伊豫之二名嶋の面四
<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
伊邪那岐命・伊邪那美命の国生みで二番目に産んだ島「伊豫之二名嶋、此嶋者、身一而有面四」の記述があった。「筑紫嶋(企救半島)」「吉備兒嶋(下関永田郷)」のように現在は半島の地形だが当時は島であったと推定される地形を探すと現在の若松半島(北九州市若松区)であろうと思われた。「二名嶋」と名付けられて地形象形はこの半島の特徴を極めて的確に表現していると思われたが、更に「面四」の記述を紐解いてみよう。前記で比定した地図を示すと…、
古事記原文…
毎面有名、故、伊豫國謂愛上比賣此三字以音、下效此也、讚岐國謂飯依比古、粟國謂大宜都比賣此四字以音、土左國謂建依別
東側の二国、食に関ってなんだか貧しい感じなんて、書いてしまったが、大間違い、らしい・・・。
讃岐國
「讃」=「佐(タスクル)」である。「讃岐」=「佐岐」=「二つに分かれるのを助ける」となる。地図から明らかなように響灘と洞海湾との水路分岐に面する位置にある。響灘と異なり洞海湾は潮位によって大きく流れの方向が変わり、水深が浅くて変化が大きいことが知られている。重要な分岐点、それを表す命名であろう。
その地の高塔山公園となっている小高い場所は分岐点を示す格好の地形であろう。現在の四国讃岐の地名由来は? 地形的には説明困難ではなかろうか…「国譲り」と言える。
上記の地図からわかるようにこの地は緩やかな傾斜の丘陵地である。山の水源も加わって農耕地としての立地を満たしているように思われる。謂れの「飯依比古」=「飯が依(頼りに)なる比古」となる。現在、この地は広い住宅地となっているが、その地名に「畑」「田」が付くのが目立つ。
<追記>
<讚岐國・粟國> |
「飯依比古」ついて修正。「飯」の文字解釈を以下のように替えてみる。
「飯」=「食+反(山麓)」、更に「食」=「山+良」と分解していくと…、
飯=なだらかな山麓
…を示していると導ける。図に示したように南の「粟国」に比して穏やかに山稜が延びて広々とした山麓を持つ地形であることが判る。この謂れは「なだらかな山麓を利用して田畑を並べ定めた」と解釈できる。
ところで、もう一つ「伊豫国」の謂れ「愛比賣」も今一つ解釈し辛かったのだが、ネットで調べると「愛」=「心にいっぱい思いが詰まっている状態」を表す文字と言われているようである。すると…、
愛比賣=愛(いっぱい詰まった)|比賣(田畑を並べて生み出す女)
…と紐解ける。凹凸のある丘陵地帯であってそれがいっぱいに広がっている様を象形した表現と読取れる。後にこの地は「五百木」と記される。「木」は山稜を比喩したものであって、それが多くあることを述べている。繋がった表現である。漸くにして紐解けたと思われる。(2018.03.10)
粟国
「粟」=「淡(泡)」これもあり、であろうが、謂れ「大宜都比賣」の意味するところが、すごい。いや、読み飛ばしていたことの反省も、すごい。「宜」=「肉、魚」食に関係するとは思っていたが、あらためて調べてみるとズバリの命名であった。
比定したこの国は急峻な山地を後ろに持ち、前は洞海湾の遠浅の海岸、干潟を持つ。当時の漁法を考えると極めて優れた漁場であったと思われる。重工業化の波に飲み込まれ全く様相が変わってしまっていたが、現在はそれを取り戻しつつあるとのこと(参考資料)。
藻場が多く、車海老の産地として知られた。他に鯛、河豚、牡蠣等々色々並んでて楽しい、豊かな古代に思い巡らす・・・。
大間違いの二つ目。これら二国の比定は動かしようのないものとなった。古事記解釈の禁則、①通説に引き摺られること ②読み飛ばし である。解釈する言葉が多くなると、ついつい、情けない言い訳である。
伊豫國
謂れの「愛比賣」地形象形なのであろう。広々とした低い丘陵地帯、現在よりも更に低く広がる台地に名付けられたと思われる。海から眺める千畳敷など海岸線の美しさも加わるかもしれない。現在は貯水池等の治水整備が進み、近郊野菜生産地として活気ある様子である(「愛」の解釈は上の追記参照)。
土左國
簡単なようで一番難しい地形象形である。「土左」=「土(地面)が左(下がる)」としてみた。通常とは異なり、海側(伊豫國側)が高くなっている地形であり、海進によって海面下にあった場所である。
謂れ「建依別」の「建」は「倭建命」「熊曾建」の「建」が類推されるのであるが、地形象形で進めてきている記述の中では整合しない。「筑紫嶋」に登場する「建(日別)」を使っているのではなかろうか…、
…「北部が頼りの地」と解釈できる。内海に面し豊かではあるが北の丘陵地帯がなくては住まうことができない地であったと告げている。
・・・と「面四」全て特徴ある地形象形からの命名とわかった。通説の名前の由来は知る由もないが、納得のできるものなのであろうか? 拡大解釈すれば、何とでもなる、か…。
ところで、「伊豫の面四」合せてみると「伊豫」は「高志」なんかと比べて豊かな土地という認識を示している。響灘に面して早くに開けた土地であったのだろう。若松半島のほぼ中央部に「二島」という地名が残っている。「二名嶋」との関係は定かでない(後日全く無関係と判明)。
建依別=建(北方)|依(頼る)|別(地)
…「北部が頼りの地」と解釈できる。内海に面し豊かではあるが北の丘陵地帯がなくては住まうことができない地であったと告げている。
・・・と「面四」全て特徴ある地形象形からの命名とわかった。通説の名前の由来は知る由もないが、納得のできるものなのであろうか? 拡大解釈すれば、何とでもなる、か…。
ところで、「伊豫の面四」合せてみると「伊豫」は「高志」なんかと比べて豊かな土地という認識を示している。響灘に面して早くに開けた土地であったのだろう。若松半島のほぼ中央部に「二島」という地名が残っている。「二名嶋」との関係は定かでない(後日全く無関係と判明)。
伊余湯*
古事記原文を検索すると下記のところにも「伊余」の文字が出現する。第十九代允恭天皇の御子、木梨之輕太子の悲恋物語である。この王、次期天皇だったのだが妹に恋をしてしまったらしく、周囲の連中が弟の穴穗命(後の安康天皇)を推すようになった。それを察知してかどうか戦闘態勢に入ってしまい、結局流罪に処せられ、その場所が「伊余湯」だと言う。古事記原文[武田祐吉訳](以下同様)…
故其輕太子者、流於伊余湯也。亦將流之時、歌曰、[かくてそのカルの太子を伊豫の國の温泉に流しました。その流されようとする時に歌われた歌は]
故其輕太子者、流於伊余湯也。亦將流之時、歌曰、[かくてそのカルの太子を伊豫の國の温泉に流しました。その流されようとする時に歌われた歌は]
阿麻登夫 登理母都加比曾 多豆賀泥能 岐許延牟登岐波 和賀那斗波佐泥[空を飛ぶ鳥も使です。鶴の聲が聞えるおりは、わたしの事をお尋ねなさい]
故追到之時、待懷而歌曰、[かくて追っておいでになりました時に、太子がお待ちになって歌われた歌]
許母理久能 波都世能夜麻能 意富袁爾波 波多波理陀弖 佐袁袁爾波 波多波理陀弖 意富袁爾斯 那加佐陀賣流 淤母比豆麻阿波禮 都久由美能 許夜流許夜理母 阿豆佐由美 多弖理多弖理母 能知母登理美流 意母比豆麻阿波禮[隱れ國の泊瀬の山の大きい高みには旗をおし立て小さい高みには旗をおし立て、 おおよそにあなたの思い定めている心盡しの妻こそは、ああ。 あの槻弓のように伏すにしても梓の弓のように立つにしても
後も出會う心盡しの妻は、ああ]
場所を示す言葉「伊余湯」「波都世能夜麻」(意富と佐袁)である。「許母理久(コモリク)=隠れ国」は「泊瀬=長谷」に掛る枕詞として訳されている。
さて、問題の「伊余湯」である。四国伊予松山の湯以外に考えられない、これが1300年間続いてきた。古事記、万葉集などこの言葉が出現すると機械的に置換えられてきた。そうして来た罪は重い、流罪である。
何故そう言い切れるのか? 流罪と温泉(湯治場)が繋がらないのである。その場所は世間から隔離された、辺鄙なところであり、過酷な日常を示す場所でなければならない。往古の松山はそうであった、詭弁である。類似の地名を見つけて比定する、単純思考の持主の言草である。
「湯」=「水が踊り跳ねる様=ゆ」が原義である。熱をかけて沸騰する様もよし、急流で岩に跳ねられる様でもよし、である。当然後者を選択する。何故なら、続く記述が「波都世=撥瀬(水が撥はねて流れる急流)」と記述されているからである。
長谷(ナガタニ)の「水が弾け飛び散る川」即ち谷深い峡谷に急流の川があり、それを挟んで二つの山がある場所となる。それが大小の高さを持っている山と伝えている。通説では、この二つを満足できないのである。
「伊余湯」の該当場所を難無く見つけることができる。現在の若松半島(北九州市若松区)の石峰山(標高303m:大)と岩尾山(標高221m:小)、その間を流れる原田川を示すと推測される。河口は「二島」である。
さて、問題の「伊余湯」である。四国伊予松山の湯以外に考えられない、これが1300年間続いてきた。古事記、万葉集などこの言葉が出現すると機械的に置換えられてきた。そうして来た罪は重い、流罪である。
何故そう言い切れるのか? 流罪と温泉(湯治場)が繋がらないのである。その場所は世間から隔離された、辺鄙なところであり、過酷な日常を示す場所でなければならない。往古の松山はそうであった、詭弁である。類似の地名を見つけて比定する、単純思考の持主の言草である。
「湯」=「水が踊り跳ねる様=ゆ」が原義である。熱をかけて沸騰する様もよし、急流で岩に跳ねられる様でもよし、である。当然後者を選択する。何故なら、続く記述が「波都世=撥瀬(水が撥はねて流れる急流)」と記述されているからである。
長谷(ナガタニ)の「水が弾け飛び散る川」即ち谷深い峡谷に急流の川があり、それを挟んで二つの山がある場所となる。それが大小の高さを持っている山と伝えている。通説では、この二つを満足できないのである。
「伊余湯」の該当場所を難無く見つけることができる。現在の若松半島(北九州市若松区)の石峰山(標高303m:大)と岩尾山(標高221m:小)、その間を流れる原田川を示すと推測される。河口は「二島」である。
現在、この川には複数種の蛍が舞い飛び、ホタルの里になっている。更に驚くべきことは、流れ勾配の大きさである。公表された資料が見当たらないが、簡便に求めてみると約1/12である。一般に言われる急流の1/15~1/50を遥かに超えている。「湯」の表現に合致する。
現在複数の堰(溜池)を作られているが、適切な処置であろう。最大勾配のところは、滝である。当時は、流罪に値するところ、身を清めるところだったと思われる。
「伊豫之二名嶋」及び「面四」とても素晴らしい所であった。そして重化学工業化の「海進」でその姿を変貌してしまった過去もわかった。加えて元の自然を取り戻されつつあることも知った。何度か訪れたところでもあるが、書くに従って、どこか歯がゆさが残ったブログであった…。