2018年8月15日水曜日

大雀命:太后石之日賣命の御子 〔246〕

大雀命:太后石之日賣命の御子


古事記の大雀命(仁徳天皇)紀は、出色に内容が豊かである。伊邪那岐・伊邪那美の国生みの島の重要なヒントであり、近淡海国の詳細及び土地・港湾整備、葛城・山代との位置関係、養蚕・紡織・染色など、国が発展・繁栄する様を見事な筆さばきで伝えていると思われる。

「多麻岐波流」「蘇良美都」の表現が示すのは、見渡す限り、手が届く世界の充実ぶりを意味していると思われる。倭国を奈良大和に求めては、古事記が伝えるこの感覚を全く理解できないところであろう。

いや、記述されていないだけで現在の日本の大方を統治できていたのだ…という神話的解釈となる。書物が神話なのではなく、読者の頭の中に多くの神様が巣食っている、と紐解いた方が的を得ているようである。

さて、登場人物の大半について述べて来たが、近淡海国の詳細も含めて再度纏め直してみようかと思う。娶りと御子の記述から該当する部分を抜き出して、以前よりはもう少し深掘りするつもりである

古事記原文…、

此天皇、娶葛城之曾都毘古之女・石之日賣命大后、生御子、大江之伊邪本和氣命、次墨江之中津王、次蝮之水齒別命、次男淺津間若子宿禰命。四柱。又娶上云日向之諸縣君牛諸之女・髮長比賣、生御子、波多毘能大郎子自波下四字以音、下效此・亦名大日下王、次波多毘能若郎女・亦名長日比賣命・亦名若日下部命。二柱。
又娶庶妹八田若郎女、又娶庶妹宇遲能若郎女、此之二柱、無御子也。凡此大雀天皇之御子等、幷六王。男王五柱、女王一柱。故、伊邪本和氣命者、治天下也、次蝮之水齒別命亦、治天下、次男淺津間若子宿禰命亦、治天下也。

今回は、太后「石之日賣命」の御子達、後の説話の主人公でもある。

葛城之曾都毘古之女・石之日賣命大后

古事記に登場する比賣達は真に才色兼備である。石之日賣命大后の挙動は真に伝わってくるものがある。出自である葛城の自負、その自尊心と国の発展に尽くそうとする心構え、それに揺れ動く気持ちを表す「遁走」と、古事記が示す物語性を十分に楽しめる。現在の「比賣」達もそうなんでしょう・・・。

「石之日賣命」の父親、葛城之曾都毘古、「Mr.Katsuragi」と名付けたが、なかなかの曲者?であったろう。古事記の記述は少ない。前記した建内宿禰一族で語られる、ほぼ葛城の中心地(玉手)を統治した父親であった。これだけでも石之日賣命の出自を知る上には十分かと思われるが・・・。

<当時の海岸線(推定:白破線)>
大江之伊邪本和氣命(後の履中天皇)、次墨江之中津王、次蝮之水齒別命(後の反正天皇)、次男淺津間若子宿禰命(後の允恭天皇)に振り分けられた名前は、間違いなく近淡海国の難波津に関連すると思われる。

とは言うものの現在の福岡県行橋市辺りは縄文海進及び沖積の度合いによって当時は海中にあったと思われる。

図は現在の標高7-10mを目安として当時の海岸線を推定したものである(白破線)。黄色の文字の玖賀、宇沙及び長江は既に登場した地名で図の場所を比定した。

文字が示す地形と推定した海面の状況が極めて辻褄の合う結果と思われる。

それらの個別の考察を基づいて入江(内陸部を近淡海国と言う)全体の海岸線に拡張したものである。代表的な四つの河川に限らず多くの川が入江に注ぎ、津を形成していたものと推察される。

それがまた沖積の進行を早め、時と共に変動する地形であったと思われるが、古事記記述との関係を求める上においては使用可能なように考えられる。逆にこの仮定を抜きにして当時の状況を推測することは不可能に近いと思われる。

大雀命が難波之高津宮に進出したのは、取りも直さず広大な入江の開拓であった。それまでに誰も手を出さなかった大河が集中する巨大な入江の整地を成し遂げる必要があったのである。必然的に御子達に入江に張り付かせる、即ち土地を別けたのであろう。

その動機は何処から来たのかを思うと、前記<応神天皇【后・子】>で紐解いた彼の出自に深く関連することが解る。洞海湾に大河(江川、金山川)が注ぐところを目の当たりにする台地で誕生したのである(現在の北九州市若松区東二島辺り)。

耕地を拡張する場所で残された広大な地は、入江にあったのである。その着眼は現在に繋がる。当時にすれば想像を越える課題の山積みであったろう。だがそれは大雀命にしか見ることのできない夢だったのである。

さて、上図を念頭に置いて、御子達の居場所を突き止めてみよう。

大江之伊邪本和氣命

長男の「大江」は現在の福岡県行橋市宝山・流末辺りに広がる最も目立つ入江であろう。宇沙に届くところである。「伊邪本」は何と紐解くか…、


<大江之伊邪本和氣命>
伊(小ぶり)|邪(曲がりくねる)|本(麓)

…「小ぶりだが曲がりくねっているところの麓」であるが、何が曲がっていると言っているのか?…「大江」の近傍に目をやると、馬ヶ岳を通る尾根に気付かされる。

更にそれからの山稜がくねって麓に届く場所がある。現地名、行橋市大谷辺りである。尾根から麓まで曲がりくねって届くところと解釈される。

この曲がりくねった山稜に従って「伊邪」の谷川がある。開化天皇の「伊邪宮」と同様とするならば、山稜も川も全体纏めて、谷の様相を象形したと解釈するのが適切かと思われる。


墨江之中津王

次男の「墨江」は何処であろうか?…入江の中の津の配置からして最も北側の小波瀬川、白川が注ぐ入江と思われる。川の名称は不明だが多くの谷とその間から流れ出る川が見受けられる。


墨江=隅の江

この地は建内宿禰の御子、蘇賀石河宿禰が開いたところと推定した場所に重なる。そして後には宗賀一族が遍く広がるところでもある。開拓余地のある極めて重要な地であったのだろう。残念ながらこの王の子孫が関わるわけには行かなかったようであるが。


<墨江之中津王>
「中津」と記されるからにはその津の中央辺りに坐していたと推測される。

津のセンターを流れる白川の傍らの場所と思われる。現地名は京都郡苅田町稲光である。

神倭伊波禮毘古命が八咫烏に導かれて山から出てきたところであり、勿論「吉野河之河尻」に当たる。

仁徳天皇亡き後、高津宮を焼払ってしまうという暴挙に出るのだが、それは何によるのであろうか?・・・。

権力指向の気持ちにさせたのは、上記したようにこの地が豊かな恵みをもたらす気配を示していたことに依るのかもしれない。北野武監督のアウトレージな世界を古事記が描くまで、もう少しである。

蝮之水齒別命

三男は「蝮」とは恐ろし気な命名なのであるが、これは安萬侶くんの戯れの一種かと…後に「蝮」=「多治比」と表記して居場所を教えてくれる。「多遲比」は…、


多(田)|治(治水する)|比(並べる)

…と紐解ける。水田が奇麗に治水されて並んでいる様を表している。現在の地名同県京都郡みやこ町勝山大久保辺りである。神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の御子で、茨田(棚田)作りに専念した日子八井命が開拓した地の近隣である。棚田のスケールとして現在でも見事な景観をしていることが伺える。


<男淺津間若子宿禰命>
唯一入江から遠ざかった場所である。それは何のため?・・・。

という訳ではないのであろうが、この命の坐した場所は父親、仁徳天皇の難波之高津宮の場所と密接に関係することが解る。下図を参照願う。


男淺津間若子宿禰命

四男の「男淺津間」は何と解釈できるか?…、


男(田を作り耕す)|淺(短い)|津(合流地)|間(挟まれたところ)

…「複数ある短い川が入江に注ぐところに挟まれた地で田を作り耕す」命と読み解ける。思いの外特徴ある地形と判る。

台地が海に接近しているところであろう。この地も大規模団地が造られており、辛うじて判別できる谷川である。長峡川が近接して流れるところである。現在の地名は行橋市前田辺りと思われる。近淡海関連の場所も併せて下図に示した。


<石之日賣命の御子>(拡大)
難波津の入江の統治をさせるべく子供達を配置したものと推察される。言い換えれば開拓した新しい土地を御子達に分け与えたと思われる。

「豊国宇沙」に特定した現地名「天生田」の北側にあり、治水して初めて耕地とすることができた場所であろう。

いずれにしても縄文海進の退行と沖積の進行によって地形が大きく変化したところであったと推測される。

伊邪本和氣命に対して「壬生部」を創設したという記述が続く。「壬」=「水の兄」(十干の一つ)で「水辺」を意味する。河口付近の水利、漁獲の管理を任されたのかもしれない。

仁徳天皇の時代に難波津がどのように仕切られていたのかを垣間見ることができた。近淡海国の発展はこの天皇に始まったと言える。

「近淡海国=近江」とすることは全くその地理的状況を無視した行為となる。変えるならば「大阪」であった。そうすればもう少し尤もらしい物語が創れたのでは・・・。古事記と日本書紀が同時編纂(進捗度は異なるとしても)である以上、寧ろ苦心惨憺した、させられたのは古事記編纂者達であったろう。「那爾波」などを紐解くと、そう思えてならない、感じである。