2017年12月1日金曜日

伊余湯と波都世能夜麻 〔131〕

伊余湯と波都世能夜麻


古事記中、垂仁天皇紀の「沙本毘賣」の物語に勝るとも劣らぬ悲恋の説話である。主人公の会話の多さからするとこの説話の方がより身に詰まされる内容ではなかろうか。惜しむらくは通説の解釈ではその臨場感が出て来ない、理由は明瞭で「伊余湯」が伊予松山の道後温泉と比定されて来たからである。

既に紐解いたところと併せてその臨場感を示してみたいと思うが、暇が取り柄の老いぼれの筆力では叶わぬ行為かのしれない・・・。少々長くなるが、説話全文と通訳を載せた。

古事記原文[武田祐吉訳]

天皇崩之後、定木梨之輕太子所知日繼、未卽位之間、姧其伊呂妹・輕大郎女而歌曰、
阿志比紀能 夜麻陀袁豆久理 夜麻陀加美 斯多備袁和志勢 志多杼比爾 和賀登布伊毛袁 斯多那岐爾 和賀那久都麻袁 許存許曾婆 夜須久波陀布禮
此者志良宜歌也。又歌曰、
佐佐波爾 宇都夜阿良禮能 多志陀志爾 韋泥弖牟能知波 比登波加由登母 宇流波斯登 佐泥斯佐泥弖婆 加理許母能 美陀禮婆美陀禮 佐泥斯佐泥弖婆
此者夷振之上歌也。
是以、百官及天下人等、背輕太子而、歸穴穗御子。爾輕太子畏而、逃入大前小前宿禰大臣之家而、備作兵器。爾時所作矢者、銅其箭之。故號其矢謂輕箭也。穴穗御子亦作兵器。此王子所作之矢者、卽今時之矢者也。是謂穴穗箭也。於是、穴穗御子、興軍圍大前小前宿禰之家。爾到其門時、零大氷雨、故歌曰、
意富麻幣 袁麻幣須久泥賀 加那斗加宜 加久余理許泥 阿米多知夜米牟
爾其大前小前宿禰、擧手打膝、儛訶那傳自訶下三字以音、歌參來。其歌曰、
美夜比登能 阿由比能古須受 淤知爾岐登 美夜比登登余牟 佐斗毘登母由米
此歌者、宮人振也。如此歌參歸白之「我天皇之御子、於伊呂兄王、無及兵。若及兵者、必人咲。僕捕以貢進。」爾解兵退坐。故大前小前宿禰、捕其輕太子、率參出以貢進。其太子被捕歌曰、
阿麻陀牟 加流乃袁登賣 伊多那加婆 比登斯理奴倍志 波佐能夜麻能 波斗能 斯多那岐爾那久
又歌曰、
阿麻陀牟 加流袁登賣 志多多爾母 余理泥弖登富禮 加流袁登賣杼母
故其輕太子者、流於伊余湯也。亦將流之時、歌曰、
阿麻登夫 登理母都加比曾 多豆賀泥能 岐許延牟登岐波 和賀那斗波佐泥
此三歌者、天田振也。又歌曰、
意富岐美袁 斯麻爾波夫良婆 布那阿麻理 伊賀幣理許牟叙 和賀多多彌由米 許登袁許曾 多多美登伊波米 和賀都麻波由米
此歌者、夷振之片下也。其衣通王獻歌、其歌曰、
那都久佐能 阿比泥能波麻能 加岐加比爾 阿斯布麻須那 阿加斯弖杼富禮
故後亦不堪戀慕而、追往時、歌曰、
岐美賀由岐 氣那賀久那理奴 夜麻多豆能 牟加閇袁由加牟 麻都爾波麻多士此云山多豆者、是今造木者也。
故追到之時、待懷而歌曰、
許母理久能 波都世能夜麻能 意富袁爾波 波多波理陀弖 佐袁袁爾波 波多波理陀弖 意富袁爾斯 那加佐陀賣流 淤母比豆麻阿波禮 都久由美能 許夜流許夜理母 阿豆佐由美 多弖理多弖理母 能知母登理美流 意母比豆麻阿波禮
又歌曰、
許母理久能 波都勢能賀波能 加美都勢爾 伊久比袁宇知 斯毛都勢爾 麻久比袁宇知 伊久比爾波 加賀美袁加氣 麻久比爾波 麻多麻袁加氣 麻多麻那須 阿賀母布伊毛 加賀美那須 阿賀母布都麻 阿理登伊波婆許曾爾 伊幣爾母由加米 久爾袁母斯怒波米
如此歌、卽共自死。故、此二歌者、讀歌也。
[天皇がお隱れになつてから後に、キナシノカルの太子が帝位におつきになるに定まつておりましたが、まだ位におつきにならないうちに妹のカルの大郎女に戲れてお歌いになつた歌、
山田を作つて、山が高いので地の下に樋を通わせ、そのように心の中でわたしの問い寄る妻、心の中でわたしの泣いている妻を、昨夜こそは我が手に入れたのだ。 
これは志良宜歌です。また、 
の葉に霰が音を立てる。そのようにしつかりと共に寢た上は、よしや君は別れても。 
いとしの妻と寢たならば、刈り取つた薦草のように亂れるなら亂れてもよい。 
寢てからはどうともなれ。 
これは夷振の上歌です。 
そこで官吏を始めとして天下の人たち、カルの太子に背いてアナホの御子に心を寄せました。依つてカルの太子が畏れて大前小前の宿禰の大臣の家へ逃げ入つて、兵器を作り備えました。その時に作つた矢はその矢の筒を銅にしました。その矢をカル箭といいます。アナホの御子も兵器をお作りになりました。その王のお作りになつた矢は今の矢です。これをアナホ箭といいます。ここにアナホの御子が軍を起して大前小前の宿禰の家を圍みました。そしてその門に到りました時に大雨が降りました。そこで歌われました歌、 
大前小前宿禰の家の門のかげにお立ち寄りなさい。雨をやませて行きましよう。 
ここにその大前小前の宿禰が、手を擧げ膝を打つて舞い奏で、歌つて參ります。その歌は、 
宮人の足に附けた小鈴が落ちてしまつたと騷いでおります。 
里人もそんなに騷がないでください。 
この歌は宮人曲です。かように歌いながらやつて來て申しますには、「わたしの御子樣、そのよう
にお攻めなされますな。もしお攻めになると人が笑うでしよう。わたくしが捕えて獻りましよう」と申しました。そこで軍を罷めて去りました。かくて大前小前の宿禰がカルの太子を捕えて出て參りました。その太子が捕われて歌われた歌は、 
ぶ雁、そのカルのお孃さん。あんまり泣くと人が氣づくでしよう。 
それでハサの山の鳩のように忍び泣きに泣いています。 
また歌われた歌は、 
空飛ぶ雁、そのカルのお孃さん、しつかりと寄つて寢ていらつしやいカルのお孃さん。 
かくてそのカルの太子を伊豫の國の温泉に流しました。その流されようとする時に歌われた歌は、 
空を飛ぶ鳥も使です。鶴の聲が聞えるおりは、わたしの事をお尋ねなさい。 
この三首の歌は天田振です。また歌われた歌は、 
わたしを島に放逐したら船の片隅に乘つて歸つて來よう。 
わたしの座席はしつかりと護つていてくれ。 
言葉でこそ座席とはいうのだが、わたしの妻を護つていてくれというのだ。 
この歌は夷振の片下です。その時に衣通しの王が歌を獻りました。その歌は、 
夏の草は萎えます。そのあいねの濱の蠣の貝殼に足をお蹈みなさいますな。 
夜が明けてからいらつしやい。
後に戀しさに堪えかねて追つておいでになつてお歌いになりました歌、 
おいで遊ばしてから日數が多くなりました。ニワトコの木のように、お迎えに參りましよう。 
お待ちしてはおりますまい。 
かくて追つておいでになりました時に、太子がお待ちになつて歌われた歌、 
隱れ國の泊瀬の山の大きい高みには旗をおし立て小さい高みには旗をおし立て、 
おおよそにあなたの思い定めている心盡しの妻こそは、ああ。 
あの槻弓のように伏すにしても梓の弓のように立つにしても 
後も出會う心盡しの妻は、ああ。
またお歌い遊ばされた歌は、 
隱れ國の泊瀬の川の上流の瀬には清らかな柱を立て 
下流の瀬にはりつぱな柱を立て、清らかな柱には鏡を懸け 
りつぱな柱には玉を懸け、玉のようにわたしの思つている女、 
鏡のようにわたしの思つている妻、その人がいると言うのなら 
家にも行きましよう、故郷をも慕いましよう。 
かように歌つて、ともにお隱れになりました。それでこの二つの歌は讀歌でございます]

同母の兄妹はやはり禁断の関係なのであろう。そうであっても穏便な解決策もあっただろうが、戦闘準備をしては謀反人になってしまった。輕太子は、太子の名の通り次期皇位継承が決まっていた。履中天皇から続く兄弟相続に続いて末子相続を守ってきた天皇家に変化が見られる。有能な長男から軟弱な長男へのイメージとなるが、偶々であろうか…。

この事件には布石があって輕太子が「狂った」のも輕大郎女が「衣通郎女」と言われるほどの美人であったと言う…顔を褒めるのではなく…差し詰めグラビア美人というところなのであろうか…いや、「衣」を着けてないから違うか・・・。古事記に美人は度々登場するが、ちょいと、変わった感じの表現を使っている。

さて、シナリオは「百官及天下人等」が即位を許さなかったわけで、事の真相は穴穂命が先導したのかもしれないが、輕太子は、例によって、重臣の家に逃げ込み戦闘態勢に入ると記載される。これもパターン化された通り、身内の戦いは見苦しいから止めましょう、と言って重臣が輕太子を差し出すことになる。

これで一巻の終わりかと思えばそうではなく、良く喋る、というか詠うのである。裁定された罰は「流於伊余湯」伊余湯に島流しになる。通説の解釈があまりに有名で、かつこれ以外にはあり得ない場所として現在の四国松山の「伊予」が比定される。既に述べて来たように「伊余」=「伊豫」とするなら現在の北九州市若松区である。四国は国生みの対象ではない。

倭国が香春岳の麓に広がる地とするなら、難波津から海路一つで周防灘、伊予灘を渡れば松山に届く…なんて「荒唐無稽」な記述をしないのが古事記である。国生み神話で記載された範囲の中にある筈である。下記に「伊余湯」の場所を確信を持って決定付ける紐解きを述べるが、暫し前説を…。
 
伊余湯

「湯」は温泉であろうか?…まがりなりにも島流しの重罪人を温泉に送り込む、古代であってもあり得ないことであろう。「湯」は罪人が送り込まれて不思議のない過酷な場所を意味すると解釈される。では「湯」の意味は?…、
 
湯=水が踊り跳ねる様

…が原義である。熱をかけて沸騰する様もよし、急流で岩に跳ねられる様でもよし、である。後者を選択すれば急峻な谷間を流れる川の水の有様を表現したものと思われる。字源を調べれば「湯」=「氵+日/丅」であり、水が自由に躍り上がる様を表した文字であることに基づく。

一般の辞書には圧倒的に「熱湯」関連の解釈が載せられているが、末尾に「急な水の流れ」などという訳もある。原義に基づいて用いられたケースも見受けられるのであろう。ひらがな、カタカナという識字率向上・情報共有の簡便さと漢字そのものが有する意味の深さ・多様性の表現との相克である。それは只今現在の問題でもあり、将来の危機でもある。

現在も日本中に多くの「湯川」と名付けられた川が見つかる。九州北部に限っても足立山の南麓に「湯川」があり地名にもなっている。また、邇邇芸命の天孫降臨地とした孔大寺山の隣、「氣多之前」に繋がる湯川山、その北麓を「湯川」が流れる。共に極めて急峻な地形の谷間である。

北九州市のホームページに「湯川」の由来は幻の温泉(和気清麻呂伝説)だとか、これに拘泥したのでは、「足立山=竹和山=美和山」という古代に燦然と輝く山の姿を見逃すことになる。古事記が描く古代人達の活き活きとした姿を再現し、明日にその歴史を取り戻すこと、大切なように思うのだが・・・。

さて、横道に逸れそうなので戻して、ではその場所は何処にあったのか?…古代の「伊豫之二名嶋」である現在の北九州市若松区の石峰山と岩尾山に挟まれた谷間を流れる川、その近傍を「伊余湯」と比定した。また、簡便ではあるが流れ勾配を求めると1/12一般に言われる急流の1/151/50を遥かに超えていることも示した。

状況証拠的にはこの場所しかあり得ない感じであるが「ここだ!」というものではない。が、やはり歌の中に潜められていた。説話は多くの歌を載せながら進行する・・・。


波都世能夜麻

輕太子と輕大郎女、引き裂かれたものの離れがたく「不堪戀慕而、追往時」恋慕の情に堪えられない、簡明に二人の気持ちを表現している。そして太子が詠う…「許母理久能 波都世能夜麻能 意富袁爾波 波多波理陀弖 佐袁袁爾波 波多波理陀弖・・・」
 
許母理久(コモリク)=許母理(籠もる、隠る)|久(区:仕切られた場所)

と思われるが、隠国と訳され、次の「波都世(ハツセ)」に掛かる枕詞と解釈されて来た。通説は「波都世=泊瀬」と訳されている。山奥に隠れ家があるような感じになるが、文字通りに解釈すれば…、
 
世間との関わりを絶たれて閉じ込められた場所

…となる。枕詞の解釈に真面なものがあるのか?…と言いたくなるような始末である。勿論真っ当なものも思い浮かぶが、古事記絡みは全滅ではなかろうか・・・。現在の地名である初瀬に転訛され、読みは「ハセ」となる。奈良大和にある初瀬川沿いにある長谷寺(ハセデラ)の名称と深く関係することになる。古事記から見れば現在の通説こそ「神話」であろう。

波都世能夜麻」意富袁」と「佐袁袁」に二つの山があったと言う。「大きい山」「小さい山」と訳される。この老いぼれも、前者は判るが、後者は?…と思いつつ紐解きを先延ばしにして来た経緯を思い出す。例によって、そういうところに安萬侶くんのヒントが・・・。

佐袁袁」の紐解きである。袁」は「以音」と推測すると、こんな解釈に至る…、
 
意富袁=意富(大きい)|袁(尾根)
佐袁袁=佐袁(サオ:竿)|袁(尾根)

…「大きい尾根」は理解できるが、「サオ」を「竿」と置換えてみたが、何と解釈するのか?…武田氏は通例に従い「大きい」に対して「小さい」としているが、「サオ」にそんな意味はない。まだまだ不十分である。「竿」を解体すると「竹+干」である。その「干」は…、
 
干=先が二俣になっている武器

の象形である。漸くにして解けた…、
 
先が二俣になっている尾根
 
…これが「佐袁袁」である。

<意富袁・佐袁袁>

「大きい山」「小さい山」と言わずに「サオ」と表現したこと、伊余湯の場所を伝えようとする安萬侶くんの努力が、今、報われたのである。「サオ」の紐解きによってその場所、確信に至った。

では、いよいよ核心に迫る。「波都世」=「泊瀬、初瀬」で良いのだろうか?…「波都」の意味するところは何であろうか?…「ハツ」と読まれる文字が多くある中でこの説話に合致するものは無いのであろうか?…、

 
波都世=波都(撥)|世(瀬)
 
…「水が飛び散る急流」と解釈される。「湯」である。全てが合理的に繋がった言葉なのである。

血を分けた妹でありながらその身体から迸る女性としての魅力に惑い、就くべき筈の皇位から滑り落ちて辿り着いた「許母理久」の住処、そこに孤独に佇む彼と彼を慕う彼女の心の葛藤を流刑の地「伊余湯」「波都世」が表していると受け取れる。千々に乱れ流れる気持ちと飛び散って消える飛沫…兄妹の姿であろう。決して「いい湯だな!」と詠っているのではない。

現在通説として解釈されているものは支離滅裂と断言できる。流刑の地の「伊余湯」「波都世」「佐袁袁」の解釈、それらが何の脈絡もなく、四国松山、奈良大和にある地名に当てられる。挙句の果てに「長谷」と繋げてしまう。

奈良大和に都ができた後の出来事に基づくなら、そう明言するべきであろう。古事記にこの説話に関連して「長谷」の文字は出現しない。後に登場する雄略天皇の坐した場所にしたいがための日本書紀の記述に惑わされた結果である。

「長谷=初瀬=ハ(ツ)セ」は歴史的背景に裏付けられた意味のある言葉ではなく、その地方の訛りと思われる。大切に使われることを切に願うものである・・・古事記とは無縁の世界である。

説話は、二人の「自死」で閉じられる。事績の中に「軽部」が記される。皇位を継ぐはずであった人、それを支えた人々に対する恩恵を示したのであろうか。気持ち的にはやや救われた気分で読み終えることができそうである。


…全体を通しては「古事記新釈」安康天皇の項を参照願う。

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<伊余>
 
「伊豫之二名嶋」で伊邪那岐・伊邪那美の国生みで登場したのであるが、「伊豫(余)」とは如何なる意味を表しているのであろうか?…また「豫」と「余」の二つの文字を使うのは意味があることなのか?…あらためて考え直してみた。

そもそも「二名嶋」とは如何なる意味を示しているのか…これはこの島が東西で全く異なる地形をしていることに依ると思われた。言わば西が丘陵、東が山岳地帯と言える。実はこのことが上記の名前に深く関連することと気付いたのである。
 
余=農具で土を押し退けること
 
…であり、
 
豫=向こうに糸を押しやる
 
…ことを意味する文字であると解説される。前者は押し退けたものが余りの意味に通じ、後者は横糸を通して布を作ることに通じる。即ち「二名嶋」は…、
 
西側の山稜を押し退けて東側に集めた
 
…として見た象形と結論付けることができる。

見方は違うが同じ意味を示していることになる。だから両方の文字使いをしたものと思われる。ただ、東側(讃岐・粟、後の若木・高木)の方に「伊余」を使う方が文字の印象としてより適しているように感じられが、ほぼその表記になっているようである。西側の伊豫国・土左国(後の五百木・沼名木)に「伊豫」が使われるように押しやられた方は「豫」であろう。

「伊」=「人+尹」で「尹」=「治める、正す、整える」の意味を持つことから(「伊伎嶋」と同様)、「伊豫()国」は…、
 
人がしたように一方に寄せて整えられた
 
…国という解釈になる。喉に刺さった小骨が削げ落ちた感じ、のようでもある。ということで、伊余国造の位置を少々東にずらして図示することにした。(2018.08.28)

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