2018年8月5日日曜日

品陀和氣命:若野毛二俣王の娶りと御子 〔242〕

品陀和氣命:若野毛二俣王の娶りと御子


引き続き品陀和氣命が息長眞若中比賣を娶って誕生した若沼毛二俣王(若野毛二俣王)の娶りと御子の物語である。応神天皇紀の最後、付記される形で登場するのであるが、得てしてそんな場合は重要なことを述べているのである。加えて人名が多数羅列されており、勿論全て地名に関わることなのである。

既に一部は紐解いて述べたが、詳細を纏めてみようかと思う。天皇の坐した輕之明宮の周辺、それは師木の周辺でもあるが、その地名が登場する。現在の福岡県田川市の由来となるのではなかろうか。天皇の戦略は師木を中心とした地の統一であり、それは倭国の確固たる基盤を作り上げることであろう。

言わば、応神天皇紀は倭国が国としての体制を整えたことを伝えているのである。極めて重要な記述となる。と言う訳で地名比定も慎重(?)に行った、のであるが…。従来は、全く不詳な有り様、どうやら「百師木」の解釈が上手く見つからず、と言うところであろうか・・・古事記の伝えるところも不詳となった、のである。

古事記原文…、

又此品陀天皇之御子、若野毛二俣王、娶其母弟・百師木伊呂辨・亦名弟日賣眞若比賣命、生子、大郎子・亦名意富富杼王、次忍坂之大中津比賣命、次田井之中比賣、次田宮之中比賣、次藤原之琴節郎女、次取賣王、次沙禰王。七王。故、意富富杼王者、三國君、波多君、息長坂君、酒人君、山道君、筑紫之末多君、布勢君等之祖也。

百師木伊呂辨・亦名弟日賣眞若比賣命

母である息長眞若中比賣の妹ということだから、出自は息長であろう。故あって「百師木」に居たと伝える。意富富杼王を含め七人の御子が誕生する。久々の師木からの娶りである。そして御子達の名前がズラリと勢揃いする。全て初出の地名を背負っていると思われる。先ずは「百師木」から読み解いてみよう。

<百師木伊呂辨(弟日賣眞若比賣命)>
「百=多くの」を意味するが、「師木」に付けて更に凹凸が強調された地を表しているのであろう。

師木玉垣宮の「木戸」(木国方面)出て向かうところは師木から見れば多くの凹凸がせめぎ合う地形となる。


英彦山山稜を遡るわけだから、当然ではあるが、垂仁天皇の御子、大中津日子命が言向和した地域に含まれると推測される。

その地で「伊呂」で表される場所に坐していた比賣であろう。「伊呂」は…「辨」=「別(地)」として…

伊(僅かに)|呂(背骨の地形)

…「背骨の形に僅かに近い地形をしている」ところと紐解ける。図に示した場所は微妙に「呂」の地形である。これを示していると思われる。更に別名が付記される。「弟日賣」は…、
<弟>

弟([弟]の地形)|日賣(稲を作る女)

…「[弟]の地形で稲をつくる女」の眞若比賣命と読み解ける。「弟」の甲骨文字を使用すると図の地形に限りなく近いように思われる。わざわざ別名に「弟」を付けた理由ではなかろうか…単純に「弟の日賣」でも意味は通じる。


「百師木」は一見「師木」との区別がなされていないように思われるが、そうではなく明らかに地形が異なっていることを示している。現地名、田川郡大任町今任原は本著に初めての登場である。

<忍坂之大中津比賣命>
意富富杼王は後述するとして比賣達から紐解く。

忍坂之大中津比賣命
 
「忍坂」は神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が通ったところである(神武天皇紀を参照)。勾配の緩やかな坂「目立たない坂」と解釈した。


その長い坂の真ん中辺りにある大きな津を意味する命名と思われる。現在の田川郡香春町採銅所二辺りであろう。金辺川と鮎返川が合流する地点を示す。


忍坂大室で生尾土雲と戦闘した近隣と思われる。比賣の在処は傍らの高台にあったのではなかろうか。


神武天皇が当初に侵出したところであり、景行天皇がこの地の南に当たる纏向之日代宮に坐し、その御子の倭建命が伊勢、尾張に向かう度に通った道筋にある。


谷合の土地も徐々に開けて来たのであろう。詳細な繋がりは不明だが比賣が坐することになっても決して不思議な場所ではないようである。

<百師木伊呂辨の御子⑴>
この比賣から後の安康天皇及び雄略天皇が誕生する。倭国の最盛期を迎えた天皇に繋がって行ったと記述される。古事記、クライマックスへ後少しのところに辿り着いたようである。

田井之中比賣・田宮之中比賣

「田」は現地名福岡県「田川市」の「田」であろう。「田井」は現在の田川市糒と思われる。「糒」=「干飯(イ)」である。

「田宮」は現在の田川市川宮であろう。川と田の置換えである。共に現在の田川市を横切る国道201号線近傍にある。

天皇が坐した軽嶋(金田)の南に当たる。周辺の地が開けて行った様子を述べていると理解することができる。

二人の中比賣の「中」は通常の意味に加えて「州の中」の意味が込められているように感じられる。川から少し奥に入った、中にいる比賣であろうか。


<田川市>
現在の田川市の北中部は図に示した四つの地名を持つようである。勿論住居表示は更に細分されてはいるが。上記の川宮、糒に加えて伊田と糸田町である。


地形象形の表現に加えて、伊田は伊久米天皇に、糸田は糸井比賣に関連する残存地名では、と紐解いた。

上記の二つの地名も合わせるとこの地域は残存地名として当時の名称を色濃く示している場所なのではなかろうか。


凄まじいばかりの変遷を経て今がある場所、がしかし、倭国が大国となって歩み始めた地としての矜持を、沈黙の中に秘められているように感じる。

古代から現代に至る、幾多の時代に貢献してきた地、今は静かな佇まいかもしれないが、そこに住まう人々の心根に思いを馳せるところである。

藤原之琴節郎女

<藤原之琴節郎女>
「藤原」これをそのまま使うとは、古事記記述の姿勢を表している。怖い者なし…後世の方が変えたはず「葛原」と・・・。

予想通りの地名が「葛城」の地にあった。現住所は福岡県田川郡弁城の「葛原」である。「〒822-1212 福岡県田川郡福智町弁城1622」現在の住所表示である。

「琴節」・・・琴のメロディを奏でる郎女であることは間違いないのであろうが・・・という訳で、残存地名に助けられていとも簡単に求められた…とは行かず、やはりこれも地形象形の筈である。

「琴」=「王+王+今」として「連なる山の麓」と紐解いてみる。「王」は連なる状態を表すのに多用される。「今」の甲骨文字の形から、その麓を横切るところを意味すると解釈できるであろう。

<今>
「節」=「竹+即」の「竹」もやはり山麓を示し、「即」=「すぐ近く」を表すのではなかろうか。どうやらこれで意味のある紐解きに近づいたようで、葛原は山麓を横切るところに位置する場所であることが判る。

甲骨文字を想定したものなのかは全く不詳であるが、これまでの紐解きに極めて有効な結果をもたらすようである。


<竹>
象形文字の原点と思えば、至極当然の結果かもしれないが、今回も例外ではなく、見事に伝わって来るのである。実に興味深い応用問題であったかも・・・。

上記の結果は「葛原」↔「藤原」の残存地名として妥当なことを示していると思われる。古事記の世界から逸脱するが、これは重要な示唆ではなかろうか。単なる偶然の名称なのかどうか、また後日に調べてみよう・・・。

続いて、「取賣王、次沙禰王」と記される。これらも簡明表記なのだが、むしろ長たらしい名前の方が情報豊かで…読み解きは大変なのだが・・・。

<取賣王>
取賣王

それなりの登場数である「取」は全て「耳+手」として解釈して良いようである。


がしかし、これは余りにも簡単な表現である。既に比賣などの解釈で述べたことではあるが、「賣」は「買」=「網+貝」で、内に含んでいるものを出すことが原義とある。


貝(子安貝)として孕んでいるものを外に出すことである。それを念頭に置いて、耳と手を探すことにすると・・・琴節郎女の近隣であった。「取賣王」は…、

耳が手を孕んでいるところ

<沙禰王>
…「山麓の[耳]の地形が[手]の地形を孕んでいるところ」の王となる。実に見事である。国土地理院の高精度な地図がなければ到底辿り着ける場所ではなかったろう。あらためて感謝である。

沙禰王


「沙」=「水辺」を選択するのだが「禰」を何と紐解くか?…「示(高台)+爾」であろうが、「爾」=「美しく輝く花の象形」という説があるようで、これを頂戴する。「花」=「端」とする。「沙禰王」は…、

水辺にある山稜の端


…に坐していた王と紐解ける。大河の彦山川辺りの山稜が延びた台地と推定される。現地名は田川郡福智町伊方である。

<百師木伊呂辨の御子⑵>
あらためて纏めて図に示すと、輕嶋之明宮を中心に南北に並んでいるように見える。彦山川、中元寺川が作る巨大な州の周辺に散らばった御子達であった。


母親の百師木伊呂辨の住まう場所の開拓は、まだまだ時間を要したのであろう。大河の中流域と思われる場所が開けて来るのは古事記の最終章なのである。

意富富杼王


大郎子の別名が意富富杼王と記される。出雲国に絡む王の命名である。この王の名前が示すところは後述する。


一気に多数の祖となったとする記述がなされる。「三國君、波多君、息長坂君、酒人君、山道君、筑紫之末多君、布勢君等之祖」である。


大変なご活躍をなされた、のであろう。嘗て神倭伊波禮毘古命の御子である神八井耳命がこの地に入ったがそれから随分と時間が経った筈である。

また大年神一族との確執も、ほぼほぼ収まったと思えるのであるが、それを背景にして読み下してみよう。古事記記載の順に従わず順不同で紐解くとするが、他意はなし。各君の場所は纏めて最後に示す。

①筑紫之末多君

この祖の羅列、何処から解くか?…やはり「筑紫之末多」であろう。

<筑紫之末多>
末多=末(末端)|()

…大の国、出雲の端であって、それが「筑紫」になるところである。こんな矛盾する表記こそ当て嵌まる場所を一に特定できる。

出雲国の南西の端に当たるが、「筑紫」の一部でもある。現地名は北九州市小倉北区赤坂辺りである。「筑紫国」と「出雲国」が隣接する状態でなければ発生しない表現である。



この地については意富多多泥古の出自から詳細に読み解いた場所である。詳細は崇神天皇紀を参照願う。陶津耳命の比賣、活玉依毘賣から始まる子孫達が切り開いた土地である。勿論、恐れを知らない大物主大神がなせる技である。


「筑紫之末多」の西隣りが「筑紫末羅縣」となろう。神功皇后が新羅の帰途立ち寄ったところとされる。双方から「末」が付くところ、それが筑紫と出雲の境界である。「末羅=松浦」などと呑気な事を言っている場合じゃ、決してないのである。

②波多君

「末多」が解けると「波多」が解ける。これには修飾語が付かない。東北の端と予想される。「波()」=「端()」である。現在の地名は同区二夕松町であろう。「二」を90度回転すれば「ハ」になる…遊びはほどほどにして・・・。

既に紐解いたように近隣には「羽山戸神」が坐したところがある。「羽山」は「端の山」と解釈できる。少し後には建内宿禰の御子、波多八代宿禰が多くの祖となった地でもある(孝元天皇・建内宿禰を参照)。上記の赤坂、二夕松共に迫りくる山の稜線で閉ざされたところであった。出雲の地形は実に特異である。

③三國君・山道君

「三國」は三国が寄集るところ、現在も各地に残る地名である。多くは「峠」が付くが…。これも上記の「端」からの連想から容易に求めることができる。足立山~戸ノ上山が作る稜線に「出雲国」「筑紫国」「紀国」の三国分岐点が見出せる。住所表示は同区大里になる。「山道」はその登口から道中となる同区上藤松となろう。

美和の大物主大神が坐した御諸山(現在名谷山)に通じる道と思われる。上記した意富多多泥古の出自で詳細に語られる場所である。「三国」は「御諸山」=「三つの凹凸(頂上)のある山」の表現に通じると思われる。

④布勢君

「布勢」は「入杵」の時と同じく、古事記の情報が少ない時には現状の「出雲」の情報を援用する。「杵」がキーワードの出雲に「布勢」はあるか?…ありました。大国主命が奥出雲で坐したところ。現在の同区奥田辺りと思われる。勿論、島根県ではない。「高志国」に抜ける道が通るところである。

<布勢>
「布勢」の文字解釈を行ってみると…、

布(布のような)|勢(地勢)

…「布を広げたように見える地形」と紐解ける。高志に抜ける峠の手前の位置である。ちゃんと奥として、国譲りされている、実に几帳面な作業をされてようである。

通説は、残念ながら抜けた先は高志ではないから、高志之八俣遠呂智の説話を神話に落し込むしか解釈のしようがなかった、と言えるであろう。櫛名田比賣が坐したところに関係する。

古事記は地政学書として、その原形を有している書物である・・・勿体無いですよ、歴史(地理)学者さん・・・。

⑤息長坂君

ここまでの解釈でこの王は、出雲国の「国境警備隊」の創設に関わったとわかったからである・・・なんて初見ではそんな解釈もしたが・・・これは次の「酒人」の解釈に引きずられた感が否めない。下で述べてみよう。「息長坂」=「深呼吸をする坂」であろうか。急坂を示す場所、現在の鹿喰峠を越えるところと思われる。

後に「都夫良」という地名が与えられる。現在、神奈川県足柄上郡山北町都夫良野に名を残す。この地は相武から富士吉田との間にあるところである。現存地名に興味があれば、この辺り関連する地名が多く、勿論、出雲を除いて・・・。

一体何が言いたいのか首を傾げるような記述から、極めて重要な事柄を述べていた。出雲の地形、既に定めた場所にてスッポリと納まることを確認できた。あと一つ残る「酒人君」は?…宮廷で酒をもてなす人…ではなく、安萬侶くんのお戯れである。

また、「息長」一族との関連と解説向きもあるようだが、それは全く無関係と思われる。この一連の記述に「息長」一族が絡む余地は全く無い上に、あくまで表記は「息長坂」であることから言えるであろう。同じ文字列を見つけては、背景も何も考慮せずに、これだ!…と決めつける思考と同じであると断じる。

⑥酒人君
 
<意富富杼王>
「酒人」=「防人(サキモリ)」である。読みから「酒(シュ)」=「守(シュ)」でもある。

このイメージから「国境警備隊」その隊長なんて読み解きを行ったのだが、出雲の中は如何なる状況かと思えば、相変わらず大年神一族とは距離を置いているのである。

それは上記で登場する場所からも伺えるようで、大国主命に関連するか、和解の目処が立った大物主大神に由来する場所のみなのである。

ということは、守るべきところは出雲の外、言わば出雲を取り囲む体制を構築したと考えるべきであろう。

酒=境の坂」とする場合が多く…と言うか、ほぼ全て…登場する。単なる坂は「坂」として、何らかの境にある「坂」とは明確に区別して表現している。残るは酒=防だった、という訳である。

「酒」↔「坂」↔「境」との関連は「酒(坂、境)迎え」の言葉に由来すると解釈した。坂(峠)の向こうに出向き、帰ることの大変さ、それを成し遂げた歓喜、現在からでは想像もできなくらいの出来事であったと思われる。更に続けると「黄泉之比良坂」は「境」ではなかった、ということになる。少し考え過ぎのような気もするが・・・。

ところで「意富富杼王」が示す意味は何であろうか?…「富」がふんだんに含まれる名前なのであるが・・・。「富」=「宀(山麓)+畐(酒樽)」として「意富」=「山麓にある境の坂の地勢」(大斗の地形)の文字解釈となるが、本名が「大郎子」とあるので「意富=大」と解釈して良いであろう。「富杼王」は…、

富(山麓にある境の坂)|杼(横切る)|王

…「山麓にある境の坂を横切る王」と紐解ける。「杼」=「経糸に緯糸を通す」から解釈した。山麓をトラバースする王なのである。しかも坂の上は「境」なのである。実に面白い表現である。上記の君の任務を果たそうとすれば、登り下りを繰り返さずに山腹の斜面を横切ることであろう。しかも尾根道を歩いては発覚する恐れがある。

古事記の別の段では「意富本杼王」とも記述される。「本」=「麓」些か横切るところが広がった感じであるが、同じことを告げていることが判る。恣意的に文字を変えて念入りに伝えようとする努力・・・良いように理解しておこう。「富」の解釈、真っ当である。

いや、凄い名前である。この王から皇統断絶の危機を救う継体天皇に繋がるようである。トラバース、これからはホドというもの一興かもしれない…但し、尾根道は、せめて村境ぐらいでなければならないが・・・。

上記でも少し触れたが、この王の系列が皇統に絡むことになる。更には断絶しかかったそれに急遽登場の継体天皇(袁本杼命)も「本杼」の名前を持つ。「ホド」の人が頂上に達することになる。やはり大きな迂回ルートを辿ったようである。