國」との関わりを確信するには至らなかったことが伺える。中国における南北朝時代は、朝貢はなかったと見做しているのであろう。「倭の五王」の国の系列が「倭(奴)國」→「俀國」→「日本國」と繋がる系列とは異なることと矛盾しない。

確実な情報として欽明天皇十一年(西暦552年)梁(元帝)の時代であったことを明示しているのであろう。それでも、何故十一年やら西暦552年のピンポイントの年を示したのであろうか?・・・西暦552年は特別な意味を持つ年だったからである。日本に仏教が公伝しただけではない。

末法思想を調べると、日本での末法の始まりは、西暦1,052年、平安末期に当たるとされる。がそれは日本独自の末法であって、中国では西暦552年がその始まりと伝えられている。仏滅は紀元前949年、それから正法500年、像法1,000年を経て西暦552年から末法になったと知られる。

日本に伝わった時には末世の時代、暗黒の世の中に入っていた。故に500年後ろ倒しにしたのである。『新唐書』の撰者の”皮肉”った表記が欽明之十一年、直梁承聖元年。であったと読み解ける。空海他、多くの学問僧を送り込み、遣使も甚だ有能で優雅な物腰を示す東夷の国に対する嫌味っぽい表現であろう。

次海達。次用明。亦曰、目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通。次崇峻。崇峻死、欽明之孫女、雄古立。次舒明、次皇極」天皇名に多くの誤りが見受けられる。また目多利思比孤は『隋書』の多利思北孤と思われるが、「目」が加わり、「北」が「比」となっている。雑な記述ではあるが、述べていることは伝わって来るようである。『隋書俀國伝』のところで詳細に述べたのでここでは省略する。重要な「用明」=「多利思北孤」の記載である。

永徽初、其王孝德卽位、改元曰。白雉。永徽初(西暦650年)に孝徳天皇が即位して元号を「白雉」としたと述べている。『旧唐書』…永徽五年(西暦654年)に「倭國」が琥珀、碼碯を献上…に関連する記述もある。少し後に「咸亨元年(西暦670年)、遣使賀平高麗」と記述され、同様に『旧唐書』の「倭國伝」にはなかった記述がある。

孝徳天皇から持統天皇に関わる記述であろうが、名称の異動もさることながら、『日本書紀』では入組んだ系譜となっているのだが、極めて簡単に親子関係の記述となっている。全て子が引き継いだ皇位継承である。これは日本側が複雑さを知って敢えて簡単に伝えたのであろう。中でも孝徳天皇の前の皇極天皇の和風諡号は「天豊財重日足姫天皇」と知られている。

孝德死、其子天豐財立」確かに『日本書紀』では皇極天皇が斉明天皇として継承するように記述されている。勿論「其子」ではない。伝えた者が漢風諡号を知らなかったのか、敢えて言わなかったのかは不詳である。西暦645年に起った「乙巳の変」と言われる事件以降の政権の揺らぎは相当大きくあった様子が背景にあると推察される。

そして長安元年、其王文武立、改元曰太寶。と記述は飛ぶ。長安元年(西暦701年)、文武天皇が即位して元号を大寶としたと述べている。続いて文武死、子阿用立。死、子聖武立、改元曰白龜。と記す。白龜は神亀(元年:西暦724年)の誤りか?…『旧唐書』に「白龜元年調布」が登場するが、それに惑わされたのかもしれない。更に聖武死、女孝明立、改元曰、天平勝寶。と記述されているが、孝謙天皇(女帝)の元号(元年:西暦749年)である。

孝明死、大炊立。死、以聖武女、高野姬爲王。死、白壁立。大は淳仁天皇の諱である。称徳天皇(孝謙天皇:異名「高野天皇」の重祚)及び光仁天皇の諱が白壁。漢風諡号と諱が混在した表記ではあるが、系譜として齟齬はないようである。貞元末、其王曰桓武、遣使者朝。貞元(西暦785~805年)であり、桓武天皇の在位が西暦781~806年だから、かなり情報確度が上がっている様子である。

次諾樂立、次嵯峨、次浮和、次仁明。仁明直開成四年、復入貢。仁明天皇が在位していた開成四年は西暦839年に当たる。次文德、次清和、次陽成。次光孝、直光啓元年。光孝天皇が在位していた光啓元年は西暦885年である。史書編纂の時期に近付けば、日本側の史料との齟齬が少なく確度が増しているようである。天皇系譜は宮内庁の資料を参照。

『旧唐書』に記載された遣使及びその随行者の記述もあり、中でも朝臣真人粟田の記述が多く見受けられる。武后(則天武后)のお気に入りの人物であったことが伺える。いずれにしても『旧・新唐書』に記載された内容は極めて重要な意味を有しているのであるが、学術的な検討の影が薄く感じられる。「日本國伝」と一本化されてはいるが、やはり「空白」が存在する。それを突き詰めてこそ「日本國」の成立ちが白日の下に浮かび上がって来るのではなかろうか。

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最後に「其東海嶼中又有邪古、波邪、多尼三小王。北距新羅、西北百濟、西南直越州。有絲絮、怪珍云」と記されている。この地理的表現は、「日本國」の在処は九州島であると述べているようである。「俀國」と表記された過去の史書をそのまま引き継ぎ記述したようにも伺えるし、また「日本國」の使者が主張したことをそのまま記載したようでもある。使者達は、決して奈良大和の地理的状況を伝えることはしなかった、のであろう。命懸けで入朝し、命懸けで使命を果たしたと思われる。

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(2020.01.10 第四版)