2018年8月30日木曜日

木梨之輕王・輕大郎女 〔252〕

木梨之輕王・輕大郎女


大雀命(仁徳天皇)の四男、男淺津間若子宿禰命(後の允恭天皇)の治世に進む。長兄、三男と皇位を継ぐという「乱れ」が生じ、更に四男が続くという、一体何があったのか?…と懸念するところである。勿論古事記は無口で、背景を推し量るのも難しいのであるが、この「乱れ」が更に増幅されることになる。

大国倭国、「倭国連邦言向和国」の建国と同時に、その内にある崩壊への兆しが見え隠れする時期に差し掛かったことを伺わせる記述へと進んで行くようである。
 
<意富袁・佐袁袁>
そんな時代の流れの中で少々特異な事件が勃発する。

同母兄妹の悲恋物語、最後は共に自死する二人、「木梨之輕王」と「輕大郎女」、島流しの刑の場所「伊余湯」が登場する。

既に詳細を述べたのでそちらを参照願う。「伊豫」「伊余」の文字解釈も追記しているので併せて参照願う。

繰り返すが、四国伊予の物語では、決して、ない。

この物語の主人公については、おおよその居場所を求めてはいたが、あらためて詳細を述べてみようかと思う。安萬侶コードのフル活用である。先ずは、彼等の出自から・・・。
 
古事記原文…、
 
品陀天皇之御子、若野毛二俣王、娶其母弟・百師木伊呂辨・亦名弟日賣眞若比賣命、生子、大郎子・亦名意富富杼王、次忍坂之大中津比賣命、次田井之中比賣、次田宮之中比賣、次藤原之琴節郎女、次取賣王、次沙禰王。七王。
 

忍坂之大中津比賣命
 
応神天皇の御子、若野毛二俣王が百師木伊呂辨を娶って誕生した多くの御子の中に「忍坂之大中津比賣命」がいる。彼女が上記主人公の母親となる。景行天皇、倭建命そして息長一族に絡む由緒ある出自と言える。また彼女が誕生させた御子の二人が後の天皇となる。古事記、クライマックスへ後少しのところに辿り着いたようである。

<忍坂之大中津比賣命>
既に述べたところではあるが、概略を記す。「忍坂」(目立たない坂)は神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が通ったところである(神武天皇紀を参照)。

その長い坂の真ん中辺りにある大きな津を意味する命名と思われる。現在の金辺川と鮎返川が合流する田川郡香春町採銅所二辺りと比定した

忍坂大室で生尾土雲と戦闘した近隣と思われる。比賣の在処は傍らの高台にあったのではなかろうか。

神武天皇が当初に侵出したところであり、景行天皇がこの地の南に当たる纏向之日代宮に坐し、その御子の倭建命が伊勢、尾張に向かう度に通った道筋にある。

谷合の土地も徐々に開けて来たのであろう。詳細な繋がりは不明だが比賣が坐することになっても決して不思議な場所ではないようである。

この比賣を遠飛鳥宮に座していた男淺津間若子宿禰命(允恭天皇)が娶ることになる。遠飛鳥とは目と鼻の先、足繁く通われたのであろうか・・・。

古事記原文…、

弟、男淺津間若子宿禰命、坐遠飛鳥宮、治天下也。此天皇、娶意富本杼王之妹・忍坂之大中津比賣命、生御子、木梨之輕王、次長田大郎女、次境之黑日子王、次穴穗命、次輕大郎女・亦名衣通郎女御名所以負衣通王者、其身之光自衣通出也、次八瓜之白日子王、次大長谷命、次橘大郎女、次酒見郎女。九柱。凡天皇之御子等、九柱。男王五、女王四。此九王之中、穴穗命者、治天下也、次大長谷命、治天下也。

九人の御子の中に主人公「木梨之輕王」と「輕大郎女・亦名衣通郎女」が登場する。他の御子達が何処に居たのか、言い換えると遠飛鳥及び忍坂では到底無理な「食い扶持」を得るために何処に散らばって行ったのか、についてはこちらを参照願う。

<木梨之輕王①>
木梨之輕王

後の古事記中最も悲しい物語の主人公である。それは後に述べるとして、この名前は何処を指すのであろうか?…「梨」=「無」ではない。

「梨」=「利+木(山稜)」と分解し、更に「利」=「禾+刃」と分解される。すると「梨」=「山稜を切り取る(稲のように)」と紐解ける。「木梨」は…、
 
木(山稜)|梨(山稜を切り取る)

…「山稜が山稜を切り取ったところ」と解釈される。図に示したように山稜の端の先に小高くなったところがあり、まるで横切る山稜で切り取られたように見えるところである。

真に良くできた地形、それを「木梨」と名付けるとは・・・母親の西側の地である。安萬侶コード木(山稜)」のオンパレードである。

続く軽王の「軽」は幾度か登場したように「戦車が敵陣に突っ込んで行く様」で、「真っ直ぐに延びる縦糸の象形と解説される。

<木梨之輕王②>
これを地形象形に用いると、川の合流点の三角州のような地形を示すと解釈して来た。

図に示したように母親の近隣に細長く延びた丘陵は大河ではないが、谷川に挟まれていることが判る。三角州の地形である。

掲載した画像の大きさではやや不鮮明かと思われるが、画像クリックで拡大表示される。

王の坐した場所を求めるには情報不足であり、最も北側にある(現人神社)辺りかもしれないが、母親の近隣と表示した。

それにしても「木(山稜)」が徹底されているようである。ここまで来ると、実に爽快な気分になってくるが、果たして最終章まで持ち堪えられるのか・・・。現住所は田川郡香春町採銅所高原辺りである。
 
輕大郎女(衣通郎女)

<境之黒日子王・輕大郎女>
名前の最初にある無修飾の「輕」は、大倭日子鉏友命(懿徳天皇)の「軽之境岡宮」で登場した地を示すと思われる。彦山川と遠賀川の合流地点近傍である。

現在の地名も直方市上・下境として「境」の文字を残しているところと比定した。それだけで終わるかと思いきや、「衣通」がその居場所を示していたのである。

わざわざ「其身之光自衣通出」と謂れを注記されているが、些か戯れの臭いがする、と受け取る。

勿論、その通り(シースルーって、どんな美女?)、輕太子(この王は太子であった)が目が眩むほどの光を発していたのであろうが・・・。

ともあれ、そんな注記に因われず、解釈してみると…、
 
衣(山麓の端にある三角州)|通(広がりわたる)
 
…「山稜の端にある三角州が広がり渡る」ところと紐解ける。「三川之衣」「許呂母」と全く同じ解釈となる。凄まじいばかりに重ねられた表現と思い知らされる。が、これが古事記であろう。

因みに兄弟の「境之黑日子王」の「黑」=「里+灬(炎)」から山稜の端が「炎」の地形で、その傍らにある田が作られた場所と紐解ける。この地は大きな山稜の端にあり、現在の水田となっている場所の大半は水面下の状況であったかと推測される。

その中で「黑」の地形に合致し、当時も水田とできたであろう場所は図に示したところ、十分な標高があり、川が流れている場所と思われる。台地の上の池、河川の治水がなされて初めて現在のような広大な稲作地帯へと変貌できたのであろう。まだまだ時期尚早の時であったのではなかろうか。同時に「別」をその時点で継続することの難しさも示しているのである。

彼等二人に含まれる「輕」の文字は、突進して行く様を暗示しているようでもある。同母兄妹間の姻戚は禁じられていたとのことであるが、それなりの理由があるからで、皇位継承の荷が課せられた身分としては、難しい選択、と言うか早くに皇位を弟に譲るべきだったのであろう。

いずれにしても、揺らぎ始めた皇位継承、と思われる。仁徳天皇紀以降、末子相続を採用しなくなるが、同時に倭国の拡大膨張戦略から外れ、内向きになって来る。大きな次代の変換期であったことは確かであろう。
 
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<伊豫国・伊余国の文字解釈について>

「豫」=「杼を横に通して向こうに糸を押しやること」であり、「余」=「農具で土を押し退けること」を意味する文字であると解説される。後者は押し退けたものが余りの意味に通じ、前者は横糸を通して布(平坦な地形を意味する)を作ることに通じる。


<伊豫・伊余>
即ち「二名嶋」は西側の山稜を押し退けて東側に集めた、として見た象形と結論付けることができる。

見方は違うが同じ意味を示していることになる。だから両方の文字使いをしたものと思われる。

東側(讃岐・粟、後の若木・高木)の方に「余」を使う方が適しているように感じられる。他方、西側の伊豫国・土左国(後の五百木・沼名木)に「伊豫」が使われるように押しやられた方は「豫」であろう。

古事記の文字使いは真に正確で、後に登場する伊余湯の「湯=飛び撥ねる水」が生じる急流の川があるのは「余」の地である。まかり間違っても「伊予湯」はあり得ないことなのである。「湯=温泉」として事なきを得た歴史学、であろうか…罪は重いが・・・近年ではこの説には人気がなく、と言って代案も今一つのようだが・・・いずれにしても解は見当たらない。

「伊」=「人+尹」で「尹」=「治める、正す、整える」の意味を持つことから(「伊伎嶋」と同様)、「伊豫()国」は…、
 
人がしたように一方に寄せて整えられた

…国という解釈になる。
 

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2018年8月28日火曜日

筑紫と竺紫 〔251〕

筑紫と竺紫


「筑紫」の文字が古事記に登場するのは、伊邪那岐・伊邪那美が生んだ「筑紫嶋、此嶋亦、身一而有面四」である。その「面一」に「筑紫國謂白日別」と記される。筑紫嶋の筑紫国、これが「筑紫」の初舞台である。


<筑紫嶋>
その他の大八嶋及び六嶋に含まれる島の名前の由来は、その比定に欠かせないことから詳細に述べて来た。

が、「筑紫」は状況証拠的に多々あり、深く突き詰めること亡く今日に至ったようである。

端的に述べれば「筑紫」の紐解きはかなり難度の高いもので、簡単には思い付かなかったというのが実情でもある。

ところで古事記にはもう一つの「竺紫」がある。「筑紫」計11回、一方の「竺紫」計3回であって、「竺紫日向」2回、「竺紫君石井1回、それぞれ登場する。

既に述べたところではあるが、「筑紫嶋」について紐解いた結果を整理してみる。「次生筑紫嶋、此嶋亦、身一而有面四、毎面有名、故、筑紫國謂白日別、豐國謂豐日別、肥國謂建日向日豐久士比泥別、熊曾國謂建日別」の解釈結果を模式図に表した。

<筑紫嶋模式図>
筑紫嶋を羅針盤に見立てて、それぞれの方位を表現したものと解釈した。即ち、「筑紫(白日)」は筑紫嶋の西方にある地域を意味するのである。

因みに、南方は「豐(豐日)」、北方は「熊曾(建日)、北西方は「肥(建日向日豐久士比泥)」となる。

これに基づいて「竺紫日向之高千穂久士布流多氣」は現在の遠賀郡岡垣町と宗像市の境界にある孔大寺山系と比定した。

筑紫の方向に存在する山系は、この孔大寺山系以外にはあり得ない地形なのである。この山系の西は玄界灘であり、遠くには壱岐島が浮かぶ。

ところが「竺紫日向」であって「筑紫日向」の表記は古事記には存在しない。一方日本書紀には「竺紫」は登場しない。全て「竺紫」は「筑紫」に置き換えられ、日本の歴史から「竺紫」は抹消されてしまったようである。

明らかに「竺紫」と「筑紫」は区別されて使われている。これは一体何を意味しているのであろうか?・・・日本書紀が抹消する時は、極めて重要な意味を持つ、古代史解釈の「原則」である。

「筑紫」の方向(方位)にあるのだが、「チ(ツ)ク」の漢字表記を変えることで何かの意味を重ねているのでは?…と気付かされる。では何故「竺」を用いたのか?・・・。この紆余曲折の思考が一気に解読へと導いたのである。
 
<竺紫日向>

竺=竹(山稜)+二(峠道)

…孔大寺山系は二つの峠道で三つの山塊に区切られた山容を持っていることが解る。この峠道を「二」で表記したと紐解けた。

「竹」の甲骨文字から「山稜」を示すとし、その山稜を横切る道(峠道)があることを表している。既に登場した「味御路」「味白檮」など「味」(山稜を横切る道の入口)の文字解釈に類似するものと思われる。

上記のことが「久士布流」(串触る)に繋がり、更には「氣多之前」(桁:算盤)の解釈を強く支持することになる。


<竹>
見事な地形象形の表現であろう。そして邇邇藝命の降臨の地を唯一無二とする記述なのである。だからこそ日本書紀の記述は「竺」の文字を抹消したのである。

となると、「筑紫」も何らかの地形象形表現ではなかろうか?・・・「筑」=「竹(山稜)+巩」とできるが、「巩」は何を示すのであろうか?・・・。

「巩」=「工+凡」に含まれる「凡」の文字が表す山頂が平らな地形であろう。図を参照すると、足立山の平らな頂上をそれに見立てた文字の姿が浮かんで来る。「工」の部分も見出だせる。地形象形、お見事!…の一言に尽きる有り様である。


<筑紫>
更に「紫」の「此(並ぶ)」は二つの長く延びた山稜を示していることが判る。


紫=此(並ぶ)+糸(連なる山稜)

…「筑紫」は足立山(古事記では美和山)を中心とした山稜が描く地形を象形した表現と紐解ける。

「此(並ぶ)」は、反正天皇の「多治比之柴垣宮」や「淡海之柴野入杵」の解釈に類似する。「柴」=「此(並ぶ)+木(山稜)」(山稜に沿って並ぶ)と解釈した。

ここに示された深い谷は「黄泉国」であり、「紫」=「比婆之山」に該当する。幾度となく古事記に登場する重要な地点、そしてその地の全体の地形を表していたのが「筑紫」の表記であることが解る。

この地は大河紫川の河口に当たる。現在に残る地名の一つではなかろうか。極めて特徴的な「比婆之山」の地形をそのまま表現した、言い換えると現在の企救半島南麓の地こそ「筑紫」であって他に変わりを求めることは不可なのである。


<筑紫・黄泉・比婆之山>
論が進んで来ると「筑紫」も「竺紫」も安萬侶くん達が当てた漢字であって、そもそもは「ツクシ」であったと思い付く。

この由来については様々語られているのだが、その一つに「尽くし」が由来とある。

出雲と筑紫の境を「小月」(小が尽きる;現地名北九州市小倉北区赤坂辺り)と表記した例がある。この地は「尽きるところ」という認識と伺える。

そして比婆之山の谷間は「黄泉国」である。命の尽きるところであろう。

古事記は地形的に都合が良いから筑紫嶋を羅針盤としたと考えたが、その背景に「尽きるところ」と言う動かすことのできない地点にそれを据えることによって空間を捉えようとしたのではなかろうか。

それは地点という物的なものと「黄泉」という観念的ものを融合させたと解釈できるであろう。古事記の記述は重層である。日本書紀の記述がどうのこうのなどと言ってる場合ではない。以前にも述べたように「記紀」という括りは廃棄するべきである。

古事記は、間違いなく、焚書にされた。時の施政者にとってこれほど不都合な書物はなかったであろう。そしてそれが現在にの残ったという奇跡にあらためて心が揺り動かされるのである。それをまともに解釈して来なかったことも併せて・・・。













































2018年8月24日金曜日

伊邪本和氣命:葦田宿禰之女・名黑比賣命 〔250〕

伊邪本和氣命:葦田宿禰之女・名黑比賣命


紐解いた仁徳天皇【説話】を通読してみて、思ったより加筆・修正部が少なかった。それで良いのかどうかは、また繰り返し検討することにして、先に進む。天皇崩御後の生じた日嗣の騒動、墨江之中津王の暴挙(難波之高津宮の焼き討ち)から逃れて大江之伊邪本和氣命(履中天皇)が即位する。

履中天皇は一人の后を娶っただけである。古事記原文…、

娶葛城之曾都毘古之子・葦田宿禰之女・名黑比賣命、生御子、市邊之忍齒王、次御馬王、次妹青海郎女・亦名飯豐郎女。三柱。

全く紐解いていなかった系列である。葛城の地の詳細が見えて来ている現在では、苦もなく・・・そんなわけには行かないであろうが・・・伊邪本和氣命の母親は、葛城之曾都毘古之子・石之日売だから孫同士、従兄妹間の娶りということになる。葛城一族が深く姻戚に絡んだと伝えている。


葦田宿禰之女・名黑比賣命

仁徳天皇の黒比賣の黒金ではなく、今度は黒田(豊かな水田)の黒であろうか…枯れた大地の葛城はすっかり穀倉地帯に変貌したのであろう。一族の隆盛を示す記述である。当然丸邇一族の影が薄くなったということである。この二人の居場所は、ほぼ突き止められているような感じであるが、詳細には如何であろうか?…。

「葦田」は…「葦」=「艹+韋」として…、


葦(小高い丘陵で囲まれる)|田
 
<葦田宿禰・黑比賣命>
…と紐解ける。常福池のある谷間を表していると思われる。

「韋(囲まれる)」は「壹比韋」の解釈に類似する。「囲=圍(旧字)」である。また「艹」は安萬侶コード「木(山稜)」から「艹(小さく低い山稜)」=「艹(小高い丘陵)」と解釈した。

「黒比賣命」は…「黑」=「里+灬」として…、


黑([炎]の地形の傍にある田)

…の比賣と読み解ける。父親の地にある地形の麓にあった田を示していると思われる。よくあることではあるが、父親と比賣の二人を合わせて地名の特定ができる典型的な例であろう。

葛城一族が続々登場するようになる。上記したようにこの地はすっかり穀倉地帯に変貌したのであろう。綏靖天皇から始まった葛城への侵出、実に見事な戦略であった、と思われる。

後に説話に登場する「市邊之忍齒王」について述べてみよう。皇位継承が変則となるのだが彼の出番が与えられなかった、という悲運の王子のように思われる。御子達の居場所は纏めて最後に示す。


市邊之忍齒王

「市」は人々が多く集まるところ、物の交換(交易)、歌垣(歌の交換か?)などの解釈があるが、ちょっと変わったものでは「聖と俗との境界」表わすとも言われるようである。現在とは異なり、物々交換が主体となった交流の場と考えて良いように思われる。が、実際にそれが行われていた場所を示すのであろうか?・・・。

「市」は海と川が混じり合う場所を表しているのではなかろうか。海と川との交流の場所である。そう考えるならば、現在の福岡県田川郡福智町市場辺りが該当する場所として浮かび上がる。「市津」という地名も残る。この場所は正に海と川との境界、縄文海進と沖積進行の兼合いで生じた地形と思われる。


市(海と川が混じり合う)|邊(畔)|之|忍(目立たない)|齒(牙)|王

…「海と川が混じりあう畔の目立たない牙のようなところ」の王と紐解ける。下図に示した通り、川に突き出た地形の近隣に坐していたと推定される。


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後に述べることになろうが、彼は雄略天皇によって惨殺される。葛城一族の台頭が所以のようでもあり、ここら辺りは通説というか従来より様々に解説されており、この類の話しは十分に参考になるので後日に纏めてみよう。更に彼の御子が皇位に就くという、曲折の物語となる。いずれにしても天皇家は倭国の繁栄に励むという外向きの指向から、やや外れたところに向かうことになったと告げている。


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御馬王

この名前は「馬」がポイントであろう…、
 
御(三つの)|馬(踏み台の形をした地形)|王
 
…そんな地形が並んでいる場所が見出だせる。何と感想を述べて良いのやら戸惑うばかりであるが、地形象形、である。続いて誕生したのが、別名を持つ比賣のようである。
 
青海郎女・亦名飯豐郎女
 
「青海」青い海の傍に居る比賣なのであろうが、やはりもう一つ意味が込められている。
 
青(未熟)|海
 
<黒比賣命の御子>
…「海のようだが成り切ってない海のようなところ」の郎女と紐解ける。


ほぼ場所は特定できるが、別名飯豐郎女の「飯豐」で確定されるようである。

「飯」=「なだらかな山稜の麓」と既に紐解いた。讃岐国の謂れ「飯依比古」などに含まれていた。

「豐」は「豊かな」と普通に読んでも違和感は感じられないが、やはり、筑紫嶋の「豐國」の解釈に準じるのでなかろうか…、
 
飯(なだらかな山稜の麓)|豐(多くの段差がある高台)
 
…「なだらかな山稜の麓で多くの段差がある高台」その通りの表現で「青海」を眺める岸の地形を示していると思われる。それぞれの坐した場所までは特定しかねるが、現在の神社を含め纏めて図に示した。

後の説話に登場する「市邊之忍齒王」が亡くなってから一族は荒波に晒されることになり、彼の二人の御子の逃亡記など真に現実味のある物語に続いて行く。

2018年8月21日火曜日

筒木韓人・名奴理能美 〔249〕

筒木韓人・名奴理能美


大雀命(仁徳天皇)が余りにも浮気をするので「其大后石之日賣命、甚多嫉妬」と記述される。ちょっと留守をしていると何と吉備にまでお出かけ、許せませんと言って実家に遁走したと告げられるが、葛城の気位は軽挙妄動を許さなかった、とも伝えている。その説話に登場するのが「奴理能美」という韓人で、そこではちょっと奇妙なものを飼っているらしい。

既にこの説話が示す重要な出来事について述べたが、登場人物の居場所を詰めてみることにした。その前に大后の遁走の概略ルートを再掲する。

<石之日賣命>

木国からの帰り道で良からぬ噂を小耳に挟んで怒り心頭ながら未練たっぷりに高津宮の背後から葛城に向かう。

山代川を遡り、十市を抜けて彦山川に向かえば、後はその川を下れば懐かしの故郷である。

だが、そこで踏み止まって引き返すことにしたのである。その場所が「奴理能美」の家と記される。

何故その家?…おそらく大后の着衣を作っていたのであろう。顔馴染みの間柄だったのではなかろうか。

「奴理能美」は筒木だからおおよその居場所は判るのだが、この四文字が居場所を示している筈である。初見の頃には紐解けなかった「能」「美」これがポイントである。

奴(野)|理(区分けされた田)|能(熊:隅)|美(谷間が広がる地)


…「能(の)」としては、読めない。「区分けした田がある野の隅で谷間が広がる地」と紐解ける。筒木の角地を示していると思われる。安萬侶コード「能(隅)」「美(谷間が広がる地)」の二つ含んでいると少々紐解きに時間がかかったわけである。

<筒木韓人奴理能美>
この地は高津宮とは御所ヶ岳を挟んで北と南に当たる。宮の背後に潜んだわけである。気持ちは十分に宮、天皇の方に向いているが、素直な態度は示したくない、と言ったところであろうか。

「山代之大筒木」の中心はその東側と求めた。「奴理能美」の場所は納まるべきところにあったと頷ける結果である。

大雀命が丸邇臣口子を使いに出して何とか口説き落とそうとするのだが、物語は急展開となる。「服著紅紐青摺衣」赤い紐を付けた藍染の衣という艶やかさの出で立ちが、雨で藍染のところが赤くなってしまったと言う。

原報を参照願うが、染色は大変難しいものであったろう。とりわけ藍染は難しく、古事記編纂時点ではかなりの進歩があったが、当時は雨で濡れたら脱色してしまう程度、”洗濯堅牢度ゼロ”と告げているのかもしれない。

衣食住、我々の周囲にあるものとは掛け離れているが、やはり全ての原点である。それを読める楽しさも感じられる。古事記編者達の正直さをこんなところにも忍ばせているようである。下らないことではなく、大切なことである。

惨めな姿の口子臣を見て、妹の口比賣(大后の従者か?)が助け舟を出した。大后が奴理能美の家にいるのは「有變三色之奇虫」を見に来たのであって、他意はないのだ、と天皇に伝えることに・・・天皇も見に来ることになって、太后と再会、事なきを得た結末を迎えることになる。

養蚕に関わることが記述される。紀元前五千年ぐらいで既に絹を手にしていたと知られるが、殆どその詳細は解っていないそうである。記録に止めなかったのではなく、止められなかったのであろう。極秘事項、古事記の「鉄」に関することと同じである。

たまたまネットで見つけたのであるが…、

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東京農工大の先生が古事記の記述について「当時の繭が現在の日本種蚕の繭の特徴と同じく、ツヅミと同じように中央部がくびれている形をしていることが書かれていることも興味深い」と記述されている。

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古事記原文には「一度爲匐虫、一度爲鼓、一度爲飛鳥」と記載される。相変わらずの精緻さに驚かされる。自然観察力の確かさであろう。また、「種」が持ち込まれたのではなく、既に倭国にいた蚕を使って養蚕を行っていたことが伺える。現在では殆ど飛ぶことはないが「飛鳥」であったことも知れる。

余談だが、古事記の記述の中では「飛鳥」=「飛ぶ鳥」であることが判る。「飛鳥(アスカ)」ではない。後の人が称しただけである。古事記編者達の自然観察及び表現力の確かさに気付かれた先生がいただけでも、少々心が落ち着ける、ようである。

さて、登場人物「丸邇臣口子」「口日賣」は何処にいたのであろうか?…「口」の意味するところは何であろうか?…「口」=「端」としてみると…、

<口子臣・口比賣>

口(丸邇の端)|子(分れ出る)

…「丸邇の端で山稜が分岐したところ」と紐解ける。現地名原口が一字残しのようにも受け取れる。

丸邇一族は、しっかり大雀命に仕えていたのであろう。どうも葛城系の大后にしては分が悪い、と言うか葛城の人材不足だったのかもしれない。

三色之奇虫」は同じものに三つの姿があることを表している。古事記は上・中・下の三つの有り様を記述する。彼等の自然観に合った変化であることを例示してのであろう。

「遠江と近江」、これは古事記の概念ではない。ならば「中江」を存在させるであろう。彼等が好む「中津」である。勿論全てに関してでは、ないが・・・。

古事記原文には「絹」の話は登場しない。記述することはできなかったであろうし、養蚕を示せば十分と考えたのであろう。言えることは、倭国において「絹」が特別のものから汎用のものに移り変わったことを告げている。遺跡から見出される遺物は、おそらく、特別のものであり、存在したかどうかの判断には適するが、それ以上は推論に逗まる。

仁徳天皇紀の説話の重要性は日常の生活の中での存在を伝えていることにある、と思われる。限られた範囲の人々の生活の中、である。

仁徳紀が長く、種々雑多の説話を記述したのはその実態を示すことが目的であった。朝鮮半島からすると未開の地であり、そこからの渡来人達が作った多元的国家の時代に、追い付け追い越せの国造りに勤しんだ天皇の物語と思われる、と既述したが、その印象に変わりはない。

神功皇后から始まり、応神天皇紀で具体化した朝鮮半島からの大挙の渡来は徐々にその成果を示しつつあった時期なのであろう。国家としての体制基盤が整ったとは言え、まだまだ確立に向けての渡来の受け入れが必要であったものと推測される。







2018年8月19日日曜日

吉備国に関った人々 〔248〕

吉備国に関った人々


古事記に「吉備」の文字が初登場するのは、伊邪那岐・伊邪那美の国生み「吉備兒島」である。六嶋に含まれる。古事記の舞台となる場所及びその周辺を示している。後に吉備国となり、多くの人々が関わり、物語が伝えられることになる。

倭国への侵攻を目指した神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が八年坐したところであり、吉備近隣からは大碓命・小碓命(倭建命)が誕生する(父親は景行天皇、母親は吉備:当時はこの地も含まれていたのかもしれない)。息長帶比賣命も深く関わるようである。末弟の息長日子王が祖となる。

<吉備国>
古代の歴史の節目、そこに英雄、女傑が登場するのであるが、彼・彼女等が何かを求めて赴いた地であろう。

一度は纏めてみようかと思いつつ、仁徳天皇紀に差し掛かって漸く踏ん切りが付いたという訳である。

最初に登場人物及び祖となった地名も含めて図に示した。少々大きめのものとなって見辛いかと思われるので、画像クリック(別表示)で拡大願う。

「吉備兒島」は図の左端に当たる。現在の網代ノ鼻がある半島と推定した。

通説の岡山吉備との地形類似性は申し分なし、本物らしくみえる・・・勿論本物はこちら、の筈。

図には①~⑲の関った人名及び居場所を示した。当時は海面下であったと予測される地を除いて、現在の居住区の大半を占める配置となっていることが判る。

JR山陰本線で言えば、福江駅から梅ヶ峠駅の南北に亘る。山塊の谷間に広がった地域である。現在の吉見本町、永田本町、福江駅周辺も当時は海面下と推測され、陸地は随分と後退した地形であっただろう。

そんな状況を鑑みて比定された人々の居場所である。既に述べてところではあるが、あらためて概略を整理してみよう。

①神倭伊波禮毘古命(神武天皇)

倭国への侵攻が始まる直前まで坐していたのが「吉備之高嶋宮」である。「嶋」=「山+鳥」渡り鳥が山に逗まる様子に基づくと解説され、その地形象形の表現は「山に佇む鳥(山稜が描く姿)」であると紐解いた。

<吉備之高嶋宮>
勿論ここに滞在した理由は記述されないが、倭国侵攻の準備と考えれば「鉄」の調達であろうと推測した。

大倭帶日子國押人命(第六代孝安天皇)の御子に「大吉備諸進命」が登場するが、早期に吉備を手中に収めることは重要な課題であったと思われる。葛城での財源確保に目処が立って本格的な取り込みが行われたのであろう。

神倭伊波禮毘古命が如何にして吉備の情報を得たのかは不詳であるが、吉備国に向かう前に滞在した阿岐国で侵攻ための財源確保と共に「鉄」の情報入手にも有効だったのではなかろうか。天神族、胸形(宗像)は玄界灘・響灘を支配する海洋民族という認識に繋がるところと思われる。

前記したように天照大御神の「照」=「昭+灬」であって「火で国を統治する」ことを示すと紐解いた。それは当時では「鉄」による国家支配を意味すると思われた。銅も含めこれらの金属を自在に操る力を持つことが全てに勝る時代であったと思われる。となると、吉備はなくてはならない最重要の地と見做していたと推測される。

大吉備諸進命の命名も、なかなか味のあるものではなかろうか。単刀直入に「鉄」に踏み込めず、そのための段取りを行ったと受け取れる。また、彼を省略しないところも古事記らしいものである。大義を為すには、やはりその準備が必要である。

神倭伊波禮毘古命がしっかりと準備に時間を掛けたように、それは決して無駄ではなく、大切なことだと伝えていると思われる。第二代綏靖天皇から第九大開化天皇まで、師木に侵出するまでの天皇達と同様なのである。一見異質に見えてしまうのであるが、それは事を為すために欠かせない行いと読み取ることが重要であろう。

③大吉備津日子命→吉備上道臣の祖
④若日子建吉備津日子命→吉備下道臣及び笠臣の祖
 
<龍王山・龍王神社>

現在の吉見上・下に対応する祖の名称と思われる。若日子建吉備津日子命は「笠臣」の祖となるが、この「笠」↔「龍」との関連が極めて重要と思われる。

既に述べたところではあるが、「笠」は竜王山山麓の形状を模したものと思われ、下関市吉見の地に吉備国を比定する上において根拠となる記述であると判断される。

古事記の記述から彼等が漸くにして吉備国に入り、統治の基盤を作り上げたと推定される。吉備下道臣となり、後裔を次代の天皇が娶る繋がりが発生し、吉備国内外へと広がって行くことになる。

一方、吉備上道臣からはその広がりは述べられず、現在の吉見上地域への進展が滞ったのではなかろうか。「鉄」の採掘場所近傍、そこへの侵出は決して生易しいことではなかったと推測される。

⑤大中津日子命

伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)の御子の一人である。大活躍の命で、倭国最南端の英彦山の麓から葛野、倭国中心(飛鳥)、尾張国そして最北端の吉備国、更にそこの北端の吉備之石无別の祖となった記述される。詳細はこちら

吉備国統治を目指した侵出ではなく、目的は「石」にあったのではなかろうか。初見で現地名の下関市永田郷石王田からの比定であるが、その後も残念ながら他の情報なく現在に至っている。縄文ガラス…何とか繋がるのではと期待するのだが・・・。

⑥~⑯景行天皇及び倭建命に関わる登場人物

上記の吉備下道臣の比賣、吉備之伊那毘能大郎女を大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)が娶って一気に子孫が広がっていくことになる。吉備国の中心地を抑えたことになったと思われる。と言っても現在の吉見本町周辺は海面下であり、当時の吉備下(吉見下)は大きな入江の周辺に限られた地域であったと推測される。

<大碓命・小碓命>
現在の永田郷の地域も同様に大半が海面下で、その北部、上記大中津日子命の石无の地を含めたところに限られていたと思われる。

南部の伊那毘からは若干広がり、現在の下関市福江辺りまで延びる。そこで小碓命(後の倭建命)が誕生する。また彼には故郷からの娶り、御子の誕生もある。

誕生した御子達は各地に散らばることになる。やはり狭い土地に求めることはできず、櫛角別王神櫛王、建貝兒王(祖の一例)など広い範囲の祖となったと記されている。

八十名の御子を誕生させた景行天皇の最大の事績は人材供給であったと既に述べたが、倭建命、五百木入日子命(太子)を含めた御子の数は凄まじいものがある。その中でも吉備国及び周辺の地の貢献は特筆すべきところであろう。

父親の活躍に伴って子供達の行く末が広がるのであるが、一方で足元近接の吉備上道(吉見上)には全く届かず、別の地の様相である。明らかにこの地への侵出に手間取っていることが伺える。「鉄」の採掘は国家機密に属するゆえに全く古事記は語らないが、いや、語るべき事件が生じなかったのであろう。手も足も出なかった?…かもしれない。

⑰息長日子王

息長宿禰王と葛城之高額比賣との間に誕生する息長帶比賣(神功皇后)、虚空津比賣の弟である。仲哀天皇亡き後、建内宿禰を従えて国を統治していた皇后の弟である。その彼が「針間阿宗君」「吉備品遲君」の祖となったと記される。これは恣意的に付けらた地名のように思われる。上図に示したようにこれらの地は「吉備上道」即ち鬼ヶ城の麓に当たる場所である。

<針間阿宗・吉備品遲>

「針間」は多用される。固有名詞ではない。「品遲」は品遲部(天皇家の名代)と錯覚してしまうような名称である。

本ブログもそれに準じた解釈であった。がしかし、そうではなく立派な地形象形による地名と読み解いた。

阿宗=阿(台地)|宗(山麓の高台)
品遲=品(段差)|遲(治水された田)

これで全てが繋がった。神功皇后の時代に吉備の「鉄」を支配する目処が立ったのである。息長一族の天皇家への貢献は頂点に達したと言うべきかもしれない。また新羅等、朝鮮半島との交流も対等とまでに及ばなくても、十分に行える国になったことが伺える。

朧気ながらそのような感じで読み取って来たのであるが、この吉備への侵出の経時的な流れを知ることによって大いなる論拠が得られたものと信じる。仁徳天皇紀に倭国は大国としての基盤を作りあげたと既に述べたが、神功皇后の時代にその布石が着実に実り始めていたと判る。

⑱吉備海部直・⑲黒比賣

大雀命(仁徳天皇)が娶った比賣の一人である。そして自ら吉備国に出向くである。石之比賣命の嫉妬をものともせずにいそいそと・・・そんな安萬侶くんの戯れに惑わされては・・・。現地で詠われる歌は、アライアンス事業の成功を謳っているのである。特に人材を供給したことが決め手となっている。当時の投資としては至極当たり前のことかもしれないが…。

吉備を完全に手中に収めたと告げている。それが仁徳天皇紀に載せられた説話の主目的である。また、吉備を記述する必要も消滅することになる。「吉備」の文字はこの紀を最後に二度と古事記に登場することはない。

古事記の歴史の表舞台から去った「吉備」、それは現在の下関市吉見と比定した。昭和十年代に大々的に「高嶋宮」を求めて調査が行われたという。勿論結果はあやふやである。また現在の岡山県以外にそれがあったということはあり得ないところでもある。

国譲りで古代をぐちゃぐちゃにした歴史を持つ日本、だが、譲った場所はひっそりと現在に繋がっているのである。現在は現在として、長い歴史の中で役割を果たし、国の発展に寄与したことを誇りに思うこと、それは明日に繋がることと信じる。

現在の日本は、誰がどう見ても行き先不明の状態であろう。民主主義という理念の下に、国会という最も論理を大切にしなければならない場所での有り様は、憤りを越えて悲しみの感情を湧き上がらせるものがある。

古事記を読んで、如何なる圧力下にあろうが、真実を語り伝えることの大切さをあらためて感じた。だからこそ、難解な表現を採らざるを得なかったとも言える。古事記編者達の自然観察力、それを表現する力、古代の日本にこれだけの知性があったことに驚かされた。いや、古代はこんなものという教育、情報に惑わされていただけなのであろう。

2018年8月17日金曜日

大雀命:茨田堤と堀江 〔247〕

大雀命:茨田堤と堀江


前記に引き続き御子達を要所々々に配置した近淡海の国作りで、更に大雀命が施した事業について述べてみよう。既述したように「茨田」⇔「松田」⇔「棚田」であって谷間に作られた田のことを意味すると解釈した。「茨(きちんと並んだ)」⇔「松(松葉の形をした)」⇔「棚(棚状になった)」田と読み解いた。

水田稲作によって生きる糧を得て来た最も重要な古代の原風景である。勿論現存するが、低平地の大規模水田が主流となった今では希少となり、観光資源化するところでもある。だが、小規模稲作においては極めて優位な耕作手法でもある。既述したように水田稲作は谷間から次第に下流域へと発展した来たのである。

Wikipediaなどに記載されている内容とは大きく異なるのであるが、「茨田」の由来をその地の名前とした解釈は、播磨国風土記に記載される「河内国茨田郡」に基づくようである。嘘で固めた日本書紀を正史とする、それが罷り通っているのが現状である。

昨今の国会答弁における政治家、官僚の論理から程遠いものを聞く度に日本人の根底に流れる「臭気」どうにかできるものなのか・・・いや、歴史を明日に取り戻す努力は怠ってはならないものであろう。

一方の「堀江」は文字の解釈そのものに大きな隔たりはないようであるが、やはりこれもよく考えれば通説は怪しいのである。最後に「茨田堤」と併せて述べてみよう。

古事記原文…、

此天皇之御世、爲大后石之日賣命之御名代、定葛城部、亦爲太子伊邪本和氣命之御名代、定壬生部、亦爲水齒別命之御名代、定蝮部、亦爲大日下王之御名代、定大日下部、爲若日下部王之御名代、定若日下部。又伇秦人、作茨田堤及茨田三宅、又作丸邇池・依網池、又掘難波之堀江而通海、又掘小椅江、又定墨江之津。

仁徳天皇の事績は何と言っても近淡海国、即ち「志賀=之江」の氾濫する川の整備及びそれに伴う難波津の港湾整備であろう。通説は「近淡海=近江」とする。ならば仁徳天皇が手を加えたのは滋賀となる。難波(大阪)と滋賀とがあやふやなままに解釈されて来ているのである。非論理的なことが罷り通る日本社会の例であろう。

既に述べたように大雀命は、大河が流れ込む巨大な入江を耕地にする夢を実現しようとした、真に稀有な天皇であったと思われる。従来では盛んになる朝鮮半島との交流を目的に奈良大和から河内に都を移したとある。こんなことがまことしやかに記述されていることに恐怖を感じる。寧ろ逆であろう。都は出先機関か?…である。

結果から言えば、現在の豊前平野を広大な耕地とするには時期尚早の感は否めないが、その挑戦的な試みに敬意を評したい。彼らにしてみれば、まさかこの入江が干上がって陸地になるとは想像もできないことだったであろう。

茨田堤

上流部の谷間を利用した「茨田=松田」の技術を氾濫する川に適用したものであろう。記述は簡単であり、想像の域を脱せないが、御子の一人「男浅津間若子宿禰命」が坐した場所が注目される。長峡川が入江に注ぐ傍らの台地から複数の小さな谷間の支流が合流するところである。この命の名前が紐解けたことから「茨田堤」のイメージが浮かび上がって来た。


<茨田・棚田>
台地の傾斜地に茨田(棚田)を作り固めることで土堤の役割も併せ持つようにした画期的な工法だったと推測される。

傾斜を持つ棚田ならば、例え氾濫しても全体に及ぶ確率を下げ、また早期に水を引かせることも可能であろう。

水田に水が貯まっているなら、水を水で防ぐということにもなる。勿論これが適用できる場所には限りがあるであろうし、万全でもない。

手も足も出なかった下流域、特に大河の河口付近に耕地を作り、その荒れ狂う水害の影響を少しでも抑える方法の一つとして極めて重要なものであろう。

昨今の西日本大水害、以前の東北・関東の津波による想像を絶する災害等々、高い土堤があり、現代の技術で造られた防波堤がある、それだけではとても防ぎ切れない「想定外」の自然現象となってしまう。

自然に「想定外」はない。あるのは人の浅はかな知恵と直ぐに忘却する性癖であろう。自然を畏敬し、そこから教えられることを真摯に受け止めることを思い出すべき時ではなかろうか。古事記は自然との付き合い方、今では「技術」と纏めて言えるであろうが、それを大切に取り上げている。現状に満足することなく努力を重ねたいものである・・・ちゃっかり、「茨田三宅」とされている。


堀江

更に「堀江」を作っている。川の流れに障害となるもの、と言うか、舟の航行に支障があったからであろう。入江の海岸線を見積もるために求めた図に何故か現在の標高で7-10m、当時の海岸線になるかならぬかの値を示すところがあった。概ね7-8mで当時は海面下として良いかと思われた場所である。


<堀江・小椅江>
それが犀川の上流方向に進むと明らかに水面下の値を示すのである。この帯状になったところは干満の差でも影響があると見られ、川の蛇行の原因にもなるし、舟の航行に支障をきたしていたのではなかろうか。

上記の石之日賣命の記述に「堀江」が記されているのはこれを告げるためであったと気付かされた。

「小椅江」は難しいところであるが、気に掛かるのが図の二つ並んだ岬のような場所である。実はこの地は忍熊王と難波吉師部之祖・伊佐比宿禰の最後の場所で、この宿禰のいた場所と比定した。

地形からのみになるが遠浅の好漁場だったのではなかろうか。舟を安定して繋いで置ける場所としても有用だったかもしれない。

こう見て来ると難波津の南側と北の墨江津を整備したと述べているようである。墨江之中津王の働きは大きく貢献したのであろう。やはり、それが兄弟で争う要因だった、と推測される。

渡来人(秦人)達の果たした役割も大きかったのであろう。重機のない時代には知恵と人手と根気が必要だが、その詳細は闇の中である。


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大雀命が試みた「茨田堤」は長峡川西岸の台地に流れる多くの、また小さな谷川を活用して「茨田」を作り、かつ長峡川の流れを制御するためのものであったと推測される。川の氾濫にも耐えうるだけの強固なものにする必要もあったであろう。当時しては大変な作業を伴ったと思われる。


<長峡川周辺>
それによって入江の河口付近での耕地の確保へと進めることができたのであろう。

がしかし、「茨田堤」方式が適用できる場所に限りがあったことも事実であろう。大河の河口付近、それを治水できるのは、ずっと後代にならねばならなかったのである。

「堀江」=「入江を掘る(掘って入江にする)」であろう。通説は川を作ったと解釈する。

目的は舟の通行など、同じであることから、何となく肯いてしまいそうであるが、決して水路を作ったとは記述されているのではない。

既に述べた通り、大雀命は難波津の港湾整備を行った。その具体的な作業は入江の中の舟の航行に支障となるところだったのである。高志との往来など交易への寄与は大いなる成果があったと推測される。忘れるところであった、吉備からの鉄の搬入も、である。多数の人々、重量物、それらを積んだ舟の安全走行が確保された、と告げているようである。

谷間に広がる「茨田(棚田)」、それは日本の原風景である。それを述べない筈はない!…と断じる。筒木の石垣、それで作られる池(沼)と同様に、国土の60%以上が山岳地帯である日本の原点と古事記が記しているのである。そして現在の大河の河口に広大な平野を持ち、そこに人口集約する現在の元々の姿なのである。









2018年8月15日水曜日

大雀命:太后石之日賣命の御子 〔246〕

大雀命:太后石之日賣命の御子


古事記の大雀命(仁徳天皇)紀は、出色に内容が豊かである。伊邪那岐・伊邪那美の国生みの島の重要なヒントであり、近淡海国の詳細及び土地・港湾整備、葛城・山代との位置関係、養蚕・紡織・染色など、国が発展・繁栄する様を見事な筆さばきで伝えていると思われる。

「多麻岐波流」「蘇良美都」の表現が示すのは、見渡す限り、手が届く世界の充実ぶりを意味していると思われる。倭国を奈良大和に求めては、古事記が伝えるこの感覚を全く理解できないところであろう。

いや、記述されていないだけで現在の日本の大方を統治できていたのだ…という神話的解釈となる。書物が神話なのではなく、読者の頭の中に多くの神様が巣食っている、と紐解いた方が的を得ているようである。

さて、登場人物の大半について述べて来たが、近淡海国の詳細も含めて再度纏め直してみようかと思う。娶りと御子の記述から該当する部分を抜き出して、以前よりはもう少し深掘りするつもりである

古事記原文…、

此天皇、娶葛城之曾都毘古之女・石之日賣命大后、生御子、大江之伊邪本和氣命、次墨江之中津王、次蝮之水齒別命、次男淺津間若子宿禰命。四柱。又娶上云日向之諸縣君牛諸之女・髮長比賣、生御子、波多毘能大郎子自波下四字以音、下效此・亦名大日下王、次波多毘能若郎女・亦名長日比賣命・亦名若日下部命。二柱。
又娶庶妹八田若郎女、又娶庶妹宇遲能若郎女、此之二柱、無御子也。凡此大雀天皇之御子等、幷六王。男王五柱、女王一柱。故、伊邪本和氣命者、治天下也、次蝮之水齒別命亦、治天下、次男淺津間若子宿禰命亦、治天下也。

今回は、太后「石之日賣命」の御子達、後の説話の主人公でもある。

葛城之曾都毘古之女・石之日賣命大后

古事記に登場する比賣達は真に才色兼備である。石之日賣命大后の挙動は真に伝わってくるものがある。出自である葛城の自負、その自尊心と国の発展に尽くそうとする心構え、それに揺れ動く気持ちを表す「遁走」と、古事記が示す物語性を十分に楽しめる。現在の「比賣」達もそうなんでしょう・・・。

「石之日賣命」の父親、葛城之曾都毘古、「Mr.Katsuragi」と名付けたが、なかなかの曲者?であったろう。古事記の記述は少ない。前記した建内宿禰一族で語られる、ほぼ葛城の中心地(玉手)を統治した父親であった。これだけでも石之日賣命の出自を知る上には十分かと思われるが・・・。

<当時の海岸線(推定:白破線)>
大江之伊邪本和氣命(後の履中天皇)、次墨江之中津王、次蝮之水齒別命(後の反正天皇)、次男淺津間若子宿禰命(後の允恭天皇)に振り分けられた名前は、間違いなく近淡海国の難波津に関連すると思われる。

とは言うものの現在の福岡県行橋市辺りは縄文海進及び沖積の度合いによって当時は海中にあったと思われる。

図は現在の標高7-10mを目安として当時の海岸線を推定したものである(白破線)。黄色の文字の玖賀、宇沙及び長江は既に登場した地名で図の場所を比定した。

文字が示す地形と推定した海面の状況が極めて辻褄の合う結果と思われる。

それらの個別の考察を基づいて入江(内陸部を近淡海国と言う)全体の海岸線に拡張したものである。代表的な四つの河川に限らず多くの川が入江に注ぎ、津を形成していたものと推察される。

それがまた沖積の進行を早め、時と共に変動する地形であったと思われるが、古事記記述との関係を求める上においては使用可能なように考えられる。逆にこの仮定を抜きにして当時の状況を推測することは不可能に近いと思われる。

大雀命が難波之高津宮に進出したのは、取りも直さず広大な入江の開拓であった。それまでに誰も手を出さなかった大河が集中する巨大な入江の整地を成し遂げる必要があったのである。必然的に御子達に入江に張り付かせる、即ち土地を別けたのであろう。

その動機は何処から来たのかを思うと、前記<応神天皇【后・子】>で紐解いた彼の出自に深く関連することが解る。洞海湾に大河(江川、金山川)が注ぐところを目の当たりにする台地で誕生したのである(現在の北九州市若松区東二島辺り)。

耕地を拡張する場所で残された広大な地は、入江にあったのである。その着眼は現在に繋がる。当時にすれば想像を越える課題の山積みであったろう。だがそれは大雀命にしか見ることのできない夢だったのである。

さて、上図を念頭に置いて、御子達の居場所を突き止めてみよう。

大江之伊邪本和氣命

長男の「大江」は現在の福岡県行橋市宝山・流末辺りに広がる最も目立つ入江であろう。宇沙に届くところである。「伊邪本」は何と紐解くか…、


<大江之伊邪本和氣命>
伊(小ぶり)|邪(曲がりくねる)|本(麓)

…「小ぶりだが曲がりくねっているところの麓」であるが、何が曲がっていると言っているのか?…「大江」の近傍に目をやると、馬ヶ岳を通る尾根に気付かされる。

更にそれからの山稜がくねって麓に届く場所がある。現地名、行橋市大谷辺りである。尾根から麓まで曲がりくねって届くところと解釈される。

この曲がりくねった山稜に従って「伊邪」の谷川がある。開化天皇の「伊邪宮」と同様とするならば、山稜も川も全体纏めて、谷の様相を象形したと解釈するのが適切かと思われる。


墨江之中津王

次男の「墨江」は何処であろうか?…入江の中の津の配置からして最も北側の小波瀬川、白川が注ぐ入江と思われる。川の名称は不明だが多くの谷とその間から流れ出る川が見受けられる。


墨江=隅の江

この地は建内宿禰の御子、蘇賀石河宿禰が開いたところと推定した場所に重なる。そして後には宗賀一族が遍く広がるところでもある。開拓余地のある極めて重要な地であったのだろう。残念ながらこの王の子孫が関わるわけには行かなかったようであるが。


<墨江之中津王>
「中津」と記されるからにはその津の中央辺りに坐していたと推測される。

津のセンターを流れる白川の傍らの場所と思われる。現地名は京都郡苅田町稲光である。

神倭伊波禮毘古命が八咫烏に導かれて山から出てきたところであり、勿論「吉野河之河尻」に当たる。

仁徳天皇亡き後、高津宮を焼払ってしまうという暴挙に出るのだが、それは何によるのであろうか?・・・。

権力指向の気持ちにさせたのは、上記したようにこの地が豊かな恵みをもたらす気配を示していたことに依るのかもしれない。北野武監督のアウトレージな世界を古事記が描くまで、もう少しである。

蝮之水齒別命

三男は「蝮」とは恐ろし気な命名なのであるが、これは安萬侶くんの戯れの一種かと…後に「蝮」=「多治比」と表記して居場所を教えてくれる。「多遲比」は…、


多(田)|治(治水する)|比(並べる)

…と紐解ける。水田が奇麗に治水されて並んでいる様を表している。現在の地名同県京都郡みやこ町勝山大久保辺りである。神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の御子で、茨田(棚田)作りに専念した日子八井命が開拓した地の近隣である。棚田のスケールとして現在でも見事な景観をしていることが伺える。


<男淺津間若子宿禰命>
唯一入江から遠ざかった場所である。それは何のため?・・・。

という訳ではないのであろうが、この命の坐した場所は父親、仁徳天皇の難波之高津宮の場所と密接に関係することが解る。下図を参照願う。


男淺津間若子宿禰命

四男の「男淺津間」は何と解釈できるか?…、


男(田を作り耕す)|淺(短い)|津(合流地)|間(挟まれたところ)

…「複数ある短い川が入江に注ぐところに挟まれた地で田を作り耕す」命と読み解ける。思いの外特徴ある地形と判る。

台地が海に接近しているところであろう。この地も大規模団地が造られており、辛うじて判別できる谷川である。長峡川が近接して流れるところである。現在の地名は行橋市前田辺りと思われる。近淡海関連の場所も併せて下図に示した。


<石之日賣命の御子>(拡大)
難波津の入江の統治をさせるべく子供達を配置したものと推察される。言い換えれば開拓した新しい土地を御子達に分け与えたと思われる。

「豊国宇沙」に特定した現地名「天生田」の北側にあり、治水して初めて耕地とすることができた場所であろう。

いずれにしても縄文海進の退行と沖積の進行によって地形が大きく変化したところであったと推測される。

伊邪本和氣命に対して「壬生部」を創設したという記述が続く。「壬」=「水の兄」(十干の一つ)で「水辺」を意味する。河口付近の水利、漁獲の管理を任されたのかもしれない。

仁徳天皇の時代に難波津がどのように仕切られていたのかを垣間見ることができた。近淡海国の発展はこの天皇に始まったと言える。

「近淡海国=近江」とすることは全くその地理的状況を無視した行為となる。変えるならば「大阪」であった。そうすればもう少し尤もらしい物語が創れたのでは・・・。古事記と日本書紀が同時編纂(進捗度は異なるとしても)である以上、寧ろ苦心惨憺した、させられたのは古事記編纂者達であったろう。「那爾波」などを紐解くと、そう思えてならない、感じである。