高天原廣野姬天皇:持統天皇 (2)
元年春正月丙寅朔、皇太子率公卿百寮人等、適殯宮而慟哭焉。納言布勢朝臣御主人、誄之、禮也。誄畢衆庶發哀、次梵衆發哀。於是、奉膳紀朝臣眞人等奉奠。奠畢、膳部采女等發哀。樂官奏樂。庚午、皇太子率公卿百寮人等、適殯宮而慟哭焉。梵衆隨而發哀。庚辰、賜京師年自八十以上及篤癃・貧不能自存者、絁綿各有差。甲申、使直廣肆田中朝臣法麻呂與追大貳守君苅田等、使於新羅、赴天皇喪。
一月一日に皇太子が公卿・百寮人等を率いて殯宮にて「慟哭」をし、納言の布勢朝臣御主人(布勢臣耳麻呂に併記)が弔辞を述べている。次いで「發哀」を行ったと述べている。「奉膳」の紀朝臣眞人(紀大人臣に併記)等が「奠」(お供えの食事)を奉り、膳部・采女らが「發哀」し、また「樂官」が樂を奏じたと記している。
五日も同じように「慟哭」及び「發哀」が続けられたと言う。十五日、京に住まう年八十以上の者、病気やら障害のある者、貧しい者に絁(フトギヌ)・綿を与えている。
<田中朝臣法麻呂・腋上陂> |
十九日に「田中朝臣法麻呂・守君苅田」等を新羅に遣わし、天皇が亡くなったことを告げさせている。天武天皇崩御してから半年近く経っての報告である。
● 田中朝臣法麻呂
「田中臣」は既に登場していて、香春一ノ岳の西麓。五徳川が流れる谷間の地と推定した。纏めて示すことができるが、少々せせこましくなったのであらためて図に示した。
捜すまでもなく父親の「足」の北側に隣接する場所にその地形が見出せる。どうやら文字使いに寸分の揺らぎもない感じである。流石、日本の官人である。一件落着としておこう。
後に腋上陂と言う場所が記載される。「腋上」は古事記の掖上とすると香春岳西麓、五徳川が流れる谷間であろう。「陂」は通常に用いられる「坂」を表す文字と知られる。幾つかの異字体の一つである。「陂」=「阝+皮」と分解される。阝=段々に積み重なった様を表し、皮=斜めに傾いた様が原義と知られる。既出の不破の「破」に含まれる文字である。
すると長い谷間の中でこれらの地形要素を満たす場所は図に示した辺りと推定される。頻出の坂=土+反=崖下で山稜が延びた様と読み解いた。些か異なる傾斜地形を表すために別字を用いたのであろう。本来の多様な文字表現が簡略化によって失われた一例と思われる。
● 守君苅田
「守君」も既出である。珍しく「記紀」がほとんど同様の記述を行っている箇所であって景行天皇の御子、大碓命(古事記表記)が祖となっている(こちら参照)。
現地名は行橋市上稗田の谷間である。古事記では近淡海國のど真ん中の地であるが、これから先は書紀と古事記で大きく異なることになる。
さて「苅田」は何と紐解くか?…現在の京都郡苅田町に含まれているが、書紀の「苅田」は間違いなく地形象形表記と思われる。
「苅」=「艸+メ+刀」と分解する。「メ」=「斜めに交差する様」を表す文字要素と知られる。一般的には、これで「斜めに交差するように刃物で切る様」と理解されている。
地形象形的には、苅=並んだ山稜(艸)で交差するような(メ)谷間(刀)があるところと読み解ける。「谷間」=「山稜が切り離された(刀)様」と解釈する。図に示した谷間の中央部で谷間が交わうように見える場所で田が並んでいた、と思われる。「稲を刈り取った田」と読んでしまっては、曖昧なままとなってしまうのである。
三月乙丑朔己卯、以投化高麗五十六人、居于常陸國、賦田受稟、使安生業。甲申、以花縵、進于殯宮、此曰御蔭。是日、丹比眞人麻呂誄之、禮也。丙戌、以投化新羅人十四人、居于下毛野國、賦田受稟、使安生業。夏四月甲午朔癸卯、筑紫大宰獻投化新羅僧尼及百姓男女廿二人、居于武藏國、賦田受稟、使安生業。五月甲子朔乙酉、皇太子率公卿百寮人等、適殯宮而慟哭焉。於是、隼人大隈阿多魁帥、各領己衆、互進誄焉。
三月十五日に「投化」(自ら帰化)の高麗五十六人を常陸國に住まわせ、田を賦与して「稟」(食い扶持)を授けて生業にさせたと記している。朝鮮半島内の動乱は継続していたのであろう。二十日、殯宮に「花縵」(仏前の生花?)を進呈した。これを「御蔭」と言う、と伝えている。この日、丹比眞人麻呂が弔辞を述べている。二十二日に新羅十四人が「投化」し下毛野國に住まわせ、上記と同様に処したと記載している。
四月十日に筑紫大宰が「投化」した新羅の僧尼及び百姓男女二十二人を武藏國に住まわせ、上記と同様な処置を行っている。五月二十二日、皇太子が公卿・百寮人を率いて殯宮で「慟哭」している。この時隼人大隅・阿多の「魁帥」(首長)が各々の領地の衆と共に弔辞を述べたと記載している。
度々「慟哭」の先頭に立っておられる皇太子、さながら次代の有様を示すがごとくの演出をしているようである。それにしても、当時の日本には開拓されるべき多くの土地があったのであろう。常陸國・武藏國及び下野毛國は、崖下の急斜面の地あるいは大河の下流域の地である。困難を極める入植・開拓を「投化」が担ったことを伝えている。
通説のように現在の本州までヤマト政権の領域としてしまっては、当時の交通・通信手段では時空的に統治不可能な地に「投化」を放つことはあり得ないであろう。そもそも「公地公民」制が本州含めた領域で成り立つことではないのである。
六月癸巳朔庚申、赦罪人。秋七月癸亥朔甲子、詔曰「凡負債者、自乙酉年以前物、莫收利也。若既役身者、不得役利。」辛未、賞賜隼人、大隅・阿多魁帥等三百卅七人、各有差。八月壬辰朔丙申、嘗于殯宮、此曰御靑飯也。丁酉、京城耆老男女皆臨慟哭於橋西。己未、天皇、使直大肆藤原朝臣大嶋・直大肆黃書連大伴、請集三百龍象大德等於飛鳥寺、奉施袈裟人別一領。曰、此以天渟中原瀛眞人天皇御服所縫作也。詔詞酸割、不可具陳。
六月二十八日、恩赦。七月二日に、天武天皇即位十四年(西暦685年)以前の負債の利子を取ってはいけない。労役は利子に当てるのではなく元本にしろ、と命じられている。九日、大隅・阿多隼人の魁帥等三百三十七人に「賞(褒美)」を与えている。八月五日に殯宮で「嘗(穀物を奉る儀式)」し、これを「御靑飯」と言う、と伝えている。翌日、京の老若男女が「慟哭於橋西」(殯宮は淨御原宮南庭に設置、金辺川に架かる橋か?)している。
八月二十八日、藤原朝臣大嶋(中臣連大嶋改姓)・黃書連大伴(黃書造大伴改姓)に飛鳥寺に「龍象大德」(たいそうな力のある僧)等三百人を集めさせ、袈裟をそれぞれに贈っている。更にこの袈裟は天渟中原瀛眞人天皇の御服から作ったものだと呟いた、と述べている。
九月壬戌朔庚午、設國忌齋於京師諸寺。辛未、設齋於殯宮。甲申、新羅、遣王子金霜林・級飡金薩慕及級飡金仁述・大舍蘇陽信等、奏請國政、且獻調賦。學問僧智隆、附而至焉。筑紫大宰便告天皇崩於霜林等、卽日霜林等皆着喪服東向三拜三發哭焉。
九月九日、「國忌齋」(天皇死を弔う儀式)を京の諸寺で行っている。一年が過ぎ、今で言う一周忌となろうか。翌日には殯宮で設齋。二十三日に新羅が王子等を遣わして政情報告し、進調している。学問僧が付いて来たとも述べている。筑紫大宰が天皇崩御を知らせると使者らは皆喪服を着て「東向三拜三發哭」を行ったと記している。
勿論一月十九日に田中朝臣法麻呂等を新羅に向かわせているから、この使者達が知らない筈はなく、弔使でもあったと思われるが、筑紫で留め置かれたことが判る。尚、天智天皇崩御の際にも翌年に「於是、郭務悰等、咸着喪服三遍舉哀、向東稽首」と記載されていた。「稽首(額づく)」の動作との異動は不明だが、「東に向いて」は全く同様である。当然ながら「宮」は、東の彼方にあると新羅に思い込ませていたのである(こちら参照)。
冬十月辛卯朔壬子、皇太子、率公卿百寮人等幷諸國司國造及百姓男女、始築大內陵。十二月辛卯朔庚子、以直廣參路眞人迹見、爲饗新羅勅使。是年也、大歲丁亥。
十月二十二日に皇太子が公卿・百寮人等と諸國司・國造及び百姓男女を併せて、「大內陵」を築き始めたと記載している。十二月十日に新羅の使者をもてなすため路眞人迹見を遣わしている。
大內陵
天武天皇陵は「大內陵」と言われたようである。さてこの陵墓の場所は何処であろうか?…「大內」の地名は書紀の中で登場していて、欽明天皇紀に以下の記述があった。
・・・七年秋七月、倭國今來郡言「於五年春、川原民直宮宮名登樓騁望、乃見良駒紀伊國漁者負贄草馬之子也、睨影高鳴、輕超母脊、就而買取。襲養兼年、及壯、鴻驚龍翥、別輩越群、服御隨心、馳驟合度、超渡大內丘之壑十八丈焉。」川原民直宮、檜隈邑人也。・・・
実はこの短文は極めて重要な情報をもたらしていて、倭國今來郡、民直、檜隈そして「大內丘」がそれぞれの位置関係を推測できる文言が含まれていたのである。前三者はこの記述から求められた。従って前回の結果を踏まえて「大內丘」を求めてみよう。
既出の內=冂+入=囲われた場所に入って行く様を表す文字である。地形象形的には、大內=平らな頂の山稜が谷間に入るように見えるところを読み解ける。欽明天皇陵があったと推定した「坂合」の場所及び合葬された吉備嶋皇祖母命(吉備姫王)の檀弓岡は、正しく[會]の地形の隈にある。
「大內陵」には「檜隈」は付かない。図から明らかに「檜隈」ではないことを示している。宮内庁治定の「檜隈大内陵」は存在しない。「檜隈邑大内陵」と書紀は告げている。「邑」を付けることで、曖昧に記述したのである。同じではないか?・・・文字が地形を表す故に大きく異なる表記なのである。これも読み手の勝手な解釈の一例であろう。
二年春正月庚申朔、皇太子、率公卿百寮人等、適殯宮而慟哭焉。辛酉、梵衆發哀於殯宮。丁卯、設無遮大會於藥師寺。壬午、以天皇崩奉宣新羅金霜林等、金霜林等乃三發哭。二月庚寅朔辛卯、大宰獻新羅調賦、金銀絹布・皮銅鐵之類十餘物、幷別所獻佛像・種々彩絹・鳥馬之類十餘種、及霜林所獻金銀彩色・種々珍異之物、幷八十餘物。己亥、饗霜林等於筑紫館、賜物各有差。乙巳、詔曰、自今以後毎取國忌日要須齋也。戊午、霜林等罷歸。
即位二年(西暦688年)正月一日、皇太子が公卿・百寮人等を率いて殯宮で「慟哭」し、翌日「梵衆」(僧達)が殯宮で「發哀」している。八日に藥師寺で「無遮大會」を設けたと記している。二十三日、新羅の使者も三回「發哭」している。
二月二日、(筑紫)大宰が新羅からの進調品及び王子の金霜林からの献上品の数々を届けている。十日に新羅使者達を「筑紫館」で饗応している(二十九日帰国)。結局新羅の天皇への謁見は頑なに拒否している。緊張感ある外交を行ったようである。十六日に、今後天武天皇崩御の日(國忌日)には「齋」を必ず行え、と命じられている。
筑紫館は、天智天皇紀に登場した筑紫都督府のあった場所(筑紫大宰の東、現在の北九州市小倉北区にある平和公園辺り)と思われる。天武天皇紀に「筑紫大郡」と記載されている。また後に「筑紫小郡」が登場するが、おそらくこの近隣にあった場所と推測される。難波大郡・小郡に準じた表現であろう。
三月己未朔己卯、以花縵進于殯宮、藤原朝臣大嶋誄焉。五月戊午朔乙丑、以百濟敬須德那利、移甲斐國。六月戊子朔戊戌、詔「令天下、繋囚極刑減本罪一等、輕繋皆赦除之。其令天下皆半入今年調賦。」秋七月丁巳朔丁卯、大雩。旱也。丙子、命百濟沙門道藏請雨、不崇朝、遍雨天下。八月丁亥朔丙申、嘗于殯宮而慟哭焉、於是、大伴宿禰安麻呂誄焉。丁酉、命淨大肆伊勢王、奉宣葬儀。辛亥、耽羅王遣佐平加羅、來獻方物。
三月二十一日に殯宮に花縵を奉り、藤原朝臣大嶋が弔辞を述べている。五月八日に百濟の敬須德那利を甲斐國に移している。六月十一日に極刑の囚人の罪を一等減じること、軽い罪の者は赦せと命じられている。また今年の調賦を半減されている。七月十一日、旱魃の為に雨乞いをしている。不作を見込んでの減税だったようである。二十日に百濟の僧が雨乞いすると遍く雨が降ったと述べている。
九月丙辰朔戊寅、饗耽羅佐平加羅等於筑紫館、賜物各有差。冬十一月乙卯朔戊午、皇太子、率公卿百寮人等與諸蕃賓客、適殯宮而慟哭焉。於是、奉奠、奏楯節儛。諸臣各舉己先祖等所仕狀、遞進誄焉。己未、蝦夷百九十餘人、負荷調賦而誄焉。乙丑、布勢朝臣御主人・大伴宿禰御行、遞進而誄。直廣肆當麻眞人智德、奉誄皇祖等之騰極次第。禮也、古云日嗣也。畢葬于大內陵。十二月乙酉朔丙申、饗蝦夷男女二百一十三人於飛鳥寺西槻下、仍授冠位、賜物各有差。
九月二十三日に耽羅の使者を筑紫館で饗応し、物を与えている。十一月四日に皇太子が例の如くにして殯宮で儀式を行っている。「諸蕃賓客」、「楯節儛」(武具を装着しての舞)が加わって一層賑やかになっている。五日、蝦夷百九十人余りが調賦を背負って弔辞を述べたと記している。