2020年1月5日日曜日

『古事記』で読み解く『旧・新唐書東夷伝』(Ⅱ) 〔388〕

『古事記』で読み解く『旧・新唐書東夷伝』(Ⅱ)


引き続いて旧唐書東夷伝の後半部分を読み解いてみよう。いよいよ「日本國」の登場である。


日本國

「倭奴國」、「倭國」、「俀國」に続く名称、中国史書の撰者にとっては、今一掴みどころのない国名変更のようにも思えるが、彼らは辛抱強く付き合ってくれたようである。「日出處天子致書日没處天子無恙云云」などと小生意気な文を述べたりするが、極東最果ての地を抑えることは中国本土の国にしても価値があったのであろう。「隋書」は彼らの大人の対応を記している。

貞觀二十二年(西暦648年)の遣使を最後に音沙汰がなかった、勿論その時点で唐は大帝国になっていたが、長安三年(西暦703年)に、今度は「日本國」として遣使したと告げている。該当部分を再掲する。

旧唐書東夷伝(抜粋:日本語訳はこちらこちらなどを参照)…、


日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。或曰、倭國自惡其名不雅、改爲日本。或云、日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。又云、其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山爲限、山外卽毛人之國

長安三年、其大臣朝臣真人來貢方物。朝臣真人者、猶中國戶部尚書、冠進德冠、其頂爲花、分而四散、身服紫袍、以帛爲腰帶。真人、好讀經史、解屬文、容止溫雅。則天、宴之於麟德殿。授司膳卿、放還本國。

開元初、又遣使來朝、因請儒士授經。詔、四門助教趙玄默、就鴻臚寺教之。乃遺玄默闊幅布、以爲束修之禮、題云、白龜元年調布。人亦疑其偽。所得錫賚、盡市文籍、泛海而還。其偏使朝臣仲滿、慕中國之風、因留不去、改姓名爲朝衡、仕歷左補闕、儀王友。衡、留京師五十年、好書籍。放歸鄉、逗留不去。天寶十二年、又遣使貢。上元中、擢衡、爲左散騎常侍、鎮南都護。貞元二十年、遣使來朝、留學生橘逸勢、學問僧空海元和元年、日本國使判官高階真人、上言「前件學生、藝業稍成。願歸本國、便請與臣同歸。」從之。開成四年、又遣使朝貢。

どうやら遣使の態度は尊大で、中国側は「倭(俀)國」の時の控え目な態度とは大きく異なったように受け取られたようである。「日出處天子・・・」を引き摺っていることは間違いなかろう。

「又云、其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山爲限、山外卽毛人之國」と記載されている。勿論遣使の言葉そのままであって実地検分したわけではない。かつては、「倭國在百濟・新羅東南、⽔陸三千⾥、於⼤海之中、依⼭島⽽居」と記述されていた地形とは全く異なっていることが解る。「毛人之國」が登場する。

里数は不確かであろうが、西と南に海があって東と北が山に囲まれた地形をしていると述べている。日本國は日本列島全体では決してなく、紀伊半島及び岐阜県南部・愛知県西部の地域を示しているのではなかろうか。すると毛人之國は、岐阜県北部及び愛知県東・北部から存在していたように受け取れる。いずれにしても簡略な記述故に様々に解釈されるが、長安三年(西暦703年)の日本國成立時における地域を示しているように思われる。

遣使が朝臣真人と記載されているが、「粟田真人」とされ、「春日粟田百済」の子と言われる。「春日粟田」は、『古事記』で御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇)が尾張連之祖奧津余曾之妹・名余曾多本毘賣命を娶って誕生した長男坊である天押帶日子命が祖となった地、粟田臣に登場する。現地名は田川郡赤村内田小内田辺りと推定した。

春日は、同じく天押帶日子命が祖となった地で、元々は邇藝速日命が「哮ヶ峰」に降臨した後に「鳥見之白庭山」(戸城山)に移り、その北西麓の地(赤村内田)を示す名称である。その更に西側に「丸邇一族」が隆盛する(田川郡香春町柿下)。皇統に関わるところでもあり、多くの有意な人材を輩出した地である。

物腰は温雅で経書・史書を好んで読むとのことで則天(則天武后:中国では武則天、中国史上唯一の女帝)に気に入られたのか手厚くもてなされた様子が記述されている。『隋書』の記述以降の「倭國」の急速な発展を伺い知ることができる内容である。

『隋書俀國伝』は遣使の名前を伝えないが、従来より「小野妹子」とされている。「近江国滋賀郡小野村(現在の大津市小野)の豪族で、天足彦国押人命を氏祖とする小野氏の出身」とWikipediaに記載されている。勿論上記の天押帶日子命が祖となった小野臣(現地名は田川郡赤村内田小柳辺り、「粟田」の北隣)に出自を有する人物であったと推定する。「春日」の地に関連する人材が遣使の役割を果たしていたことを伝えている。
 
白龜元年調布

開元初(西暦713年)の遣使は、儒学者にによる経典の教授を請願したと述べている。学ぶことへの飽くなき要求は既にこの時点で明らかであろう。その返礼に白龜元年調布の話題が登場する。何じゃこれは?と言われるところ、後の解釈も様々である。こんな元号は「九州王朝」にも無いとか、例によって誤写だとか、もったいない解釈が横行していようである。

白龜」を調べると、中国の故事に「白亀の恩」と言うのがあるとのことである。晋書(唐の太宗の命により編纂、西暦648年)に記載された物語に由来する。するとこれは元号ではなく、実に洒落た「調布」(租税:租庸調の布)を意味することになろう。

経典教授の返礼に名付けた布、恩に報いることを示している。しかも晋書に記載された内容を踏まえていることを表しているのである。あらてめて白龜元年調布の文字列を眺めると、報恩元年の貢ぎ物としての意味が伝わって来る。洒落た、では真に失礼な解釈であって、日本國の”知性”を顕在させている。

またそれを「人亦疑其偽」と受け流す旧唐書の撰者の”知性”を表す記述と思われる。「恩に報いることの始まりって、本当かい?」「大丈夫だろうね?」って気持ちを表している。近隣諸国とは、こんな遣り取りで付き合うことが肝要なのかもしれない。

所得錫賚、盡市文籍、泛海而還」昭和三十年代の高度成長期の日本であろう。学ぶことへの貪欲さが薄れては日本は成り立たない国である。そして白龜元年調布のような文言を携えて教えを乞う姿勢が肝心であろう。それにしても「元号」に有るとか無いとかを論議しているようでは国の行く末が案じられる。類似の考察をされているサイトがある。
 
朝臣仲滿

その時の副使に朝臣仲滿(阿倍仲麻呂)が居たと伝える。Wikipediaには「阿倍仲麻呂(あべ の なかまろ、文武天皇2年(698年) - 宝亀元年(770年1月)は、奈良時代の遣唐留学生。姓は朝臣。筑紫大宰帥・阿倍比羅夫の孫。中務大輔・阿倍船守の長男。弟に阿倍帯麻呂がいる。唐名を「朝衡/晁衡」(ちょうこう)とする。唐で国家の試験に合格し、唐朝において諸官を歴任して高官に登ったが、日本への帰国を果たせずに唐で客死した」と記載されている。

大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)紀の大毘古命の子、建沼河別命が祖となった阿倍臣に出自があると思われるが、当人は一族がその地を離れた後に誕生したのではなかろうか。遣使の中でも一際優秀な人材であったようである。上元中、擢衡、爲左散騎常侍、鎮南都護」と記され、上元中(西暦760~2年)には、皇帝の側近となり、現在のベトナムの北・中部を統治する長官に抜擢されたと伝えている。

在唐中の天寶十二年(西暦753年)にも遣使があり、藤原清河・大伴古麻呂・吉備真備他だったようである。凄まじいばかりの中国詣であったが、日本書紀などでは彼ら遣使の命懸けの様子が語られている(Wikipedia参照)。貞元二十年(西暦804)には「留學生橘逸勢、學問僧空海」が記載され、開成四年(西暦806年)の遣使で旧唐書の記述は終わりを告げている。

空白の五十年

貞觀二十二年(西暦648年)から長安三年(西暦703年)までの五十有余年間、遣使の記述が見られない。『旧唐書』の百濟國に関する記述に「倭衆」という表記が登場する。「倭國」として最後の遣使の後、僅か十年余りで百濟國は滅亡する(西暦660年)ことになる。新羅國の策略がまんまと成功して唐と組んで百濟國を殲滅してしまうのである。

この当たりの政略は実に見事であろう。後に朝鮮半島を新羅國が統一するのであるが、その伏線として、重要な出来事が連続して起こることになる。中国は隋代から高句麗には随分と梃子摺っていたが、南の百濟國を手中に収めることによってついに滅亡させる(西暦668年)。百濟國滅亡から十年経たない内に成遂げられたのである。極東における新羅國の存在が大きくクローズアップされた時代であろう。

そのような時代背景の中で「倭國」は「日本國」へと変貌したのである。『日本書紀』には『旧唐書』に記載された以外の幾つかの遣使を述べ、「白村江」での百濟・倭連合の大敗(西暦663年)、壬申の乱など、なかなか賑やかに伝えている。「白村江」の戦いは、『旧唐書』の「倭國」関連では「空白」である。上記したように、これに関連する記述が『旧唐書』の百濟國関連の項にある。

抜粋して引用すると…、

於是仁師、仁願及新羅王金法敏帥陸軍以進。仁軌乃別率杜爽、扶餘隆率水軍及糧船。自熊津江往白江、會陸軍同趣周留城。仁軌倭兵白江之口、四戰捷、焚其舟四百艘、煙焰漲天、海水皆赤、賊衆大潰。餘豐脫身而走、獲其寶劍。偽王子扶餘忠勝、忠志等、率士女及倭衆幷耽羅國使、一時並降。百濟諸城、皆復歸順、賊帥遲受信據任存城不降。

…簡明な記述であり、仁軌(劉仁軌)に投降したのは参戦していた倭兵(衆)である。白江は「白村江」とされている(現地名の比定は未達)。即ち唐はこの事件を「倭國」との関係とは見做していないと思われる。飽くまで百濟國関連であり、そこに応援部隊としての「倭人」が存在しても意に介せずの態度を示していると思われる。一方の『日本書紀』は何万もの大軍で支援した格好を取り、更に戦後処理で登場する郭務悰を迎え入れた様子が記載されている。

同一の事件を関係する国によって異なる取扱いがあっても何ら不思議ではないが、『日本書紀』の取扱いには些か不自然さが感じられる。当時にそれだけの兵力を動員する財力があったのか、また奈良大和を中心として軍船の手配及び朝鮮半島を経由せずに直接中国に向かうことが可能であったのか、など幾つも列挙できるが、憶測の域に入るのでこれで止めることにする。

一方中国史書の方は、撰者が参考にしたと思われる『旧唐書』以外の史書、例えば『唐会要』(この書の元になったものを含め)などには「倭國」に関連する記述が散見されるようである。

永徽五年(西暦654年)に「倭國」が琥珀、碼碯を献上して、その立派なのに高宗が喜び、危急のことがあれば、助けよと述べた。

顕慶四年(西暦659年)に「蝦夷國」を「倭國」の遣使が伴って来た。

・・・<百濟國滅亡(西暦660年)・白江戦(西暦663年)・高句麗國滅亡(西暦668年)>・・・

咸亨元年(西暦670年)に「倭國」が高句麗征伐を祝して遣使を送った。

『日本書紀』に記載された時期、内容も概ね合致しているようであるが、正史『旧唐書』の「倭國伝」からは抹消されている。上記の「劉仁軌伝」登場の「倭兵(衆)」ではなく「倭國」からの遣使と認識しながら未記載なのである。

中国側から見れば隋代では「俀國」と名乗り、元々は「倭(奴)國」だと主張し、派遣した使者はその地にまるで中国と変わらないような人々が住まい(秦王国)、遣使はそれぞれなかなかの人物で皇帝にかわいがられるような有様、要するに”曲者”の雰囲気を醸し出していると見ていたのであろう。

そして唐は新羅國と手を結んで百濟・高句麗國を殲滅させる戦略をとる中で百濟國への支援に走った「倭國」に大いなる不信が募っていた時代であったと思われる。「倭國」の様子を伺う時期であり、さりとて「新羅國」の抑えには「倭國」が必要であり、距離を置いた関係を保つ戦略を採用したと推測される。それは更に「倭國」への無言の圧力として作用したのである。

中国史書には登場しない「郭務悰」が派遣されて来るが(西暦664~9年)、戦後の占領統治策を講じるわけでもなく、朝鮮半島南部及び倭國の実情査察を主たる目的にしたのではなかろうか。勿論「倭國」はおっかなびっくりの状況ではあったと思われるが・・・。詰まるところ、本当の意味での「空白」の時期は、西暦672~703年の三十二年間と見積もられる。天智天皇から文武天皇の期間に当たるようである。

いずれにしても660年の百濟國滅亡は、「俀國」に住まう「天神族」にとっては大変な出来事であった筈で、唐の侵入もさることながら新羅國の勢いを防ぎ切れない様相を感じ取っていたのであろう。彼らは更に「東へ」と逃亡する、その重要な動機付けになったと推測される。勿論「倭衆」が大移動するためのプロパガンダの役割を持たせていたのである。