2020年11月6日金曜日

高天原廣野姬天皇:持統天皇 (3) 〔466〕

高天原廣野姬天皇:持統天皇 (3)


即位三年(西暦689年)正月の記事からである。引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらどを参照。

三年春正月甲寅朔、天皇、朝萬國于前殿。乙卯、大學寮獻杖八十枚。丙辰、務大肆陸奧國優𡺸曇郡城養蝦夷脂利古男、麻呂與鐵折、請剔鬢髮爲沙門。詔曰「麻呂等、少而閑雅寡欲。遂至於此、蔬食持戒。可隨所請、出家修道。」庚申、宴公卿賜袍袴。辛酉、新羅使人田中朝臣法麻呂等、還自新羅。壬戌、詔出雲國司、上送遭値風浪蕃人。是日、賜越蝦夷沙門道信、佛像一軀・灌頂幡鍾鉢各一口・五色綵各五尺・綿五屯・布一十端・鍬一十枚・鞍一具。筑紫大宰粟田眞人朝臣等、獻隼人一百七十四人、幷布五十常・牛皮六枚・鹿皮五十枚。戊辰、文武官人進薪。己巳、賜百官人等食。辛未、天皇幸吉野宮。甲戌、天皇至自吉野宮。

一月一日、全ての国を太極殿に侍らせ朝拝をし、翌日大学寮が杖を八十枚献上している。三日に「陸奧國優𡺸曇郡城養蝦夷脂利古」の息子である「麻呂」と「鐵折」が沙門になりたいと申し出たが、彼らが優雅で慎ましやかな態度であることから出家することを認めている。「記紀」を通じて初めて陸奥(古事記は道奥)の地の詳細(郡名及び人名)が語られている。下記に詳細を述べる。

七日に宴を開き、公卿等に衣服を与えている。翌日、新羅へ遣わした田中朝臣法麻呂等が帰国。九日、出雲國司に命じて遭難した「蕃人」(未開の異民族)を送り返している。「新羅人」(朝鮮半島の住人も含めて)は「蕃人」ではない。すると肅愼國の住人(もしくは新羅から出向いて来た者)であることを暗示する表記と思われる。故に隣国の出雲國司に命じたのであろう。遭難場所は、関門海峡だったと推測される。

同じく九日に越蝦夷の沙門に仏像一体など様々なものを与えている。また筑紫大宰
粟田眞人朝臣(粟田臣眞人)が隼人百七十四人、布、牛・鹿皮を献上している。十五日に文武官人が薪を献上、翌日百官に食を与えている。十八~二十一日にかけて天皇は吉野に行幸されている。今後、頻度高く吉野を訪れたと記載されることになる。その目的は?…解き明かされるかもしれないが、いずれまた・・・。

陸奧國優𡺸曇郡

<陸奥國優𡺸曇郡城養蝦夷>
<城養蝦夷脂利古-麻呂-鐵折>
「陸奥」は
陸奥蝦夷など幾度か登場した地名である。古事記では道奥石城と記載された場所である。その地に「優𡺸曇郡」があったと述べている。

現地名の北九州市門司区畑の地に「優𡺸曇」の地形を求めることになる。「優」=「人+憂」と分解される。更に「憂」=「㥑+夊」と分解され、これから「悩んで先にスムーズに進まない様」を表すと文字と解説されている。

すると地形象形的には「優」=「谷間(人)が曲がってくねっている(憂)様」と解釈される。「𡺸」=「山+耆」と分解され、そのまま「𡺸」=「山が海老のように曲がっている様」と読める。

ここまででこの谷間は図に示した現地名の吉志新町の高台の北麓の地形を表していることが解る。

「曇」は阿曇連(宿禰)で用いられている文字で、地形象形の表記として「曇」=「谷間の奥深く水が湛えられている様」と読み解いた。図に示した「曇」の場所は現在標高8m以下の地が谷間の奥深くにまで達している地形を示している。纏めると、優𡺸曇=川が激しく蛇行しながら(優)大きく曲がっている谷間(𡺸)の奥深くまで海が入り込んでいる(曇)ところと読み解ける。この谷間の東側をと呼称していたのであろう。

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古事記の阿曇の解釈については、上記に加えて、「曇」=「日+雲」と分解して、「[炎]の地に[雲]の地がくっ付いて覆い被さったような様」と読み解いた(こちら参照)。現在の遠賀郡岡垣町黒山の地形そのものを表している。上図では一部省略されているが、西側の台地を「雲」の形と見做したのかもしれない。今は広大な団地に開発されているが、谷間の東側の地形は「炎」であり、多分、台地の上部は「雲」のようになだらかな地表をしていたのではなかろうか。残念ながら今は知る由もないようである。

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● 城養蝦夷脂利古・麻呂・鐵折

頻出の文字の組合せである「城養」の城=土+成=平らな台地の様であり、養=羊+良=谷間でなだらかに広がる様と読み解いた。図中白破線で囲んだ地形を表していると思われる。「城」は、古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の御子、神八井耳命が祖となった道奥石城國と繋がった表記であろう。

「脂」=「月+旨」に分解される。すると「脂」=「山稜の端の三角州が匙のような様」と読み解ける。頻出の「利」=「切り離す様」であり、「古」=「丸く小高い様」と読むと、脂利古=山稜の三角州が匙のようになって丸く小高い地を切り離しているところと読み解ける。図に示したような配置になっている地形を表現していると思われる。

麻呂は、その少し南側の盛り上がったところを示すのであろう。鐵折の「鐵」=「金+呈+戈」と分解すると、「金」=「山麓の高台」、「呈」=「真っ直ぐに延びた様」、「戈」=「矛のような様」から成る地形を示している。「折」=「手+斤」であって「山稜が切り離された様」を表す文字である。

鐵折=山稜が切り離されて真っ直ぐ延びた高台が矛のようなところと読み解ける。山稜の端の地形を懇切丁寧に表記していることが解る。父親の「脂利古」から下流域、既に海に突き出た岬の地に息子達が住まっていたと述べている。通説は遠い国の「陸奥」の詳細など殆ど無視のようである。

勿論「陸奥(ミチオク→ミチノク)」の訓するのだが、何故かは不詳であって、現在の広大な東北地方全体に全く暈けた場所としか理解できていないからである。古事記の「道奥」の「道」が示す地形もさることながら書紀の「陸奥」の「陸」が示す地形も皆目読めていないのが現状であろう。

「陸」=「阝+坴」=「土が盛り上がった様」である。即ち、「陸」は現在の吉志新町の広い高台(団地)を示している。当時はこの山稜の端に人々が住まうことができなかった。故に空白の地だったのである。そしてそれを現在では福島県と名付けている。

二月甲申朔丙申、詔、筑紫防人、滿年限者替。己酉、以淨廣肆竹田王・直廣肆土師宿禰根麻呂・大宅朝臣麻呂・藤原朝臣史・務大肆當麻眞人櫻井、與穗積朝臣山守・中臣朝臣々麻呂・巨勢朝臣多益須・大三輪朝臣安麻呂、爲判事。

二月十三日に「筑紫防人」の任期を満たせば交替せよと命じられている。任期の規則が守られていなかったのか、居心地よくて長居をしてしまっていたのか、知る由もないが。二十六日に竹田王・「土師宿禰根麻呂」・大宅朝臣麻呂(父親の大宅臣鎌柄に併記)・「藤原朝臣史」・當麻眞人櫻井(當摩公楯に併記)、穗積朝臣山守(父親の穂積朝臣蟲麻呂に併記)・中臣朝臣々麻呂巨勢朝臣多益須(馬飼に併記)・大三輪朝臣安麻呂(三輪君高市麻呂)を「判事」に任命している。

<土師宿禰根麻呂>
● 土師宿禰根麻呂

「土師」一族も多くの人材を輩出、お陰で図に纏めるには少々入組んで来たのであらためて掲載した。調べると「根麻呂」は土師連身の子と知られているようである。

「身」の裾野は狭く、どうやら対岸の山稜が延びた場所と思われる。「土師連眞敷」の谷間の出口辺りではなかろうか。

少し後に土師連富杼が登場する。百濟救援の役の後に唐で留め置かれていた人物のようである。おそらく捕虜だったと思われるが、詳細は不明。「富杼」の文字列は、古事記の意富富杼王で用いられているが、既に述べたように「富」の解釈は全く異なる。

古事記が「山稜に囲まれた谷間の坂」に対して、書紀は文字の通り、富=山稜に囲まれた地にある酒樽のような様と読み解いた。図に示したように尾根から延びる幾本もの山稜がある場所を示している。杼=横切る様と読む。これは古事記も同様である。すると酒樽を横切るような山稜が見える。出自の場所は、その「杼」の前辺りと推定される。

書紀は前出の「土師連富杼」の登場で土師一族の出番を閉じるようである。古事記の大国主命の系譜に登場する鳥耳神(鳥髪の縁にある耳の形をしたところ)及び國忍富神(山稜に囲まれた谷間の大地が一見坂には見えないところ)の場所と推定した地に住み着いた埴輪作りの技能集団を祖先に持つ一族であったと記載されている。

<藤原朝臣史(不比等)>
● 藤原朝臣史

後に藤原朝臣不比等と記される。藤原鎌足(中臣鎌子連)の息子であり、後に藤原姓は彼らの一族に限定されることになったと伝えられている。

『壬申の乱』における中臣金連大臣の失脚以来、一時は中臣連大嶋が氏上の役割を担ったようであるが、この「判事」任命以降に急激に台頭することになる。

彼及び彼の息子達によって日本国家の礎が確立されたようであり、最重要人物の一人であろう。その出自の場所を求めることになる。

「不」は幾度か登場する文字だが、例えば美濃國不破郡などで用いられていた。「不」=「[不]の形に山稜が広がった様」である。前出の巨勢臣比等(人)に含まれる「比等」は、「比」=「並んでいる様」、「等」=「竹+寺」=「山稜の端が揃っている様」と読み解いた。纏めると不比等=[不]の形に山稜が広がった山稜の端が揃って並んでいるところと読み解ける。

図に示したように実に綺麗に並んだ裾広がりの山稜が見出せる。父親の鎌足の対岸である。史=中+又(手)=真ん中を突き通す様と読み解いた。上記の谷間に向かう山稜が認められる。直ぐ西隣が同じく判事に任命された「中臣朝臣々麻呂」の場所であり、この狭い谷間から二人が選ばれたと伝えている。

三月癸丑朔丙子、大赦天下。唯、常赦所不免、不在赦例。夏四月癸未朔庚寅、以投化新羅人居于下毛野。乙未、皇太子草壁皇子尊薨。壬寅、新羅、遣級飡金道那等奉弔瀛眞人天皇喪、幷上送學問僧明聰・觀智等、別獻金銅阿彌陀像・金銅觀世音菩薩像・大勢至菩薩像各一軀、綵帛錦綾。甲辰、春日王薨。己酉、詔、諸司仕丁、一月放假四日。

三月二十四日に大赦を行ったが、常に赦しの対象外は今回もそうであった述べている。四月八日、「投化」した新羅人を下毛野に住まわせている。十三日、草壁皇子尊が亡くなっている。何ともそっけない記述であるが、余りに唐突で、悲しい出来事だったのかもしれない。

四月二十日に新羅が使者を遣わして瀛眞人天皇の喪を弔い、学問僧二名を送迎している。複数の仏像などを献上したと記載している。二十二日に春日王が亡くなっている。諸司に四日/月の休みを与えている。

五月癸丑朔甲戌、命土師宿禰根麻呂、詔新羅弔使級飡金道那等、曰「太政官卿等奉勅奉宣、二年、遣田中朝臣法麻呂等、相告大行天皇喪。時、新羅言、新羅奉勅人者元來用蘇判位、今將復爾。由是、法麻呂等不得奉宣赴告之詔。若言前事者、在昔難波宮治天下天皇崩時、遣巨勢稻持等、告喪之日、翳飡金春秋奉勅。而言用蘇判奉勅、卽違前事也。又、於近江宮治天下天皇崩時、遣一吉飡金薩儒等奉弔。而今以級飡奉弔、亦遣前事。又、新羅元來奏云、我國、自日本遠皇祖代、並舳不干檝、奉仕之國。而今一艘、亦乖故典也。又奏云、自日本遠皇祖代、以淸白心仕奉。而不惟竭忠宣揚本職。而傷淸白、詐求幸媚。是故、調賦與別獻、並封以還之。然、自我國家遠皇祖代、廣慈汝等之德、不可絶之。故、彌勤彌謹戰々兢々、修其職任奉遵法度者、天朝復廣慈耳。汝道那等、奉斯所勅、奉宣汝王。」

五月二十二日、土師宿禰根麻呂(上記参照)に命じて、新羅の使者に「太政官の卿等は勅を承ったところを述べる。(即位)二年に田中朝臣法麻呂等を遣わして大行天皇(天武天皇)の喪を告げさせたが、その時新羅は勅を受け賜わるのは元来「蘇判位」(十七階中第三位)の者だと言って告げることができなかった。元を質せば近江宮治天下天皇(孝徳天皇)崩御の際は「翳飡位」(同第二位)、近江宮治天下天皇(天智天皇)の場合は第七位の弔使であり、様々である。元来日本遠皇祖の代から仕えて来たと述べていた筈が、信用できない有様となっている。故に調をそっくり返還することにした。法度を遵守するべきであろう。このことを王に伝えよ」と述べたと記載している。

隣国との外交が如何に難しいことか、と言うことなのかもしれない。日本側も新羅の使者を筑紫留め置きを行っているわけで互いに手の内をあからさまにすることは回避しているように感じられる。使者の手腕が試される時であろう。

六月壬午朔、賜衣裳筑紫大宰等。癸未、以皇子施基・直廣肆佐味朝臣宿那麻呂・羽田朝臣齊(齊、此云牟吾閉)・勤廣肆伊余部連馬飼・調忌寸老人・務大參大伴宿禰手拍與巨勢朝臣多益須等、拜撰善言司。庚子、賜大唐續守言・薩弘恪等稻、各有差。辛丑、詔筑紫大宰粟田眞人朝臣等、賜學問僧明聰・觀智等爲送新羅師友、綿各一百四十斤。乙巳、於筑紫小郡、設新羅弔使金道那等、賜物各有差。庚戌、班賜諸司令、一部廿二卷。

六月初め、筑紫大宰等に衣裳(衣服)を与えている。翌日に皇子施基佐味朝臣宿那麻呂(佐味君宿那麻呂)・「羽田朝臣齊(牟吾閉)」・「伊余部連馬飼」・「調忌寸老人」・「大伴宿禰手拍」・巨勢朝臣多益須に「善言」(名言集)撰のための役人を命じている。

十九日に大唐の者(續守言等)に稲をそれぞれ与えている。この人物は斉明天皇紀(即位七年、661年)の引用文に・・・日本世記云「十一月、福信所獲唐人續守言等至于筑紫。」・・・と記載され、鬼室福信が連れて来たと伝えられていた。尚、書紀本文では天智天皇紀(即位二年、663年)二月に同様の記事が記載されている。二年ほどの食い違いがあるが、確かめようがないのかもしれない。後に「續守言」は音博士(漢音による音読)の称号を賜っている。

六月二十日、筑紫大宰の粟田眞人朝臣(粟田臣眞人)等に命じて学問僧二名の新羅の「師友」(先生として尊敬するほどの友人)に送る綿を与えている。二十四日に筑紫小郡(筑紫都督府・大郡に併記)で新羅の弔使を饗応し、物を与えている。二十九日、諸司に「令」の二十二巻一部を与えたと記載している。

<羽田朝臣齊(牟吾閉)>
● 羽田朝臣齊(牟吾閉)

「羽田」は前出の羽田公矢國で読み解いた地と思われるが、「羽田公」は改姓に従って「羽田眞人」になっている筈である。「朝臣」と記述されるのは、同族なのだが、系列が異なることを表していると推測される。

古事記に記載された遠祖の波多八代宿禰には多くの「臣」が派生したとされ、その中の一つと思われる。「羽田」の近隣では「波美臣」が該当するようであるが、些か異なる表記のようでもある。

先ずは名前、特に「牟吾閉」と訓された文字列を地形に当て嵌めてみよう。頻出の牟=[牛]の古文字の様吾=大地が[✖]に交差する様閉=谷間が閉じている様と読み解いた。図に示したように「牟」の形をした山稜が交差しているように見える場所が見出せる。「羽田公矢國」の東隣、「波美臣」の西側に当たる。近接してはいるが、少々異なっていることが解る。

「齋」の文字は齋宮で用いられていた。「祭壇に稲を揃えて置く様」を象った文字と知られる。地形象形的には齋=台地で稲のような形が揃っている様と読み解いた。図から解るように「牟」の地形を稲が束ね揃えられた様と見做せる。現在は住宅地となっているが当時は海に突き出た山稜の端(岬)であったと推測される。その南側を建御雷之男神が降り立った出雲國伊那佐之小濱と推定した場所である。

<伊余部連馬飼>
● 伊余部連馬飼

いつもながらの唐突に登場させるのであるが、「伊余」は古事記の伊余湯の近隣と、深く考えることもなく、であろう。

通説は伊与の松山辺りを示す文字となって、ここを出自に持つ人物とするには、かなりの抵抗感があるのであろう。故に暈けた解釈に止まっている。

さて、「部」が付くことから、おそらく「伊余湯」の下流域として、探すのだが、開拓が進んで通常の地図では判別が難しい有様、三次元表示で、且つ陰影強調することにした。

すると、山稜の端に馬の形、もしくは二山になっている様を馬の背と見做した地形が見出せる。古事記の大雀命(仁徳天皇)の出自の場所、「雀」の胴に当たる。

その二山の間にある飼=食+司=谷間がなだらかに広がった後に出口が狭まっている様となっていることが解る。別名が馬養と知られる。出口の狭まりを考慮しない表記であろう。「飼う」と「養う」の文字の意味も併せて用いられているようである。

少々余談になるが、この人物は漢詩に優れ、詩も残っているそうだが、隋書俀國伝の秦王國は洞海を挟んだ対岸の位置関係でもある。当時は漢風文化に啓蒙されていた地域だったように思われる。文武天皇紀の大宝律令制定にも功があったと記載されている。また『浦島伝説:童話浦島太郎』の原作者(伝承を漢文にした)と言われるが、「浦島」はこちらの場所だったのかもしれない。

<調忌寸老人・古麻呂>
● 調忌寸老人

またまた唐突な登場であるが、調べると東漢一族と言われているようである。現地名京都郡みやこ町豊津辺りを探索する。

「調」は、租税の意味で用いられている筈もなく、前出の調首淡海で用いられた地形象形に類似すると思われる。

「調」=「言+周」と分解して、調=耕地が周りを囲んでいる様と読み解く。現在の水田稲作の状況からみて、東漢の台地では、思いの外、該当する地形は少なく、東側の広い谷間辺りが浮かんで来る。

「老人」は既出で氷連老人で用いられたように老人=谷間が海老のように曲がっている様と解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。現地名は京都郡みやこ町豊津である。この地も標高差が少なく、三次元・陰影図で表示した。豊津小学校や県立育徳中学校・高校があり、豊津の文教地区となっているようである。

後(續紀元正天皇紀)に調忌寸古麻呂が登場する。明經(儒教の経典に通じている)第二博士として褒賞を賜っているが、文武天皇紀に「老人」は律令編纂を担い、最終官位として正五位下・大学頭となっている。渡来系の有能な人材として位置付けられている。系譜上での繋がりあったかと思われるが、定かではないようである。

<大伴宿禰手拍・子君-子蟲>
● 大伴宿禰手拍

「宿禰」は改姓に拠るとして「大伴連」の地からの登場であろう。調べると大伴連長德大臣の系譜に繋がる人物と分った。図に示したように「堅泡(次男)」、「御行(六男)」、「安麻呂(七男)」が兄弟で、「手拍」は「堅泡」の子となっている。

さて狭い谷間で更なる地が求められるか?…であるが、「手拍」を分解すると、「手+手+白」となる。即ち手拍=二つの山稜がくっ付くような様と読み解ける。

山稜が延びて谷間が塞がるような場所、「安麻呂」の北隣の地が出自と推定される。また少し後に大伴宿禰子君が登場する。谷間の出口の山稜が途切れた小高いところと推定される。その子、大伴宿禰子蟲が續紀の聖武天皇紀に登場する。主君長屋王の仇討の逸話が残っていたようである。更に山稜の端が三つに岐れたところ()と思われる。

いやはや、凄まじいばかりの”登用”人口密度であろう。これぞ大伴一族であり、”機を見るに敏な”一族であったとも言える。

全員が出揃ったところで、幹事長役の皇子施基も含めて、出自の地、経歴が実に多彩な選択をしていることが解る。「善言」を如何に幅広く求めていたのかを垣間見ることができたように思われる。天武天皇の遺志を引き継ぎ、国家の基盤の一つに文化的な物事を据えようとした企画だったのであろう。

秋七月壬子朔、付賜陸奧蝦夷沙門自得所請金銅藥師佛像・觀世音菩薩像各一軀・鍾・娑羅・寶帳・香爐・幡等物。是日、新羅弔使金道那等罷歸。丙寅、詔左右京職及諸國司、築習射所。辛未、流偽兵衞河內國澁川郡人柏原廣山于土左國、以追廣參授捉偽兵衞廣山兵衞生部連虎。甲戌、賜越蝦夷八釣魚等、各有差。(魚、此云儺)。

七月初め、陸奥蝦夷の沙門である自得が金銅製の藥師仏像・観世音菩薩像、鐘・香炉などを請願して、与えたと記している。陸奥の仏教傾斜が急激に進んでいる。この日新羅の弔使が帰国。十五日に左右京職(行政、司法、警察の機能)及び諸國司に習射所(弓を射る習得場所、弓道場か?)を造らせている。

二十日に偽の兵衛である「河内國澁川郡」の人、「柏原廣山」を土左國に流罪としている。またこれを捉まえた兵衛の「生部連虎」に追廣參(四十八階中の三十八位)を与えたと記している。これを記録したわけは?…不明である。二十三日に越蝦夷の八釣魚(儺と読む)等に物を与えているが、詳細は不明。

<河内國澁川郡柏原廣山・生部連虎>
河内國澁川郡

「澁川」と同じ意味を表す「澁河」の表記が書紀の泊瀬部天皇(崇峻天皇)紀に現れる。蘇我馬子宿禰大臣が物部守屋大連を征伐する場面である。この河は現在の北九州市小倉南区の東谷を流れる井手浦川と推定した。

激しい蛇行を繰り返す川の流れを三つの「止」が表していると読み解いた。河内國ならば、迷うことなく現在の京都郡みやこ町勝山矢山・岩熊を流れる長峡川の上流域(矢山川)を示すと思われる。

● 柏原廣山・生部連虎

「柏」=「木+白」と分解される。すると柏原=山稜がくっ付いて並ぶ地が平らな野原の様と読み解ける。廣山=広がった山の様であり、「渋川」沿いの図に示した山稜の端にある場所と推定される。ところで偽者を見抜いた生部連虎については全く情報もない状況だが、本人かどうかを知っているとすれば、やはり近接する場所に住まったいたのではなかろうか。

「澁川」の対岸の地に、生=山稜が生え出た様虎=虎の縦縞模様と読むと、それらしき場所が見出せる。これにて一件落着の様子だが、何を伝えたかったのかは、相変わらず不明である。

<越蝦夷八釣魚>
● 越蝦夷八釣魚(儺)

越蝦夷の地で「八釣魚」の地形を求めることになる。八=谷間釣=釣り針のような様、幾度か登場の魚=四つの山稜が延びる様と読み解ける。

「越蝦夷」の東南の隅にその地形を見出すことができる。釣り針の地形は、磐舟柵があった場所を針の先端部と見做していると思われる。

この地は斉明天皇紀に柵養蝦夷として登場していた。その時は、柵の傍らとして読み解いたが、むしろ柵=山稜が四つ揃って並んでいる様と解釈するべきかもしれない。両意に重ねられているようでもある。

いずれにしても「〇〇蝦夷」の表現ではなく、名前が記載され、蝦夷の取り上げ方が大きく変わって来たのであろう。上記の陸奥蝦夷が仏教信仰へと傾斜しつつある記述と関連していると思われる。儺」=「人+難」=「谷間が大きく曲がる様」であろうか。

秋八月辛巳朔壬午、百官會集於神祗官、而奉宣天神地祗之事。甲申、天皇幸吉野宮。丙申、禁斷漁獵於攝津國武庫海一千步內・紀伊國阿提郡那耆野二萬頃・伊賀國伊賀郡身野二萬頃、置守護人、准河內國大鳥郡高脚海。丁酉、賞賜公卿各有差。辛丑、詔伊豫總領田中朝臣法麻呂等曰、讚吉國御城郡所獲白䴏、宜放養焉。癸卯、觀射。

八月二日に百官が神祗官(朝廷の祭祀を司る官庁、太政官に並ぶ最高官庁)に集まり、「天神地祗」を奉っている。四日、吉野へ行幸された。十六日に「攝津國武庫海」の一千歩以内、「紀伊國阿提郡那耆野」の二万頃、伊賀國伊賀郡身野(采女臣竹羅に併記)の二万頃での漁猟を禁じ、守護人を置いている。これは「河內國大鳥郡高脚海」に準じたものと記している。

十七日に公卿に個別にものを与えている。二十一日、伊豫總領田中朝臣法麻呂等を召して讚吉國御城郡で捕獲した白䴏(白い燕)を放飼いにせよと命じている。二十三日に射会を観覧している。

<武庫海>

攝津國武庫海

攝津國は難波津に面する地域と推定した。また書紀には武庫水門・武庫行宮として「武庫」の文字列が登場してる(右図参照)。現在の行橋市の矢留山を「武」の地形と解釈とした。

この山塊の西側の現在の標高は約5~10mで、当時は海面下にあった場所と推測される。図に示した武庫行宮があったと推定した岬に囲まれ、大きく湾曲した入江の様相をしていたことが解る。

かつ干潟の様相を示す地形であることも想像に難くない。それ故に「一千歩内」(岸から5~600m、現在の今川を少し越えた辺り)と言う規定の表現になったと思われる。要するに、極めて高精度に岸から干潟を流れる川までの領域を示している。

守護人を置いたと言うのだから、かなり厳しく取り締まったのであろう。天武天皇紀に南淵山・細川山を禁足地にしろ、と命じられた記事があったが、乱獲による資源消耗に対する管理は重要な統治政策であったことが伺える。いや、何とも精緻な記述であるが、以下も同様なのであろうか?・・・。

<紀伊國阿提郡那耆野>
紀伊國阿提郡那耆野

何度も登場の「紀伊國」の地で求めてみよう。阿=台地提=手+是=山稜が匙の様と読むと、紀伊國の最北部に平らに長く延びた地形が見出せる。

先端部が少し広がった、正に匙の形を認めることができる。耆野=なだらかに海老のように曲がって広がる野原と読み解くと、匙の柄の部分の形を示していることが解る。

この野原の広さを「二万頃」と記している。「頃(ケイ)」の単位換算は少々不確かなところもあるが、1頃≒0.02段(反)=0.002町歩≒0.002haとすると、二万頃≒40haと求められる。1ha0.01km2から、二万頃≒0.4km2となる。0.63km四方の土地の面積を表している。

図に示した距離からすると「那耆野」を十分にカバーした、若干広いが、広さを示していると分かる。書紀編纂時のことを念頭に置くと、これも精緻な記述と受け取れるのではなかろうか。

<伊賀國伊賀郡身野>
伊賀國伊賀郡身野

この地も二万頃の広さを禁漁区にしたと述べている。場所については、既出の采女臣竹(筑)羅に併記したが、大きさを調べるために再掲すると、図に示したような様子であることが分った。

「身野」が表す場所は、ちょうど「伊賀」の谷間に沿った長さである。概ね0.5km、上記の「那耆野」より少々短く、それに伴って占有面積も小さいように見受けられる。

いずれにしても、換算が正しいとすれば、およそ0.6km四方程度の地域を表している。言い換えれば、守護人が監視(目視)できる範囲であったと言える。また禁漁区とするに相応しい広さとも思われる。過度の禁止令は後に課題を残すことにもなろう。

<河內國大鳥郡高脚海>
河內國大鳥郡高脚海

頻出の「河内國」で「大鳥」の地を求めると、いつもの単純な三角形の鳥ではなく、全てが揃ったこれぞ「鳥」の姿をした地が見出せる。現地名は行橋市長木辺りである。

古事記の建倭命の白鳥御陵があった南側にやや小ぶりな鳥が佇んでいたのである。この二羽の鳥が並んでいるところを『壬申の乱』で登場した鳥籠山(現地名は鳥井原)と推定した。

大=平らな頂の山稜の麓にあり、この山稜を中心とした地を大鳥郡と名付けていたと思われる。「高脚海」と記載されているが、河に囲まれた地のことを「河内國」と言うのであって、海に面する筈がない・・・世の中では大阪府高石市だとか、河内國は何処?・・・のようである。

既出の文字から整理すると高=皺が寄ったような様海=氵+屮+母=水辺で山稜が母の両腕で抱えるような様と読み解いた。頻出と言える「海」の解釈、これが読み解けていない現状では、書紀も全く同様であろう。上記の「武庫海」は両意に重ねられた表記である。

「脚」=「月+却」と分解される。月(肉)が後ろに下がっている様と解説されている。即ち膝から下の部分を表す文字なのである。鳥の胴体の向きに対して脚=後ろ側に折れ曲がった足である。書紀編者の漢字に対する理解度の深さを知らされるのであるが、現在のその退化に愕然とする有様かと思われる。

悔しいので、一矢を報いたく・・・鳥の足が後ろに向かうことはあり得ないであろう。鳥と人(歩行動物)では膝関節の折れ曲がり方が真逆である。「脚」の形に拘るならば、「大鳥」ではないことになる・・・骨折でもしていたか?・・・それとも、古代にはそんな鳥が存在していた?・・・瑞兆(鳥)か・・・。

ともあれ、上図に示した通り、「高脚海」は古事記の近淡海の長江に面する場所を示している。「攝津國武庫海」と同じ環境であったことが解る。

潤八月辛亥朔庚申、詔諸國司曰「今冬戸籍可造。宜限九月糺捉浮浪。其兵士者、毎於一國四分而點其一令習武事。」丁丑、以淨廣肆河內王爲筑紫大宰師、授兵仗及賜物。以直廣壹授直廣貳丹比眞人嶋、増封一百戸通前。

閏八月十日に諸國司に今冬に戸籍を造り、九月迄に浮浪者を捉えること、及び兵士を一国当たり四つに分け、その一つに武事を習得させよと命じている。二十七日に河内王を「筑紫大宰」に任命している。かつての大宰だった丹比眞人嶋に一階級挙げた爵位を授け、封戸百増やしている。彼の献上物は極めて有用であったと思われる(例えば大鐘)。もう少し階級上げても・・・。

九月庚辰朔己丑、遣直廣參石上朝臣麻呂・直廣肆石川朝臣蟲名等於筑紫給送位記、且監新城。冬十月庚戌朔庚申、天皇幸高安城。辛未、直廣肆下毛野朝臣子麻呂奏欲免奴婢陸佰口、奏可。十一月己卯朔丙戌、於中市、褒美追廣貳高田首石成之閑於三兵、賜物。十二月己酉朔丙辰、禁斷雙六。

九月十日に石上朝臣麻呂(旧名、物部連麻呂)・石川朝臣蟲名を筑紫に遣わして冠位の辞令をさせている。また新城を監視させたと記載している。十月十一日に高安城に行幸。二十二日に「下毛野朝臣子麻呂」が「免奴婢」六百口と記載されている。奴婢から庶民にすることなのであろう。「奴婢」の出自は、『壬申の乱』の捕虜、それとも以前からか?…委細不明のようである。

十一月八日、市中で高田首石成(新家に併記)が三兵(剣、弓、槍or矛?)の「閑」(防御)を行い、それに褒美を取らせている。十二月八日、双六を禁止したと述べている。多分、賭博であろう、官人対象の・・・現在ではレートが低ければ問題なし、のようであるが・・・。

<下毛野朝臣子(古)麻呂>
● 下毛野朝臣子麻呂

何度も登場している「下毛野君」、現地名は築上郡吉富町であるが、「子麻呂」だけでは如何ともし難い。調べると父親が「久志麻呂」だと言われている。

これを頼りに探すと、佐井川の畔の「麻呂」の地を見出せる。吉富町別府辺りと思われる。久志=[く]の字形に曲がって蛇行する川と読む。

「子麻呂」は「古麻呂」とも言われたとのことで、子=生え出た様であり、古=丸く小高い様の両意が重なった山稜の端が出自の場所と推定される。尚、後には参議、兵部卿、大将軍などかなりの活躍をなされたそうである。