2018年8月24日金曜日

伊邪本和氣命:葦田宿禰之女・名黑比賣命 〔250〕

伊邪本和氣命:葦田宿禰之女・名黑比賣命


紐解いた仁徳天皇【説話】を通読してみて、思ったより加筆・修正部が少なかった。それで良いのかどうかは、また繰り返し検討することにして、先に進む。天皇崩御後の生じた日嗣の騒動、墨江之中津王の暴挙(難波之高津宮の焼き討ち)から逃れて大江之伊邪本和氣命(履中天皇)が即位する。

履中天皇は一人の后を娶っただけである。古事記原文…、

娶葛城之曾都毘古之子・葦田宿禰之女・名黑比賣命、生御子、市邊之忍齒王、次御馬王、次妹青海郎女・亦名飯豐郎女。三柱。

全く紐解いていなかった系列である。葛城の地の詳細が見えて来ている現在では、苦もなく・・・そんなわけには行かないであろうが・・・伊邪本和氣命の母親は、葛城之曾都毘古之子・石之日売だから孫同士、従兄妹間の娶りということになる。葛城一族が深く姻戚に絡んだと伝えている。


葦田宿禰之女・名黑比賣命

仁徳天皇の黒比賣の黒金ではなく、今度は黒田(豊かな水田)の黒であろうか…枯れた大地の葛城はすっかり穀倉地帯に変貌したのであろう。一族の隆盛を示す記述である。当然丸邇一族の影が薄くなったということである。この二人の居場所は、ほぼ突き止められているような感じであるが、詳細には如何であろうか?…。

「葦田」は…「葦」=「艹+韋」として…、


葦(小高い丘陵で囲まれる)|田
 
<葦田宿禰・黑比賣命>
…と紐解ける。常福池のある谷間を表していると思われる。

「韋(囲まれる)」は「壹比韋」の解釈に類似する。「囲=圍(旧字)」である。また「艹」は安萬侶コード「木(山稜)」から「艹(小さく低い山稜)」=「艹(小高い丘陵)」と解釈した。

「黒比賣命」は…「黑」=「里+灬」として…、


黑([炎]の地形の傍にある田)

…の比賣と読み解ける。父親の地にある地形の麓にあった田を示していると思われる。よくあることではあるが、父親と比賣の二人を合わせて地名の特定ができる典型的な例であろう。

葛城一族が続々登場するようになる。上記したようにこの地はすっかり穀倉地帯に変貌したのであろう。綏靖天皇から始まった葛城への侵出、実に見事な戦略であった、と思われる。

後に説話に登場する「市邊之忍齒王」について述べてみよう。皇位継承が変則となるのだが彼の出番が与えられなかった、という悲運の王子のように思われる。御子達の居場所は纏めて最後に示す。


市邊之忍齒王

「市」は人々が多く集まるところ、物の交換(交易)、歌垣(歌の交換か?)などの解釈があるが、ちょっと変わったものでは「聖と俗との境界」表わすとも言われるようである。現在とは異なり、物々交換が主体となった交流の場と考えて良いように思われる。が、実際にそれが行われていた場所を示すのであろうか?・・・。

「市」は海と川が混じり合う場所を表しているのではなかろうか。海と川との交流の場所である。そう考えるならば、現在の福岡県田川郡福智町市場辺りが該当する場所として浮かび上がる。「市津」という地名も残る。この場所は正に海と川との境界、縄文海進と沖積進行の兼合いで生じた地形と思われる。


市(海と川が混じり合う)|邊(畔)|之|忍(目立たない)|齒(牙)|王

…「海と川が混じりあう畔の目立たない牙のようなところ」の王と紐解ける。下図に示した通り、川に突き出た地形の近隣に坐していたと推定される。


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後に述べることになろうが、彼は雄略天皇によって惨殺される。葛城一族の台頭が所以のようでもあり、ここら辺りは通説というか従来より様々に解説されており、この類の話しは十分に参考になるので後日に纏めてみよう。更に彼の御子が皇位に就くという、曲折の物語となる。いずれにしても天皇家は倭国の繁栄に励むという外向きの指向から、やや外れたところに向かうことになったと告げている。


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御馬王

この名前は「馬」がポイントであろう…、
 
御(三つの)|馬(踏み台の形をした地形)|王
 
…そんな地形が並んでいる場所が見出だせる。何と感想を述べて良いのやら戸惑うばかりであるが、地形象形、である。続いて誕生したのが、別名を持つ比賣のようである。
 
青海郎女・亦名飯豐郎女
 
「青海」青い海の傍に居る比賣なのであろうが、やはりもう一つ意味が込められている。
 
青(未熟)|海
 
<黒比賣命の御子>
…「海のようだが成り切ってない海のようなところ」の郎女と紐解ける。


ほぼ場所は特定できるが、別名飯豐郎女の「飯豐」で確定されるようである。

「飯」=「なだらかな山稜の麓」と既に紐解いた。讃岐国の謂れ「飯依比古」などに含まれていた。

「豐」は「豊かな」と普通に読んでも違和感は感じられないが、やはり、筑紫嶋の「豐國」の解釈に準じるのでなかろうか…、
 
飯(なだらかな山稜の麓)|豐(多くの段差がある高台)
 
…「なだらかな山稜の麓で多くの段差がある高台」その通りの表現で「青海」を眺める岸の地形を示していると思われる。それぞれの坐した場所までは特定しかねるが、現在の神社を含め纏めて図に示した。

後の説話に登場する「市邊之忍齒王」が亡くなってから一族は荒波に晒されることになり、彼の二人の御子の逃亡記など真に現実味のある物語に続いて行く。