2020年11月21日土曜日

高天原廣野姬天皇:持統天皇 (7) 〔470〕

高天原廣野姬天皇:持統天皇 (7)


即位八年(西暦694年)正月からの記事である。引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらどを参照。

八年春正月乙酉朔丙戌、以正廣肆授直大壹布勢朝臣御主人與大伴宿禰御行、増封人二百戸、通前五百戸、並爲氏上。辛卯、饗公卿等。己亥、進御薪。庚子、饗百官人等。辛丑、漢人奏蹈歌、五位以上射。壬寅、六位以下射、四日而畢。癸卯、唐人奏蹈歌。乙巳、幸藤原宮、卽日還宮。丁未、以務廣肆等位授大唐七人與肅愼二人。戊申、幸吉野宮。

一月二日に布勢朝臣御主人大伴宿禰御行に正廣肆位を授け、更に封戸を二百戸増やし(通して五百戸)、また氏上にしている。七日公卿等と宴会を催す。十五日、薪を進呈している。十六日に百官等と宴会。十七日に「漢人」が蹈歌を奏じている。また五位以上の者と射会している。十八日、六位以下と射会、四日で終了。十九日、「唐人」が蹈歌を奏じている。二十一日に藤原宮に行幸。即日帰還。二十三日に大唐七人と肅愼二人に務廣肆等位を授けている。二十四日、吉野行幸。

「漢人」と「唐人」が区別されているが、詳しいことは分っていないようである。東漢一族のような古くから帰化した者を漢人、唐の時代に帰化した一族を表しているのかもしれない。いずれにせよ多くの帰化人が居て、それぞれの集団を形成していたのであろう。肅愼は新羅からの移住者である。古事記の熊曾國に当たる。徐々に融和策が浸透して来たのであろう。

三月甲申朔、日有蝕之。乙酉、以直廣肆大宅朝臣麻呂・勤大貳臺忌寸八嶋・黃書連本實等、拜鑄錢司。甲午、詔曰「凡以無位人任郡司者、以進廣貳授大領、以進大參授小領。」己亥、詔曰「粤以七年歲次癸巳、醴泉涌於近江國益須郡都賀山。諸疾病人停宿益須寺而療差者衆。故入水田四町・布六十端、原除益須郡今年調役雜徭、國司頭至目進位一階。賜其初驗醴泉者、葛野羽衝・百濟土羅々女、人絁二匹・布十端・鍬十口。」乙巳、奉幣於諸社。丙午、賜神祇官頭至祝部等一百六十四人絁布、各有差。

三月初めに日蝕あり。二日に大宅朝臣麻呂・「臺忌寸八嶋」・黃書連本實(黃書造本實)等が「鑄錢司」(銭貨鋳造)を拝命している。十一日に無位の者の場合、大領には進廣貳位、小領には進大參位を授けるようにしろ、と命じられている。

十六日、即位七年に「近江國益須郡都賀山」で「醴泉」が湧き、諸疾病のある者が「益須寺」に泊まって治療して多くが癒えている。故に水田四町・布六十端を納めて「益須郡」の今年の調役・雜徭を免除すること、また國司頭から目(サカン)まで位を一階進めよ命じられている。更に「醴泉」を初めて験した「葛野羽衝・百濟土羅々女」に布・鍬などを与えよ、とも申し付けられている。二十三日に神祇官頭から祝部等までに布などを与えたと記載している。

<臺忌寸八嶋・宿奈麻呂>
● 臺忌寸八嶋

「臺」を名前に含めた表記は極めて珍しいように思われる。和風ではなく漢風かと思いながら調べると、どうやら西漢一族、と言っても東漢一族に比して登場回数は極めて少ないのだが・・・。

西漢一族では西漢大麻呂が登場していた。書紀本文ではなく、引用された『伊吉連博德書』であり、原資料的に情報が乏しい状況だったことが伺える。

「臺」は、魏志倭人伝では馴染みの深い文字であり、「壹」との違いを考察した経緯もあるが、それは省略して、臺=高+之+至=蛇行しながら辿り至った高台と読み解いた。行橋市にある観音山から南に延びる山稜の端が平らな頂を示していることが認められる。その台地のような場所を表していると思われる。

「八嶋」は古事記の八嶋士奴美神の解釈と類似して、山稜が描く鳥の形とすると、図に示した場所に翼を広げた姿が浮かび上がって来る。その麓が出自の場所と推定される。後に従五位下に昇進するが、その時古事記編者の太安萬侶等も同様であったようである。

後に臺忌寸宿奈麻呂が登場する(續紀の元明天皇紀、和銅二年:709年)。「八嶋」との繋がりは定かではないようである。同名の人物が多く記載されているが、全く同様に地形象形されていると思われる。宿奈=山稜に挟まれた谷間の地にこじんまりとした高台がある様と読み解いた。「八嶋」の東隣の山稜の端の地形を表していることが解る。

<近江國益須郡都賀山・益須寺>
近江國益須郡都賀山

前記で「近江國益須郡」にあった「醴泉」の場所と求めた。この泉の水は本物だったようで、大変な賑わいが生じたと伝えている。

泉の源は「都賀山」と記載されている。現在の大平山である。その南麓は、図に示した通り、深い谷間が幾筋も流れていることが分る。それを賀=貝を押し開いたような様と表記している。

既出の伊賀で用いられた地形象形表現であり、山頂でそれらを寄せ集めた()ように見える山、都賀山と命名していたのであろう。

賑わった場所が益須寺と言う。浄土院川を挟んで「醴泉」の対岸の場所、現地名は京都郡苅田町下片島浄土院、の集落にあったと推定される。寺跡らしきものは皆目見当たらないが、地名になんらかの謂れがあるのかもしれない。

● 葛野羽衝・百濟土羅々女

発見者の固有名詞まで記載している。当時の大騒ぎ振りが垣間見えるようである。「葛野」は、古事記の沼名倉太玉敷命(敏達天皇)が庶妹豐御食炊屋比賣命(後の推古天皇)を娶って誕生した葛城王の場所に由来すると思われる。葛=渇いた様と解釈した。「葛城」(現地名の田川郡福智町)に類似する表記である。

羽衝=羽のような地が突当っている様と読むと、図に示した菅原神社辺りの場所を示していると思われる。現地名は京都郡苅田町葛川である。「百濟土羅々」は丸く小高い地が一様に連なっている様と読み解ける。「羽」の場所を表しているようである。

この地は天智天皇即位四年二月の記事に「以百濟百姓男女四百餘人、居于近江國神前郡」とあり、田を与えたと記載されていた。後に移転させられたりもするが、百濟人が住まっていた場所である。重ねた表記と推察される。いずれにしても、悉く当て嵌まる地形象形表記は、読み解きながら、実に痛快であった。この地が、書紀の”近江國”である。

夏四月甲寅朔戊午、以淨大肆贈筑紫大宰率河內王、幷賜賻物。庚申、幸吉野宮。丙寅、遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。丁亥、天皇至自吉野宮。庚午、贈律師道光賻物。五月癸未朔戊子、饗公卿大夫於內裏。癸巳、以金光明經一百部送置諸國、必取毎年正月上玄讀之、其布施以當國官物充之。

四月五日に筑紫大宰率河內王に淨大肆位を授け、賻物を贈っているが、直前に亡くなられたのであろう。七~十四?日に吉野行幸。十三日に恒例の「廣瀬大忌神・龍田風神」を祭祀。十七日に律師道光に賻物を贈っている。孝徳天皇の白雉四年五月に学問僧として唐に渡った記載されていた(僧:僧正、僧都、律師)。

五月六日に公卿大夫と内裏で宴会を催してる。十一日に諸國へ金光明經百部を配っている。また毎年正月の上玄(七、八日)に読経し、布施はその地の官物を当てろ、と命じられている。

六月癸丑朔庚申、河內國更荒郡獻白山鶏。賜更荒郡大領・小領位人一級、幷賜物。以進廣貳賜獲者刑部造韓國、幷賜物。秋七月癸未朔丙戌、遣巡察使於諸國。丁酉、遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。

六月八日に「河內國更荒郡」が「白山鶏」を献上し、その郡の大領・小領に各一級を、物も併せて与えている。また捕らえた「刑部造韓國」に進廣貳位を授けている。七月四日、巡察使を諸國に遣わしている。十五日に恒例の「廣瀬大忌神・龍田風神」を祭祀したと記している。

<河內國更荒郡・刑部造韓國・白山鶏>
河內國更荒郡

「河内國」で郡の場所を求めるのであるが、些か広く、「更荒」の文字列を紐解くことから始める。

「更」は頻度高く用いられている文字であるが、地名人名ではかなり珍しいケースと思われる。文字要素も簡単でもなさそうだが、調べると「更」=「丙+攴」と分解されている。

「丙」=「二つに岐れて延びる様」を表す。難波長柄豐碕宮に含まれていた。「攴」=「軽く打つ様」の動作を示す文字要素である。

纏めると更=平坦で岐れて延びる様と読み解ける。幾度か登場の荒=艸+亡+水=山稜が水辺で途切れる様と読み解いた。要するに[更]の山稜が水辺に長く延びているところを表していることが解る。

そんな地形を求めると現地名の行橋市下崎で並んでいる山稜の端が見出せる。河内國依網屯倉の北側であり、また近江之平浦の西側に当たる場所である。「河内國」は「近江」に注ぐ川に囲まれた地であり、「平浦」は「近江」に面する地である。上図ではその山稜の端は広々とした水田に囲まれた様子となっているが、現在の標高(10m以下)からして当時は汽水の状態であったと推測される。

白山鶏とは?・・・ところでまたもや珍しい鶏が献上されたようである・・・二つくっ付いて並んだ()稜の端が冠の形をしていることを表しているのではなかろうか。海辺に限りなく接近した地を開拓し、公地として差し出した。

● 刑部造韓國

獲得した人物名が記載されている。二つ並んだ山稜の谷間に四角くなったところをと表現したのであろう。その先()が二つに分かれ()、そこに取り囲まれたような()地形が見出せる。この人物の居場所であろう。谷間の奥からその出口の海辺までを耕地にしたことを述べているようである。

八月壬子朔戊辰、爲皇女飛鳥、度沙門一百四口。九月壬午朔、日有蝕之。乙酉、幸吉野宮。癸卯、以淨廣肆三野王拜筑紫大宰率。冬十月辛亥朔庚午、以進大肆賜獲白蝙蝠者飛騨國荒城郡弟國部弟日、幷賜絁四匹・綿四屯・布十端、其戸課役限身悉免。十一月辛巳朔丙午、赦殊死以下。

十二月庚戌朔乙卯、遷居藤原宮。戊午、百官拜朝。己未、賜親王以下至郡司等、絁綿布各有差。辛酉、宴公卿大夫。

八月十七日に皇女飛鳥のために沙門百四人を出家させた。九月初め、日蝕あり。四日に吉野行幸。二十二日、三野王が筑紫大宰を拝命している。十月二十日、「白蝙蝠」を捕獲した「飛騨國荒城郡」の「弟國部弟日」に進大肆位を授け、布などを与えている。またその身に限り一家の課役を悉く免除している。十一月二十六日、死罪以下の者を赦したと記している。

十二月二日に藤原宮に遷っている。九日、百官が朝廷で拝礼。十日、親王以下に布などを各々与えている。十二日に公卿大夫と宴会を催したと述べている。

<飛騨國荒城郡>
飛騨國荒城郡

またまた珍しい、今度は「蝙蝠(コウモリ)」だとか・・・先ずは落ち着いて飛騨國の詳細を見てみよう。

頻出の荒=水辺で山稜が途切れている様と読み解いた。山また山の奥飛騨の地でそんな地形があるのであろうか?・・・大河奥畑川が大きく曲がって流れ淵が形成されている場所が見出せる。

現在は高速道路のIC付近で些か判別し辛い様子であるが、地図上明確に識別できる地形と思われる。山稜の末端が寄り集まっているところを流れる川縁の地形である。荒城=平らな台地が途切れている様と読み解ける。飛騨國北部に位置する郡と推定される。

そこに白蝙蝠が棲息していたと言う・・・蝙=虫+扁=延び出た山稜が平らに広がる様蝠=虫+畐=延び出た真っ直ぐな山稜が束ねられたような様と解釈する。「蝙蝠」も文字列は初登場であるが、それらの文字要素は幾度も登場している。白=くっ付いて並ぶ様より、図に示した地を表していることが解る。崖っぷちを耕地にしたのであろう。悲しいかな現在は車が行き交う場所となっているようである。

● 弟國部弟日

またまた捕獲者に褒賞である。「弟國部」に含まれる幾度か登場の弟=弋+弓(糸が巻き付いた様)=山稜の端が段々になっている様と読み解いた。すると荒城郡の西側にその地形が見出せる。山稜を真上から見た象形であるが、「弟日」の「弟」は山稜を横から見た象形と解釈する。

即ち、弟日=一段低くなって延びた山稜が炎ようになっている様と読み解ける。「弟國」の弟分の地が出自の場所と記載しているのである。この段の書紀編者は、なかなかの曲者だった・・・実に巧妙である。国土開発が着々と進んでいたのかもしれない。

九年春正月庚辰朔甲申、以淨廣貳授皇子舍人。丙戌、饗公卿大夫於內裏。甲午、進御薪。乙未、饗百官人等。丙申、射、四日而畢。閏二月己卯朔丙戌、幸吉野宮。癸巳、車駕還宮。三月戊申朔己酉、新羅遣王子金良琳・補命薩飡朴强國等及韓奈麻金周漢・金忠仙等、奏請國政、且進調獻物。己未、幸吉野宮。壬戌、天皇至自吉野。庚午、遣務廣貳文忌寸博勢・進廣參下譯語諸田等於多禰、求蠻所居。

即位九年(西暦695年)正月五日皇子舎人淨廣貳位を授けている。七日に公卿大夫と宴会を催している。十五日に薪を献上。翌日、百官人等と宴会。更に翌日に射会、四日で終了したと記している。閏二月八~十五日、吉野行幸。

三月二日に新羅が王子金良琳等を遣わして、国政を報告し、進調もしたと述べている。十二~五日、吉野行幸。二十三日に「文忌寸博勢」・「下譯語諸田等」(譯語:通訳のことではない)を多禰に派遣し、「蠻」(南蛮人)の居所を求めさせている。

<文忌寸博勢-赤麻呂>
● 文忌寸博勢

倭漢一族の書直智德が改姓に伴って「文忌寸智德」となっていた。さて、この地からも多くの人材が登場しているが、居場所に空きはあるのだろうか?…全くの杞憂であった。

既出の博=四方に平らに広がった様、また、かなりの登場である勢=丸く小高くなった様と読み解いて来た。図に示したように「智德」の西側に小高いところが広がったような地形が見出せる。

これで一件落着ではなく、別名に「博士」があると知られる。頻出の「士」=「蛇行する川」であり、博士=突き出た山稜が四方に広がって平らになっているところと読み解ける。即ち、この人物の居場所は、「勢」が広がった先の川辺であることが解る。

またすぐ後に文忌寸赤麻呂が登場する。出自も不詳のようである。「赤=大+火」の文字が示す地形が山稜の端で見辛くなっているが、百濟家があった小高いところを「火」の頭とすると「智德」の東側と推定できそうである。

倭漢系か西漢系か、と悩むことはなく倭漢系の氏族であろう。「漢・東漢・西漢」と合わせて四つの「漢」が登場するが、通説は殆ど理解できていないようである。またいつの日か「漢一族」を纏めてみようかと思うが・・・。

<下譯語諸田>
● 下譯語諸田

「譯語」とくれば譯語田宮御宇天皇の谷間を外すわけにはいかないであろう。「下」が付いて、若干分り辛いのであるが、その意味も合せて紐解いてみよう。

この文字列でキーとなっているのが「諸」と思われる。通常「諸」=「諸々とした様」で問題なく解読できるのであるが、ここではその解釈では場所の特定に至らない。

故に少々捻った表記と考えることにする。よく見ると「譯語諸」の三文字は全て「言」のが付く文字である。言=刃物で耕地にされた様と読み解いて来た。

文脈に従うと、諸=言+者=耕地が交差する様と読むことができる。この長い谷間に所々谷間が交差する場所があり、それぞれが耕地となっているの伺える。当時と現在での異動は別として、この交差する棚田を表現したものと推察される。

図では省略されているが、現地名の小字上矢山にもう一つの交差する棚田がある。その下流域にあることを表現したのであろう。正に日本の棚田の原風景がこの地、京都郡勝山矢山に存在していると思われる。

夏四月戊寅朔丙戌、遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。甲午、以直廣參贈賀茂朝臣蝦夷、幷賜賻物本位勤大壹、以直大肆贈文忌寸赤麻呂、幷賜賻物本位大山中。五月丁未朔己未、饗隼人大隅。丁卯、觀隼人相撲於西槻下。

四月九日、恒例の「廣瀬大忌神・龍田風神」を祭祀している。十七日に勤大壹位の賀茂朝臣蝦夷(鴨君蝦夷)直廣參位、また大山中位の文忌寸赤麻呂(上図参照)に直大肆位を授け、賻物を贈っている。五月十三日に隼人大隅と宴会し、二十一日に隼人相撲を西槻の下(飛鳥寺)で観たと記載している。

六月丁丑朔己卯、遣大夫謁者詣京師及四畿內諸社請雨。壬辰、賞賜諸臣年八十以上及痼疾、各有差。甲午、幸吉野宮。壬寅、至自吉野。秋七月丙午朔戊辰、遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。辛未、賜擬遣新羅使直廣肆小野朝臣毛野・務大貳伊吉連博德等物、各有差。

六月三日に大夫謁者を遣わして京及び四畿内の諸社で雨乞いをしている。十六日に諸臣で八十歳以上、あるいは病気のある者に物を与えている。十八~二十六日、吉野行幸。七月二十三日に恒例の「廣瀬大忌神・龍田風神」を祭祀している。二十六日、新羅に派遣しようとした「小野朝臣毛野」・伊吉連博德(連姓を賜っている)に物を与えている。

<小野朝臣毛野>
● 小野朝臣毛野

舒明天皇紀以降では「小野臣」の具体的な人物は記載されていなかった。小野臣妹子などよく知られた人物も含めて、その出自の場所を求めてみよう。

「小野臣」は古事記の御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇)の御子、天押帶日子命が祖となった中に登場する。現地名では田川郡赤村内田小柳辺りを中心とした場所と推定した。

「妹」=「女+未」と分解される。更に「未」=「木+一」と分解され、「山稜が切り離された様」=「道で横切られた様」と読み解いた。味御路味白檮などで用いられた文字である。

図に示した場所で山稜がくっきりと区切られているところが見出せる。更に「女」が付加されているのは、その道が嫋やかに曲がった形をしていることを表していると思われる。妹子=山稜を嫋やかに曲がって窪んだ横切る道が延びた様と読み解ける。

その子に「毛人」が居たと知られる。毛人=谷間にある鱗のような様と読めば、図に示したところにその場所を見出すことができる。毛野毛人の子、妹子の孫に当たる。谷の出口辺りに、父親よりも一回り大きな「鱗」が見出せる。居場所はその近隣と推定される。この後も外交面で活躍なされたようである。

「毛人」には小野朝臣廣人と言う弟が居たと知られている。廣人=谷間が広がった様を表すと読むと、妹子の西側に当たる場所が出自と推定される。更にその子の小野朝臣牛養牛養=牛の形の谷間が長く延びた様がいたと知られている。父親の北側の谷間である。續紀(元明天皇紀)に登場する。

八月丙子朔己亥、幸吉野。乙巳、至自吉野。九月乙巳朔戊申、原放行獄徒繋。庚戌、小野朝臣毛野等、發向新羅。十月乙亥朔乙酉、幸菟田吉隱。丙戌、至自吉隱。十二月甲戌朔戊寅、幸吉野宮。丙戌、至自吉野。賜淨大肆泊瀬王賻物。

八月二十四~三十日に吉野行幸。九月四日に獄に繋がれた人を放している。六日、小野朝臣毛野等が新羅に向かったと記している。十月十一~二日に菟田の吉隱に行幸されている。十二月五~十三日、吉野行幸。その日、「泊瀬王」(?)に賻物を贈っている。

<菟田吉隱>
菟田吉隱

「菟田」の地にある「吉隱」とは何処を示しているのであろうか?・・・「菟田」を散策すると、天武一行が吉野を脱出した際に通過する隱郡が目に入って来る。その地の驛家に火を付けて、逃亡情報が伝わらないようにした場所であった。

吉=蓋+囗=蓋をするような様すると、「隱郡」の谷間出口を塞ぐような場所、その地を示しているのではなかろうか。吉隱=隠郡の出口に蓋をするようなところと読み解ける。現地名は北九州市小倉南区母原である。

因みに通説では吉隠(吉名張、ヨナバリ)と訓されている。「隱郡」を「名張」とする解釈だから、それはそれとして辻褄があっているが、書紀に記載された名張は無視されているようである。『壬申の乱』は奈良大和・滋賀大津を舞台としていない、のである。

そして凱旋帰京に際には南隣の阿閉に宿泊している(672910日)。それから二十三年余りが過ぎ、今回の行幸もおそらく阿閉泊であったろう・・・即位九年(西暦695年)も静かに暮れて行ったようである。