大国主神:負帒の大英雄物語
<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
古事記が最も輝く説話に入る。お伽噺としてそのままで良いのでは、と思うところもあるが、それが如何せん主要な地名が続出する説話でもある。勿論、出雲の昔話として、挿入されたものと見做され切り離された解釈、あるいは「出雲王朝」なる言葉も出て来る、その真偽はともかく古事記が記述するところではない。
須佐之男命の後裔、天之冬衣神と刺國若比賣との間に生まれた大国主神は、八十神兄弟の中ですくすくと…というかしっかり兄弟に鍛えられて育っていくのであるが、徹底的に優しさを滲ませて、須佐之男命との対比が際立つ記述である。マカロニウエスタン風なストーリ展開である。人気が出るのはこの筋立て、である。
稻羽之八上比賣・素菟と氣多之前
古事記原文[武田祐吉訳](以下同様)…
故、此大國主神之兄弟、八十神坐。然皆國者、避於大國主神。所以避者、其八十神、各有欲婚稻羽之八上比賣之心、共行稻羽時、於大穴牟遲神負帒、爲從者率往。於是、到氣多之前時、裸菟伏也、爾八十神謂其菟云「汝將爲者、浴此海鹽、當風吹而、伏高山尾上。」故其菟、從八十神之教而伏、爾其鹽隨乾、其身皮悉風見吹拆、故痛苦泣伏者、最後之來大穴牟遲神、見其菟言「何由、汝泣伏。」[この大國主の命の兄弟は、澤山おいでになりました。しかし國は皆大國主の命にお讓り申しました。お讓り申し上げたわけは、その大勢の神が因幡皆のヤガミ姫ひめと結婚しようという心があって、一緒に因幡に行きました。時に大國主の命に袋を負わせ從者として連れて行きました。そしてケタの埼に行きました時に裸になった兎が伏しておりました。大勢の神がその兎に言いましたには、「お前はこの海水を浴びて風の吹くのに當って高山の尾上に寢ているとよい」と言いました。それでこの兎が大勢の神の教えた通りにして寢ておりました。ところがその海水の乾くままに身の皮が悉く風に吹き拆さかれたから痛んで泣き伏しておりますと、最後に來た大國主の命がその兎を見て、「何なんだつて泣き伏しているのですか」とお尋ねになつた]
冒頭の部分で少々長い引用となったが、背景説明も含まれている。大国主神の別名「大穴牟遲神」も見える、というか未だ「大国主神」にはなってないのであるが…。早々に登場する地名が「稲羽」「氣多之前」、この説話の舞台となる場所である。国名を省略して記述するのだから出雲国の近隣か、もしくは極めて特徴のある「良く知られた」場所と思われる。
「多(オオ)」を含むので…波多、末多、多賀、多氣…「氣」の指し示すところは見当たらず。「氣多(ケタ)」=「桁」と置換えると、なんと「算盤の珠を縦に貫く串のような棒」…これで解けた…「竺紫日向之高千穗之久士布流多氣」で特定した孔大寺山系、これに含まれる山々を算盤の「珠」として表現したものである。
この棒の先、それが「氣多之前」と記述したと紐解ける。後に「笠沙之御前」(現在鐘ノ岬)と表されるところでもある。なんとも特異な地形を繰り返し異なる言葉で表し、翻弄されているようでもあるが、解ければ確証に繋がる。挫けず解読することであろう。「久士布流」=「串触」=「串(の形で)で触れ合う」と紐解ける。「櫛」はない。
余談だが、珠算は2世紀頃には中国で使われていたようであるが、串刺しの構造になっていたかは不明とのこと。逆に、古事記の記述(~7世紀)が「串刺しの地形」のところに「桁」を使用することから、遅くともこの時期には「串刺しの形」をしていたのではなかろうか。珍しいから、多用したとも思われる。
「稲羽」は何処であろうか?…既に「稲羽国」として紐解いた経緯がある。多遅麻国と針間国との間にあった国である。日向国の「大羽江」「小羽江」また「氷羽州比賣」ように大河の河口付近の大きく羽を広げたような「州=川中島」を象形したものと思われた。しかし「氣多之前」近くには大河はない。
「稲」も地形象形であった。「稲=籾、種子」を孔大寺山系の山、特に現在の端の湯川山とみなしたのである。「羽」=「羽毛(ヒゲ)」谷間の形成が浅く、山麓の細かで多くある稜線を「籾のヒゲ」で示したのであろう。併せてみると「稲羽」=「山麓に多くの細かな稜線を持ったところ」と紐解ける。
場所は「氣多之前」を回ればすぐにある海岸となる。現在地名は福岡県宗像市鐘崎である。
「稲羽国」という国の名前ではなく地域の名前であろう。
八十神は素菟に「伏高山尾上」と告げた。高い山の麓に延びた尾根の上に居れ、と言ったのである。
稲羽の海岸はそんな地形を有しているところである。
「稲羽国」という国の名前ではなく地域の名前であろう。
八十神は素菟に「伏高山尾上」と告げた。高い山の麓に延びた尾根の上に居れ、と言ったのである。
稲羽の海岸はそんな地形を有しているところである。
「稲羽国」と「稲羽」は「針間国」と「針間」の関係に類似する。この時は「針間=針のように細長い隙間」と地形象形は同じだったが、今回は別解釈が必要であった。
説話は八十神が行った仕打ちに優しく大国主神が対応すると、菟は「淤岐嶋」=「コロコロとしたのが分かれている島」から渡って来たのだと言う。「隱伎之三子嶋」である。現在の宗像市地島である。「氣多之前」と最短1.5km離れている。
伊邪那岐・伊邪那美によって国生みされた「天之忍許呂別(ひどくコロコロしたところ)」という「天」が付いた由緒正しき島である。ここで登場である。まるで「隱伎之三子嶋」と「邇邇芸命の降臨地」の位置関係を示すがための説話と読める。勿論複数の意味合いを掛けているが・・・。
何を隠そう由緒ある「天」が付く島の「菟神」という神様であったわけで、ちょっと癖のある神様であるが、八上比賣の心を掴むのは大穴牟遲神だと言い切って説話は終わる。ガマ(蒲)の穂は効く?…蒲黄(ホオウ)という生薬なんだとか。
この地鐘崎近隣に現在の地名「上八(コウジョウ)」という難読地名がある。湯川山の頂上までを含むようである。古くからある地域名ではなかろうか。引っ繰り返したのかも・・・。伝えられる由来は多分に漏れず決定的ではない。
当然八十神が怒らないわけがなく策を弄して大穴牟遲神を死に至らしめる…
伯伎國之手間山
故爾八十神怒、欲殺大穴牟遲神、共議而、至伯伎國之手間山本云「赤猪在此山。故、和禮此二字以音共追下者、汝待取。若不待取者、必將殺汝。」云而、以火燒似猪大石而轉落、爾追下取時、卽於其石所燒著而死。[そこで大勢の神が怒って、大國主の命を殺そうと相談して伯耆の國のテマの山本に行って言いますには、「この山には赤い猪がいる。わたしたちが追い下すからお前が待ちうけて捕えろ。もしそうしないと、きっとお前を殺してしまう」と言って、猪に似ている大きな石を火で燒いて轉がし落しました。そこで追い下して取ろうとする時に、その石に燒きつかれて死んでしまいました]
どうも殺すことよりも、その方法を楽しんでるところがある。手間暇かけ過ぎ…その「手間」が今回のテーマである。「伯伎國之手間山」の「伯伎國」は後の「筑紫国」と紐解いたが、「手間山」は初出である。
手間暇の「手間」としては、意味不明になる。「手」=「その方面の場所」である。「山の手」などで使われる「手」である。この置換えが見つかると「手間山」=「こちらとあちらの場所との間にある山」と解釈される。特定の場所が見えて来る。
「出雲国」と「伯伎國」の間にある山、現在の「手向山」になろう。「手向」=「手向(タム)ける」別れの際のはなむけを意味する。同じく境界にある山の命名であろう。現地名は北九州市小倉北区赤坂(四)である。前記に「小月之山」という表現もあった。繰返し同一場所、いや、時と共に呼び方が異なったことに従っているだけかもしれないが…。
慌てた母親の刺國若比賣が神產巢日之命に助けを求め、𧏛(赤)貝比賣と蛤貝比賣とが遣わされたら、生き返るどころかすっかり大きく立派になったとか…まぁ、聞き置きましょう。まだまだ八十神の手は緩まず、「木国」でも殺されかかったがなんとか逃げ帰り、母親…何度も登場で大活躍…に須佐之男命の黄泉国に行けと言われた、と説話は続く。
黄泉国で須勢理毘賣と出会い、須佐之男命からの数々の試練を乗り越える…
宇迦能山
故爾追至黃泉比良坂、遙望、呼謂大穴牟遲神曰「其汝所持之生大刀・生弓矢以而、汝庶兄弟者、追伏坂之御尾、亦追撥河之瀬而、意禮二字以音爲大國主神、亦爲宇都志國玉神而、其我之女須世理毘賣、爲嫡妻而、於宇迦能山三字以音之山本、於底津石根、宮柱布刀斯理此四字以音、於高天原、氷椽多迦斯理此四字以音而居。是奴也。」故、持其大刀・弓、追避其八十神之時、毎坂御尾追伏、毎河瀬追撥、始作國也。[そこで黄泉比良坂まで追っておいでになって、遠くに見て大國主の命を呼んで仰せになったには、「そのお前の持っている大刀や弓矢を以って、大勢の神をば坂の上に追い伏せ河の瀬に追い撥って、自分で大國主の命となってそのわたしの女のスセリ姫を正妻として、ウカの山の山本に大磐石の上に宮柱を太く立て、大空に高く棟木を上げて住めよ、この奴」と仰せられました。そこでその大刀弓を持ってかの大勢の神を追い撥う時に、坂の上毎に追い伏せ河の瀬毎に追い撥って國を作り始めなさいました]
どうやら合格したようで、須佐之男命から「大国主神(命)」の名前を授けられる…先にも出ていたようだが、オフィシャルに、ということで…。そうなると八十神も如何ともし難く、全て追払われたと記述される。
「宇迦能山」の麓に威風堂々の立派な宮を作り、正に大国の主としての国造りを始めたのである。
…「山の稜線が複数寄集っている様」と解釈される。出雲国「大斗」の中で稜線が混み合っている場所を求めると、現在の門司区上藤松辺りであろう。
宇迦=宇(山麓)|迦(出会う)
…「山の稜線が複数寄集っている様」と解釈される。出雲国「大斗」の中で稜線が混み合っている場所を求めると、現在の門司区上藤松辺りであろう。
東にある須佐之男命の「須賀宮」に対して西にある場所「宇迦能山」山麓である。宮の名前は記載されない。この地を中心として出雲国は発展していくことになる。
本日のところの通説は…詳細は控えておこう。一点だけ、「淤岐嶋」に比定されている島の標高は2.3m以下(国土地理院地図より)のようである。島となるのはずっと後代のことではなかろうか…隠岐の島は遠すぎるか。
…と、まぁ、まだ大国主命の話は続く・・・。