2020年10月28日水曜日

高天原廣野姬天皇:持統天皇 (1) 〔464〕

高天原廣野姬天皇:持統天皇 (1)


「記紀」が伝える天皇家の物語上のクーデター『壬申の乱』を唯一成功させた天武天皇が即位十五年(西暦686年)「朱鳥元年」九月九日に崩御された。前紀の天智天皇紀は唐・三韓と深く関わり、挙句に唐との軍事面における力の差を思い知らされる羽目に陥り、只管国防対策に翻弄させられた時代であったが、天武天皇紀は国力の充実のために天皇の一極集中した制度へと転換したようである。

それは天智天皇紀までの群雄割拠した豪族対策の仕上げでもあり、「公地公民」制の確立でもあったように思われる。一方で国内掌握の一環として「姓」を制定し、身分制度の明確化及び天孫降臨以後の皇族を見直し、『八色之姓』の最上位「眞人」姓の設定を行っている。「記紀」編纂の勅命はこれに関連してなされたものと思われる。

事後のことについて、世に「吉野の盟約」と呼ばれる出来事も記載されているが、まるでそれが呼び水のようになって、皇太子を決めてはいるもののすんなりとは日嗣されなかったと伝えている。そこに母親の皇后であった菟野皇女が持統天皇として即位することになったようである。引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらどを参照。

高天原廣野姬天皇、少名鸕野讚良皇女、天命開別天皇第二女也、母曰遠智娘更名美濃津子娘、天皇深沈有大度。天豐財重日足姬天皇三年、適天渟中原瀛眞人天皇爲妃。雖帝王女而好禮節儉、有母儀德。天命開別天皇元年、生草壁皇子尊於大津宮。十年十月、從沙門天渟中原瀛眞人天皇、入於吉野避朝猜忌、語在天命開別天皇紀。

暫しプロフィールの紹介である。「高天原廣野姬天皇」の和風諮号が記載されている。後に藤原宮に遷ったと記載される。従前通りであれば、その地の地形を表していることになる。幼名が鸕野讚良皇女、父親が天命開別天皇(次女)で母親が遠智娘更名美濃津子娘である。「深沈有大度」は沈着冷静で度量が大きい、ぐらいであろうか。

天豐財重日足姬天皇の三年に天渟中原瀛眞人天皇の妃となっている。帝王の娘だが、礼節を好み母親としての道徳を持合せていたと述べている。天命開別天皇元年に(近江)大津宮で草壁皇太子を生んでいる。天智天皇十年十月に天武天皇に従って吉野に入り、(近江)朝廷の猜疑を避けたと記している。

高天原廣野姬天皇

前記で天皇が坐した藤原宮の場所を求めた。宮前に藥師寺があり、その脇を池が連なり上った場所と推定した。現地名は田川市夏吉であるが、田川郡香春町との境にある谷間である。

<高天原廣野姬天皇>
既に読み解いたように「藤」=「艸+朕+水」と分解される。地形象形的には、藤=谷間(艸)で水溜まり[池](水)が積み上がっている(朕)様を表している。現在の地図上で確認される池は、一つのようであるが・・・。

「高天原」とは、造化三神から三貴神に至る神々が鎮座していた場所を示すのではなかろう。高天原も立派な地形象形表記なのである。皺が寄ったような山稜が擦り潰されて平らな地となったところである。

図に示したように、皺の寄り方に異動はあるものの山稜が細かく延びている麓に平らに広がった野原(廣野)の地形であることが解る。姫=女+臣=山稜に挟まれた窪んだ様と解釈される。

通常に受け取られる「天上高くにある原」とも言っているのである。現在の標高で40~50m、高台で奥まった地であることも併せて表現したものであろう。また別名として「大倭根子天之広野日女尊」と記されると知られている。皺のある山稜は前出の膽駒山から延びる大きな山稜()から生え出た山稜()である。極めて特徴的な地形を捉えた表現と思われる。

「藤原宮」その場所の比定は、ほぼ間違いないものと思われる。それにしても連なる池が現存しているのは奇跡に近いものであろう。些か手が加えられている感じもあるが、原形を留めていると推測される。かつても述べたが、開発に伴う地形の変形は止むを得ない状況でもあろうが、国土地理院地図のデータベースに残されることを期待したい。

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余談になるが、書紀では「藤原宮」であって「藤原京」とは記載されていない。これに対応するの「新益京」が後に登場する。確かに「宮」は天皇の住まい、建屋を表すが、「京」は、それこそ条里制が敷かれた地域を表す表記であろう(勿論「記紀」はそんなたいそうな意味で用いてはいないが)。実は、藥師寺の場所が特定された時に、思わずその近隣に「藤原京」があった、と早とちりしてしまった経緯がある。それほど馴染んでしまっているとも言えるが、大きな問題を含んでいることに気付かされた。

Wikipediaでは「藤原京」が書記に記載されていないことを踏まえて、これはあくまで後代の”学術用語”と解説している。少々噛み付きたくなる表現であるが、実体のないもののを学術用語で済ませる、単なる狭い世界の隠語ではなかろうか。発掘調査されたところが条里制らしきものが見出せたからだけのような感じである。「藤原」、「高天原」が示す地形は皺に取り囲まれた平らな広場にある宮である。この地形の場所を発掘しない限り、「藤原宮」を見出すことは不可能であろう。

「新益京」では「京」の文字を使っている。言い換えれば「藤原宮」の周りが「京」であれば「藤原京」と記載した筈であろう。登場した時に詳細を述べるが、この地域は「藤原宮」の麓の藥師寺があったところの前から磯城縣が広がると読み解いた。その「縣」の地形を「益」で表していると思われる。書紀の記述は、極めて明解である。読み手が混乱させているだけであろう。

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天渟中原瀛眞人天皇元年夏六月、從天渟中原瀛眞人天皇、避難東國、鞠旅會衆遂與定謀、廼分命敢死者數萬置諸要害之地。秋七月、美濃軍將等與大倭桀豪、共誅大友皇子、傳首詣不破宮。二年、立爲皇后。皇后、從始迄今佐天皇定天下、毎於侍執之際、輙言及政事、多所毗補。

天武天皇即位元年六月から始まる『壬申の乱』(こちら参照)について簡単に述べられている。最初は僅かな手勢だったのが三々五々と見方が集まって「鞠旅」(軍隊を育てる)、謀略を定めることができ、「命敢死者」(命知らずの者)を分けて要害の地に敷いた、と回想している。阿閉隊と男依隊(こちら参照)、命知らずの最たる者は将軍吹負であろうか。

七月、美濃軍の将等と大倭の豪傑が共闘して大友皇子を誅殺して首を不破宮に届けた、と最後の件を述べている。天武二年に皇后となり、初めより今まで天皇の脇に居て天下を定めたが、政事などに関して多くのところで補佐して来ていると記載している。

朱鳥元年九月戊戌朔丙午、天渟中原瀛眞人天皇崩、皇后臨朝稱制。冬十月戊辰朔己巳、皇子大津謀反發覺、逮捕皇子大津、幷捕爲皇子大津所詿誤、直廣肆八口朝臣音橿・小山下壹伎連博德與大舍人中臣朝臣臣麻呂・巨勢朝臣多益須・新羅沙門行心及帳內礪杵道作等、卅餘人。庚午、賜死皇子大津於譯語田舍、時年廿四。妃皇女山邊、被髮徒跣、奔赴殉焉、見者皆歔欷。皇子大津、天渟中原瀛眞人天皇第三子也、容止墻岸、音辭俊朗、爲天命開別天皇所愛、及長辨有才學、尤愛文筆、詩賦之興、自大津始也。

丙申詔曰、皇子大津謀反、詿誤吏民帳內不得已、今皇子大津已滅、從者當坐皇子大津者皆赦之、但礪杵道作流伊豆。又詔曰、新羅沙門行心、與皇子大津謀反、朕不忍加法、徙飛騨國伽藍。

朱鳥元年(西暦686年)九月九日に天武天皇が崩御され、皇后が称制したと記している。十月二日、皇子大津の謀反が発覚している。皇子及び唆された「八口朝臣音橿」・壹伎連博德(伊吉博德)・中臣朝臣臣麻呂(中臣酒人連に併記)・巨勢朝臣多益須(巨勢朝臣馬飼に併記)・新羅沙門行心・礪杵道作(美濃國礪杵郡に併記)」等三十余人を逮捕している。

翌日十月三日に皇子大津は「譯語田舍」(自宅)で殺され、齢二十四、后の皇女山邊が殉死したと記している。以下皇子の人となりが綴られ、出来が良かったとのこと、使者へのはなむけかもしれないが、別書の記述と大きな食い違いがなく、やはり優秀な人材だったようである。それが災いしたのかもしれない。

「譯語田」の文字列は、「譯語田宮御宇天皇(敏達天皇)」に用いられている(こちら参照)。即ち、大津皇子は「幸玉宮」に住まっていたこと示しているようである。かつての天皇の宮の活用、幾つかの皇子の例がある。

二十九日に皇子大津の謀反の件について、従った者を赦すが、「礪杵道作」は伊豆(嶋)へ流罪となって、三十余人の中で唯一重罪だったようである。他の者は、大津皇子と懇意なだけで、謀反と言える行為の対象者は「道作」だけだったのかもしれない。ことを起こすなら、やはり美濃、これも引っ掛ったようでもある。

天武天皇即位五年(西暦676年)四月の記事に美濃國司が「礪杵郡」に居る紀臣訶佐麻呂(既出の紀臣訶多麻呂に併記)の子を東國に移し、百姓としたと告げている。『壬申の乱』で近江朝側に付いたために左遷されていたのでは、と読んだが、どこかしら不遜な行いが生じる地となっていたのかもしれない。もう一人免罪とならなかった「沙門行心」は「飛騨國」の伽藍(寺)へ移せと命じられている。

<飛騨國>
飛騨國

「飛騨」の文字は仁徳天皇紀に一度、本紀に二度出現する。確かに辺鄙な地なのであろう。とは言うもののさて、如何なる場所に求められのであろうか、先ずは文字が示す地形を確かめてみよう。

「飛」の文字は、勿論「飛鳥」に用いられているが、この時の解釈は「飛ぶ鳥」の姿そのものを表していたのではないか、と推定した(こちら参照)。

もう一つの地形象形表現としては、古事記に登場する大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)紀の倭飛羽矢若屋比賣に含まれている。この解釈は飛=二つに分かれる様とした。「飛」が示す意味は、「羽が左右に分かれて広がる様」である。

「騨」=「馬+単」と分解される。「馬」=「馬の背のような様」であり、「単」=「平らな様」と解釈される。纏めると飛騨=馬の背のように平らな地が二つに分かれたところと読み解ける。その地形が「越前國」の西側、「阿多」の南側に見出せる。現地名は北九州市門司区黒川西である。現在は開発されて広い住宅地になっているが、おそらく元々平坦な地形だったものと推測される。

全くもって国譲りの丁寧さを示しているようであるが、文字が示す地形とは似ても似付かないところとなっている。勿論「飛騨」の地名由来は諸説あるとのこと(こちら参照;仁徳天皇紀に出現している筈だが、都合が悪いからカットされている?)。

<八口朝臣音橿>
● 八口朝臣音橿

「八口」は『壬申の乱』の中で登場している。「谷間の入口」であるが、何処の谷間?…書紀は決してあからさまにはしない記述をしている。当然、この乱が起こった場所の特定が暈すためである。

結果として河内から倭京へ抜ける峠に向かう谷間の入口と推定した(こちら参照)。尚、「八口采女」も舒明天皇紀に登場している。これは「采女」の地にある「谷間の入口」と解釈した。

既出の「音=辛+囗+一=耕地が閉じ込められた様」と紐解いた。直近では紀臣大音で用いられていた。「橿=木+畺=山稜の傍らで田が積み重なっている様」と解釈される。纏めると音橿=耕地が閉じ込められたような地で山稜の傍らで田が積み重なっているところと読み解ける。図に示した現地名京都郡みやこ町勝山宮原辺りと推定される。

十一月丁酉朔壬子、奉伊勢神祠皇女大來、還至京師。癸丑、地震。十二月丁卯朔乙酉、奉爲天渟中原瀛眞人天皇、設無遮大會於五寺大官・飛鳥・川原・小墾田豐浦・坂田。壬辰、賜京師孤獨高年布帛各有差。潤十二月、筑紫大宰、獻三國高麗・百濟・新羅百姓男女幷僧尼六十二人。是歲、蛇犬相交、俄而倶死。

十一月十六日に伊勢に居た皇女大來(大津皇子とは姉弟)が京に戻されている。翌日に地震あり。十二月十九日、天渟中原瀛眞人天皇の為に「無遮大會」(無遮:一切平等慈悲)を五つの寺「大官大寺・飛鳥寺(法興寺)・川原寺・小墾田豐浦寺・南淵坂田寺」で設けている。二十六日に京に住む「孤獨高年」に布帛を与えたと述べている。閏十二月に筑紫大宰が高麗・百濟・新羅の百姓男女・僧尼を併せて六十二人を献上している。この年、蛇と犬が交わって、共に死んだと記している。

<大官大寺・南淵坂田寺>
大官大寺・南淵坂田寺

大官大寺は高市大寺の呼称が変わったと記載されていた。既に幾度か登場しているが、あらためて図に示した。「高市」は高市皇子の居場所を示す表記であり、大寺は近隣にあったと思われる。

頻出の高=山稜が皺が寄ったような様と読み解き、市=寄り集まる様として田川郡香春町鏡山にある山稜の端と推定した。

書紀本文では「坂田」と記載されるが、用明天皇紀に「南淵坂田寺」が登場している。幾つかの「坂田寺」があったのかもしれないが、「無遮大會」が催される規模とするなら複数回登場する寺と思われる。

ならば幾度か登場の南淵の地にあったと推定され、南淵山・細川山の谷間の坂道沿いとなるが、一に特定は叶わないようである。図に示した範囲とする。飛鳥寺(法興寺)から呉川の畔に大寺が並んでいた様相であり、仏教への傾斜の凄まじさが伺える。

<小墾田豐浦寺>
小墾田豐浦寺

「豐浦」が決め手の場所であろう。蘇我蝦夷大臣の通称が「豐浦大臣」と記載されていた。豐浦=段差のある高台が水辺の平らな地の傍らにあるところと読み解いた。

「蝦夷」の東南の隅に当たる場所と推定した。「小墾田」は小墾田宮と相似形の田がある場所を表していると解釈される。

三角形の小ぶりな地形を示す表記である。水辺の平らなところが田にされていたのであろう。その傍らの高台に寺が造られていたと思われる。

権勢を誇った蝦夷大臣の豪邸の近隣、いや、寺も含めての邸宅だったと推測される。仏教隆盛の礎の地であろう。蘇我一族の影も形もなくなった時でも寺は存在していたのではなかろうか。

補足になるが、「豐浦寺」は舒明天皇紀に登場している。明らかにこの寺は「京」近辺にあったことが分る記述なのであるが、古事記の帶中津日子命(仲哀天皇)が坐した穴門之豐浦宮の近隣にあったと推定した(同じく呉川の畔)。書紀編者もここではきちんと区別して「小墾田」を冠したようである。舒明天皇紀以前にも登場しているようであり、詳細は後日としよう。