筑紫と竺紫
「筑紫」の文字が古事記に登場するのは、伊邪那岐・伊邪那美が生んだ「筑紫嶋、此嶋亦、身一而有面四」である。その「面一」に「筑紫國謂白日別」と記される。筑紫嶋の筑紫国、これが「筑紫」の初舞台である。
<筑紫嶋> |
が、「筑紫」は状況証拠的に多々あり、深く突き詰めること亡く今日に至ったようである。
端的に述べれば「筑紫」の紐解きはかなり難度の高いもので、簡単には思い付かなかったというのが実情でもある。
ところで古事記にはもう一つの「竺紫」がある。「筑紫」計11回、一方の「竺紫」計3回であって、「竺紫日向」2回、「竺紫君石井」1回、それぞれ登場する。
既に述べたところではあるが、「筑紫嶋」について紐解いた結果を整理してみる。「次生筑紫嶋、此嶋亦、身一而有面四、毎面有名、故、筑紫國謂白日別、豐國謂豐日別、肥國謂建日向日豐久士比泥別、熊曾國謂建日別」の解釈結果を模式図に表した。
<筑紫嶋模式図> |
因みに、南方は「豐(豐日)」、北方は「熊曾(建日)、北西方は「肥(建日向日豐久士比泥)」となる。
これに基づいて「竺紫日向之高千穂久士布流多氣」は現在の遠賀郡岡垣町と宗像市の境界にある孔大寺山系と比定した。
筑紫の方向に存在する山系は、この孔大寺山系以外にはあり得ない地形なのである。この山系の西は玄界灘であり、遠くには壱岐島が浮かぶ。
ところが「竺紫日向」であって「筑紫日向」の表記は古事記には存在しない。一方日本書紀には「竺紫」は登場しない。全て「竺紫」は「筑紫」に置き換えられ、日本の歴史から「竺紫」は抹消されてしまったようである。
明らかに「竺紫」と「筑紫」は区別されて使われている。これは一体何を意味しているのであろうか?・・・日本書紀が抹消する時は、極めて重要な意味を持つ、古代史解釈の「原則」である。
「筑紫」の方向(方位)にあるのだが、「チ(ツ)ク」の漢字表記を変えることで何かの意味を重ねているのでは?…と気付かされる。では何故「竺」を用いたのか?・・・。この紆余曲折の思考が一気に解読へと導いたのである。
<竺紫日向> |
竺=竹(山稜)+二(峠道)
…孔大寺山系は二つの峠道で三つの山塊に区切られた山容を持っていることが解る。この峠道を「二」で表記したと紐解けた。
「竹」の甲骨文字から「山稜」を示すとし、その山稜を横切る道(峠道)があることを表している。既に登場した「味御路」「味白檮」など「味」(山稜を横切る道の入口)の文字解釈に類似するものと思われる。
上記のことが「久士布流」(串触る)に繋がり、更には「氣多之前」(桁:算盤)の解釈を強く支持することになる。
<竹> |
となると、「筑紫」も何らかの地形象形表現ではなかろうか?・・・「筑」=「竹(山稜)+巩」とできるが、「巩」は何を示すのであろうか?・・・。
「巩」=「工+凡」に含まれる「凡」の文字が表す山頂が平らな地形であろう。図を参照すると、足立山の平らな頂上をそれに見立てた文字の姿が浮かんで来る。「工」の部分も見出だせる。地形象形、お見事!…の一言に尽きる有り様である。
<筑紫> |
紫=此(並ぶ)+糸(連なる山稜)
「此(並ぶ)」は、反正天皇の「多治比之柴垣宮」や「淡海之柴野入杵」の解釈に類似する。「柴」=「此(並ぶ)+木(山稜)」(山稜に沿って並ぶ)と解釈した。
この地は大河紫川の河口に当たる。現在に残る地名の一つではなかろうか。極めて特徴的な「比婆之山」の地形をそのまま表現した、言い換えると現在の企救半島南麓の地こそ「筑紫」であって他に変わりを求めることは不可なのである。
<筑紫・黄泉・比婆之山> |
この由来については様々語られているのだが、その一つに「尽くし」が由来とある。
出雲と筑紫の境を「小月」(小が尽きる;現地名北九州市小倉北区赤坂辺り)と表記した例がある。この地は「尽きるところ」という認識と伺える。
そして比婆之山の谷間は「黄泉国」である。命の尽きるところであろう。
古事記は地形的に都合が良いから筑紫嶋を羅針盤としたと考えたが、その背景に「尽きるところ」と言う動かすことのできない地点にそれを据えることによって空間を捉えようとしたのではなかろうか。
それは地点という物的なものと「黄泉」という観念的ものを融合させたと解釈できるであろう。古事記の記述は重層である。日本書紀の記述がどうのこうのなどと言ってる場合ではない。以前にも述べたように「記紀」という括りは廃棄するべきである。
。