2020年11月12日木曜日

高天原廣野姬天皇:持統天皇 (5) 〔468〕

高天原廣野姬天皇:持統天皇 (5)


引続き即位五年(西暦691年)八月の記事からである。引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらどを参照。

八月己亥朔辛亥、詔十八氏大三輪・雀部・石上・藤原・石川・巨勢・膳部・春日・上毛野・大伴・紀伊・平群・羽田・阿倍・佐伯・采女・穗積・阿曇、上進其祖等墓記。辛酉、遣使者祭龍田風神・信濃須波・水內等神。九月己巳朔壬申、賜音博士大唐續守言・薩弘恪・書博士百濟末士善信、銀人廿兩。丁丑、淨大參皇子川嶋薨。辛卯、以直大貳贈佐伯宿禰大目、幷賜賻物。

八月十三日に以下の十八氏に祖先の墓記を差し出せたと述べている。「大三輪・雀部・石上・藤原・石川・巨勢・膳部・春日・上毛野・大伴・紀伊・平群・羽田・阿倍・佐伯・采女・穗積・阿曇」全て既出の地なので、詳細は省いて全体の配置を纏めてみよう。

二十三日に使者を遣わして龍田風神、「信濃須波・水內等神」を祭祀している。<「龍田風神」は先月祭祀したばかりなのであるが、また信濃の神は如何なる繋がりで登場したのであろうか、併記される廣瀬大忌神は?・・・下記で信濃國の神々の場所を求めて考察してみよう>

九月四日に音博士、書博士等に銀二十両を各人に与えている。九日に皇子川嶋が亡くなっている。二十三日に佐伯宿禰大目に直大貳位を贈っている。<直前に亡くなったのであろう。天武天皇の吉野脱出時に随行していた>。

<十八氏墓記>
十八氏墓記

挙げられた十八氏を眺めると、幾つかの特徴が見受けられるようである。天皇家そのものが把握できている氏は別として、天武天皇以前も含めて重要な役割を果たした一族の系譜を取り纏めておく必要があったのであろう。

『壬申の乱』で多くの古豪が復活したことを記載していた。天下が引っ繰り返る時に起こる一つの現象であろう。

天智天皇が仕掛けた『乙巳の変』の敵役である「蘇我氏」の素性も分っているようで、決して明瞭ではないが、その後も引き継続き政権に深く関わる人材を供給している。

事実、古事記が記述する大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)の御子、「建内宿禰」の系譜に関わる氏が多く挙げられている(❷雀部、❺石川、❻巨勢、❿大伴、⓬平群、⓭羽田、⓯佐伯)。本文中でも述べたが、「建内宿禰」に関する記述は「記紀」で大きく異なる上に、それぞれが完結したものにはなっていないようである。やはり墓記は提出できなかったのであろう。あるいは都合の悪いことになって省略したか、である。

もう一つの多勢の集団は、邇藝速日命一族に関わる氏族であろう(❸石上[物部]、❼膳部、❽春日、⓰采女、⓱穂積)。丸邇氏(書紀では和珥氏)のその一族だが、推古天皇以降に登場する人物は見当たらないようである。春日から尾張、現地名では田川郡赤村内田から北九州市小倉南区長野に至る南北谷間に広がった一族であるが、未だにその伝承を明らかにすることはできていないようである。

神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が香春岳の東南麓に居を構えた後も敵対しながら融和へと進めた重要な同族の天神一族なのだが、やはり伝承は途切れていたのであろう。上記の現地名の範囲で今に残る伝承を調査されることを期待したい。最近、藤原宮(京とは言わず)跡の発掘結果が公表されているが、想定したものが見出せなかったようである。希望を捨てず、頑張るそうなのだが、不撓不屈の心意気と称賛するべきことなのであろうか?・・・。

古さでは筆頭となる氏族(❶大三輪、❾上毛野、⓫紀伊、⓲阿曇)も伝承はあっただろうが、差し出された結果が語られない以上何とも言い難いところである❶大三輪は大国主神・大物主大神の時代に登場する。「記紀」の記述が大きく異なるのは、「墓記」によるものなのかもしれない。いずれにせよ「三輪」は、出雲の大物主大神に関わる一族である。古来出雲と奈良大和は密接な関係にあった、で済ませることは不可能であろう。

❾上毛野は古事記の「木國」が出自の地である。やはり大国主神の時代に登場するが、やはり墓記となれば難しかったのではなかろうか。尚、「上毛野」は崇神天皇紀に出現する。⓫紀伊は古事記の「紀國」であり、古事記では語られないが、伊勢神宮に対応する古さを持つ地である。⓲阿曇は伊邪那岐の時代に登場する。上記と同様に古さを求めても難しい状況だったと推測される。

❹藤原(中臣)は伊勢神宮の祭祀を担う役柄で、しっかりと墓記が残存していたように思われるが、余りに多くの人材が登場して錯綜としていたのかもしれない。書紀に記載された結果は実に整合性のある配置となっており、墓記に基づいて整理されたように伺える。

⓮阿倍は崇神天皇紀辺りで登場するのであるが、これも大国主神の時代には開かれていた地であって、祖先となれば重要情報をもたらすと考えられたのではなかろうか。更にこれは出雲に関連する。出雲の詳細記述の取捨選択に欠かせない情報もあったであろう。結果は、全て廃棄、だったのである。

「記紀」、とりわけ書紀編纂には重要な情報提供がなされたのではなかろうか。古事記は天武天皇が舎人稗田阿禮に古い資料を集めて読むことを命じ、それを纏めて記録したのが太安萬侶と知られる。生い立ちが異なるが、それぞれの側面から解読する必要があると思われる。いずれ書紀も全文読み解いてみようかと思う。

<信濃須波・水内神>
信濃須波・水内神

信濃國(現地名は京都郡苅田町雨窪久)にある二神を祭祀した記載している。先ずは「須波神」を求めてみよう。頻出の文字列故に須波=州の端と読む。

信濃の二枚貝の舌のような山稜の端を表していると思われる。更によく見ると端が延びて台地になっていることが解る。

「水内」も既出の文字列で水內=川が谷間に入り込もうとしているところと読み解ける。「內」=「冂+入」と分解され、地形象形的には「囲われた地に入り込む様」と読み解いた。図に示した谷間が縊れて狭くなった場所に川が流れ込んでいる、特徴的な地形を「神」として表現したのであろう。

「須波」=「諏方」とすると、後(元正天皇紀)に、諏方國として分離したと記された地に該当すると場所と思われる(後に元に戻されるのだが)。入組んだ谷間の地形であって、國としての纏まりは希薄な地域だったのかもしれない。

更にその谷間の奥には平らな頂の山稜が横たわっていることが分る。即ち、これら二神は「凡」の文字形らしき谷間に並ぶ田の守り神であると推測される。五穀豊穣をもたらす龍田風神と同じくご利益のある神々と考えられていたのであろう。

冬十月戊戌朔、日有蝕之。乙巳、詔曰「凡先皇陵戸者置五戸以上、自餘王等有功者置三戸。若陵戸不足、以百姓充。免其徭役、三年一替。」庚戌、畿內及諸國、置長生地各一千步。是日、天皇幸吉野宮。丁巳、天皇至自吉野。甲子、遣使者鎭祭新益京。

十月初め、日食があった。八日、天皇の「陵戸」(墓守)は五戸以上、王等で功の有った者は三戸とせよ、と述べている。不足したら百姓から充当しろとも。三年で交替させよと命じている。十三日に畿内と諸國に「長生地」(狩場で殺生を禁じた地?)を各一千歩設けている。この日から二十日まで、吉野行幸。二十七日に「新益京」の地鎮祭を行ったと記している。

<新益京>
新益京

藤原宮を中心とした京を意味するのであろうが、藤原京とは記載されていない。先ずは「新益」の文字を読み解いてみよう。

頻出の新=辛+木+斤=山稜を斤で切り取った様と解釈した。「益」=「八+一+八+皿」と分解される。これをそのまま地形象形表記すると、益=二つの谷間に挟まれて一様に平らな様と読み解ける。

藥師寺の門前に広がる地を表していることが解る。現在は広大な工場敷地となっているようで当時の地形を伺うことは難しいが、おそらく以前の土地も平坦な場所だったのではなかろうか。

「益」=「縊れた様」とも読める。磯城縣の首がぶら下がった付け根に当たる場所と解釈できそうである。また、藤原宮の周りを取り囲む配置ではなく、「新たに益した地」とも読めそうであるが、曖昧である。現地名は田川市夏吉である。

世界大百科事典によると・・・694年(持統8)から710年(和銅3)までおかれた,日本古代で中国的な条坊制を採用したことの明らかな最初の本格的な都城。藤原京は《日本書紀》では〈新益京(しんやくのみやこ)〉の名で呼ばれている。これは従来の飛鳥の都がその西北に拡張した意と解せられる・・・と記載されている。

十一月戊辰、大嘗。神祗伯中臣朝臣大嶋、讀天神壽詞。壬辰、賜公卿食衾。乙未、饗公卿以下至主典、幷賜絹等各有差。丁酉、饗神祗官長上以下至神部等及供奉播磨因幡國郡司以下至百姓男女、幷賜絹等各有差。十二月戊戌朔己亥、賜醫博士務大參德自珍・呪禁博士木素丁武・沙宅萬首、銀人廿兩。乙巳、詔曰「賜右大臣宅地四町、直廣貳以上二町、大參以下一町。勤以下至無位、隨其戸口、其上戸一町・中戸半町・下戸四分之一。王等亦准此。」

十一月一日(異論がある?)、新嘗祭を行い、中臣朝臣大嶋が「天神壽詞」を読んだと記している。二十五日に公卿に「食衾」(食事と布団)を、二十八日には、公卿以下から主典までと宴会及び絹等を、三十日には神祗官長上から神部の者等及び播磨・「因幡」の國司以下百姓男女と宴会をし、絹等を与えている。

十二月二日に医博士、呪禁博士(典薬)に銀を一人当たり二十両与えている。八日、右大臣に宅地四町、直廣貳以上に二町、大參以下に一町を与えている。勤以下無位まではその戸口に従うこと。上戸は一町、中戸は半町、下戸は四分の一。王等もこれに準じる、と命じられている。

<因幡國>
因幡國

「因幡」國の表記は、これが最初である。いや、既に天武天皇紀に登場していたのでは?…それは因播(國)であった。「幡」と「播」が表す意味は、同じだから、これらは同じ國、と通常は解説されている。

本当に同じ意味であろうか?…古事記でも幾度か述べたように漢字の”音”に寄り添うことは、危険である。地形象形としても、幡=巾+番=布のように広がり延びる様播=手+番=手のような山稜が広がり延びる様であって、示す地形が異なっているのである。

求め結果は、図に示した通り、古事記の針間國=播磨國、即ち、手のような山稜が針のような隙間で並んだ地の先にある地形を表し、稻羽國の稻穗が羽のように広がった地を因幡國と呼んでいることが解る。現在の城井川と岩丸川に挟まれた中州のような場所である。

六年春正月丁卯朔庚午、増封皇子高市二千戸、通前五千戸。癸酉、饗公卿等、仍賜衣裳。戊寅、天皇觀新益京路。壬午、饗公卿以下至初位以上。癸巳、天皇幸高宮。甲午、天皇至自高宮。二月丁酉朔丁未、詔諸官曰、當以三月三日將幸伊勢、宜知此意備諸衣物。賜陰陽博士沙門法藏・道基、銀人廿兩。乙卯、詔刑部省、赦輕繋。是日、中納言直大貳三輪朝臣高市麻呂、上表敢直言諫爭天皇、欲幸伊勢妨於農時。

即位六年(西暦692年)正月四日に太政大臣である皇子高市に封戸二千を増やしている。通して五千戸になったと追記している。七日、公卿等と宴会し、衣裳を与えている。十二日に新益京の路を観に行っている。十六日、公卿以下初位以上の者と宴会。二十七~八日に「高宮」に行幸された。

二月十一日に、三月三日に伊勢に赴くから諸々の衣物を準備せよ、と命じている。その日、陰陽博士に銀二十両を与えている。十九日、軽い罪の者を赦すように刑部省に命じている。同日、中納言の三輪朝臣高市麻呂が伊勢行幸は「農時」(農作の時節)を妨げると上表している。次段に関連記事あり。

行幸された高宮は何処であろうか?・・・何の修飾もされていないとすると前記で述べた神功皇后紀で葛城襲津彥の新羅遠征時の漢人捕虜を住まわせた地「桑原・佐糜・高宮・忍海」で登場する高宮であろう(図中の葛城高岡宮辺り)。葛城の変貌振りでもご覧になられたのであろうか。

三月丙寅朔戊辰、以淨廣肆廣瀬王・直廣參當摩眞人智德・直廣肆紀朝臣弓張等、爲留守官。於是、中納言大三輪朝臣高市麻呂、脱其冠位、擎上於朝、重諫曰、農作之節、車駕未可以動。辛未、天皇不從諫、遂幸伊勢。壬午、賜所過神郡及伊賀・伊勢・志摩國造等冠位、幷免今年調役、復免供奉騎士・諸司荷丁・造行宮丁今年調役。大赦天下、但盜賊不在赦例。甲申、賜所過志摩百姓男女年八十以上、稻人五十束。乙酉、車駕還宮。毎所到行、輙會郡縣吏民、務勞賜作樂。甲午、詔免近江・美濃・尾張・參河・遠江等國供奉騎士戸及諸國荷丁・造行宮丁今年調役。詔令天下百姓、困乏窮者稻、男三束女二束。

三月三日、廣瀬王當摩眞人智德紀朝臣弓張を留守官としているが、「三輪朝臣高市麻呂」は冠位を脱いで、「農作の時節は車駕を動かすべきではない!」と重ねて諫め申し上げたようである。六日、それに従わずに伊勢に行幸している。十七日、通り過ぎた「神郡」及伊賀伊勢・「志摩」國造等に冠位を授け、今年の調役を免除している。また「騎士・諸司荷丁・造行宮丁」も免除して、大赦(除盗賊)している。

十九日に通り過ぎた「志摩」の百姓男女八十歳以上に一人当たり稲五十束を与えている。二十日に車駕は宮に帰還したが、到着する毎に「郡縣吏民」を労い、物を与えて樂をした、と記載している。二十九日に近江美濃・尾張・參河遠江國等の騎士・諸司荷丁・造行宮丁」の調役を免除し、困窮している百姓に稲を与えている。

<神郡>
神郡

調べると伊勢神宮の所領を表すと分かった。が、さて何処なのか?・・・既出の神=示+申=(台地が)長く延びて畝っている様と読み解いた。

この地形だけではそれなりに存在しているわけで一に特定は困難であろう。記述は、この後に伊賀・伊勢・志摩と続けられ、伊賀を通過する以前の地であることが解る。これで見出すことができたようである。

天武天皇が吉野脱出後に渡った横河の手前に山稜の端が畝りながら延びているところ、この地を「神郡」と呼んでいたと思われる。

当時、伊勢神宮領は「神八郡」と呼ばれて八つの郡があったそうで、神郡成立時は度会郡多気郡の二つであったと言われる。上図の場所は、古事記の御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇)の御子、天押帶日子命が祖となった多紀臣の地と推定したところである。見事に繋がった記述であるが、伊勢神宮が現在の蒲生八幡神社に存在しない限り、後に大きな変曲を経たことになろう。詳細は後日である。

<志摩國>
志摩國

道すがらの行程からすると伊勢神宮の手前の地と推測される。それにしても聞き慣れた地名であって、現在の三重県にある場所以外に存在することは、正に禁忌の話しなのかもしれない。

取り敢えず、文字解きを行ってみよう。既出の文字の組合せである。志摩=蛇行する川が山稜を細切れにしたような様と読み解ける。

伊賀郡→伊勢(鈴鹿)郡→(三重郡)と車駕が進んで・・・『壬申の乱』では目的地が桑名郡故に天照大御神を望拝しながら朝明郡に向かったが・・・「志摩國」に入ったと思われる。

図に示したようにその地は山稜の端が潰れて平坦な地形を示し、迹太川(紫川)の畔を通過することになろう。現地名は北九州市小倉南区高野である。その谷間の奥が中臣一族の出自の場所となる。

上記の道行きも微妙に省略された記述であろう。「神郡」を登場させるためには「伊賀」は外せないのであるが、次は「伊勢鈴鹿」の「鈴鹿」を、勿論「三重郡」も、省略している。奈良の明日香村から伊勢に向かうなら、せいぜい名張経由、何故伊賀が?…となる。他にも山は深くなるが山越えの行程も存在する。空間認識皆無の解釈が通説のようである。

夏四月丙申朔丁酉、贈大伴宿禰友國直大貳、幷賜賻物。庚子、除四畿內百姓爲荷丁者今年調役。甲寅、遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。丙辰、賜有位親王以下至進廣肆、難波大藏鍫、各有差。庚申、詔曰、凡繋囚見徒、一皆原散。

四月二日に大伴宿禰友國(天武天皇の吉野脱出時に随行)に直大を贈っている。五日、四つの畿内の百姓で「荷丁」の任にある者の調役を免除したと記している。十九日に、恒例復活の廣瀬大忌神・龍田風神を祭祀している。二十一日、親王以下進廣肆までの者に難波大藏の「鍫」(鍬)を与えている。二十五日に大赦している。

五月乙丑朔庚午、御阿胡行宮時、進贄者紀伊國牟婁郡人阿古志海部河瀬麻呂等、兄弟三戸、服十年調役・雜徭。復免挾杪八人、今年調役。辛未、相摸國司獻赤鳥鶵二隻、言、獲於御浦郡。丙子、幸吉野宮。庚辰、車駕還宮。辛巳、遣大夫謁者、祠名山岳瀆請雨。甲申、贈文忌寸智德直大壹、幷賜賻物。丁亥、遣淨廣肆難波王等、鎭祭藤原宮地。庚寅、遣使者奉幣于四所、伊勢・大倭・住吉・紀伊大神、告以新宮。

五月六日に「阿胡行宮」に御座されている時に「贄」(食事)を差し上げた紀伊國牟婁郡(牟婁温泉の地)の人、「阿古志海部河瀬麻呂」等兄弟三戸に十年の調役・雜徭(雑用:労役)を「服」(許)し、「挾杪」(船頭)八人の今年の調役を免じている。翌日、相摸國司が「赤鳥」の雛二羽を献上、それは「御浦郡」で捕獲したと述べている。

十二~六日、吉野に行幸。十七日に大夫謁者を遣わして名のある山岳で雨乞いを行っている。二十日に亡くなった文忌寸智德(吉野脱出時に随行)に直大壹を贈っている。二十三日、難波王(難波皇子の場所?)等を派遣して藤原宮の地鎮祭を行ったと記している。二十六日に「幣」を四所、伊勢(天照太神宮)・「大倭」・住吉紀伊(紀伊國々縣神)大神に奉り、新宮の報告をしている。

<阿胡行宮・紀伊國牟婁郡・阿古志海部河瀬麻呂>
紀伊國牟婁郡

前出の牟婁湯泉が求まっていれば、容易に推測される郡となろう。紀伊國の東北地方である。またこれも前出の紀伊國阿提郡の南に当たる場所と推定される。

古事記では倭建命が東方十二道遠征を行った時に通過した足柄と記載された場所と推定した。勿論、書紀には「足柄」の文字は登場しない。こんなところで登場しては大混乱?(紀伊國に足柄)となるからである。

阿胡行宮

「胡」は既出の文字で「胡」=「古+月」=「丸く小高い地の端にある三角州」と解釈した。例えばこちらを参照。

すると阿胡=台地にある丸く小高いところ端の三角州と読み解ける。図中の白破線で囲んだ台地に小高いところがあり、更にその先が延びて、川に挟まれた三角州を作っている地形を示している。おそらく行宮は先端で高くなった場所にあったと推定される。

● 阿古志海部河瀬麻呂

三兄弟が登場している。たいそうなもてなしを行ったのであろうか、この地の開拓に加えて禁漁区とした阿提郡那耆野の守護、その補佐を兼ねていたのかもしれない。「阿古」は上記と同様に丸く小高いところがある台地であろう。頻出の「志」=「蛇行する川」であり、阿古志=丸く小高いところがあって傍らに蛇行する川がある台地と読み解ける。

「海」はそのまま「海」とも読める。上図に示した「阿古志」の先端部は、現在の標高から当時は海面下であったと推測される。また、例によって「海」=「水+每」=「水辺で母の両腕のような地形」と読むこともできる。両意に重ねられた表記であろう。

既出の河=氵+可=谷間の川が流れ出るところとすると、その場所が瀬=氵+頼=川が狭まった様から、この麻呂は図に示した「阿提郡」と「阿古志」の台地で挟まれた場所に住まっていたと推定される。現地名は北九州市門司区恒見である。

<相摸國御浦郡・赤鳥鶵・鹿嶋臣櫲樟
相摸國御浦郡・赤鳥鶵

前出の相摸國は現地名の北九州市小倉南区沼、高蔵山の南西麓の深い谷間から延びる台地にあったと推定した。勿論、「赤い鳥」を献上したわけではなく、そう見えるような地を開拓して、「公地」としたのである。

図に示したように相摸國は平らな尾根の下で山稜に囲まれた「赤」の地形、天武天皇即位六年十月に筑紫大宰が献上した赤鳥(古事記の引田部赤猪子)と類似の地形なのである。

(雛)と記されるのだから小さく目立たない地形・・・何とか二羽並んでいる様が伺えるようである。

頻出の御=束ねる様浦=水+甫=水辺で平らに広がった様と解釈したが、山間の場所に谷が寄り集まってなだらかな地を見出すことができる。その地を御浦郡と称していたと思われる。捕獲するには都合の良い、二羽の鳥の南側に当たる。七月の記事に褒賞の詳細が記載されている。國司、少領に加えて実際に捕獲した人物、鹿嶋臣櫲樟が登場している。

鹿嶋=山麓の山稜が鳥の形をしている様と読み解ける。「櫲」=「木+予+象」と分解すると、櫲=ゆたりとした山稜が[杼]のように横切っている様と読み解ける。また、「樟」=「木+章」と分解すると、樟=山稜がくっきりと途切れた様と読み解ける。図に示したように「赤鳥」の西側の山稜が、折れ曲がって横切る地形を表していることが解る。その先端辺りが居場所だったのではなかろうか。

<大倭大神>
大倭大神

「大倭」の名称を持ち、それらしき場所は求められるが、一に特定するのが難しい大神である。ひょっとすると前記で記述された飛鳥四社の一つかもしれない(村屋神の代替)。

それと言うのもこの大神の登場が極めて乏しく、垂仁天皇紀に「一伝」で記載される程度である(前記の図を再掲)。

この大神の居場所が定まらず、紆余曲折を経て、漸くにして「大倭」の「穴磯邑」に鎮座したような内容である。神社の保守・管理は大変だった、今も変わりはないようだが、のかもしれない。

「穴」=「宀+ハ」と分解され、「穴」=「山稜に囲まれた地に谷間が広がる様」と解釈した。纏めると穴磯=山稜に囲まれた地に谷間が広がる地が磯の傍らにあるところと読み解ける。図に示したように現在の香春駅の西側は、当時は「磯」の状態であったと思われる。重要な大神なのだが、やはり記録された資料が不足していたのであろう。

閏五月乙未朔丁酉、大水。遣使循行郡國、禀貸災害不能自存者、令得漁採山林池澤。詔令京師及四畿內、講說金光明經。戊戌、賜沙門觀成、絁十五匹・綿卅屯・布五十端、美其所造鉛粉。丁未、伊勢大神奏天皇曰「免伊勢國今年調役。然應輸其二神郡、赤引絲參拾伍斤、於來年、當折其代。」己酉、詔筑紫大宰率河內王等曰「宜遣沙門於大隅與阿多、可傳佛教。復、上送大唐大使郭務悰爲御近江大津宮天皇所造阿彌陀像。」

閏五月三日に大水があって、使者を郡國を巡らせ、食料を貸し与えたり、山林池澤を漁ができるようにしたと記載している。京及び四畿内で金光明經を説かせている。四日、沙門觀成に綿などを施したが、彼が造った鉛粉(鉛白)を褒めている。

十三日に伊勢大神が、「伊勢國の二つの神郡(多分、度会郡と多気郡)の調役を免除したが、今年必要な赤引糸は通常通り、その分来年はその分を差し引いてよい」、としたことを奏上している。十五日に筑紫大宰河内王に、沙門を「大隅・阿多」に派遣して仏教を伝えること及び大唐大使郭務悰が近江大津宮の為に造った阿彌陀像を献上せよ、と命じている。

六月甲子朔壬申、勅郡國長吏、各禱名山岳瀆。甲戌、遣大夫謁者、詣四畿內、請雨。甲申、賜直丁八人官位、美其造大內陵時勤而不懈。癸巳、天皇觀藤原宮地。

六月九日、郡國長吏に命じて名のある山岳瀆(大きな川)で祈らせている。十一日に四畿内で雨乞い。何とも天候対応が忙しい。二十一日に直丁(官庁の当直)の大內陵の造営に勤めた者に官位を授けている。三十日に藤原宮の地を観たと記している。