2020年11月18日水曜日

高天原廣野姬天皇:持統天皇 (6) 〔469〕

高天原廣野姬天皇:持統天皇 (6)


引続き即位六年(西暦692年)七月からの記事である。引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらどを参照。

秋七月甲午朔乙未、大赦天下、但十惡・盜賊不在赦例。賜相模國司布勢朝臣色布智等・御浦郡少領闕姓名與獲赤烏者鹿嶋臣櫲樟、位及祿。服御浦郡二年調役。庚子、宴公卿。壬寅、幸吉野宮。甲辰、遣使者祀廣瀬與龍田。辛酉、車駕還宮。是夜、熒惑與歲星、於一步內乍光乍沒、相近相避四遍。

七月二日に大赦したが、十悪(国家を揺るがす謀反)・盗賊は含めていない。相模國の赤烏(前記の赤鳥、よく見ると烏だったのかもしれない)を捕獲した件での褒賞したと記載している。相模國司布勢朝臣色布智(布勢臣耳麻呂に併記)、御浦郡少領闕姓名、鹿嶋臣櫲樟(「赤鳥鶵」に併記)に位と禄を与え、御浦郡の二年間の調役を赦している。

七日に公卿等と宴会をし、九日に吉野行幸。十一日に恒例の「廣瀬・龍田」を祭祀している。二十八日に吉野から帰還している。この夜、熒惑(火星)と歲星(木星)が接近しては離れるという動きが四回見られた、と言う。

八月癸亥朔乙丑、赦罪。己卯、幸飛鳥皇女田莊、卽日還宮。九月癸巳朔辛丑、遣班田大夫等於四畿內。丙午、神祇官奏上神寶書四卷・鑰九箇・木印一箇。癸丑、伊勢國司獻嘉禾二本。越前國司獻白蛾。戊午、詔曰、獲白蛾於角鹿郡浦上之濱、故増封笥飯神廿戸、通前。

八月三日に恩赦している。罪人が居なくなるほどの回数であろう。十七日に飛鳥皇女の田荘に行幸するが、その日に宮に還っている。この皇女は、天智天皇が阿倍倉梯麻呂大臣の娘、橘娘を娶って誕生したと記載されていた。勿論持統天皇とは異母姉妹となる。

二年後の即位八年八月十七日に「爲皇女飛鳥、度沙門一百四口」と記述されている。特別な存在だったように伺えるが、その理由を憶測してみると、飛鳥皇女の妹の新田部皇女と鸕野皇女(持統天皇)とは隣り合わせの配置であったと推定した。年齢的にも近く、この三姉妹は特に仲が良かったのではなかろうか。

殯に際して柿本人麻呂が残した歌の中に幾度も登場する飛鳥河(近飛鳥近隣、現大坂川と推定)と葛城との間を行き来する三姉妹の姿が浮かんで来るようである。乱世を生き抜いた女性たちだったのであろう。

九月九日に班田大夫(班田収受の管理役人)を四つの畿内に遣わしている。十四日に神祇官が神寶書四卷などを奏上している。二十一日に伊勢國司が「嘉禾二本」を、越前國司が「白蛾」を献上している。二十六日、「白蛾」を「角鹿郡浦上之濱」で捕獲した故に「笥飯神」に二十戸増封せよ、と命じている。

<伊勢國嘉禾二本>
伊勢國嘉禾二本

「嘉禾二本」とは?…良き稲を二本と訳されているようだが、稲は「束」で数える筈、それを「本」と記している。理由があってのこと思うべし、であろう。しかもたったの二本、勿論これは地名と解釈するのが妥当であろう。

「嘉」=「壴+加」と分解される。「壴」の解釈には異説があるようだが、「鼓(ツヅミ)」の原字と見做すと、地形象形的には、「嘉」=「鼓のように丸く取り囲むように積み上がった様」と読み解ける。

嘉禾=鼓のように丸く取り囲むように積み上げられた地から稲穂のようにしなやかに曲がる山稜が延びているところと読み解ける。二本=二つに岐れた(くっ付いた)麓と解釈する。

図に示した、現地名は北九州市小倉北区竪林町にある山稜に囲まれた場所を表していると解る。天武天皇紀に伊勢國からの白茅鴟の献上が記載されていた。勿論目出度い鳥ではない。その場所より更に紫川下流域へと開拓が進んで行ったことを告げていると思われる。

<越前國角鹿郡白蛾>
越前國角鹿郡白蛾

「越前國」の表記は、書紀中に二回のみである。継体天皇紀に一度とここだけの登場となる。勿論古事記には登場しないが、「越=高志」とすれば、「高志前」の表記が、一度だけ、記述されている。

幼い応神天皇が禊祓のために訪れた高志前之角鹿(都奴賀)である。「越國」は越國守阿部引田臣比羅夫で登場している。現地名は北九州市門司区伊川と推定した。

既に登場した周辺の国名、越國・飛騨國を図に併記してみると、古事記が江野財と、ざっくりと表現した地域が、その地形に基づいてきちんと区画されていることが明らかとなったようである。建内宿禰の子、若子宿禰が祖となった地と記載されていた。

「白蛾」は、蝶々のような虫か?…ではなく、勿論地形を表している。頻出の白=くっ付いた様である。「蛾」=「虫+我」と分解される。既出の虫=蟲=小ぶりな山稜が生え出た様と読み解いた。同じく既出の我=ギザギザの刃がある戈の様と読み解いた。「蘇我」に含まれる文字である。要するに「虫」と「我」の山稜がくっ付いているところと読み解ける。

図に示した山稜の谷間を表し、それは浦上之濱に面する場所であることが解る。更に続けて笥飯神に増封したと記載されている。「笥飯」の文字列は垂仁天皇紀に「越國笥飯浦、故號其處曰角鹿也」と記されたのが最初であり、その後に「笥飯宮」、「笥飯大神」などが出現している。書紀も時代と共にざっくりとした表記が精緻になって行ったように伺える。

冬十月壬戌朔壬申、授山田史御形務廣肆、前爲沙門學問新羅。癸酉、幸吉野宮。庚辰、車駕還宮。十一月辛卯朔戊戌、新羅遣級飡朴億德・金深薩等、進調。賜擬遣新羅使直廣肆息長眞人老・務大貳川內忌寸連等祿、各有差。辛丑、饗祿新羅朴憶德於難波館。

十月八日に新羅で学問僧となっていた「山田史御形」に務廣肆を授けている。ここだけでの登場であるが、後の聖武天皇の教育係を仰せつかっていることから記載されたかも、である。十二~九日、吉野行幸。十一月八日に新羅が使者を送って進調。新羅に遣わす予定の「息長眞人老」・川內忌寸連(高向玄理の場所)等に禄を与えている。十一日、新羅の使者と宴会をしたと記している。

<山田史御形>
● 山田史御形

「山田」は幾つかの地にあった地名を思われるが、無冠とされる場所を求めると、仁賢天皇の御子に春日山田皇女(古事記では春日山田郎女)が誕生し、後に安閑天皇の妃となり「山田皇后」と称された記載されている。

どうやら無冠の「山田」は春日の地にあったと思われる。古事記で求めたその地で「山田史御形」(別名が御方、三方とされる)の地形が存在するかを確認することになる。

図に示した通り、既出の史=中+又=真ん中を突き通す山稜御=束ねる様形=四角く区切られた様と解釈すると必要な要件を満たす場所であることが解る。「御方」、「三方」の方=鍬の様を象った文字であり、その通りの形を示している。現地名は田川郡赤村内田山の内である。

「春日山田」の場所が、類似の地形に溢れて一に特定し辛い有様であったが、この人物の登場で、どうやら落着したような感じである。「山田皇后」は、初代の女性天皇にと勧められたが、辞退しなければ、少しは歴史が変わったかもしれない。

<息長眞人老>
● 息長眞人老

舒明(息長足日廣額)天皇以来「息長」からは久々の登場である。 そんな訳で息長の地を探索すると、「老」の地形が容易に見出せる。息長眞手王の子孫が蔓延っていたと思われるが、案外表舞台で見かけることは少ないようである。

あらためてWikipediaの「息長」を・・・、

息長氏は近江国(現在の滋賀県にほぼ該当する)坂田郡(現在の米原市のほとんどと長浜市の一部)を本拠とした古代豪族であるとするのが一般的な見解である。しかし、河内に息長氏末裔が近世まで存在しており、文献などには信頼性が欠ける部分も多いが、看過出来ない部分も有り河内が本拠であるという説も有る。また、播磨・吉備などにも息長を名に持つ関係者が古代資料には残っており播磨・吉備が本拠である可能性もある。息長の名義発祥の由来は、上古から持つ製鉄・鍛冶に関する技術からこの氏が生じたとみられる。『記紀』によると応神天皇の皇子若野毛二俣王の子、意富富杼王を祖とするとされている。また、山津照神社の伝によれば国常立命を祖神とする。皇室との関わりを語る説話が多い。姓(かばね)は公(または君、きみ)。同族に三国公(のち、三国真人)・坂田公(のち、坂田真人)・酒人公(のち、酒人真人)などがある。

・・・この重要氏族について、全く不詳の有様を露わにしている記述であろう。「息長」の理解の程度で”歴史学”の浅底が伺える。ともかくも途絶えながらこの後も表舞台に登場される一族だったと伝えられている。

十二月辛酉朔甲戌、賜音博士續守言・薩弘恪、水田人四町。甲申、遣大夫等、奉新羅調於五社、伊勢・住吉・紀伊・大倭・菟名足。

十二月十四日に音博士の續守言・薩弘恪に一人当たり四町の水田を与えている。二十四日、新羅の調を五社(伊勢住吉紀伊(紀伊國々縣神)大倭・「菟名足」)に奉っている。

<菟名足社>
菟名足社

五社の內、四社は既出であるが、「菟名足社」は全くの初登場であり、かつ極めて情報の少なく手掛かりらしきものも殆ど入手不可の状況である。

致し方なく検索すると、大和國添上郡宇奈多理坐高御魂神社と言う神社が、現地名は奈良市法華寺にあることが分った。

「宇奈多理」は別名として「菟名足・菟足・宇奈足」の表記も存在するとのことで、どうやら当該神社の本貫の地は「大和國添上郡」、書紀記述にすると「倭國添上郡」となろう。

「倭國添上郡・添下郡」については欽明天皇紀及び天武天皇紀に登場する。後者の詳細を既に読み解いたこちらを参照。「添上郡」故に彦山川に沿って上流域を探索すると、「菟名足」の地形を難なく見出すことができる。図に示した現地名は田川郡添田町添田で彦山川に畑谷川が合流する地点、その三角州の上に鎮座していたと推定される。

「菟」は菟道に使われた文字であり、頻出の名=山稜の端の三角州足=山稜が[足]のように延びている様の地形要素を満たす地形であることが解る。現在は須佐神社があるが、おそらくその地にあったのであろう。山稜の端で「添下郡」までを見通せる絶好の位置であり、需要な通行の拠点に鎮座していたと思われる。

七年春正月辛卯朔壬辰、以淨廣壹授皇子高市、淨廣貳授皇子長與皇子弓削。是日、詔令天下百姓、服黃色衣、奴皁衣。丁酉、饗公卿大夫等。癸卯、賜京師及畿內有位年八十以上、人衾一領・絁二匹・綿二屯・布四端。乙巳、以正廣參贈百濟王善光、幷賜賻物。丙午、賜京師男女年八十以上・及困乏窮者、布各有差。賜船瀬沙門法鏡、水田三町。是日、漢人等奏蹈歌。

即位七年(西暦693年)正月の記事である。二日に皇子高市に淨廣壹を、皇子長皇子弓削に淨廣貳の位を授けてる。この日、百姓は黄色、奴には皁衣(くりぞめのきぬ)を着用せよ、と命じている。七日に公卿大夫等と宴会。十三日に京及び畿内の八十歳以上の有位の者に綿布などを与えている。十五日に百濟王善光()に正廣參位を授けている。十六日に京の男女八十歳以上の者、困窮者に布を与えている。「船瀬沙門」(船泊りを各地に造ったと言われる)に水田三町を授けている。この日、漢人等が蹈歌(足を踏み鳴らしながらの歌)を奏でたと記している。

二月庚申朔壬戌、新羅遣沙飡金江南・韓奈麻金陽元等、來赴王喪。己巳、詔造京司衣縫王等、收所掘尸。己丑、以流來新羅人牟自毛禮等卅七人、付賜憶德等。三月庚寅朔、日有蝕之。甲午、賜大學博士勤廣貳上村主百濟、食封卅戸、以優儒道。乙未、幸吉野宮。庚子、賜直大貳葛原朝臣大嶋賻物。壬寅、天皇至自吉野宮。乙巳、賜擬遣新羅使直廣肆息長眞人老・勤大貳大伴宿禰子君等・及學問僧辨通・神叡等、絁綿布各有差。又賜新羅王賻物。丙午、詔令天下、勸殖桑紵梨栗蕪菁等草木、以助五穀。

二月三日に新羅が使者を遣わして王(神文王?)が亡くなったことを伝えている。十日に造京司の「衣縫王」が掘り出した尸(死体)を収めたと記している。新益京設営の作業中に見つかったのであろうか。三十日、新羅人三十七人が漂着、それを新羅の使者に付け与えている。

三月初め、日蝕あり。五日、儒道に優れた大學博士の上村主百濟(上寸主光父の子)に食封三十戸を与えている。六~十三日、吉野行幸。十一日に葛原朝臣大嶋(中臣連大嶋)に「賻物」(香典の類)を与えている。藤原朝臣史(不比等)系列以外には使えなくなった、それはもう少し後だが、編纂時は既にそうなっていたのであろう。

十六日に新羅への使者とした息長眞人老大伴宿禰子君(大伴宿禰手拍に併記)等及び学問僧等に綿布などを与えている。十七日に「桑・紵・梨・栗・蕪菁等」を植えることを勧めている。

<衣縫王>
● 衣縫王

調べると用明天皇の第五皇子である「殖栗皇子」(古事記では植栗王)の後裔と知られているようである。その地の近隣が出自の場所と思われる。

「衣縫」の文字列は、大藏衣縫造麻呂などに含まれていた。衣縫=衣のような形の山陵(衣)が寄り集まって盛り上がっている(縫)ところと読み解いた。崖の側面の山稜の模様を表した表記と思われる。

その麓が衣縫王の出自の場所と推定される。それにしても大勢の「王」達の出自の場所を求めるのは厄介である。もう少し情報を・・・多過ぎて原資料にも記載がなかったのであろうか。

ご本人はこの後にそれなりに活躍なされたようで、越智山陵(斉明天皇陵であろう)の修復などを担当されている。どうやら土木建築に才があったようである。最終冠位は従四位下とのこと。

夏四月庚申朔丙子、遣大夫謁者詣諸社祈雨、又遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。辛巳、詔「內藏寮允大伴男人坐贓、降位二階、解見任官。典鑰置始多久與菟野大伴亦坐贓、降位一階、解見任官。監物巨勢邑治、雖物不入於己知情令盜之、故降位二階、解見任官。然、置始多久、有勤勞於壬申年役之、故赦之、但贓者依律徵納。」

四月十七日、大夫謁者を派遣して諸社に詣でて雨乞いを、また恒例の「廣瀬大忌神・龍田風神」を祭祀している。二十二日に內藏寮允(宝器の管理をする第三等官)の大伴男人(大伴連馬來田の子;現在の道路が大きく曲がって突き出ているところ)が「贓」(不正な手段で金品を入手)をし、よって二階降位し、見任官を解任する。

また典鑰(諸司の倉の鍵を管理)の置始多久(置始連大伯)菟野大伴(菟野馬飼造に併記)も「贓」を行った故に降位一階し解任する。監物(諸司の倉の出し入れを管理)の「巨勢邑治」は自らは行っていないが、盗ませている。よって降位二階し解任する。但し、「置始多久」は壬申の役で功労によって赦す、と命じられている。

<巨勢邑治(祖父)・子祖父>
● 巨勢邑治

罪人には「(朝)臣」姓を付けないと言う徹底ぶりなのだが、この人物はこの後も勤務に励んで正三位(中納言)になっているとのことである。

祖父が大臣巨勢臣德太、父親が黑麻呂の由緒ある家柄であろう。調べてみて実に興味深い結果となった。大勢の巨勢一族なのだが、この谷間で目を引く秋葉神社がある山、正に「巨勢」の「勢」を表す地形であるが、この地に関連する人物は登場していなかった。

名前は一見、関係なさそうに見えるが、「邑」=「囗+巴(卩)」と分解すると、巴(卩)」=「人がうずくまっている様」を象った文字である。地形象形とすると、邑=大地が丸く区切られている様と読み解ける。

治=氵+台=水辺で耜のようになっている様と読むと、「勢」の麓が延び出た地形が見出せる。別名に祖父があったと伝えられている。「祖」=「示+且」と分解され、「積み重なった高台」と読み解ける。「父」=「交差する様」であり、「勢」の西麓で延び出た山稜が交差するように集まる地形が見出せる。彼の居場所は、その交点付近であったと推定される。

續紀の文武天皇紀には弟の巨勢朝臣子祖父が登場する。「祖父」が居た場所から更に先に延びた場所を示していると思われる。父親の黑麻呂については、古事記に幾度か登場する黑=囗+米+灬(炎)=炎のように延びた山稜の端に田がある様と読み解いた。出自の場所は、図に示した場所と思われる。

麓がこの区域の地形的な厳しさが開拓を遅らせていたものと推測される。前記した下流域への進展と合わせ「巨勢」の開拓の歴史を垣間見ることができたように思われる。

五月己丑朔、幸吉野宮。乙未、天皇至自吉野宮。癸卯、設無遮大會於內裏。六月己未朔、詔高麗沙門福嘉還俗。壬戌、以直廣肆授引田朝臣廣目・守君苅田・巨勢朝臣麻呂・葛原朝臣臣麻呂・巨勢朝臣多益須・丹比眞人池守・紀朝臣麻呂、七人。秋七月戊子朔甲午、幸吉野宮。己亥、遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。辛丑、遣大夫謁者詣諸社祈雨。癸卯、遣大夫謁者詣諸社請雨。是日、天皇至自吉野。

五月初め~七日、吉野行幸。十五日に内裏で無遮大會を催している。六月初め、高麗沙門を還俗させている。四日に以下の者に直廣肆位を授けている。「引田朝臣廣目・守君苅田巨勢朝臣麻呂(弟の巨勢朝臣多益須に併記)葛原朝臣臣麻呂(中臣朝臣々麻呂)巨勢朝臣多益須(馬飼に併記)丹比眞人池守紀朝臣麻呂(父親の紀大人臣に併記)

七月七~十六日、吉野行幸。十二日に恒例の「廣瀬大忌神・龍田風神」を祭祀させている。十四日及び十六日に大夫謁者を遣わして諸社で雨乞いをさせたと記載している。

<引田朝臣少麻呂-廣目・阿倍朝臣安麻呂-船守>
● 引田朝臣廣目・引田朝臣少麻呂

超が付くほど有名な阿倍引田臣比羅夫の子達の登場である。どうやらそもそもは阿倍一族なのだが、「阿倍」を名乗らず「引田」と称していたのであろう。

「比羅夫」の谷間を遡ると、谷間が広がっている場所が見出せる。廣目=谷間を広げた様、その通りの地形であろう。こちらが弟で、兄は「少麻呂」と記載されている。

少=山稜の端の三角形を削ったような様と紐解いた。少名毘古那神などに用いられた文字である。その地が「麻呂」な地形であるところを探すと隣接した場所であることが解る。續紀の文武天皇・元明天皇紀になってもう二人の弟、阿倍朝臣安麻呂阿倍朝臣船守が登場する。

「安麻呂」は頻出の安=山稜に挟まれて嫋やかに曲がる様とすると、現在の七ツ石峠からの谷間を示していると思われる。「船守」の船=船のような様であるが、水辺に突き出た山稜を表し、守=肘を張ったような山稜に挟まれた様であり、図に示した場所と推定される。但し、山稜の端が延びた地形であるが、現在は貯水池に沈んでしまったようである。

現在は広大な墓地となっていて若干変形が見られるが、基本的な地形は保たれているように伺える。現在にも繋がる阿倍一族の本貫の地、そこは巨大霊園となっているようである。

八月戊午朔、幸藤原宮地。甲戌、幸吉野宮。戊寅、車駕還宮。九月丁亥朔、日有蝕之。辛卯、幸多武嶺。壬辰、車駕還宮。丙申、爲淸御原天皇、設無遮大會於內裏。繋囚悉原遣。壬寅、以直廣參贈蚊屋忌寸木間、幷賜賻物、以褒壬申年之役功。

八月初めに藤原宮の地に行幸し、十七~二十一日まで吉野行幸している。九月初めに日蝕があったようである。五日~六日に「多武嶺」に行幸している。斉明天皇紀に田身(大務)嶺と記載された場所であろう。多武=山稜の端の三角州が戈(矛)のような様と解釈される。「矛」は「務」の含まれる文字要素である。

YAMAPの登山地図によると麓の道の駅からおよそ45min程度で辿り着くが、車駕でゆっくり進めば山頂(小富士山)の行宮(寺?)で一泊の旅となろう。京が一望できる見晴らしの良い場所である。

九月十日に天武天皇を偲んで内裏で無遮大會を催し、囚人を悉く赦している。「蚊屋忌寸木間」に直廣參位を壬申の役の功によって授けている。

<蚊屋忌寸木間>
● 蚊屋忌寸木間

『壬申の乱』における東漢一族の活躍は素晴らしいかったのであろう。実記された部分は正に氷山の一角、一方で戦死者は極僅かしか記述されないが、前線で戦ったのは、やはり東漢のような立場の人々のように推測される。

と言うわけで、この人物も東漢一族だったと知られているようである。全て既出の文字列である。蚊=虫+文=延びた山稜が交差するような様屋=尸+至=尾根が延び至った様間=門+日(月)=囲まれた地に三日月のような山稜がある様と読み解いた。

東漢一族の地では珍しく地形が明瞭な場所であろう。「東漢直駒」の南側の谷間を表す表記であることが解る。凄まじいばかりに登場した一族、その空隙にすっぽりと収まったことに感動である。書紀編者達の正確な文字使いによるものであろう。

冬十月丁巳朔戊午、詔「自今年、始於親王下至進位、觀所儲兵。淨冠至直冠、人甲一領・大刀一口・弓一張・矢一具・鞆一枚・鞍馬。勤冠至進冠、人大刀一口・弓一張・矢一具・鞆一枚。如此、預備。」己卯、始講仁王經於百國、四日而畢。

十月二日に、今年から親王以下、その兵器を視察しようと思うので、淨~直冠までと勤~進冠までに別けて備えるようにと命じている。十月二十三日から四日間、国々(百國←諸國)で仁王経を講じさせている。

十一月丙戌朔庚寅、幸吉野宮。壬辰、賜耽羅王子・佐平等、各有差。乙未、車駕還宮。己亥、遣沙門法員・善往・眞義等、試飲服近江國益須郡醴泉。戊申、以直大肆授直廣肆引田朝臣少麻呂、仍賜食封五十戸。十二月丙辰朔丙子、遣陣法博士等、教習諸國。

十一月五~十日にかけて吉野行幸。七日に耽羅王子等に物を与えている。十四日に沙門を遣わして「近江國益須郡」の「醴泉」(甘い水、軟水か?)を試し飲みさせている。二十三日に引田朝臣少麻呂(弟の引田朝臣廣目に併記)に直大肆位を授け、食封五十戸を与えている。十二月二十一日、陣法博士等を遣わして、諸國で教習させている。

<近江國益須郡>
近江國益須郡

さて、なかなかその範囲が定まらない「近江國」なのであるが、今回で決めたく・・・取り敢えず、郡の名前を紐解いてみよう。

「益」は前出の新益京で用いられていた。「谷間に挟まれた一様に平らな様」と読み解いた。「須=州」と合わせると、益須=谷間に挟まれた平らな地の傍らに州があるところとなる。これで一目瞭然の地形が見出せる。

蘇我田口臣の出自の場所である。含まれる「口」が「縊れ」の状態を示すところとなろう。ある意味「益」をうまく使った表記と言える。

通説は「益須(ヤス)」と読んで現在の滋賀県野洲市に当てているようであるが、ちょいと無理筋の読み方であろう。訓が注記されないことから、様々な解釈が横行するようである。おっと、この比定には異説がない(?)ようで・・・折角の見事な地形象形表現が台無しである。

ところで醴泉」も甘酒のような解釈もあって、わざわざ学識のあろう筈の沙門に試飲させるものか、疑わしい。と言うことは、これもその泉の場所を表す表現であろう。

醴泉

「醴」=「酉+豊」と分解する。「酉」は、古事記では「山麓の峠に向かう坂」と解釈したが、書紀ではそのまま「酉」=「酒樽」の象形とする。地形象形的には酉=幾本かの山稜が縦に並んでいる様と読み解いた。豊=高台の上に揃って並ぶ様である。図に示した場所の山稜が並ぶ姿を表していることが解る。後にこの「醴泉」の効能が素晴らしかったと記載されている(詳細はそちらで)。

泉は、現在の池とは異なり、麓で湧水があった場所であろう。現在風に言えば、苅田アルプスの天然水、であろうか。古事記の近淡海之安國造之祖意富多牟和氣、その比賣を倭建命娶ったと記載されて以来、早くから開拓された土地であったと思われる。

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即位七年(西暦693年)も漸く暮れたようである。更に続く・・・。