2020年1月22日水曜日

銅鐸と古墳 〔390〕

銅鐸と古墳


Wikipedia
によると・・・語源となった「鐸」は古代中国において用いられた柄付きの青銅器の楽器である。鐸は柄を持ちもう一方の手にもった打器で鐸を打ち鳴らして音をだしていた。銅鐸は銅製で鐸のような形をしているので「銅鐸」と名付けられたが、銅鐸のように吊るして使用されるものは本来は「鐘」と呼ばれる。そもそも楽器であったかは定かではない。・・・と記されている。

 
<青磁器の鐸>
がしかし一方で・・・「中国江蘇省無錫市にある春秋戦国時代(紀元前770 - 同221年)の地方国家「越」の貴族墓(紀元前470年頃)から、日本の弥生時代の銅鐸に形が似た原始的な磁器の鐸が出土している。
日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に発展したというのが定説だが、発掘調査を担当した南京博物院考古研究所の張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると指摘している。・・・とも記されている。

要するに「銅鐸」の原型を止める姿をしたものは現在のところ見出されていないのである。後に詳細を述べるが、日本の「銅鐸」とは似て非なるものと思われる。

近畿地方を中心に多くの出土例がある「銅鐸」ではあるが、それが如何に使われていたのかは、不詳の域にある。古代史を不詳と言いながら、好き勝手な推論が横行している有様を象徴する遺物である。

 
<大山古墳>
「古墳」は、最近世界遺産に登録されるなど話題となっている。大山古墳(通説は仁徳天皇陵)を含む百舌鳥・古市古墳群として、その威容は十分に値するものであろう。

がしかし残念ながらその素性は相変わらず不詳である。勿論本ブログは大雀命の陵、毛受之耳原陵は現在の行橋市にあると比定した。百舌鳥も古市も「国譲り」の結果である。

いずれにせよ「前方後円墳」と名付けられた巨大な古墳の出自は全く不明であり、通説は「ヤマト政権」の象徴として、九州から関東地方に拡がるこの古墳をその実権の目安として解釈して来ているのである。

魑魅魍魎の中で作り上げられた通説に準拠して、繰返し堂々巡りの論考を述べているに過ぎないのが現状であろう。

日本の時代区分である旧石器時代→縄文時代→弥生時代→古墳時代→飛鳥時代・・・における、弥生時代から古墳時代に深く関わるのが「銅鐸」と「古墳」である。そしてこれらは共にある時期を境にして、かつ急激な造作の終焉を迎える。日本の古代は、真に持って魑魅魍魎の世界なのである。

 
<突線紐5式銅鐸>
銅鐸

Wikipediaの内容を簡単に述べると、「見た目が鐸(持ち手付きの)に見えるので楽器のように思うが、現在のところ用途は未だ定かではない」と記載されている。

しかしどう見ても「持ち手付きの」とは思われない。果たして胴体の上部が持ち手なのであろうか?(上図青磁器の鐸参照)…罷り間違っても持ち易い構造ではない。

「銅鐸はその形状ゆえ、初期の小型の物は鈕の内側に紐などを通して吊るし、舞上面に開けられた穴から木や石、鹿角製の「舌(ぜつ)」を垂らして胴体部分か、あるいは「舌」そのものを揺らし、内部で胴体部分の内面突帯と接触させる事で鳴らされたと考えられる(西洋のと同じ)。

また、「擦れ」と考えられる痕跡や、「舌」が当たった為にできたと思われる損傷があることものように使われたと推測されている。しかしながら梵鐘のような、胴体部の外面を叩くことでできたと考えられる痕跡のあるものは出土例がないようである。

更に「舌」については、20156月に淡路島で発見され、20161月には「舌」とそれを吊るすためと思われる「紐」の存在が確認されて、銅鐸は吊りさげて使用されていたと推測されるようになった、と記載されている。

推定されている年代は、紀元前2世紀から2世紀の約400年間にわたって製作、使用されたようであるが、1世紀末頃から急に大型化し(IV式:突線紐式)、近畿式と三遠式の二種があると言われている。近畿式は大和・河内・摂津で生産され、三遠式は濃尾平野で生産されたものであろうと推定されている。近畿式は、東は遠江、西は四国東半、北は山陰地方に、三遠式は、東は信濃・遠江、西は濃尾平野を一応の限界としている。それぞれの銅鐸は2世紀代に盛んに創られ、2世紀末葉になると近畿式のみとなる。さらに大型化するが、3世紀になると突然造られなくなる」と記載されている。

出土数からすると殆ど無視されそうな九州地方については、1980年佐賀県鳥栖市安永田遺跡で鋳型、また1998年に吉野ヶ里遺跡で「銅鐸」そのものが発掘された。即ち九州にも銅鐸文化が存在したことを示したのである。現在は教科書からも消滅したとのことであるが、かつての「銅鐸文化圏と銅矛文化圏」が実しやかに語られていたように、相変わらず混迷の歴史を現在も継続している。

混迷すると百家争鳴の状態になる。詳細は上記のWikipediaを参照願うが、祭儀もしくは祭祀用の道具とされているようである。地震を鎮める為に、と言う面白げなものもある。3世紀に突然造られなくなったことについては、祭儀など信仰の変化あるいは政治的な社会変動?などが挙げられているが、外敵の侵出による変化が原因であると古田武彦氏が述べたと記載されている。

 
『鐸』?

ここで改めて「銅鐸」と名付けられたのは何故かと問うてみようかと思う。この名前は近代になって付けられたものではなく、『扶桑略記』の668年の記述、あるいは『続日本紀』の713年の記述に見出せるとのことである。造られた時代ではないが、後世の思惑などが存在しない時の名称と思われる。と言うことは、姿が似ている「鐘」もしくは「鈴」とは言わずに「鐸」と名付けたのには意味があったと推測される。

先ず「鐘」、「鈴」の文字を紐解いてみよう。「鐘」=「金+童」と分解される。「金」は金属でできたものを表すとして「童」は何を意味するのか?…「童」=「重+辛(刃物)+目」と分解される。更に「重」=「東+人+土」と分解され、「人が足で地面をトントンと突く様(東=両端を括った袋に辛抱を通した様→突き通す)」と解説されている。すると「童」=「目を突き通して見えなくする→道理が解らない」となる。これが「童(わらべ)」の意味に展開するのである。

纏めると「鐘」=「中が突き抜ける、筒抜けになる様」を表した文字と解釈される。「鐘」の形をそのままに表現した文字であることが解る。「鈴」=「金+令」と分解される。「令」=「順序よく並ぶ」であり、更に「触覚(冷たい)、聴覚(澄んだ)」へと展開し、これが鈴の音色に基づく文字となる。「童」は構造である形状を、「令」は機能である音色を抽出して文字化したものと知られている。

確かに一見では「鐸」は「鐘」の構造に類似することは明らかである。だが、「鐘」とは名付けなかった、のである。それでは「鐸」は如何に紐解けるであろうか?・・・同様にして「鐸」=「金+睪」と分解する。「睪」=「罒(目)+幸(手枷(手錠))」と分解され、「睪」=「点々と連なる様、間を置いて点々と並ぶ、点々と分かれる」と解釈されている。「駅(驛)」=「点々とつながる宿場、その宿場を乗り継ぐ馬という意匠」を持った文字である。

 
<銅鐸の鰭>
それでは鐸=金属製の点々とつながった様と直訳されるが、何を示しているのであろうか?・・・「銅鐸」の及び鰭の部分に刻まれた紋様を表していると解る。

「銅鐸」(静岡県三ヶ日町出土)のの部分を拡大した写真を載せた。三角形やら半円弧が点々と並んでいる様子が伺える。

「銅鐸」は、「鐘」(構造)でも「鈴」(音色)でもなく、その紐及び鰭に刻まれた紋様から名付けられたものと読み解ける。そしてこの紋様の機能が意味するところを利用していたと解る。

これに関連するサイトを検索すると数年前であるが、Youtubeで熱く語ってられる方がおられた。エイリアンが登場したりするのであるが、「銅鐸」の紐部の紋様が示す意味を丁寧に解釈されている。「舌」の棒と組み合わせて用いれば、正に時を知る道具としての機能を有していたと思われる。

「舌」は「銅鐸」の内部で吊るされて、それが精密に水平に設置されていることを確かめるために用いられたと考えられる。胴部に開けられた穴は、「舌」の位置を確認するための覗き穴だったのではなかろうか。必要な治具ではあるが不可欠ではなく、代替するものがある以上、常に一対で用いられてはいなかったと推測される。

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「鐸」の文字が使われた中国の機具に「木鐸」が知られている。大辞林によると…舌(振子)を木で作った金属製の鈴。昔中国で法令などを人民に触れて歩くときにならしたもの。金口木舌…と解説されている。 これをそのまま読み取れば「舌」で「銅鐸」を叩いて鳴らす使い方のように受け取られ、冒頭で述べたような解釈となる。

がしかし、やはり音を鳴らすだけのためならば「鈴」が適当であり、やはり「鐸」の文字を当てたのには意味があることが解る。即ち「法令を触れる」ための道具であった。上記で「鐸」=「金+睪」と分解したように鐸=目を光らせて手枷をするという原義に基づいていると解釈される。「銅鐸」の名称は日本で名付けられたと思われるが、漢字を用いることの未熟さが現在まで続く混迷を生じているのかもしれない。

他に「馬鐸」と呼ばれるものが知られている。大辞林によると…馬具の一。扁平な筒形の内部に舌(ぜつ)を下げた青銅器。胸繫(むながい)などにつけ、馬の歩みで鳴る。中国の殷代から見られ、朝鮮・日本に伝わる。馬鈴…と解説されている。中国では「馬鈴」と呼ばれたものが「馬鐸」に変わった由来は不詳だが、紐部に紋様はなく、全く異なっているようである。古墳時代の後期と推定されている例はこちら。また馬形埴輪などが知られている。「銅鐸」の薄いでは、とても使用に耐えなかったであろう。「鐸」の文字が使われたのは、馬の首に複数の鈴を付けた様を表したのかもしれない。

このような背景を知ると、「銅鐸」の命名もさることながら、そのもの自体が日本固有であったことを伺わせているように思われる。中国、朝鮮に出自を求めるのではなく、渡来した人々が創案し、作り出した道具と結論付けられる。殴打及び馬の疾走に耐えうる強度優先の「鐘」やら「鈴」が醸し出す音色に解を求めては、現在でも復元不可能なくらいの肉薄の及び身(胴部)を持つ「銅鐸」の真の姿は見えて来ない、であろう。

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紀元前2世紀の段階で日本に住まう原・日本人(縄文人としておく)に製銅の技術はなく、中国からの移住人がもたらしたものであることは容易に推測される。それに該当する中国人は居たのであろうか?・・・漠としているようで以外にそれらしき民族が浮かんで来るようである。

とあるサイトで以下のように記述されている…、

現在、中国の西南部に住んでいるナシ族、イ族、リス族、ハニ族などの民族の祖先は、かつて中国の西北部で遊牧生活を営んでいた羌(きょう)人と呼ばれる人々であるとされています。紀元前4世紀頃、羌人は秦の圧迫を逃れて南下してゆきますが、その一部が南下する途中の地に定着し、これらの民族の祖先となったと言われます。ただし、ナシ族の文化には羌人のような遊牧民的な要素の他に、農耕民的な要素も色濃く見られるため、南下してきた遊牧民と土着の農耕民の融合という側面も重要視されています。

…現在のナシ(納西)族は中国雲南省の西北部から四川省西南部にかけて住んでいる人々で、トンパ(東巴)文字という特異な象形文字を有している(2003年、世界記録遺産に登録)。勿論今では宗教的な場合などにのみ使われているようである。

 
<秦帝国領域(紀元前210年)>
勇猛な羌族が製銅の技術を持っていたことは知られており、秦の圧迫で南に逃れたナシ族以外にも北方の辺境の地を辿った一族が存在したのではなかろうか。

即ち未だ秦の支配が脆弱であった時期に黄河及び北方の山岳ルートを経て現在の北京・天津市辺りに抜け渤海沿岸に達したと推測される。

勿論その地にも次第に秦の支配が及ぶ故に黄海・東シナ海沿岸及び朝鮮半島内陸部を経て日本列島に辿り着いた一族があったと思われる(末図<銅鐸族と倭族>参照)。

彼らは牧農民族であり、牧畜と同時に麦・粟・黍などの畑作を行っていたことが知られているが、いわゆるシルクロードによって当時の先端の技術も併せ持っていたことも事実であろう。

また移動の途中で同様に秦の圧迫を受けた他民族との交流・合流から彼らにとって未経験の海洋への移動も可能となったと推測される。中国大陸内も間違いなく西高東低の文明開化の時代であり、東夷であって決して西夷ではない。

日本列島への侵入ルートは九州~山陰~北陸の日本海沿岸であり、そこから内陸側に拡散していったと思われる。製銅の技術を有する彼らにとって原・日本人が住まう地への侵出は極めて容易であったと思われる。そして最新の科学機器「銅鐸」によって瞬く間に受け入れられて行ったのではなかろうか。時を知ることが如何に重要なことであったかは想像するに難くないものであろう。

「銅鐸」には銘がなく、文字を使用していなかったことが知られている。上記のナシ族のような象形文字を使用していたとするならば、「銅鐸」の胴部に刻まれた絵にそれが示されているのかもしれない。言わばもっと原始的な表現手法に留まっていたのであろう。

とは言うもののルーツである羌族の地(拡散した地も)に「銅鐸」の痕跡が残っていないのは、果たして未発掘として片付けて良いものか不詳である(上記のエイリアンの登場の理由かもしれないが…)。目下のところは、移動の途中で知り得た「時の知識」を日本に辿り着いて彼らのオリジナルな機器とした、と解釈しておこう。

 
『暦』

では何故突然に消滅することになるのか?・・・新規の侵入者にはという文字を用いた「時を知る道具」を有していたのである。とりわけ季節を知る上において「銅鐸」は無用の長物と化して行ったのであろう。時を知るという魔法が一挙に瓦解した時を迎えたと思われる。更にその新規の侵入者はもっと強力なものを有していたのであろう。
 
古墳

古墳、とりわけ「前方後円墳」については多くの書物・文献が開示されているようである。その中で白井久美子氏が纏めた文献を参考にした。丘長60m以上の大型前方後円墳については、3世紀前葉から7世紀中葉までを前期(3C前~4C中)・中期(4C後~5C末)・後期(6C初~末)に分け、更に終末期(7C初~中)として整理されるのが通例のようである。
 
<期別の大型前方後円墳2012年>

白井氏の論考は、ヤマト王権の象徴である「前方後円墳」が日本列島に拡散して行く有様を如実に物語る事実であると記述されている。事実に基づいて帰納的に論理を抽出する方法に於いて、日本の歴史学は全く無能と言わざるを得ない有様である。

図中の「中枢」=「近畿地方」を表し、古墳の築造が途絶えた後もヤマト王権が存続し続けた場所である。王権が存続する、いや益々その権力を増大させて行く中で、その象徴が地方に拡散すると中枢では激減して行くとは如何なる解釈になるのであろうか・・・。

更に纏められたデータが追加される。

<ヤマト王権中枢域の大型前方後方墳と東国の前期主要古墳>


<列島の後期大型前方後円墳>

白井氏の論考の冒頭に「前方後円墳は、日本独特の王陵の形態である。それはまた、ヤマト王権の象徴でもあり、前方後円墳が日本各地の豪族の墓として採用されていく過程は、王権の勢力拡大の軌跡を最も端的に表している」(太字:加筆)と記載されている。上図は過程・軌跡であろうか?…初歩的な言葉の意味を理解されているのであろうか?・・・。

過程・軌跡は連続的な事象を表現する言葉である。上図二つは、大きく分けて九州、近畿及び関東地域に非連続的に発生した有様を示す図と解釈するのが妥当であろう。百歩譲って、三つの地域に特異的に発生したとする論考も述べるべきではなかろうか…ヤマト王権唯一絶対では混迷に陥るだけである。

上図の<列島の後期大型前方後円墳>を見る限り、前方後円墳の施主の主たる拠点が九州から近畿に、そして関東へと非連続的に移動したことを如実に示す結果と思われる。九州の内部を見れば、その西北地域(佐賀県辺り)から東~南地域(福岡~宮崎県辺り)への移動が伺える。また東北地域(福岡県東部)が極めて少ないことは、重要な意味を表しているようである(天神族の地域)。

 
<百舌鳥古墳群>
前方後円墳と言う稀な墳墓の構造は何を示すと考えられるか?…これも様々な説が流布している。今一度考察してみよう。

図は、最近世界遺産に登録された百舌鳥古墳群の一部を示したものである。仁徳天皇陵とされている大山(仙)古墳、履中天皇陵とされている石津ヶ丘古墳がある。

また大山古墳のもう少し北方に反正天皇陵とされている田出井山古墳があり、これら三つの古墳を「百舌鳥耳原三陵」と呼ばれている。

上記した『古事記』の大雀命の毛受之耳原陵に含まれる「耳」が示す意味は、全く無視である。他の二人の天皇陵には「耳」は付かないが、纏めて三陵としてしまっている。相変わらずの無節操な「国譲り」である。

それはともかく、これらの古墳の地形は大阪と和歌山の境にある和泉山脈の北麓に拡がる広大な丘陵地帯、その先端部分に該当する場所である。三陵の西側は、当時は限りなく海に近く、標高20m前後の凹凸のある地形をしていたと推測される。

 
<毛受・毛受野>
古事記新釈で示した地形との類似性が伺えるのである。これらの古墳は天然の地形、即ち小高くなったところを巧みに利用して前方後円墳の形に整地したと推測される。

図に示した三陵は山稜の先端部に位置し、当時の行橋市を覆う入江に面する場所である。即ち墓所は、水田稲作に不都合な海水が入り混じるところに立地したのではなかろうか。

灌漑用の池となったのは、後世に海岸線が大きく後退して水田稲作が広がり、そのための利水を確保するために隍(空堀:整地するために掘った溝)を活用したと思われる。

図<毛受・毛受野>は川に挟まれた中州の状態であり、また丘陵に水田稲作を施すには狭い地形であるが、図<百舌鳥古墳群>の地そのものを水田化できる広さを持ち、川から遠く溜池の必要性はかなり大きいものであったと推測される。いずれにしても現在の古墳の姿になるのは3~4世紀以降、後代になってからと思われる。

 
<纏向古墳群>
もう一例「纏向古墳群」の一部を示した。三輪山の西麓に南北に拡がる古墳群である。

大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)陵とされる渋谷向山古墳、また卑弥呼の冢と噂される箸塚古墳などである。

これらの古墳は谷間の出口辺りにあり、当時としては最も水田としての利用価値の高い場所に築造されている。

当然山稜の先端の小高いところを生かして前方後円墳として、築造当時から灌漑用の溜池としての利用が意図されていたのではなかろうか。

この二例共に周濠となっていない。墓所を取り囲む濠としてではないことが伺える。必要な溜池が確保されることが優先した形のように思われる。勿論後代になっての造作も加わっているかもしれない。いずれにしても水田稲作には溜池は不可欠のものであって、それ故に『古事記』の天皇の事績に池が多く登場するのである。

目下のところ「前方後円墳」と後世に名付けられた特異な構造の由来は明らかでないようである。渡来人達は、上記の「銅鐸」を含めて自分たちのアイデンティティを示すために創造することを目指したのであろうか、真意は闇の中である。

 
銅鐸と古墳の狭間

さて、いよいよ歴史の時代区分の意味を読み解く時が来たようである。縄文時代から弥生時代への転換は既に多くの論説があるように中国大陸から直接、あるいは朝鮮半島を経由して日本列島に移り住んで来たことに由来するのであろう。それは決して民族の大移動のような形ではなく、勿論ある程度の集団ではあったろうが、三々五々の様相と推察される。

弥生時代の始りはいつか?…歴博は五百年も一気に遡らせた経緯もある。それは一気に民族の置き換わりが発生したのではなく、時間経過と共に緩やかな速度で起こった事象に基づくのであろう。だが、その変化は突然大きな変化を伴うことになる。それが製銅(採掘・精錬・加工)技術を有する人々の到来に由来する。製銅技術と「時を知る」人々が多数を占める時代がやって来たのである。

彼らは牧農に「時」を付加して、多くの稔りをもたらすことを示した。瞬く間に生産性が上がり、その勢いは「銅鐸」の大量生産・大型化(精度の向上)へと数百年の年月をかけて進展することになった。外敵の脅威から解き放たれてオリジナルな道具を創出したのである。連続的な変化に続くカタストロフ的な、量質転化の様相を示していると思われる。

地域的拡大は、所謂日本アルプスの西側までとなる。遊牧の民に立ち塞がるのは高い山並であろう。本来の海洋民族ではなかったことを示している。それが三遠式と呼ばれる形式に止まった所以であろう。とは言え縄文人・早期の弥生人を吸収しながら豊かに繁栄した社会に突然新しい波が訪れる。

また九州では北部に出土の例があるが南部では未だ例がないようである。九州山地及び霧島火山帯によって分断された地形である。本州と同様にこの山地に阻まれた分布と思われる。「銅鐸族」は海洋民族ではなかったのである。宮崎県に銅鐸が無い理由を述べられているサイトを参考までに。

上記したように「銅鐸」をもたらした人々は、中国黄河流域における秦の興隆、それを避けるかのごとくに南へ東へと移動し、日本列島に辿り着いた。漢民族は黄河流域に止まることなく長江の南側へにもその勢力を拡大膨張させたのである(漢の圧迫)。そしてまた、その地の人々が南へ東へと大移動することになる。

鳥越憲三郎氏の「倭族」が類稀な水田耕作技術と暦(文字も併せて)をもって日本列島に脱出する。勿論些かの異動はあるとしても「銅鐸」の侵入と同じようなルートを辿ったものと推察される。「倭族」が保有する技術は圧倒的であった。牧農の民がいくら逆らおうとも全く歯が立たない有様と思われる。勿論棲み分けが可能な状況であったであろうが、主導権を手放さざるを得ない運命であった。

彼らは敵対と融和の両面を繰り返しながら古墳時代が幕開けることになる。少々興味深く読ませて貰ったのが、臼田篤伸氏の書物であり、「銅鐸民族」を提唱され、古墳時代には征服されて奴隷とされたと言う論旨である(『銅鐸民族の謎』彩流社2004年、『銅鐸民族の悲劇』同左2011年)。

氏は「銅鐸」を同一民族の証として使われたと述べている。また「銅鐸民族」のルーツを長江上流で紀元前2千年頃までに栄えた古蜀文明の一つ三星堆文化(現在の四川省徳陽市広漢市)に求めている。それはそれとして、一部で古墳の築造労力に当てられたように思われるが、彼らは結果的に融和して行ったと思われる。

「銅鐸」の緻密な製造技術は、決して凡庸な民族にできることではなく、彼らの能力の水田稲作への適用が促進されたのではなかろうか。銅製の治具・武器にしてもその技術は十分に生かされたと思われる。「銅鐸民族」(本ブログでは銅鐸族と表記する)はその地を離れることなく、水田稲作・畑作・牧畜の不可欠な生産現場に汗を流したと推察される。

それにしても渡来した「倭族」は伸び伸びと、思うがままに己が技術を発展させたのであろう。先住人を従えて十分な労働力を活用して、巨大な古墳を築造して行ったと思われる。だがしかし、決して無謀なことではなく自然の地形を利用し、水田稲作に欠かせない溜池とした。治水を大義名分とする労働は、強制ではなく人々の共同体的労働を生み出したであろう。

『古事記』に「遲」(「治水」と解釈)が付く地名・人名が多数登場する。現在にまで繋がる水田稲作を主たる営みとする民族にとって不可欠な作業であり、当時のその労働への負荷の大きさを思えば想像を遥かに越えたイベントだったと思われる。

建設会社のサイトに大山古墳を一から作るとどれくらいの労力が必要かの試算が載せられている。一つの試算として良いのだが、自然の地形を利用した場合の試算も必要であろう。これではヤマト政権の強大さを示すために利用されてしまうのではなかろうか。尻すぼみとなってしまう古墳築造、ヤマト政権の衰退を示すことになってしまうのでは?・・・。

 
古墳の終焉

上記したように九州地域に一早く侵出した「倭族」は水田稲作で日本列島を席捲することになった。この「倭族」を倭族Ⅰと名付けてみよう。彼らは古墳を作り、灌漑用の設備を整えることを主眼にしていた。「銅鐸」をもたらした人々と同じく山陰・北陸経由で近畿・濃尾へも些かタイムラグはあるが、蔓延して行ったと思われる。

勿論後に吉備と言われる地域、四国の瀬戸内海沿岸地域にも辿り着いたと推定される。倭族Ⅰは水田稲作・暦・製銅の知識を有していたが、「鉄」の知識を持ち合わせていなかったようである。ここに倭族Ⅱの登場が発生するのである。鉄の伝播はアイアンロードとして知られている。現在のトルコ地域で見出された鉄はスキタイ族、中国北方の遊牧民族によって拡散したと伝えられている。

勿論シルクロードも十分に寄与するわけであるが、アイアンロードにより遊牧民間の伝播は凄まじいものがあったであろう。それは朝鮮半島北部そして南部へと広がって行ったと推測される。倭族Ⅱはそれなりの鉄に関する知識を有していたと思われるが、朝鮮半島を経由した彼らは、採鉱・製鉄を自らの手で行えるようになっていたのではなかろうか。

『古事記』は鉄のこと語らない。唯一天金山之鐵として登場させるのみであるが(鍛人天津麻羅の表記もある)、製鉄を行っていたことを匂わせる記述を読取ることができる(神武天皇紀仁徳天皇紀)。また倭建命の段で登場する「比比羅木之八尋矛」は朝鮮半島島南部、新羅などの地が主要な鉄器の産地であったことを伝えている。

更に倭族Ⅱの一族…倭奴族(Ⅱa)と名付けた…に関して、『魏志倭人伝』中の鬼國・一大率は鉄の存在を伺わせる名称と読み取った。そして『古事記』の主役として倭族Ⅱの一族である天神族(Ⅱb)九州東北部から近畿へと大移動を行ったものと推察される。『隋書俀國伝』、『旧・新唐書東夷伝』から読み解いた唐の圧力を避けた東進(西暦670年~)であったと思われる(こちらを参照)。

 
先住倭人の逃避

何故古墳築造の後期に関東に多くの古墳が見られるのか?・・・中枢に居た倭族Ⅰが黒潮に乗って脱出したのである。倭族Ⅰ倭族Ⅱb(天神族)は全ての面に於いて競合する関係にある。一部を受け入れたとしても全てと融和するわけにはいかなかったであろう。これが上図<後期の大型前方後円墳>の非連続的な古墳分布の由来である。決してヤマト政権の象徴が拡散して行く過程・軌跡ではない。

言い換えれば千葉県における前方後円墳の異常な程の数が示す事件が発生したと理解すべきであろう。茨城県、群馬県の三県の前方後円墳をヤマト政権の前進基地的解釈に結び付けるという無謀さを感じる。七世紀後半に始まる「天神族」の東進によって現在の日本国が作られていったと言えるであろう。

世界に類を見ない巨大な墳墓を築造した倭族Ⅰは、余りにも恵まれた環境の中で西方の技術革新を取り込むことを怠った。おそらく「鐵」の存在を知らないわけではなかったと思われるが、目先の豊かさに溺れてしまった。現在に繋がる日本の得意なガラパゴス化を生じてしまったのではなかろうか。鎖国可能な地形なのである。

奈良大和で名実共に日本国の覇権を握った「天神族」の後裔が関東を含めて支配して行ったことは事実である。それと共に逃げ切ることができなかった関東脱出組は歴史の表舞台から引き下がることになった、あるいは抹消された、と思われる。上記を模式的に図として示した。

 
<銅鐸族と倭族>

銅鐸及び古墳に着目した人々の流れは、上記の図に示されるように思われるが、倭族Ⅰの出自をもう少し述べてみることにする。図中ではその分布を東日本から西日本に至る地に幅広く分布した図としたが、これも一様な分布ではないように思われる。

中国における殷・周から春秋・戦国の時代を経て秦が統一、更に引き続いて漢が勃興して中原による中国全土の支配体制へと移行する。概ね1,000年間中原の支配が東夷の地域まで浸透するのである。中原の圧力(迫)に対して取巻く地域内が結束するかと思いきや、真逆であってむしろ潰し合いが発生する。後の朝鮮半島内の出来事に通じる現象である。

とりわけ江南の地の呉・越の葛藤は凄まじかったようで、国の滅亡さえ起こり得るような有様であったと知られている。勿論このように仕向けたのも中原だったのかもしれないが、結果的に「倭族」の移動を促したのであろう。言い換えるとこのような強大な力が合わさって初めて民族規模の移動が発生するとも考えられる。

上図の倭族Ⅰを更に細分してみると(朝鮮半島南部から九州へ移住した倭族Ⅱを除いて)…、

・朝鮮半島に移住した一族(Ⅰa)
・中国本土から直接九州北西部、有明海沿岸部へ移住した一族(Ⅰb)
・同じく九州東南部(もしくは有明海沿岸を経て)、日向灘沿岸部へ移住した一族(Ⅰb’)
・同じく山陰へ移動し、更に瀬戸内海及び近畿(大阪湾岸・大和盆地)へ移住した一族(Ⅰc)
・同じく北陸へ移動し、更に琵琶湖周辺及び東海(伊勢湾岸)へ移住した一族(Ⅰd)

…などが推測される。有明海沿岸部に移住したⅠbは、幾度も敵対的な行動を取る。あたかも江南の呉越の状況をそのまま引き継いだかのような有様だったのかもしれない。日向灘沿岸部へ移住したⅠb’は『魏志倭人伝』に登場する裸國黑歯國に関連するのではなかろうか。

 
<倭族>
「呉(春秋)」についてはWikipediaによると…、

呉(ご、拼音:wú、紀元前585年頃-紀元前473年)は、中国の春秋時代に存在した君国の一つ。現在の蘇州周辺を支配した。君主の姓は姫。元の国号は句呉(こうご、くご)。 勾呉の表記もなされる。

中国の周王朝の祖、古公亶父の長子の太伯(泰伯)が、次弟の虞仲(呉仲・仲雍)と千余家の人々と共に建てた国である。

虞仲の子孫である寿夢が国名を「句呉」から「呉」に改めた。 紀元前12世紀から紀元前473年夫差王まで続き、越王の勾践により滅ぼされた。 国姓は姫(き)。

中原から江南に移住して建国したと記され、それらの文化が入り混じった国であったと知られる。紀氏として知られる一族の出自は「姫」に由来すると言われているようである。西から東へと、その後も幾度も繰り返される東アジアの歴史を表しているように思われる。ともあれ最後発の「天神族」(倭族Ⅱb)が日本列島を席捲することになったのである。

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以上のような推論を試みた。今後更に論拠を確かにして行こうかと思う・・・。また倭族Ⅱbが畿内に侵出する際に重要な役割を果たしたと思われる「阿曇族」についても今後調査してみようかと・・・彼らが残した足跡は古代の人々の流れを反映しているに違いない、と推測されるのだが・・・。






2020年1月10日金曜日

『古事記』で読み解く『旧・新唐書東夷伝』(Ⅲ) 〔389〕

『古事記』で読み解く『旧・新唐書東夷伝』(Ⅲ)


2. 新唐書東夷伝

Wikipediaによると「『新唐書』(しんとうじょ)は、中国の唐代の正史である。五代の後晋の劉昫の手になる『旧唐書』(くとうじょ)と区別するために、『新唐書』と呼ぶが、単に『唐書』(とうじょ)と呼ぶこともある。北宋の欧陽脩・曾公亮らの奉勅撰、225巻、仁宗の嘉祐6年(1060年)の成立である。」と記され、唐末の戦乱の影響で資料的に欠落部が多かったのが宋代になって見出された資料を加えて纏められたとのことである。尚、日本語訳はこちらを参照。

新唐書東夷伝(日本伝)…、

日本、古倭奴也。去京師萬四千里、直新羅東南、在海中、島而居、東西五月行、南北三月行。國無城郛、聯木爲柵落、以草茨屋。左右小島五十餘、皆自名國、而臣附之。置本率一人、檢察諸部。其俗多女少男、有文字、尚浮屠法。其官十有二等。其王姓阿每氏、自言、初主號天御中主、至彥瀲、凡三十二世、皆以尊爲號、居筑紫城。彥瀲子神武立、更以天皇爲號、徙治大和州。次曰綏靖、次安寧、次懿德、次孝昭、次天安、次孝靈、次孝元、次開化、次崇神、次垂仁、次景行、次成務、次仲哀。仲哀死、以開化曾孫女、神功爲王。次應神、次仁德、次履中、次反正、次允恭、次安康、次雄略、次清寧、次顯宗、次仁賢、次武烈、次繼體、次安閑、次宣化、次欽明。欽明之十一年、直梁承聖元年。次海達。次用明。亦曰、目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通。次崇峻。崇峻死、欽明之孫女、雄古立。次舒明、次皇極。其俗、椎髻、無冠帶、跣以行、幅巾蔽後、貴者冒錦。婦人衣純色裙、長腰襦、結髮于後。至煬帝、賜其民錦綫冠、飾以金玉。文布爲衣、左右佩銀蘤、長八寸、以多少明貴賤。

太宗貞觀五年、遣使者入朝。帝矜其遠、詔有司、毋拘歲貢。遣新州刺史高仁表、往諭。與王爭禮、不平、不肯宣天子命而還。久之、更附新羅使者、上書。

永徽初、其王孝德卽位、改元曰。白雉。獻虎魄大如斗、碼碯若五升器。時、新羅、爲高麗百濟所暴。高宗、賜璽書、令出兵援新羅。未幾、孝德死、其子天豐財立。死、子天智立。明年、使者與蝦蛦人偕朝。蝦蛦、亦居海島中、其使者鬚長四尺許、珥箭於首、令人戴瓠立數十步、射無不中。天智死、子天武立。死、子總持立。咸亨元年、遣使賀平高麗。後稍習夏音、惡倭名、更號日本。使者自言、國近日所出、以爲名。或云、日本乃小國、爲倭所幷、故冒其號。使者、不以情、故疑焉。又妄夸。其國都、方數千里。南、西、盡海。東、北、限大山。其外卽毛人云。

長安元年、其王文武立、改元曰太寶。朝臣真人粟田、貢方物。朝臣真人者、猶唐尚書也。冠進德冠、頂有華蘤四披、紫袍帛帶。真人好學、能屬文、進止有容。武后、宴之麟德殿。授司膳卿、還之。文武死、子阿用立。死、子聖武立、改元曰白龜。開元初、粟田復朝、請從諸儒受經。詔、四門助教趙玄默、卽鴻臚寺爲師。獻大幅布爲贄。悉賞物貿書以歸。其副朝臣仲滿、慕華不肯去、易姓名曰朝衡、歷左補闕、儀王友。多所該識。久乃還。聖武死、女孝明立、改元曰、天平勝寶。天寶十二載、朝衡復入朝、上元中、擢左散騎常侍、安南都護。新羅梗海道、更繇明、越州朝貢。孝明死、大炊立。死、以聖武女、高野姬爲王。死、白壁立。建中元年、使者真人興能、獻方物。真人、蓋因官而氏者也。興能、善書。其紙似繭而澤、人莫識。貞元末、其王曰桓武、遣使者朝。其學子橘免勢、浮屠空海、願留肄業。歷二十餘年、使者高階真人來請、免勢等俱還。詔可。次諾樂立、次嵯峨、次浮和、次仁明。仁明直開成四年、復入貢。次文德、次清和、次陽成。次光孝、直光啓元年。

其東海嶼中又有邪古、波邪、多尼三小王。北距新羅、西北百濟、西南直越州。有絲絮、怪珍云。

…『旧唐書』には「倭國伝」と「日本伝」の二本立ての記述であったのが「日本伝」のみとなっている。また天御中主から始まる皇統の記述が、些か誤字、衍字もあるが皇極天皇まで列記されているのも、それまでの中国史料とは大きく異なる内容を示している。度重なる遣唐使の派遣で「日本國」の有様が伝えられたものと思われる。

とは言え、伝えらた天皇名は所謂「漢風諡号」であり、『隋書』に登場する阿毎多利思北孤阿輩鶏彌の名前は用明天皇の別名として記載されている。上記したように誤字、衍字が多数見られる史書であることから、『新唐書』の資料的価値を低く見て、この記述を真面に取り上げられていないのが現状であろう。

「漢風諡号」は淡海三船によって西暦762~4年に一括撰定されたと”想像”されているが、それ以前にも見受けられており、曖昧さが拭い切れないようである。言い換えると『新唐書』の諡号が誤りだと言い切れない部分もあることになる。正史『日本書紀』の記述を鵜呑みにすることだけは避けたいものである。

『隋書俀國伝』及び『旧・新唐書東夷伝』の解釈が学術的に行われていないのは、史料批判に耐えないものではなく、寧ろそれらが記載する内容、即ち『日本書紀』などに記される内容との齟齬が大きいように思われる。簡単に言えば、相変わらず通説から外れた論考には学術的価値は無いという風潮なのである。

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初主號天御中主、至彥瀲、凡三十二世、、皆以尊爲號、居筑紫城。彥瀲子神武立、更以天皇爲號、徙治大和州と記されている。少々補足的に述べてみると・・・。

『古事記』によると彥瀲=天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命である。確かに神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の父親に当たる。神話風に記述された『古事記』では凡三十二世を辿ることは不可のようである。祖父である火遠理命(日子穗穗手見命)が五百八十年間在位したと伝えているが、個人が、ではなく世襲名でそれくらいの年数とすれば、三十世代が経過したのかもしれない。

『古事記』は邇邇芸命以下鵜葺草葺不合命が坐した地を竺紫日向と伝える。その中心にあったのが高千穂宮である。「筑」と「竺」はそれらの文字が示す場所が全く異なることを『古事記』が記している。それが読み解けていない現状では、「筑紫」=「竹斯」となってしまうのである。『隋書』に登場する竹斯國=竺紫日向である。『新唐書』の撰者は「日本國」の遣使の語るところに拠って、彼らが言う「日本國」は神武天皇以来奈良大和に移ったと…史実に基づくことだと主張したであろう。

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仲哀死、以開化曾孫女、神功爲王。勿論「三韓征伐」のような記述はないが、「王」と記したのは日本側も「神功天皇」とは告げなかったからであろう。開化天皇及び新羅王子の天之日矛の末裔である。『宋書』には別名「息長足姫」が記載されている通り、正確さには欠け、不十分ではあるが皇統の重要なところは記述されているようである。

欽明之十一年、直梁承聖元年。梁の承聖元年(西暦552年)である。此の頃、百濟を経て仏教が伝わったと知られる。仏教公伝の年次については西暦538 or 552年など幾つかの説があり、またそれ以前にも私的には伝わっていたこともあって、年次の重要性は低いと言う説もある。これに関連する『日本書紀』の記述にも怪しげなところがあると指摘されており、不祥な様相である。唐突に記された「欽明之十一年、梁の承聖元年」は何を示そうとしたのであろうか?・・・。

南朝の梁とされることは三国・南北朝時代を経て隋(西暦581~618年)が統一を果たす前の時代である。西暦220年まで続いた後漢から三百数十年間の群雄割拠時代の末期に当たる。「倭國」関連は、漢代の建武中元二年(西暦57年)に始まり、三国時代の魏代(西暦220~265年)に盛んな朝貢が行われたと伝えられている。晋代では泰始元年(西暦265年)の前後に幾度となく朝貢したと記されている(晋書倭人伝)。

およそ百年間の空白を経て宋代になると「倭の五王」として登場する。既述したように上記の「倭國」とは異なる国(朝鮮半島南部、所謂加羅辺りか?)と推定した。即ち次に登場するのは『隋書』の開皇二十年(西暦600年)の「阿毎多利思北孤」の遣使ということになる。『旧・新唐書』は宋代における「倭國」との関わりを略しているのである。

『旧唐書』では空白のように思われたところも(別伝で記述されていたが)、次の段「永徽初・・・」で纏められている。要するに西暦265年からおよそ百三十数年間は「倭國」との関わりを確信するには至らなかったことが伺える。中国における南北朝時代は、朝貢はなかったと見做しているのであろう。「倭の五王」の国の系列が「倭(奴)國」→「俀國」→「日本國」と繋がる系列とは異なることと矛盾しない。

確実な情報として欽明天皇十一年(西暦552年)梁(元帝)の時代であったことを明示しているのであろう。それでも、何故十一年やら西暦552年のピンポイントの年を示したのであろうか?・・・西暦552年は特別な意味を持つ年だったからである。日本に仏教が公伝しただけではない。

末法思想を調べると、日本での末法の始まりは、西暦1,052年、平安末期に当たるとされる。がそれは日本独自の末法であって、中国では西暦552年がその始まりと伝えられている。仏滅は紀元前949年、それから正法500年、像法1,000年を経て西暦552年から末法になったと知られる。

日本に伝わった時には末世の時代、暗黒の世の中に入っていた。故に500年後ろ倒しにしたのである。『新唐書』の撰者の”皮肉”った表記が欽明之十一年、直梁承聖元年。であったと読み解ける。空海他、多くの学問僧を送り込み、遣使も甚だ有能で優雅な物腰を示す東夷の国に対する嫌味っぽい表現であろう。

次海達。次用明。亦曰、目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通。次崇峻。崇峻死、欽明之孫女、雄古立。次舒明、次皇極」天皇名に多くの誤りが見受けられる。また目多利思比孤は『隋書』の多利思北孤と思われるが、「目」が加わり、「北」が「比」となっている。雑な記述ではあるが、述べていることは伝わって来るようである。『隋書俀國伝』のところで詳細に述べたのでここでは省略する。重要な「用明」=「多利思北孤」の記載である。

永徽初、其王孝德卽位、改元曰。白雉。永徽初(西暦650年)に孝徳天皇が即位して元号を「白雉」としたと述べている。『旧唐書』…永徽五年(西暦654年)に「倭國」が琥珀、碼碯を献上…に関連する記述もある。少し後に「咸亨元年(西暦670年)、遣使賀平高麗」と記述され、同様に『旧唐書』の「倭國伝」にはなかった記述がある。

孝徳天皇から持統天皇に関わる記述であろうが、名称の異動もさることながら、『日本書紀』では入組んだ系譜となっているのだが、極めて簡単に親子関係の記述となっている。全て子が引き継いだ皇位継承である。これは日本側が複雑さを知って敢えて簡単に伝えたのであろう。中でも孝徳天皇の前の皇極天皇の和風諡号は「天豊財重日足姫天皇」と知られている。

孝德死、其子天豐財立」確かに『日本書紀』では皇極天皇が斉明天皇として継承するように記述されている。勿論「其子」ではない。伝えた者が漢風諡号を知らなかったのか、敢えて言わなかったのかは不詳である。西暦645年に起った「乙巳の変」と言われる事件以降の政権の揺らぎは相当大きくあった様子が背景にあると推察される。

そして長安元年、其王文武立、改元曰太寶。と記述は飛ぶ。長安元年(西暦701年)、文武天皇が即位して元号を大寶としたと述べている。続いて文武死、子阿用立。死、子聖武立、改元曰白龜。と記す。白龜は神亀(元年:西暦724年)の誤りか?…『旧唐書』に「白龜元年調布」が登場するが、それに惑わされたのかもしれない。更に聖武死、女孝明立、改元曰、天平勝寶。と記述されているが、孝謙天皇(女帝)の元号(元年:西暦749年)である。

孝明死、大炊立。死、以聖武女、高野姬爲王。死、白壁立。大は淳仁天皇の諱である。称徳天皇(孝謙天皇:異名「高野天皇」の重祚)及び光仁天皇の諱が白壁。漢風諡号と諱が混在した表記ではあるが、系譜として齟齬はないようである。貞元末、其王曰桓武、遣使者朝。貞元(西暦785~805年)であり、桓武天皇の在位が西暦781~806年だから、かなり情報確度が上がっている様子である。

次諾樂立、次嵯峨、次浮和、次仁明。仁明直開成四年、復入貢。仁明天皇が在位していた開成四年は西暦839年に当たる。次文德、次清和、次陽成。次光孝、直光啓元年。光孝天皇が在位していた光啓元年は西暦885年である。史書編纂の時期に近付けば、日本側の史料との齟齬が少なく確度が増しているようである。天皇系譜は宮内庁の資料を参照。

『旧唐書』に記載された遣使及びその随行者の記述もあり、中でも朝臣真人粟田の記述が多く見受けられる。武后(則天武后)のお気に入りの人物であったことが伺える。いずれにしても『旧・新唐書』に記載された内容は極めて重要な意味を有しているのであるが、学術的な検討の影が薄く感じられる。「日本國伝」と一本化されてはいるが、やはり「空白」が存在する。それを突き詰めてこそ「日本國」の成立ちが白日の下に浮かび上がって来るのではなかろうか。

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最後に「其東海嶼中又有邪古、波邪、多尼三小王。北距新羅、西北百濟、西南直越州。有絲絮、怪珍云」と記されている。この地理的表現は、「日本國」の在処は九州島であると述べているようである。「俀國」と表記された過去の史書をそのまま引き継ぎ記述したようにも伺えるし、また「日本國」の使者が主張したことをそのまま記載したようでもある。使者達は、決して奈良大和の地理的状況を伝えることはしなかった、のであろう。命懸けで入朝し、命懸けで使命を果たしたと思われる。(2020.01.10)

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2020年1月5日日曜日

『古事記』で読み解く『旧・新唐書東夷伝』(Ⅱ) 〔388〕

『古事記』で読み解く『旧・新唐書東夷伝』(Ⅱ)


引き続いて旧唐書東夷伝の後半部分を読み解いてみよう。いよいよ「日本國」の登場である。


日本國

「倭奴國」、「倭國」、「俀國」に続く名称、中国史書の撰者にとっては、今一掴みどころのない国名変更のようにも思えるが、彼らは辛抱強く付き合ってくれたようである。「日出處天子致書日没處天子無恙云云」などと小生意気な文を述べたりするが、極東最果ての地を抑えることは中国本土の国にしても価値があったのであろう。「隋書」は彼らの大人の対応を記している。

貞觀二十二年(西暦648年)の遣使を最後に音沙汰がなかった、勿論その時点で唐は大帝国になっていたが、長安三年(西暦703年)に、今度は「日本國」として遣使したと告げている。該当部分を再掲する。

旧唐書東夷伝(抜粋:日本語訳はこちらこちらなどを参照)…、


日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。或曰、倭國自惡其名不雅、改爲日本。或云、日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。又云、其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山爲限、山外卽毛人之國

長安三年、其大臣朝臣真人來貢方物。朝臣真人者、猶中國戶部尚書、冠進德冠、其頂爲花、分而四散、身服紫袍、以帛爲腰帶。真人、好讀經史、解屬文、容止溫雅。則天、宴之於麟德殿。授司膳卿、放還本國。

開元初、又遣使來朝、因請儒士授經。詔、四門助教趙玄默、就鴻臚寺教之。乃遺玄默闊幅布、以爲束修之禮、題云、白龜元年調布。人亦疑其偽。所得錫賚、盡市文籍、泛海而還。其偏使朝臣仲滿、慕中國之風、因留不去、改姓名爲朝衡、仕歷左補闕、儀王友。衡、留京師五十年、好書籍。放歸鄉、逗留不去。天寶十二年、又遣使貢。上元中、擢衡、爲左散騎常侍、鎮南都護。貞元二十年、遣使來朝、留學生橘逸勢、學問僧空海元和元年、日本國使判官高階真人、上言「前件學生、藝業稍成。願歸本國、便請與臣同歸。」從之。開成四年、又遣使朝貢。

どうやら遣使の態度は尊大で、中国側は「倭(俀)國」の時の控え目な態度とは大きく異なったように受け取られたようである。「日出處天子・・・」を引き摺っていることは間違いなかろう。

「又云、其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山爲限、山外卽毛人之國」と記載されている。勿論遣使の言葉そのままであって実地検分したわけではない。かつては、「倭國在百濟・新羅東南、⽔陸三千⾥、於⼤海之中、依⼭島⽽居」と記述されていた地形とは全く異なっていることが解る。「毛人之國」が登場する。

里数は不確かであろうが、西と南に海があって東と北が山に囲まれた地形をしていると述べている。日本國は日本列島全体では決してなく、紀伊半島及び岐阜県南部・愛知県西部の地域を示しているのではなかろうか。すると毛人之國は、岐阜県北部及び愛知県東・北部から存在していたように受け取れる。いずれにしても簡略な記述故に様々に解釈されるが、長安三年(西暦703年)の日本國成立時における地域を示しているように思われる。

遣使が朝臣真人と記載されているが、「粟田真人」とされ、「春日粟田百済」の子と言われる。「春日粟田」は、『古事記』で御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇)が尾張連之祖奧津余曾之妹・名余曾多本毘賣命を娶って誕生した長男坊である天押帶日子命が祖となった地、粟田臣に登場する。現地名は田川郡赤村内田小内田辺りと推定した。

春日は、同じく天押帶日子命が祖となった地で、元々は邇藝速日命が「哮ヶ峰」に降臨した後に「鳥見之白庭山」(戸城山)に移り、その北西麓の地(赤村内田)を示す名称である。その更に西側に「丸邇一族」が隆盛する(田川郡香春町柿下)。皇統に関わるところでもあり、多くの有意な人材を輩出した地である。

物腰は温雅で経書・史書を好んで読むとのことで則天(則天武后:中国では武則天、中国史上唯一の女帝)に気に入られたのか手厚くもてなされた様子が記述されている。『隋書』の記述以降の「倭國」の急速な発展を伺い知ることができる内容である。

『隋書俀國伝』は遣使の名前を伝えないが、従来より「小野妹子」とされている。「近江国滋賀郡小野村(現在の大津市小野)の豪族で、天足彦国押人命を氏祖とする小野氏の出身」とWikipediaに記載されている。勿論上記の天押帶日子命が祖となった小野臣(現地名は田川郡赤村内田小柳辺り、「粟田」の北隣)に出自を有する人物であったと推定する。「春日」の地に関連する人材が遣使の役割を果たしていたことを伝えている。
 
白龜元年調布

開元初(西暦713年)の遣使は、儒学者にによる経典の教授を請願したと述べている。学ぶことへの飽くなき要求は既にこの時点で明らかであろう。その返礼に白龜元年調布の話題が登場する。何じゃこれは?と言われるところ、後の解釈も様々である。こんな元号は「九州王朝」にも無いとか、例によって誤写だとか、もったいない解釈が横行していようである。

白龜」を調べると、中国の故事に「白亀の恩」と言うのがあるとのことである。晋書(唐の太宗の命により編纂、西暦648年)に記載された物語に由来する。するとこれは元号ではなく、実に洒落た「調布」(租税:租庸調の布)を意味することになろう。

経典教授の返礼に名付けた布、恩に報いることを示している。しかも晋書に記載された内容を踏まえていることを表しているのである。あらてめて白龜元年調布の文字列を眺めると、報恩元年の貢ぎ物としての意味が伝わって来る。洒落た、では真に失礼な解釈であって、日本國の”知性”を顕在させている。

またそれを「人亦疑其偽」と受け流す旧唐書の撰者の”知性”を表す記述と思われる。「恩に報いることの始まりって、本当かい?」「大丈夫だろうね?」って気持ちを表している。近隣諸国とは、こんな遣り取りで付き合うことが肝要なのかもしれない。

所得錫賚、盡市文籍、泛海而還」昭和三十年代の高度成長期の日本であろう。学ぶことへの貪欲さが薄れては日本は成り立たない国である。そして白龜元年調布のような文言を携えて教えを乞う姿勢が肝心であろう。それにしても「元号」に有るとか無いとかを論議しているようでは国の行く末が案じられる。類似の考察をされているサイトがある。
 
朝臣仲滿

その時の副使に朝臣仲滿(阿倍仲麻呂)が居たと伝える。Wikipediaには「阿倍仲麻呂(あべ の なかまろ、文武天皇2年(698年) - 宝亀元年(770年1月)は、奈良時代の遣唐留学生。姓は朝臣。筑紫大宰帥・阿倍比羅夫の孫。中務大輔・阿倍船守の長男。弟に阿倍帯麻呂がいる。唐名を「朝衡/晁衡」(ちょうこう)とする。唐で国家の試験に合格し、唐朝において諸官を歴任して高官に登ったが、日本への帰国を果たせずに唐で客死した」と記載されている。

大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)紀の大毘古命の子、建沼河別命が祖となった阿倍臣に出自があると思われるが、当人は一族がその地を離れた後に誕生したのではなかろうか。遣使の中でも一際優秀な人材であったようである。上元中、擢衡、爲左散騎常侍、鎮南都護」と記され、上元中(西暦760~2年)には、皇帝の側近となり、現在のベトナムの北・中部を統治する長官に抜擢されたと伝えている。

在唐中の天寶十二年(西暦753年)にも遣使があり、藤原清河・大伴古麻呂・吉備真備他だったようである。凄まじいばかりの中国詣であったが、日本書紀などでは彼ら遣使の命懸けの様子が語られている(Wikipedia参照)。貞元二十年(西暦804)には「留學生橘逸勢、學問僧空海」が記載され、開成四年(西暦806年)の遣使で旧唐書の記述は終わりを告げている。

空白の五十年

貞觀二十二年(西暦648年)から長安三年(西暦703年)までの五十有余年間、遣使の記述が見られない。『旧唐書』の百濟國に関する記述に「倭衆」という表記が登場する。「倭國」として最後の遣使の後、僅か十年余りで百濟國は滅亡する(西暦660年)ことになる。新羅國の策略がまんまと成功して唐と組んで百濟國を殲滅してしまうのである。

この当たりの政略は実に見事であろう。後に朝鮮半島を新羅國が統一するのであるが、その伏線として、重要な出来事が連続して起こることになる。中国は隋代から高句麗には随分と梃子摺っていたが、南の百濟國を手中に収めることによってついに滅亡させる(西暦668年)。百濟國滅亡から十年経たない内に成遂げられたのである。極東における新羅國の存在が大きくクローズアップされた時代であろう。

そのような時代背景の中で「倭國」は「日本國」へと変貌したのである。『日本書紀』には『旧唐書』に記載された以外の幾つかの遣使を述べ、「白村江」での百濟・倭連合の大敗(西暦663年)、壬申の乱など、なかなか賑やかに伝えている。「白村江」の戦いは、『旧唐書』の「倭國」関連では「空白」である。上記したように、これに関連する記述が『旧唐書』の百濟國関連の項にある。

抜粋して引用すると…、

於是仁師、仁願及新羅王金法敏帥陸軍以進。仁軌乃別率杜爽、扶餘隆率水軍及糧船。自熊津江往白江、會陸軍同趣周留城。仁軌倭兵白江之口、四戰捷、焚其舟四百艘、煙焰漲天、海水皆赤、賊衆大潰。餘豐脫身而走、獲其寶劍。偽王子扶餘忠勝、忠志等、率士女及倭衆幷耽羅國使、一時並降。百濟諸城、皆復歸順、賊帥遲受信據任存城不降。

…簡明な記述であり、仁軌(劉仁軌)に投降したのは参戦していた倭兵(衆)である。白江は「白村江」とされている(現地名の比定は未達)。即ち唐はこの事件を「倭國」との関係とは見做していないと思われる。飽くまで百濟國関連であり、そこに応援部隊としての「倭人」が存在しても意に介せずの態度を示していると思われる。一方の『日本書紀』は何万もの大軍で支援した格好を取り、更に戦後処理で登場する郭務悰を迎え入れた様子が記載されている。

同一の事件を関係する国によって異なる取扱いがあっても何ら不思議ではないが、『日本書紀』の取扱いには些か不自然さが感じられる。当時にそれだけの兵力を動員する財力があったのか、また奈良大和を中心として軍船の手配及び朝鮮半島を経由せずに直接中国に向かうことが可能であったのか、など幾つも列挙できるが、憶測の域に入るのでこれで止めることにする。

一方中国史書の方は、撰者が参考にしたと思われる『旧唐書』以外の史書、例えば『唐会要』(この書の元になったものを含め)などには「倭國」に関連する記述が散見されるようである。

永徽五年(西暦654年)に「倭國」が琥珀、碼碯を献上して、その立派なのに高宗が喜び、危急のことがあれば、助けよと述べた。

顕慶四年(西暦659年)に「蝦夷國」を「倭國」の遣使が伴って来た。

・・・<百濟國滅亡(西暦660年)・白江戦(西暦663年)・高句麗國滅亡(西暦668年)>・・・

咸亨元年(西暦670年)に「倭國」が高句麗征伐を祝して遣使を送った。

『日本書紀』に記載された時期、内容も概ね合致しているようであるが、正史『旧唐書』の「倭國伝」からは抹消されている。上記の「劉仁軌伝」登場の「倭兵(衆)」ではなく「倭國」からの遣使と認識しながら未記載なのである。

中国側から見れば隋代では「俀國」と名乗り、元々は「倭(奴)國」だと主張し、派遣した使者はその地にまるで中国と変わらないような人々が住まい(秦王国)、遣使はそれぞれなかなかの人物で皇帝にかわいがられるような有様、要するに”曲者”の雰囲気を醸し出していると見ていたのであろう。

そして唐は新羅國と手を結んで百濟・高句麗國を殲滅させる戦略をとる中で百濟國への支援に走った「倭國」に大いなる不信が募っていた時代であったと思われる。「倭國」の様子を伺う時期であり、さりとて「新羅國」の抑えには「倭國」が必要であり、距離を置いた関係を保つ戦略を採用したと推測される。それは更に「倭國」への無言の圧力として作用したのである。

中国史書には登場しない「郭務悰」が派遣されて来るが(西暦664~9年)、戦後の占領統治策を講じるわけでもなく、朝鮮半島南部及び倭國の実情査察を主たる目的にしたのではなかろうか。勿論「倭國」はおっかなびっくりの状況ではあったと思われるが・・・。詰まるところ、本当の意味での「空白」の時期は、西暦672~703年の三十二年間と見積もられる。天智天皇から文武天皇の期間に当たるようである。

いずれにしても660年の百濟國滅亡は、「俀國」に住まう「天神族」にとっては大変な出来事であった筈で、唐の侵入もさることながら新羅國の勢いを防ぎ切れない様相を感じ取っていたのであろう。彼らは更に「東へ」と逃亡する、その重要な動機付けになったと推測される。勿論「倭衆」が大移動するためのプロパガンダの役割を持たせていたのである。