海佐知毘古・山佐知毘古

日子番能邇邇芸命                      神武天皇

海佐知毘古・山佐知毘古


神倭伊波禮比古の誕生までの説話が載せられる。神話的表現が入り交じる特異な文章になっている段である。

古事記原文[武田祐吉訳](以下同様)…、

故、火照命者、爲海佐知毘古此四字以音、下效此而、取鰭廣物・鰭狹物、火遠理命者、爲山佐知毘古而、取毛麤物・毛柔物。爾火遠理命、謂其兄火照命「各相易佐知欲用。」三度雖乞、不許、然遂纔得相易。爾火遠理命、以海佐知釣魚、都不得一魚、亦其鉤失海。於是、其兄火照命、乞其鉤曰「山佐知母、己之佐知佐知、海佐知母、已之佐知佐知。今各謂返佐知。」之時佐知二字以音、其弟火遠理命答曰「汝鉤者、釣魚不得一魚、遂失海。」然其兄強乞徵、故其弟、破御佩之十拳劒、作五百鉤、雖償不取、亦作一千鉤、雖償不受、云「猶欲得其正本鉤。」
[ニニギの命の御子のうち、ホデリの命は海幸彦うみさちびことして、海のさまざまの魚をお取りになり、ホヲリの命は山幸彦として山に住む鳥獸の類をお取りになりました。ところでホヲリの命が兄君ホデリの命に、「お互に道具を取り易かえて使つて見よう」と言つて、三度乞われたけれども承知しませんでした。しかし最後にようやく取り易えることを承諾しました。そこでホヲリの命が釣道具を持つて魚をお釣りになるのに、遂に一つも得られません。その鉤までも海に失つてしまいました。ここにその兄のホデリの命がその鉤を乞うて、「山幸も自分の幸だ。海幸も自分の幸だ。やはりお互に幸を返そう」と言う時に、弟のホヲリの命が仰せられるには、「あなたの鉤は魚を釣りましたが、一つも得られないで遂に海でなくしてしまいました」と仰せられますけれども、なおしいて乞い徴はたりました。そこで弟がお佩びになつている長い劒を破つて、五百の鉤を作つて償つぐなわれるけれども取りません。また千の鉤を作つて償われるけれども受けないで、「やはりもとの鉤をよこせ」と言いました]

佐知

火照命(海佐知毘古)、火遠理命(山佐知毘古)の物語に「佐知」と表現される文字がある。通説は「佐知」=「幸」であり、「道具」を意味するとある。紐解くと…「佐知」は…、
 
佐(助くる)|知(獲得する、治める)

…「獲得する(幸を得る)のを助ける」となる。そのものズバリ道具の意味を有していると思われる。海佐知」は…、
 
海が幸を得るのを助ける

山佐知」は同様に…、
 
山が幸を得るのを助ける

…命と紐解ける。共に「毘古」=「田を並べ定める」命である。

紐解きの応用問題「山佐知母、己之佐知佐知、海佐知母、已之佐知佐知」は何と解く?…上記に従って訳すと…「山の幸も山佐知が使う道具が幸を得るのを助ける、海の幸も海佐知が使う道具が幸を得るのを助ける」の意味であろう。随所に現れる「戯れ表現」である。実に知性豊かな連中が書いた書物である。

ところがその大事な道具「鉤」を失くしてしまい、代わりのものをたくさん作ったのだが、兄は受け取らなかったと続けられる。この「鉤」は、重要な意味を持っていた。天浮橋の解釈に深く関連するのである。既に伊邪那岐・伊邪那美の国(島)生みの段で述べたが、「橋」=「鉤」を示していた。海の幸を得る道具、「浮」と「鉤」とが繋がった場所、それが「天浮橋」と呼んでいた。

於是其弟、泣患居海邊之時、鹽椎神來、問曰「何虛空津日高之泣患所由。」答言「我與兄易鉤而、失其鉤。是乞其鉤故、雖償多鉤、不受、云猶欲得其本鉤。故泣患之。」爾鹽椎神、云「我爲汝命、作善議。」卽造无間勝間之小船、載其船、以教曰「我押流其船者、差暫往。將有味御路、乃乘其道往者、如魚鱗所造之宮室、其綿津見神之宮者也。到其神御門者、傍之井上、有湯津香木。故坐其木上者、其海神之女、見相議者也。」訓香木云加都良、木。
故、隨教少行、備如其言、卽登其香木以坐。爾海神之女、豐玉毘賣之從婢、持玉器將酌水之時、於井有光。仰見者、有麗壯夫。訓壯夫云遠登古、下效此。以爲甚異奇。爾火遠理命、見其婢、乞欲得水。婢乃酌水、入玉器貢進。爾不飮水、解御頸之璵、含口、唾入其玉器、於是其璵著器、婢不得離璵。故、璵任著、以進豐玉毘賣命。
爾見其璵、問婢曰「若人、有門外哉。」答曰「有人、坐我井上香木之上、甚麗壯夫也、益我王而甚貴。故其人乞水故、奉水者、不飮水、唾入此璵、是不得離故。故任入將來而獻。」爾豐玉毘賣命、思奇、出見、乃見感、目合而、白其父曰「吾門有麗人。」爾海神、自出見、云「此人者、天津日高之御子、虛空津日高矣。」卽於率入而、美智皮之疊敷八重、亦絁疊八重敷其上、坐其上而、具百取机代物、爲御饗、卽令婚其女豐玉毘賣。故、至三年、住其國。
[そこでその弟が海邊に出て泣き患うれえておられた時に、シホツチの神が來て尋ねるには、「貴い御子樣の御心配なすつていらつしやるのはどういうわけですか」と問いますと、答えられるには、「わたしは兄と鉤を易えて鉤をなくしました。しかるに鉤を求めますから多くの鉤を償いましたけれども受けないで、もとの鉤をよこせと言います。それで泣き悲しむのです」と仰せられました。そこでシホツチの神が「わたくしが今あなたのために謀をしましよう」と言つて、隙間の無い籠の小船を造つて、その船にお乘せ申し上げて教えて言うには、「わたしがその船を押し流しますから、すこしいらつしやい。道がありますから、その道の通りにおいでになると、魚の鱗のように造つてある宮があります。それが海神の宮です。その御門の處においでになると、傍の井の上にりつぱな桂の木がありましよう。その木の上においでになると、海神の女が見て何とか致しましよう」と、お教え申し上げました。
依つて教えた通り、すこしおいでになりましたところ、すべて言つた通りでしたから、その桂の木に登つておいでになりました。ここに海神の女のトヨタマ姫の侍女が玉の器を持つて、水を汲もうとする時に、井に光がさしました。仰いで見るとりつぱな男がおります。不思議に思つていますと、ホヲリの命が、その侍女に、「水を下さい」と言われました。侍女がそこで水を汲くんで器に入れてあげました。しかるに水をお飮みにならないで、頸にお繋けになつていた珠をお解きになつて口に含んでその器にお吐き入れなさいました。しかるにその珠が器について、女が珠を離すことが出來ませんでしたので、ついたままにトヨタマ姫にさし上げました。
そこでトヨタマ姫が珠を見て、女に「門の外に人がいますか」と尋ねられましたから、「井の上の桂の上に人がおいでになります。それは大變りつぱな男でいらつしやいます。王樣にも勝つて尊いお方です。その人が水を求めましたので、さし上げましたところ、水をお飮みにならないで、この珠を吐き入れましたが、離せませんので入れたままに持つて來てさし上げたのです」と申しました。そこでトヨタマ姫が不思議にお思いになつて、出て見て感心して、そこで顏を見合つて、父に「門の前にりつぱな方がおります」と申しました。そこで海神が自分で出て見て、「これは貴い御子樣だ」と言つて、内にお連れ申し上げて、海驢の皮八枚を敷き、その上に絹の敷物を八枚敷いて、御案内申し上げ、澤山の獻上物を具えて御馳走して、やがてその女トヨタマ姫を差し上げました。そこで三年になるまで、その國に留まりました]


鹽椎神

長い引用で恐縮です…と口頭でお詫びして・・・早速「鹽椎神」の登場である。主役が困った時に現れる有り難い神様達である。通説では「潮流を司る神」「航海の神」「製塩の神」と言われ、とある神社では主祭神として祀られているとのことである。それはそれとして「鹽椎」は何を意味しているのであろうか?…「椎」=「背骨」を表す文字である。

伊邪那岐・伊邪那美の神生みの中で風神、木神、山神、そして野神:鹿屋野比賣神、亦名謂野椎神で登場した。「山稜の端で狭い隙間の枝稜線」を表現したものと解釈した。
 
<鹽椎神>
また後に出て来る「針間国」(針のような細い隙間の国)の場所を求めた時に現地名が「椎田」(福岡県築上郡築城町)と言われるところに比定した。

「鹽」は「塩」の旧字である。通常の塩以外の解釈は難しいようでもある。一応、原義に戻ってみると「しっかり見ひらいた目・人・水の入ったタライ」のようである。

これが紐解きのヒントとなった。背骨の形をしているのが(海)水なのである。また「鹽」=「監+歯」と分解される。「監」は「鑑」の原字であって、真っ平らな面の様を表す文字と解説される。

上図を参照願う。塩水が椎の形となっている。日向の海辺(現地名遠賀郡岡垣町)にあった。その近隣で悩める御子は教えを受けたのである。

「鹽椎神」は…、
 
鹽(海水面)|椎(背骨の形)|神

…と読み解ける。だとすると、当時はここは海であったことを示している。もう少し正確には「忍海」(海水と川水が交じる海)であったと推測される。現在の標高からしても十分に納得できる場所であろう。今も多くの池があるが、「日向の依網池」と後に呼ばれるところと重なるのである。
 
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この背骨の北側(4.9m)~南側(8.3m)の標高を示している。上記の比定が正しいとするならば現在の標高8.3m辺りまで、当時は「忍海」であったと結論付けられる。縄文海進時の海面水位を予測する上において貴重な情報である。

沖積の進行及び干満差など考慮すべきことは多々あるが、ほぼ一様な地形で南から北へ傾斜するところであり、一つの指標として採用できるものであろう。
 
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「背骨」を示すのが海、川の「液体」だから鹽の「固体」で記述した。本当かな?…とも思えるような精緻さ…おかげで見つけ出すのに手間取るではないか!…ちょっとした顛末記であった。
 
<味御路>
火遠理命が泣いていたのは上図の「椎」の東側の海辺ではなかろうか…そこは古遠賀湾に面するところと推測される。

「鹽椎神」に舟に乗せられ押し出されて「味御路」を行けと教えられた。その教えに従って「道」を行くと「魚鱗」ような宮に行き着いたと記述される。

そこが綿津見神之宮でその海神に比賣が居ることまで、細々と情報を貰ったのである。

流石にここら辺りの紐解きは難しい…が、臆せず進んでみよう。

先ずは「味御路」は何と読むか?…「味」は幾度か古事記に登場し、多くは「アジ」の意味で解釈可能かと思われるが、やはり何らかの地形象形の表現であろう。「味」=「口+未」と分解する。

上記は明らかに海路を示すので「口」=「入口」として、「未」の解釈を如何にするか・・・、
 
未=木(山稜)+一

…に砕く。すると、「山稜を横切る」地形が浮かび上がって来る。「味御路」は…、
 
味(入口がある山稜を横切るところ)|御(統べる)|路(道)

…「幾つかの入口がある山稜を横切るところが纏まって一つになった道」と紐解ける。古遠賀湾から洞海湾へ抜ける際に幾つかの山稜の谷間が纏まって一つの道になっている状態を述べている。

「御」=「御する、統べる、束ねる」=「纏めて一つにする」と解釈した。「御」=「馬を操る」という意味がある。手綱を纏めて一つにする様を模していると思われる。複雑な地形、かつ縄文海進による当時の海面上昇を考慮する必要があるが、基本的な地形に決定的な相違はないと思われる。

「御(ミ)」=「三(ミ)」として「三つの入口」の解釈もあろう。押し出された「无間勝間之小船」は、三つの入口のどれかを選択して、勿論それはすぐに合流して洞海湾に入る。「味」の解釈、安萬侶コードに登録するや否やは後に登場した時に行おう。それにしても何とも味な使い方である。

更にその先へと進んだと思われる。では、豐玉毘賣命は何処に居たのか?…「玉」探しである。
 
豐玉毘賣命

下図を参照願うが「勾玉」の地が見出せる。よく見ると「魚鱗」の形の丘である。現地名北九州市小倉南区湯川新町。後に「三川之穂」「三川之衣」と表現され「豐」が冠される地である。現在の三河地方に「豐」が付く、豊田(挙母)、豊川(穂)、豊橋(穂)これら全て国譲りをされた結果であろう。きちんと譲られたら遡及できるのである。
 
<豐玉毘賣命>
三川之衣の「衣」=「襟」であり、首元の開いた状態を示している。


山麓を模した表現と解釈できる。その開いたところにある「玉」が豐玉毘賣命の居場所と推定される。

流石に龍宮城などに比喩されて海の底にあった宮、通常の地図では識別不可能であった。見難くはなるが、明らかに標高が異なるのである。

当時は山稜の端が一段高くなって干潟に突き出た岬のような地形だったのではなかろうか。

舟が進んだ道筋を下図に示した。何だか解けてみれば呆気ない感じのルートである。
 
<古遠賀湾~洞海湾~古小津湾>

上図に示したように邇邇芸命が降臨した「竺紫日向」から古遠賀湾、洞海湾そして現在の小倉北区の大半を占めた淡海(古小津湾と呼ぶ)を過ぎれば届く。この地域は古代の地形から大きく変化したことが知られている。がしかし、その特徴は残されているようである。古代の人々にとってこの移動は非日常の出来事では決してなかったと推測される。
 
虛空津日高

山佐知毘古(火遠理命)は「天津日高日子穗穗手見命」とも呼ばれたと記述されている。邇邇芸命の御子で、「虛空津」と言う。「天=ソラ」に読み替えたとも言えるが、邇邇芸命が降臨して「天」は「虚空」になったことを表しているようでもある。

御頸之璵」首にかけた美しい玉の意味であるが、この段のキーワードである。「玉」で繋がった筋書きとなる。下記に豊玉毘賣の居場所を突き止めるが、その伏線になっていることが判る。首にかけた玉、その通りの地に居たのである。

押し流されて海神・綿津見神の宮に三年も居候するが突然あの日のことが蘇ってと記される。時を超越した物語である。いつものことだが・・・。
 
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虚空

「虚」=「虎+丘」とされ「虎(巨:大きい)+丘」=「大きな丘」と解説されている。これで解釈することもできるが、少し紐解いてみると…霊獣として対峙する「龍」は「淤迦美神(龗神)」として「川の蛇行」する様に比喩されている。ならば「山」を意味しているのではなかろうか…山の神として崇敬の対象であったことはよく知られている。体表面の縞模様と山稜との相似も考えられる。

単に「大きな丘」ではなく「虚」=「山の傍らにある丘陵」と解釈することができる。山があってその傍にある丘である。一般に「虚」=「中身・実体がない、一見では無いに等しい」という意味に相応しい解釈となる。

「空」=「宀+ハ+工」と徹底的に分解すると「麓の谷で田を耕す」の意味と思われる。纏めると…「虚空」は…、
 
山の傍らにある丘陵の麓の谷で田を耕す

…と紐解ける。何とか意味のある文字列に還元できたようである。すると・・・「虚空津日高=天津日高」の解釈がピシャリと填まるのである。既に詳述したように「天」は山稜とは言い難く大半は丘陵と看做される地形である。しかもそれは天香山(壱岐島の神岳)の傍らにあり、その谷間が作る津を「天津」と呼んでいたのである。

尚、「虚空津」の文字列は後に登場する。息長宿禰王が葛城之高額比賣を娶って誕生する比賣に虚空津比賣命が居た。息長帶比賣命(後の神功皇后)の妹である。上記の解釈が見事に当て嵌まる場所が見出せる。勿論「天津」ではない。


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於是、探赤海鯽魚之喉者、有鉤。卽取出而淸洗、奉火遠理命之時、其綿津見大神誨曰之「以此鉤給其兄時、言狀者『此鉤者、淤煩鉤、須須鉤、貧鉤、宇流鉤』云而、於後手賜。於煩及須須亦宇流六字以音。然而其兄、作高田者、汝命營下田。其兄作下田者、汝命營高田。爲然者、吾掌水故、三年之間、必其兄貧窮。若恨怨其爲然之事而攻戰者、出鹽盈珠而溺、若其愁請者、出鹽乾珠而活、如此令惚苦。」云、授鹽盈珠・鹽乾珠、幷兩箇。
卽悉召集和邇魚問曰「今、天津日高之御子虛空津日高、爲將出幸上國。誰者幾日送奉而覆奏。」故各隨己身之尋長、限日而白之中、一尋和邇白「僕者、一日送、卽還來。」故爾告其一尋和邇「然者汝送奉。若渡海中時、無令惶畏。」卽載其和邇之頸送出。故如期、一日之送奉也。其和邇將返之時、解所佩之紐小刀、著其頸而返。故其一尋和邇者、於今謂佐比持神也。
是以、備如海神之教言、與其鉤。故自爾以後、稍兪貧、更起荒心迫來。將攻之時、出鹽盈珠而令溺、其愁請者、出鹽乾珠而救、如此令惚苦之時、稽首白「僕者自今以後、爲汝命之晝夜守護人而仕奉。」故至今、其溺時之種種之態、不絶仕奉也。
[ここにホヲリの命は初めの事をお思いになつて大きな溜息をなさいました。そこでトヨタマ姫がこれをお聞きになつてその父に申しますには、「あの方は三年お住みになつていますが、いつもお歎きになることもありませんですのに、今夜大きな溜息を一つなさいましたのは何か仔細がありましようか」と申しましたから、その父の神樣が聟の君に問われるには、「今朝わたくしの女の語るのを聞けば、三年おいでになるけれどもいつもお歎きになることも無かつたのに、今夜大きな溜息を一つなさいましたと申しました。何かわけがありますか。また此處においでになつた仔細はどういう事ですか」とお尋ね申しました。依つてその大神に詳しく、兄が無くなつた鉤を請求する有樣を語りました。そこで海の神が海中の魚を大小となく悉く集めて、「もしこの鉤を取つた魚があるか」と問いました。ところがその多くの魚どもが申しますには、「この頃鯛が喉に骨をたてて物が食えないと言つております。きつとこれが取つたのでしよう」と申しました。
そこで鯛の喉を探りましたところ、鉤があります。そこで取り出して洗つてホヲリの命に獻りました時に、海神がお教え申し上げて言うのに、「この鉤を兄樣にあげる時には、この鉤は貧乏鉤の悲しみ鉤だと言つて、うしろ向きにおあげなさい。そして兄樣が高い所に田を作つたら、あなたは低い所に田をお作りなさい。兄樣が低い所に田を作つたら、あなたは高い所に田をお作りなさい。そうなすつたらわたくしが水を掌どつておりますから、三年の間にきつと兄樣が貧しくなるでしよう。もしこのようなことを恨んで攻め戰つたら、潮の滿る珠を出して溺らせ、もし大變にあやまつて來たら、潮の乾る珠を出して生かし、こうしてお苦しめなさい」と申して、潮の滿ちる珠潮の乾る珠、合わせて二つをお授け申し上げて、悉く鰐どもを呼び集め尋ねて言うには、「今天の神の御子の日ひの御子樣みこさまが上の國においでになろうとするのだが、お前たちは幾日にお送り申し上げて御返事するか」と尋ねました。そこでそれぞれに自分の身の長さのままに日數を限つて申す中に、一丈の鰐が「わたくしが一日にお送り申し上げて還つて參りましよう」と申しました。依つてその一丈の鰐に「それならばお前がお送り申し上げよ。海中を渡る時にこわがらせ申すな」と言つて、その鰐の頸にお乘せ申し上げて送り出しました。はたして約束通り一日にお送り申し上げました。その鰐が還ろうとした時に、紐の附いている小刀をお解きになつて、その鰐の頸につけてお返しになりました。そこでその一丈の鰐をば、今でもサヒモチの神と言つております。
かくして悉く海神の教えた通りにして鉤を返されました。そこでこれよりいよいよ貧しくなつて更に荒い心を起して攻めて來ます。攻めようとする時は潮の盈ちる珠を出して溺らせ、あやまつてくる時は潮の乾る珠を出して救い、苦しめました時に、おじぎをして言うには、「わたくしは今から後、あなた樣の晝夜の護衞兵となつてお仕え申し上げましよう」と申しました。そこで今に至るまで隼人はその溺れた時のしわざを演じてお仕え申し上げるのです]
 
高田・下田

何とも意味ありげな呪文(鉤の名前)を唱えて後ろ手で渡せと言われる。田の作り方を伝授される。海神が水を掌握しているので兄は貧窮してしまうと…。ちょっとした兄の虐めが大変な報復を食らう羽目になったようである。

海神のできることは「吾掌水」であり「鹽盈珠・鹽乾珠」というのがあるとのこと。潮の満ち引きを自由に扱えれば・・・兄が下田の時には潮を高いところにまで押上げて作物ができないようにし、高田のときには潮を引いて水を涸らしてしまう・・・ということかもしれない。この御子達の名前の解釈は上記の通りで「毘古」は意味を持つ表現であった。解釈の検証ができたようである。
 
和邇魚

「和邇」とくれば「鰐」か「鮫、鯱」の論争?である。喋るし、ものも考える立派な人なのである。神話だから何でもできるか?…「和邇魚」は…、
 
和(しなやかに曲がる)|邇(延び広がった地)|魚(漁:漁夫)

…「しなやかに曲がって延び広がった地の麓いる漁夫」と紐解ける。「漁(スナドリ)」=「魚や貝を採ること、漁をする人」との意味がある。明らかに上記の豐玉の近隣で漁をする人を示している。
 
<和邇魚>
現在の地形が複雑に入り組んでいて、当時の海岸線を図示することは控えるが、図で青っぽく示されたところは限りなく海面下に近い状態であったかと思われる(二点5.2m7.5mの標高を示す)。


現地名蜷田若園、八重洲などが上記の考察を裏付けていると思われる。図は国土地理院デジタル標高地形図(遠賀川水系彦山川2018.05)を参照した。上記の陰影地形図より更に鮮明である。

図に示した範囲からもう少し東に移ると、建御雷之男神が建御名方神を追い詰めた科野國之州羽海に至る。

現在の竹馬川流域は巨大な入江を形成していたと推測される。そして古事記の物語は、この海を舞台にして数々のドラマを提供することになる。

「和邇」は大國主命の「稲羽之素菟」に登場する海和邇の「海」=「海女」の解釈もできる。海女の発祥地と言われるこの地、何と古事記が記述していたのである。孔大寺山系の主稜線が延びた地形は豊かな漁場を形成し、山系から流れる川が運ぶ恵みに満たされた「都」であったろう。上記と「和邇」で繋がる古代人達の生業である。

間違いなく豐玉毘賣命が坐していたところの近隣の海辺を示しているのであるが、「玉」と「和」が使い分けられている。「玉」は海及び陸に係らず、玉のように盛り上がった地形を意味する。一方、「魚」である以上、島でなければ盛り上がった周辺の一部は海でなければ収まらないであろう。だから「和」の文字を使用したと思われる。

上図が示す通り、この「玉」は入江の端の高台と推定した。その比定に全く矛盾することなく「和邇魚」の居場所を求めることができたようである。

と言う訳で、この漁夫が「一日」で送った…古事記の「時間」は文字通りには読めないが、「尋」=「両手を左右に伸ばした長さ」又は「至る、及ぶ」の意味もある。「一」(少しばかりの)に掛けた戯れ表現と解釈できそうである。


いずれにしても「泣患居海邊」(鹽椎神)と「綿津見神之宮」とは近いところと告げている(上記のルートで約30km10hr実働として、時速約3km。古事記が伝える「舟速」である)。

それにしても天津日高之御子虛空津日高」とは丁寧な表現である。「虚空の天津」の理解は的を得ている気分である。「天」は遠くなりにけり…と伝えている。
 
佐比持神

一日で火遠理命を頸に載せて送り届けた「一尋和邇」は、紐小刀を頂いたことから「佐比持神」と言われるようになったと記載されている。「佐(助くる)」「比(並べる)」の定番解釈ではどうもしっくり来ないようである。

「比(並べる)」と同義である「比(ぴったりとくっつく)」とすると、もう少し意味の通った感じになる。また「持」=「手で持つ、その状態を保つ」と解説される。幾度か登場した「寺」=「止及び之」の両意を示すが、「止まり、かつ、行く」という矛盾する意味を表す文字である。ここでは「保つ」を強調して訳すことにする。
 
佐(支える)|比(ぴったりとくっつく)|持(~ままで)|神

…「ぴったりとくっつけたままで支える神」と紐解ける。通説は「鮫(サメ)」なんだとか、鰐やら鮫やら結果それらの神格化・・・古事記は「神」と表記するが「神格化」はしない。
 
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前記の邇邇芸命の段で「火照命此者隼人阿多君之祖」と記述される。その謂れが記されている。「隼人」の出現である。古事記に登場する隼人は何だか不運な役回りのようで…後の反正天皇紀に登場の曾婆訶理もその一人である。「阿多」の地は隼人、后と多くの人材を供給したと告げているのだが…それだけ深い繋がりがあったのであろう。
 
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さて、物語は御子の誕生へとすすむ。続くは豐玉毘賣命のご懐妊である。
 
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命

於是、海神之女・豐玉毘賣命、自參出白之「妾已妊身、今臨時。此念、天神之御子不可生海原。故、參出到也。」爾卽於其海邊波限、以鵜羽爲葺草、造殿。於是、其殿未葺合、不忍御腹之急、故入坐殿。爾將方之時、白其日子言「凡佗國人者、臨時、以本國之形生。故、妾今以本身爲。願勿見妾。」
於是思奇其言、竊伺其方者、化八尋和邇而、匍匐委蛇。卽見驚畏而遁退。爾豐玉毘賣命、知其伺見之事、以爲心恥、乃生置其御子而、白「妾恒通海道欲往來。然伺見吾形、是甚怍之。」卽塞海坂而返入。是以、名其所之御子謂天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命。訓波限云那藝佐、訓葺草云加夜。
然後者、雖恨其伺情、不忍戀心、因治養其御子之緣、附其弟玉依毘賣而、獻歌之。其歌曰、
阿加陀麻波 袁佐閇比迦禮杼 斯良多麻能 岐美何余曾比斯 多布斗久阿理祁理
爾其比古遲三字以音答歌曰、
意岐都登理 加毛度久斯麻邇 和賀韋泥斯 伊毛波和須禮士 余能許登碁登邇
故、日子穗穗手見命者、坐高千穗宮、伍佰捌拾。御陵者、卽在其高千穗山之西也。
是天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命、娶其姨・玉依毘賣命、生御子名、五瀬命、次稻氷命、次御毛沼命、次若御毛沼命、亦名豐御毛沼命、亦名神倭伊波禮毘古命。四柱。故、御毛沼命者、跳波穗渡坐于常世國、稻氷命者、爲妣國而入坐海原也。
[ここに海神の女、トヨタマ姫の命が御自身で出ておいでになつて申しますには、「わたくしは以前から姙娠しておりますが、今御子を産むべき時になりました。これを思うに天の神の御子を海中でお生み申し上ぐべきではございませんから出て參りました」と申し上げました。そこでその海邊の波際なぎさに鵜の羽を屋根にして産室を造りましたが、その産室がまだ葺き終らないのに、御子が生まれそうになりましたから、産室におはいりになりました。その時夫の君に申されて言うには「すべて他國の者は子を産む時になれば、その本國の形になつて産むのです。それでわたくしももとの身になつて産もうと思いますが、わたくしを御覽遊ばしますな」と申されました。ところがその言葉を不思議に思われて、今盛んに子をお産みになる最中さいちゆうに覗のぞいて御覽になると、八丈もある長い鰐になつて匐いのたくつておりました。そこで畏れ驚いて遁げ退きなさいました。しかるにトヨタマ姫の命は窺見のぞきみなさつた事をお知りになつて、恥かしい事にお思いになつて御子を産み置いて「わたくしは常に海の道を通つて通よおうと思つておりましたが、わたくしの形を覗いて御覽になつたのは恥かしいことです」と申して、海の道をふさいで歸つておしまいになりました。そこでお産まれになつた御子の名をアマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアヘズの命と申し上げます。しかしながら後には窺見のぞきみなさつた御心を恨みながらも戀しさにお堪えなさらないで、その御子を御養育申し上げるために、その妹のタマヨリ姫を差しあげ、それに附けて歌を差しあげました。その歌は、
赤い玉は緒までも光りますが、白玉のような君のお姿は貴といことです。
そこでその夫の君がお答えなさいました歌は、
水鳥の鴨が降り著つく島で契を結んだ私の妻は忘れられない。世の終りまでも。
このヒコホホデミの命は高千穗の宮に五百八十年おいでなさいました。御陵ごりようはその高千穗の山の西にあります。 アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアヘズの命は、叔母のタマヨリ姫と結婚してお生みになつた御子の名は、イツセの命・イナヒの命・ミケヌの命・ワカミケヌの命、またの名はトヨミケヌの命、またの名はカムヤマトイハレ彦の命の四人です。ミケヌの命は波の高みを蹈んで海外の國へとお渡りになり、イナヒの命は母の國として海原におはいりになりました]

どうやら「和邇」シリーズのようでここでも登場である。「化八尋和邇而、匍匐委蛇」鰐に化けてのたうつ、その通りの訳で、他の解釈などあり得ない・・・そうであろうが、やはり試みは不可欠。「化八尋和邇」を「化八尋和・邇」と区切ってみる。「化」=「形を変える」、「尋」の原義は「髪を手繰り寄せる動作」を表し「尋ねる」の意味を示す。すると「化八尋和邇」は…、

化(形を変える)|八尋(長い髪を手繰り寄せ)|和(しなやかに曲がる)・邇(延び広がる)

…「長い髪を手繰り寄せてしなやかに曲がって延び広がった形に変えている」と紐解ける。傍らでのたうっている姿を見てしまった、のである。古事記の紐解きはほぼ格闘技である、勿論筋力は不要だが、体力は欠かせないようで・・・。

この段の少し前に「凡佗國人者、臨時、以本國之形生。故、妾今以本身爲。願勿見妾」と記述される。要するに産んでいるところを見てはならないと告げるところである。そこに含まれる「本身」の武田氏の訳は「もとの身」とされる。「鰐」の姿になると解釈される。「もと」には「元、基、下、本」の四つの文字が使われるが、それぞれ意味するところは異なる。「本」を使うならば…、
 
本身=本(本来の、正しい)|身(姿)

…本国(これも本来の国の意味)のお産の形(やり方)に従って「本来の正しい姿」になると告げているのである。実に肌理細やかな記述である。そして「鰐」と解釈できるように、だが、よく読めばそうは言っていないという表現をしているのである。

「八俣之遠呂智」しかり、動物を擬人化した表現である。その目的は、神話風にして物語を久遠の過去に遡らせることであろう。併せて場所を示す文字を使って本来の目的を果たそうとしている。複数の意味に解釈されることになる手法は、思いを伝えることが目的には不向きであろう…と言われるが、果たしてそうであろうか?・・・。

複数に解釈されて尚且その解が伝えることの複数の側面を示しているとならば、物事の捉え方がより高次になるのではなかろうか。複数の解を収束させず発散させてしまう故にその技法が途絶えてしまっているのであろう。真に残念なことである。


約束を破ったことで豐玉毘賣はお帰りになってしまう。御子は誕生して、そして叔母の玉依毘賣と結ばれたと伝える。先を急ぐように四人の御子が生まれ、その中に神倭伊波禮毘古命が誕生する。「玉依毘賣」の「玉依」=「玉の地の傍らにある谷間の稜の端が三角形になったところ」と紐解ける。勾玉の先端部と思われる。

さて、誕生した御子もなかなかの長さの名前、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命である。生まれたところは「於其海邊波限、以鵜羽爲葺草、造殿」と記される。御子を置いて豐玉毘賣命は実家にお戻りになるのだから、場所は竺紫日向となる。名前はキーワードの羅列…失礼ながら…そのまま使ったように見えるが全体を通して眺めてみると・・・。

天津日高日子番能邇邇藝命、天津日高日子穗穗手見命、そして天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命と三代の「天津日高日子」と冠された名前が続く。日々高くなる稲、その次は稔った稲穂を見張り、そして最後は稲が波のように広がって行く様を表現していると思われる。
 
日高(日々高くなる)|日子(稲穂)|波限(波打ち際)

…「日々高くなる稲穂の波が打寄せる際」と紐解ける。「天」から波が打寄せるように一族が遣って来たことの終着を告げる命名であろう。「鵜葺草葺不合」=「鵜の羽を萱の代わりに使って屋根を葺いたが間に合わず」その通りの意味であり、その地が未開で、物語はこれから始まるという宣言とも受け取れる。
 
<建鵜葺草葺不合命>
だがそれだけのことを伝えているのではなかろう。「鵜」の登場という唐突さは、紛うことなく地形を表わしていると思われる。

原文に「鵜羽爲葺草」と記される。「鵜羽」は如何なる地形であろうか?・・・。

「鵜」=「弟+鳥」であり、「弟」=「矛に鞣し革を巻き付けた様」を示すと解説される(甲骨文字を図中に記載)。

「鵜羽」は…「弟+鳥+羽」と読める。
 
弟(凹凸の形)|鳥羽(鳥の羽)

…「凹凸のある鳥の羽のような平らな地形」と紐解ける。

甲骨文字は「矛になめし皮を巻き付けた時の凹凸」を示している。羽状の台地があってその縁に凹凸があるところ・・・上記の鹽椎神で示した場所であろう。かつ、縁に凹凸のある平らな台地が並んでいる地形であり、鹽椎神を挟んで寄り集まることはない。「葺不合」は…、
 
葺(寄せ集める)|不合(合わず)

…と解釈される。産殿は「其海邊波限」と記されるなら、現在の標高から見積もった上図の羽の中央部付近と推測される(高千穂宮に近い方で西岸とした)。

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余談だが・・・鵜は大きく羽を開いて水気を乾燥させる習性がある。羽の先までが開き、凹凸の様相を示すようである。この象形から「弟」を使ったのではなかろうか。日本では「ウ」であるが、漢字そのものの音は「テイ」である。日本にはいないペリカン鳥を表すが、生態が類似することから当てられた文字であろう。

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名前が紐解けると一層その複雑な立場の御子であることが判る。過渡期に誕生した御子は「天津日高」の地から遠く離れて行くことを示すように命名されたのではなかろうか。移り住んでいく彼らの思いを伝えている。当然のことながら次代の名前に「天津」は付かないのである。

図に古遠賀湾に抜けるルートを示した。小高い(標高20数m)山陵を跨ぐと間もなく到着する。火遠理命が抜けた道、そして豐玉毘賣命が実家へと向かったのも同じ道であったろう。「塞海坂」と記述されるところは決め難いが、この山陵を横切るところか、もしくは味御路か、であろう。
 
玉依毘賣命と御子

叔母の玉依毘賣命を娶って四人の御子が誕生する。「五瀬命、次稻氷命、次御毛沼命、次若御毛沼命、亦名豐御毛沼命、亦名神倭伊波禮毘古命」と記述される。後に登場する二人の英雄「五瀬命、若御毛沼命(神倭伊波禮毘古命)」についてもその出自の場所を求めてみよう。

御毛沼命」は常世国に、「稻氷命」は母親のところに向かったと伝えられる。常世国は既に登場、壱岐島の勝本町仲触辺りとしたところである。「天」ではなく?…勿論、あの世ではない…何故かは不詳である。母親のところに向かった「稻氷命」の名前を紐解く…実はこの名前が母親・豊玉毘賣命の上記の居場所を突き止める重要なヒントを含んでいたのである。
 
稻氷命

「氷」=「冫+水」川に沿って二つに割れた(分かれた)地形象形と紐解く。後に三川之穂という地名が登場するが、三本の川が寄り集まり[穂]の地形が生じるところである。開化天皇紀の氷羽州比賣も同様の地形の州を象形したものと解釈した。
 
稲(稲穂の形)|氷(二つに割れた)

<玉依毘賣命・稲氷命>
…「稲穂が二つに割れたところ」は「三川之穂」の異なる表現であろう。


この場所は現在の足立山の南麓、北九州市小倉北区湯川新町・蜷田若園辺りと推定した。

現在の地形は内陸の山麓の地形であるが当時は川と海の入り交じる「綿津見」の地と推測されたのである。

また筑紫嶋の南西端、白日別、豊日別の分岐点である。

古事記が最も重要な地点と述べるところの一つである。残存する「蜷田」の地名に干潟が形成されていたことを伺わせる。
 
御毛沼命

神倭伊波禮毘古命の本名、若毛沼命である。二人続いての命名となっている。安萬侶コードに従えば…「御毛沼」は…、
 
御(束ねる)|毛(鱗状の)|沼

<五瀬命・(若)御毛沼命>

…「鱗状の沼を束ねるところ」と紐解ける。

形状変化が想定される沼、池の特定は難しいが、現地名岡垣町手野辺りにそれらしきところが見出せる。

更に鱗片状の沼が二ヶ所にあることが解る。「若」=「小ぶり」、「豐」=「段差がある高台」とすると、一方の「毛沼」は現在の三段池を示していると思われる。

この地が若御毛沼命、即ち初代神武天皇の出自のところと推定される。

伊邪那岐命が生んだ道之長乳齒神・道俣神が坐した場所でもある。早期に天神達が開いた土地であったと推測される。
 
五瀬命

となると、共に東に向かいながら不運にも命を落とすことになる五瀬命が坐した場所も突止めておこう。簡単な表記ではあるが、「五」の古文字「」から「五瀬」は…、
 
五(交差するような)|瀬(急流)

…「交差するような急流があるところ」と読める。現地名の岡垣町高倉の百合野辺りと思われる。

御毛沼命者、跳波穗渡坐于常世國、稻氷命者、爲妣國而入坐海原也」と記述される。結果的にはこの地には誰も残らなかったことになる。本来なら末っ子の若御毛沼命が引継ぐのであろうが「東に向かう」のである。三男は常世國に舞い戻ったとのこと。竺紫日向の開拓には困難が伴ったのか、はたまた天神軍団の殿(シンガリ)を務めるためか、憶測の域を脱せないようである。

「稻氷命」は妣國(母親、玉依毘賣の国)の海原に入ったと解釈されて来た。海神、綿津見神の居場所が母親の国とすれば、矛盾のない解釈であろう。しかしながら「妣」=「亡き母親」の解釈では、古事記に記された「妣國」は二つあることになる。

「妣國」は、やんちゃな速須佐之男命が伊邪那岐に引導を渡された時に登場する。速須佐之男命が「僕者欲罷妣國根之堅洲國、故哭」と言い、「天」に住まうことは罷りならぬと告げられる。「妣国」=「亡き母親の国」ならば伊邪那美が母親のようにも思われるが、古事記には明記されない。そらしき読み方ができるが、やはり「妣国」≠「亡き母親の国」である。

既に根之堅洲國について述べたように、「妣」=「女(嫋やかに曲がる)+比(並ぶ)」と分解して、比婆之山の西側にある國の解釈と結論付けられた。黄泉國を示すのである。通説は玉依毘賣の場所、即ち豐玉毘賣と同じであろうが、不詳ながら宮崎県に伝承されると言う。「豐」と無関係だが、お構いなしである。
 
<妣国・海原>
では「海原」は何と解釈できるであろうか?…「海原(ウナバラ)」=「広々とした海(池、湖の水面)」が通常に使われる意味であろう。

「入坐」は、あたかも海の底に坐しているような雰囲気を醸しているが・・・。

「海原」=「海浜の開けた場所。海辺」の意味もあると言われる。海の傍らの原と読めるであろう。

これがヒントになって、繋がった。

息長帶比賣(神功皇后)が品陀別命(後の応神天皇)を生んだ場所「宇美(ウミ)」である。

実に戯れた表記と言わざるを得ない。「ウミ」に掛けた文字であり、当て字は「宇美」=「宇(山麓)+美(谷間が広がる地)」なのである。

息長帶比賣が筑紫国を彷徨った時の地名をあらためて図に示した。現在の様な広大な扇状地に至ってはなかったと思われるが、海辺の開けた場所として名付けられて申し分なしの地形と推測される。「宇美」=「海」であったことが再確認されたわけである。
 
<稻氷命>
ところで「稻氷命」の命名は、母親の近隣の地を表していると読み解いた。後に三川之穂と呼ばれる場所であって、筑紫嶋の南西端に当たる。

彼はそこから北端に近く開けた「宇美」に移ったのである。言い換えれば筑紫国の西部を縦断したことになる。

後に長男五瀬命と四男神倭伊波禮毘古命が一時滞在する筑紫之岡田宮はその道中にある。唐突に登場するように見えて、その実、次男が手掛けた宮であったと推測される。

爲妣國而入坐海原也」は、妣国を治め、海原に侵入して坐したことを表している。海に入った、のではなく、近隣の地を切り開いた命であったことを告げている。

伊邪那岐・伊邪那美が生んだ筑紫嶋の面四、そして筑紫国、豐国及び肥国(出雲国)、更に黄泉国が隣接する地でなければ稻氷命が果たした役割は全く理解の外であろう。

「海」の文字解釈を行ってみよう。「海」=「氵(水)+毎」と分解され、「毎」=「母+屮(草)」と解説されている。ここは豫母都志許賣が居た場所の麓である。即ち豫母」の地形を示す「妣國」の麓にある水辺の草原のような地を表していると読み解ける。

通常の「海」=「水が次々と盛り上がる(生まれ出る)様」から示す意味を、その文字の要素に還元して再構成した解釈を行い、地形象形の表記としたものと思われる。唐突に登場するかのように錯覚させられる表現ではなく、既に布石が打たれていたのである。恐るべし、古事記であろうか・・・。

遡ると、「豐玉毘賣・玉依毘賣」の坐した「豐国」の小高いところとしたことが極めて妥当であった、と解る。古事記は、”神話風”に記された書物であって、決して神話ではないと確信する。尚、速須佐之男命が示す地形象形も、この「海原」の海辺を表す表記と解釈した。

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出雲の二の舞のようにその地に埋没することなく「天」から離れ東へ東へと進む。それが天神達に課せられたミッションなのである。「日向国造の祖」が登場するのは次代の英雄「倭建命」が現れるまで待たされることになる。
 
高千穂宮・高千穗山之西陵

古事記原文…「日子穗穗手見命者、坐高千穗宮、伍佰捌拾。御陵者、卽在其高千穗山之西也」
 
<宮と陵>
さて、火遠理命「日子穗穗手見命」は何と五百八十年間「高千穂宮」(前記の日子番能邇邇藝命の段で求めた)に坐して「高千穗山之西」に葬られたと伝える。

幾ら何でも古事記の真面目な編者達がヌケヌケと「年=歳」として記述したとは思われない。

ということで、何方かが考察、要するに「歳」の意味を紐解いてられるであろう、と探すと・・・。

出てきました。詳細は原報のこちらを参照願うが、一応参考にさせて頂いた。下記に試算した結果を示す。
 
神倭伊波禮毘古命・畝火之白檮原宮
御陵が「
高千穗山之西」とだけ記される。おそらく孔大寺山西側の中腹にある孔大寺神社辺りではなかろうか。

余談だが、宗像の地は「国譲り」されていない唯一の場所である。世界遺産登録を切掛にして古代の調査が進めばと願うばかりである。
 
神倭伊波禮毘古命はこの近隣から倭国に出立する。その物語が始まろうとしているのである。

それにしても神武天皇の出自が何やら怪し気なものとされて来たのだが、漸くその母親の出自が見えたような思いである。「神」=「稲妻」である。大坂山(愛宕山)から延びる山稜を模した表現と思われる。詳しくは<神武天皇紀>にて述べる。

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「歳」=「一ヶ月(陰暦)」である。580歲=580月≒46.8年(46年と10ヶ月) 約五十年間の在位であったと告げているのである。後に記述するが、神武天皇についても…「凡此神倭伊波禮毘古天皇御年、壹佰參拾漆。御陵在畝火山之北方白檮尾上也」と記される。

亡くなったのが137歳ではない。「御年」=「御(統治)した年月」が「137ヶ月」と記述しているのである。同様に求めれば137歲≒11.1年(11年と1ヶ月)となる。畝火之白檮原宮に坐した期間が約十一年と一ヶ月であったと述べている。

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日子番能邇邇芸命                      神武天皇

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