2018年8月17日金曜日

大雀命:茨田堤と堀江 〔247〕

大雀命:茨田堤と堀江


前記に引き続き御子達を要所々々に配置した近淡海の国作りで、更に大雀命が施した事業について述べてみよう。既述したように「茨田」⇔「松田」⇔「棚田」であって谷間に作られた田のことを意味すると解釈した。「茨(きちんと並んだ)」⇔「松(松葉の形をした)」⇔「棚(棚状になった)」田と読み解いた。

水田稲作によって生きる糧を得て来た最も重要な古代の原風景である。勿論現存するが、低平地の大規模水田が主流となった今では希少となり、観光資源化するところでもある。だが、小規模稲作においては極めて優位な耕作手法でもある。既述したように水田稲作は谷間から次第に下流域へと発展した来たのである。

Wikipediaなどに記載されている内容とは大きく異なるのであるが、「茨田」の由来をその地の名前とした解釈は、播磨国風土記に記載される「河内国茨田郡」に基づくようである。嘘で固めた日本書紀を正史とする、それが罷り通っているのが現状である。

昨今の国会答弁における政治家、官僚の論理から程遠いものを聞く度に日本人の根底に流れる「臭気」どうにかできるものなのか・・・いや、歴史を明日に取り戻す努力は怠ってはならないものであろう。

一方の「堀江」は文字の解釈そのものに大きな隔たりはないようであるが、やはりこれもよく考えれば通説は怪しいのである。最後に「茨田堤」と併せて述べてみよう。

古事記原文…、

此天皇之御世、爲大后石之日賣命之御名代、定葛城部、亦爲太子伊邪本和氣命之御名代、定壬生部、亦爲水齒別命之御名代、定蝮部、亦爲大日下王之御名代、定大日下部、爲若日下部王之御名代、定若日下部。又伇秦人、作茨田堤及茨田三宅、又作丸邇池・依網池、又掘難波之堀江而通海、又掘小椅江、又定墨江之津。

仁徳天皇の事績は何と言っても近淡海国、即ち「志賀=之江」の氾濫する川の整備及びそれに伴う難波津の港湾整備であろう。通説は「近淡海=近江」とする。ならば仁徳天皇が手を加えたのは滋賀となる。難波(大阪)と滋賀とがあやふやなままに解釈されて来ているのである。非論理的なことが罷り通る日本社会の例であろう。

既に述べたように大雀命は、大河が流れ込む巨大な入江を耕地にする夢を実現しようとした、真に稀有な天皇であったと思われる。従来では盛んになる朝鮮半島との交流を目的に奈良大和から河内に都を移したとある。こんなことがまことしやかに記述されていることに恐怖を感じる。寧ろ逆であろう。都は出先機関か?…である。

結果から言えば、現在の豊前平野を広大な耕地とするには時期尚早の感は否めないが、その挑戦的な試みに敬意を評したい。彼らにしてみれば、まさかこの入江が干上がって陸地になるとは想像もできないことだったであろう。

茨田堤

上流部の谷間を利用した「茨田=松田」の技術を氾濫する川に適用したものであろう。記述は簡単であり、想像の域を脱せないが、御子の一人「男浅津間若子宿禰命」が坐した場所が注目される。長峡川が入江に注ぐ傍らの台地から複数の小さな谷間の支流が合流するところである。この命の名前が紐解けたことから「茨田堤」のイメージが浮かび上がって来た。


<茨田・棚田>
台地の傾斜地に茨田(棚田)を作り固めることで土堤の役割も併せ持つようにした画期的な工法だったと推測される。

傾斜を持つ棚田ならば、例え氾濫しても全体に及ぶ確率を下げ、また早期に水を引かせることも可能であろう。

水田に水が貯まっているなら、水を水で防ぐということにもなる。勿論これが適用できる場所には限りがあるであろうし、万全でもない。

手も足も出なかった下流域、特に大河の河口付近に耕地を作り、その荒れ狂う水害の影響を少しでも抑える方法の一つとして極めて重要なものであろう。

昨今の西日本大水害、以前の東北・関東の津波による想像を絶する災害等々、高い土堤があり、現代の技術で造られた防波堤がある、それだけではとても防ぎ切れない「想定外」の自然現象となってしまう。

自然に「想定外」はない。あるのは人の浅はかな知恵と直ぐに忘却する性癖であろう。自然を畏敬し、そこから教えられることを真摯に受け止めることを思い出すべき時ではなかろうか。古事記は自然との付き合い方、今では「技術」と纏めて言えるであろうが、それを大切に取り上げている。現状に満足することなく努力を重ねたいものである・・・ちゃっかり、「茨田三宅」とされている。


堀江

更に「堀江」を作っている。川の流れに障害となるもの、と言うか、舟の航行に支障があったからであろう。入江の海岸線を見積もるために求めた図に何故か現在の標高で7-10m、当時の海岸線になるかならぬかの値を示すところがあった。概ね7-8mで当時は海面下として良いかと思われた場所である。


<堀江・小椅江>
それが犀川の上流方向に進むと明らかに水面下の値を示すのである。この帯状になったところは干満の差でも影響があると見られ、川の蛇行の原因にもなるし、舟の航行に支障をきたしていたのではなかろうか。

上記の石之日賣命の記述に「堀江」が記されているのはこれを告げるためであったと気付かされた。

「小椅江」は難しいところであるが、気に掛かるのが図の二つ並んだ岬のような場所である。実はこの地は忍熊王と難波吉師部之祖・伊佐比宿禰の最後の場所で、この宿禰のいた場所と比定した。

地形からのみになるが遠浅の好漁場だったのではなかろうか。舟を安定して繋いで置ける場所としても有用だったかもしれない。

こう見て来ると難波津の南側と北の墨江津を整備したと述べているようである。墨江之中津王の働きは大きく貢献したのであろう。やはり、それが兄弟で争う要因だった、と推測される。

渡来人(秦人)達の果たした役割も大きかったのであろう。重機のない時代には知恵と人手と根気が必要だが、その詳細は闇の中である。


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大雀命が試みた「茨田堤」は長峡川西岸の台地に流れる多くの、また小さな谷川を活用して「茨田」を作り、かつ長峡川の流れを制御するためのものであったと推測される。川の氾濫にも耐えうるだけの強固なものにする必要もあったであろう。当時しては大変な作業を伴ったと思われる。


<長峡川周辺>
それによって入江の河口付近での耕地の確保へと進めることができたのであろう。

がしかし、「茨田堤」方式が適用できる場所に限りがあったことも事実であろう。大河の河口付近、それを治水できるのは、ずっと後代にならねばならなかったのである。

「堀江」=「入江を掘る(掘って入江にする)」であろう。通説は川を作ったと解釈する。

目的は舟の通行など、同じであることから、何となく肯いてしまいそうであるが、決して水路を作ったとは記述されているのではない。

既に述べた通り、大雀命は難波津の港湾整備を行った。その具体的な作業は入江の中の舟の航行に支障となるところだったのである。高志との往来など交易への寄与は大いなる成果があったと推測される。忘れるところであった、吉備からの鉄の搬入も、である。多数の人々、重量物、それらを積んだ舟の安全走行が確保された、と告げているようである。

谷間に広がる「茨田(棚田)」、それは日本の原風景である。それを述べない筈はない!…と断じる。筒木の石垣、それで作られる池(沼)と同様に、国土の60%以上が山岳地帯である日本の原点と古事記が記しているのである。そして現在の大河の河口に広大な平野を持ち、そこに人口集約する現在の元々の姿なのである。