2020年11月9日月曜日

高天原廣野姬天皇:持統天皇 (4) 〔467〕

高天原廣野姬天皇:持統天皇 (4)


即位四年(西暦690年)正月の記事からである。引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらどを参照。

四年春正月戊寅朔、物部麻呂朝臣、樹大盾。神祗伯中臣大嶋朝臣、讀天神壽詞。畢、忌部宿禰色夫知、奉上神璽劒鏡於皇后。皇后、卽天皇位。公卿百寮、羅列匝拜而拍手焉。己卯、公卿百寮、拜朝如元會儀。丹比嶋眞人與布勢御主人朝臣、奏賀騰極。庚辰、宴公卿於內裏。壬辰、百寮進薪。甲午、大赦天下、唯常赦所不免、不在赦例。賜有位人爵一級。鰥寡・孤獨・篤癃・貧不能自存者、賜稻、蠲服調役。丁酉、以解部一百人、拜刑部省。庚子、班幣於畿內天神地祗、及増神戸田地。

一月一日、物部麻呂朝臣(石上朝臣麻呂)が大盾を真っ直ぐに立て、神祗伯の中臣大嶋朝臣(藤原朝臣大嶋)が「天神壽詞」(中臣壽詞とも言われる。お祝いの言葉)を読み、忌部宿禰色夫知(色弗の別名、忌部首子人に併記)が「神璽劒鏡」を皇后に奉り、その後に皇后が即位したと記載している。天皇即位の儀式故に本来の名前で登場のようである。

二日、公卿、百寮は元日の儀式の身なりで拝礼し、丹比嶋眞人布勢御主人朝臣が「賀騰極」を奏上している。三日に内裏で公卿と宴を開催。十五日に百寮が薪を献上している。十七日に大赦し、爵位のある者は一級昇進させ、また「鰥寡・孤獨・篤癃・貧不能自存者」に稲を与えたり、調役を許している。二十日に解部(訴訟を担当)百人が刑部省を拝命している。二十三日に畿内の天神地祗に奉納物を配分し、「神戸田地」を増やしている。

二月戊申朔壬子、天皇幸于腋上陂、觀公卿大夫之馬。戊午、新羅沙門詮吉・級飡北助知等五十人歸化。甲子、天皇幸吉野宮。丙寅、設齋於內裏。壬申、以歸化新羅韓奈末許滿等十二人、居于武藏國。三月丁丑朔丙申、賜京與畿內人、年八十以上者、嶋宮稻人廿束。其有位者、加賜布二端。

二月五日に天皇は腋上陂に行幸し、公卿大夫の馬を観賞している。十一日、新羅の沙門五十人が帰化したと述べている。十七日に吉野行幸。十九日、内裏で設齋。二十五日、帰化した新羅の十二人を武藏國に住まわせている。三月二十日に京・畿内在住の八十歳以上の者に嶋宮の稲を一人当たり二十束与え、位のある者には更に布二端(二反?)を加えたと記している。

夏四月丁未朔己酉、遣使祭廣瀬大忌神與龍田風神。癸丑、賜京與畿內耆老耆女五千卅一人、稻人廿束。庚申、詔曰「百官人及畿內人、有位者限六年、無位者限七年、以其上日、選定九等。四等以上者、依考仕令、以其善最・功能・氏姓大小、量授冠位。其朝服者、淨大壹已下廣貳已上黑紫、淨大參已下廣肆已上赤紫、正八級赤紫、直八級緋、勤八級深緑、務八級淺緑、追八級深縹、進八級淺縹。別淨廣貳已上、一畐一部之綾羅等、種々聽用。淨大參已下直廣肆已上、一畐二部之綾羅等、種々聽用。上下通用綺帶・白袴、其餘者如常。」戊辰、始祈雨於所々。旱也。

四月三日に使者を遣わして廣瀬大忌神龍田風神を祭祀している。久々の登場であるが、即位するまでは恒例としていなかったのであろう。七日に京・畿内の老人。老女五千三十一(5,031)人に一人当たり稲二十束を与えている。六十歳以上を「老」と言ったようであるが・・・参考しているサイトで以下のように記述されている。

養老戸令では、「六十六歳を耆とす」と注されており、京と畿内との耆老・耆女5、031人と具体数が示されており、戸籍が順調に作成されていたとなろうか。用夫の給米、日当は成年男子で0.4束(女子は0.2束)とされることからすれば、成年男子50日の日当に当たる稲の支給が行はれたことになる。四月に稲が束の形で支給されるとはどういふことか?籾の形で相当分といふことか?種籾として用ゐるべく支給されたのか?ネズミや虫、湿気、カビなどで劣化せず米を保管することは難しかったと思はれ、また、民がどの程度米を日常食すことができたかを考へてみれば、この時期の支給は相当な恩恵となったろう。

四月十四日に、百官人と畿内人は位のある者は六年、無い者は七年に限ること、更にその期限日数で九等に別け、四等以上については「考仕令」(考課令)に従って勤務態度、功績、氏族の大小でもって冠位を授けるようにしろ、命じている。また朝廷内での衣服の色をきめ細かく規定している。上位には「綾羅」(薄手の絹地の織物)を用いることを許している。二十二日に雨乞いを行ったが、日照りが続いていたのであろう。

五月丙子朔戊寅、天皇幸吉野宮。乙酉、百濟男女廿一人歸化。庚寅、於內裏始安居講說。六月丙午朔辛亥、天皇幸泊瀬。庚午、盡召有位者、唱知位次與年齒。

五月三日、吉野行幸。十日に百濟男女二十一人が帰化している。十五日、内裏で「安居講」を始めて説かせている。六月六日、泊瀬(泊瀬齋宮)に行幸。二十五日に有位者を全て集めて位と年齢を述べさせている。

秋七月丙子朔、公卿百寮人等、始着新朝服。戊寅、班幣於天神地祗。庚辰、以皇子高市爲太政大臣、以正廣參授丹比嶋眞人爲右大臣、幷八省百寮皆遷任焉。辛巳、大宰・國司、皆遷任焉。壬午、詔「令公卿百寮凡有位者、自今以後、於家內着朝服而參上未開門以前。」蓋昔者到宮門而着朝服乎。甲申、詔曰「凡朝堂座上見親王者、如常、大臣與王起立堂前、二王以上下座而跪。」己丑、詔曰「朝堂座上見大臣、動坐而跪。」是日、以絁絲綿布奉施七寺安居沙門三千三百六十三、別爲皇太子奉施於三寺安居沙門三百廿九。癸巳、遣使者祭廣瀬大忌神與龍田風神。

七月初めに公卿・百寮人等が初めて新しい衣服を着たと記している。三日、「天神地祗」に供え物を分け奉っている。五日に皇子高市を太政大臣、丹比嶋眞人を右大臣とし、併せて八省百寮全てを「遷任」(配置転換)したと記載している。翌日、公卿及び百寮の有位者は家で朝服を着て、開門する前に参上することと命じている。

九日に朝堂で親王を見る時は常のように、大臣と王は堂の前に立つこと、二階級の王より以上は下で跪くことと命じている。十四日には朝堂で大臣を見る時は坐を動かし跪くことと命じている。この日、綿布などを安居の沙門、三千三百六十二人に与えている。それとは別に皇太子を奉る三寺の安居の沙門、三百二十九人に施している。十八日に使者を遣わして廣瀬大忌神龍田風神を祭祀している。

八月乙巳朔戊申、天皇幸吉野宮。乙卯、以歸化新羅人等、居于下毛野國。九月乙亥朔、詔諸國司等曰、凡造戸籍者、依戸令也。乙酉、詔曰、朕將巡行紀伊之、故勿收今年京師田租口賦。丁亥、天皇幸紀伊。丁酉、大唐學問僧智宗・義德・淨願・軍丁筑紫國上陽咩郡大伴部博麻、從新羅送使大奈末金高訓等、還至筑紫。戊戌、天皇至自紀伊。

八月四日に吉野へ行幸されている。かなり頻度高くなって来ているが、目的は?…後に憶測してみよう。十一日に帰化した新羅人を下毛野國に住まわせている。九月初めに諸國司に対して、戸籍は「戸令」に従って作るようにと命じている。

十三日、天皇が紀伊に「巡行」するから京の田租・口賦(田の租税・賦役)を収めなくてよい、と述べている。意味不明の記述であるが、「巡行」のための費用を負担していたのではなかろうか。まだまだ米を主体とする財ならば蓄財は難しく、年々の租税で賄っていたと推測される。二日後紀伊に着かれたようである。

二十三日に大唐の学問僧三名と兵士の「筑紫國上陽咩郡大伴部博麻」が新羅の送使に従って筑紫に帰って来たと記載している。二十四日、天皇は紀伊から帰着している。前記で記述された禁漁区とした紀伊國阿提郡那耆野でも視察されたのか、不詳である。

<筑紫國上陽咩郡・大伴部博麻>
筑紫國上陽咩郡

筑紫國にある郡の名称である。「陽」=「阝+昜」と分解される。「昜」は「太陽が昇る様」を象った文字と知られる。

また「咩」=「囗+羊」と分解される。頻出の「羊」は、その古文字の形から「山稜に挟まれた谷間」を表すと読み解いて来た。

これらの地形象形の要素を纏めると、上陽咩郡=川上に太陽のような地がある山稜に挟まれた谷間の郡と読み解ける。

古事記が記述する古代に登場する黄泉國の谷間を言い換えた表記であることが解る。須勢理毘賣勢=陽の周辺が主体であった時代から次第に下流域に人が住まった行ったことが伺える。勿論古代は尋常な人々ではなかったようだが・・・。

● 大伴部博麻

北側の山稜の端が二つに切り離されたような地形を示している。陣ヶ尾と名付けられた山の南の谷間が見える。この地形が大伴部(部=山稜を切り離す谷間から別れた地)の由来と思われる。またその谷間の出口辺りに平らな山稜が突き出ていることが見出せる。この地が博麻の出自の場所と推定される。博=四方(縦横)に広がる様の文字解釈は伊吉博德などで解釈した。

「博麻」は百濟支援の戦いで捕虜となり、更に前出の筑紫君薩野馬等を帰国させる資金のため自身を売って工面し、結局三十年ばかり唐に留まっていた人物と知られる。持統天皇が甚く感心され、詔書に「愛國」と言う文字を使ったとのことで、前の戦争時に愛国の象徴として頻繁に引き合いに出された、ようである。次段でその本文が記載されている。

「陽咩(ヤメ)」と読んで現在の福岡県八女市を出自とする解釈が通説のようである。幾度か述べたように筑紫君薩野馬も含めて「筑紫」の比定場所を後の筑前・筑後にしてしまっては「記紀」を理解することは不可である。

冬十月甲辰朔戊申、天皇幸吉野宮。癸丑、大唐學問僧智宗等、至于京師。戊午、遣使者詔筑紫大宰河內王等曰「饗新羅送使大奈末金高訓等、准上送學生土師宿禰甥等送使之例。其慰勞賜物、一依詔書。」乙丑、詔軍丁筑紫國上陽咩郡人大伴部博麻曰「於天豐財重日足姬天皇七年、救百濟之役、汝、爲唐軍見虜。洎天命開別天皇三年、土師連富杼・氷連老・筑紫君薩夜麻・弓削連元寶兒、四人、思欲奏聞唐人所計、緣無衣粮、憂不能達。於是、博麻謂土師富杼等曰『我欲共汝還向本朝。緣無衣粮、倶不能去。願賣我身以充衣食。』富杼等、依博麻計、得通天朝。汝獨淹滯他界、於今卅年矣。朕、嘉厥尊朝愛國・賣己顯忠。故、賜務大肆、幷絁五匹・綿一十屯・布卅端・稻一千束・水田四町。其水田、及至曾孫也。免三族課役、以顯其功。」壬申、高市皇子觀藤原宮地、公卿百寮從焉。

十月五日、吉野行幸。十日に大唐の学問僧が京に到着している。十五日、使者を遣わして筑紫大宰の河内王に、新羅の送使等を饗応する際には学生の土師宿禰甥(土師連千嶋に併記)等を送った時の様にし、慰労の賜物は詔書に従うこと、と命じている。

二十二日に上記の「大伴部博麻」に対して「斉明天皇七年に百濟救援の役で唐軍の捕虜となった。天智天皇三年に土師連富杼(土師宿禰根麻呂に併記)・氷連老(学生、氷連老人)・筑紫君薩夜麻(野馬)・「弓削連元寶兒」の四人は唐人の計画を知らせようと思うが衣食もない有様、そこで汝は我が身を売って衣食に当て、帰国させた。

その後三十年間現地に留まり、漸く戻って来た。朕はその朝廷を尊び、国を愛し、我が身を売って、忠誠心を表したことを喜んでいる。そこで務大肆の冠位と数々の品物及び水田四町、これは曾孫の代まで、課役免除などを申し渡す。」と詔された、と記載している。歴史に名を残す働き、であろう。正に、黄泉の国からの生還であろう。

<弓削連元寶兒>
● 弓削連元寶兒

「弓削」の名称は、些か錯綜としているようである。天武天皇の御子に弓削皇子、また物部弓削守屋大連と称していたと書紀に記載されている。

天武天皇紀の『八色之姓』で弓削連に宿禰姓を賜っていた。その時に外部情報を含めて調べ、河内國にその居処を求めることができた。

今回登場の人物は、その「弓削連」、即ち「弓削宿禰」であるが、上記の記述が天智天皇紀であったことからか、もしくは漏れていた人物かで、連姓で記載されているのであろう。あらためて、弓削=山稜の端を弓なりに削ぎ取られたところの地形象形表記である。

「元」=「◎+儿」=「人の頭部」を象った文字と知られる。地形象形的には元=谷間の上に丸く小高い地がある様と読み解ける。幾度か登場の寶=宀+缶+玉+貝=山稜に囲まれた谷間に丸く小高い地と管のような地がある様と読み解いた。必要な地形要素を満足する場所を弓の中央部に見出すことができる。「兒」=「谷間に窪んだ地がある様」と解釈すると、この人物の出自の場所を求めることができる。

十一月甲戌朔庚辰、賞賜送使金高訓等、各有差。甲申、奉勅始行元嘉曆與儀鳳曆。
十二月癸卯朔乙巳、送使金高訓等罷歸。甲寅、天皇幸吉野宮。丙辰、天皇至自吉野宮。辛酉、天皇幸藤原觀宮地、公卿百寮皆從焉。乙丑、賞賜公卿以下、各有差。

十一月七日に新羅送使等に物を与えている。十一日、「元嘉曆・儀鳳曆」を用い始めた、のことであろうが、元々あった「元嘉曆」に加えて「儀鳳曆」の手法を取り入れたと思われるが、詳細はこちらを参照。十二月三日、新羅送使が帰国。十二日に吉野行幸(十四日帰還)。十九日、公卿等を従えて「藤原」の宮地を視察している。二十三日、公卿以下に物を与えている。二泊三日の吉野行き、謎である。

五年春正月癸酉朔、賜親王・諸臣・內新王・女王・內命婦等位。己卯、賜公卿飲食衣裳、優賜正廣肆百濟王餘禪廣・直大肆遠寶・良虞與南典、各有差。乙酉、増封、皇子高市二千戸通前三千戸、淨廣貳皇子穗積五百戸、淨大參皇子川嶋百戸通前五百戸、正廣參右大臣丹比嶋眞人三百戸通前五百戸、正廣肆百濟王禪廣百戸通前二百戸、直大壹布勢御主人朝臣與大伴御行宿禰八十戸通前三百戸、其餘増封各有差。丙戌、詔曰「直廣肆筑紫史益、拜筑紫大宰府典以來於今廿九年矣。以淸白忠誠、不敢怠惰。是故、賜食封五十戸・絁十五匹・綿廿五屯・布五十端・稻五千束。」戊子、天皇幸吉野宮。乙未、天皇至自吉野宮。

年が明けて即位五年(西暦691年)正月からである。一月一日、親王・諸臣・內新王(皇女?)・女王(姫王?)・內命婦等に授位している。大体六~七年で一階級昇進のようである。七日に公卿に飲食衣裳を与えている。また百濟王禪廣(①-善光)等(百濟滅亡の煽りで日本に在住)に物を贈っている。

十三日、皇子高市皇子穗積皇子川嶋、右大臣丹比嶋眞人百濟王禪廣布勢御主人朝臣大伴御行宿禰に増封したと記載している。十四日に「筑紫史益」に対して、筑紫大宰府典(文書管理?)を拝命して以来二十九年間「以淸白忠誠、不敢怠惰」故に食封、綿布などを与えている。十六日、吉野行幸、二十三日に帰還したと記している。

<筑紫史益>
● 筑紫史益

役所に勤める人の鑑のような方だったようである。と言うことで、毎日休まず通える場所かと推測しながら、文字解釈を行った結果である。

頻出の史=中+又=山稜が真ん中を突き通す様、また、益=八+八+一+皿=谷間に挟まれた台地が一様に平らになっている様と読める。

すると小倉南区寿山町にある山稜が作る地形が見つかる。筑紫大宰(足原小学校辺りとして)までおよそ直線距離0.8km1km余りを毎日欠かさず通われたのであろうか。天武天皇紀に開拓された筑紫大鐘の近隣である。

書紀の記述では「筑紫大宰」の文字列が登場するのは推古天皇即位十七年(西暦609年)である。その後途絶えたようになって頻出するのは皇極天皇即位二年(西暦643年)からである。

筑紫史益」が務め始めたのが西暦662年、天智天皇紀の百濟支援のピークを迎えようとした白村江敗戦(663年)前夜の時期だったようである。唐による朝鮮半島の動乱を具に見て、その対応に追われた時代、筑紫大宰の役割が大きく異なりつつあった中での二十九年間、だったのであろう。

二月壬寅朔、天皇詔公卿等曰「卿等於天皇世作佛殿經藏・行月六齋、天皇時々遺大舍人問訊。朕世亦如之、故當勤心奉佛法也。」是日、授宮人位記。三月壬申朔甲戌、宴公卿於西廳。丙子、天皇觀公私馬於御苑。癸巳、詔曰「若有百姓弟爲兄見賣者、從良。若子爲父母見賣者、從賤。若准貸倍沒賤者、從良。其子雖配奴婢所生、亦皆從良。」

二月初め、公卿等に、天武天皇の時に仏殿、経蔵を作り、「月六齋」(六月には殺生をしない)を行っていたが、同様にして仏法を勤め奉ろうと詔されている。この日、宮人に位記を授けたと記している。三月三日に西の庁で宴を公卿と開催している。五日に「御苑」(たぶん前出の白錦後菀)で公私の馬を観覧された。

三月二十二日に「兄の為に売られた弟は良民、父母の為に売られた子は賤民、貸稻及貨財で返済できずに賤民に落とされた者は良民、その子が奴婢の女との子は良民にせよ」と詔されている。良民の確保が目的なのか、これだけでは推測しかねるが、百姓としての働き手は確保は必至であったろう。

夏四月辛丑朔、詔曰「若氏祖時所免奴婢既除籍者、其眷族等不得更訟言我奴婢。」賜大學博士上村主百濟大税一千束、以勸其學業也。辛亥、遣使者祭廣瀬大忌神與龍田風神。丙辰、天皇幸吉野宮。壬戌、天皇至自吉野宮。五月辛未朔辛卯、褒美百濟淳武微子壬申年功、賜直大參、仍賜絁布。

四月初め、奴婢から除籍された者には適切な扱いをするように、と命じられている。大學博士の上村主百濟(光父に併記)大税(徴集されて国倉に納められた租)一千束を与えている。十一日に復活した廣瀬大忌神龍田風神を祭祀している。十六~二十二日にかけて吉野行幸。五月二十一日に百濟の淳武微子に壬申の時の功績より直大參位を授け、物を与えている。さて、如何なる功績かは不明。

六月、京師及郡國卌、雨水。戊子、詔曰「此夏陰雨過節、懼必傷稼。夕惕迄朝憂懼、思念厥愆。其令公卿百寮人等禁斷酒宍・攝心悔過、京及畿內諸寺梵衆亦當五日誦經。庶有補焉。」自四月雨、至于是月。己未、大赦天下、但盜賊不在赦例。秋七月庚午朔壬申、天皇幸吉野宮。是日、伊豫國司田中朝臣法麻呂等獻宇和郡御馬山白銀三斤八兩・𨥥一籠。丙子、宴公卿、仍賜朝服。辛巳、天皇至自吉野。甲申、遣使者祭廣瀬大忌神與龍田風神。

六月に京と郡國四十に雨が降ったと記載している。五月十八日に「この夏は長雨でいつもとは異なっている。おそらく稲作に支障が出て、憂うことになろう。公卿百寮人等は飲酒、肉食を禁じ、罪を悔いるようにしなさい。京と畿内の僧侶は五日間読経しなさい。効果あることを願っている」と詔されている。

六月二十日に大赦、但し盗賊は赦さない、であった。七月三~十二日にかけて吉野行幸。三日に伊豫國司田中朝臣法麻呂等が「宇和郡御馬山」産の白銀(三斤八兩)・𨥥(荒金一籠)を献上している。七日に公卿と宴を催している。十五日に恒例の廣瀬大忌神龍田風神を祭祀している。

<伊豫國宇和郡御馬山>
伊豫國宇和郡御馬山

「伊豫」は頻出であるが、「宇和郡」の場所を何処に求めるか、であろう。これも頻出の文字列であるから、そのまま読み解いてみよう。

宇=宀+于=囲まれた地に山稜が延びている様和=しなやかに曲がる様であり、山稜に囲まれた谷間に更にしなやかに曲がる山稜が延びている地形を表している。

伊豫熟田津、伊豫温湯がある谷間の北側にその地形を見出すことができる。「記紀」を通じて初めて登場の地である。現地名は北九州市若松区小竹である。

「御馬」も既出の文字列であり、御馬山=馬の背の山稜を束ねたような山と読み解ける。図に示したように、石峰山・烽火台山山系、弥勒山・岩尾山山系、灘山・椿山山系を束ねた位置にある山、それを「御馬山」と名付けたものと思われる。

古事記の男淺津間若子宿禰命(允恭天皇)紀に禁断の恋に落ちた木梨之輕太子輕大郎女の物語が載せられている。互いの思いを歌に託す、その中に意富袁・佐袁袁の表記が登場する。山に囲まれた奥深い場所(許母理久)と、こんなところで再会できるとは、「記紀」は洒落た読み物なのである。