2020年8月19日水曜日

天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(8) 〔444〕

天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(8)


いよいよ編成された軍同士の戦いが始まろうとしている。各陣営の配置は如何なることになったのであろうか。引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

秋七月庚寅朔辛卯、天皇遣紀臣阿閉麻呂・多臣品治・三輪君子首・置始連菟、率數萬衆自伊勢大山越之向倭。且遣村國連男依・書首根麻呂・和珥部臣君手・膽香瓦臣安倍、率數萬衆自不破出直入近江。恐其衆與近江師難別、以赤色着衣上。然後、別命多臣品治率三千衆屯于莿萩野、遣田中臣足麻呂令守倉歷道。
 
時、近江命山部王蘇賀臣果安巨勢臣比等、率數萬衆將襲不破而軍于犬上川濱山部王、爲蘇賀臣果安巨勢臣比等見殺。由是亂以軍不進。乃蘇賀臣果安、自犬上返、刺頸而死。是時、近江將軍羽田公矢國・其子大人等、率己族來降。因授斧鉞拜將軍、卽北入越。先是、近江放精兵、忽衝玉倉部邑。則遣出雲臣狛、擊追之

七月二日、不破側の軍編成を明らかになった・・・、

①阿閉麻呂隊:「紀臣阿閉麻呂・多臣品治三輪君子首・置始連菟」が数万の兵を率いて伊勢大山越えで「倭」に向かう。

②男依隊:「村國連男依書首根麻呂和珥部臣君手膽香瓦臣安倍」が同じく数万の兵を率いて、「自不破出直入近江」(不破から出て近江に直入)する。

・・・別命で「多臣品治」は兵三千を率いて莿萩野に駐留する。敵味方の区別のため赤色の上着を付けること、また、田中臣足麻呂は「倉歴道」を守ること、と記述している。

合わせて五~十万強の軍勢となっている。確かに数えきれないくらい、であったろう。一方、ゲリラの吹負将軍に関しては、暫く彼の思うように動かせたのであろう。

一方の近江朝側は、「山部王蘇賀臣果安巨勢臣比等」が兵数万を率いて、「不破」を攻撃するために「犬上川濱」に進駐させている。ところが、「蘇賀臣果安・巨勢臣比等」が「山部王」を殺害し、更に「果安」は自害したため、軍はそれ以上進めなかったと記載されている。

大混乱であろうが、肝心な理由は述べられてはいない。前記した「鈴鹿關に山部王が来た」、でも実は大津皇子だったと言う間違い報告に関わりがあることを匂わせていた。この不祥事によって「將軍羽田公矢國・其子大人」が一族を引き連れて不破側に寝返っている。「北入越」は何と読み下すのであろうか?・・・。

近江側は精鋭を放って、「玉倉部邑」を攻めるが、「出雲臣狛」によって撃退されたと述べている。勝ち残った側の記述ではあるが、余りにもお粗末な軍編成であって、挙句に局地戦での敗戦も付加している。実は近江朝側の別動隊が不破側の主力(近江朝から見て)を挟撃する作戦であったことが判明する。彼等もそれなりの戦略を持合せていたのである。後日に詳述する。

<倉歷道>
倉歷道

第一大隊では、伊勢大山越えで倭京を目指せ、と言い、かつ莿萩野に別動隊を設けて道を封鎖する、鈴鹿以北への敵の侵入を徹底的に阻止する戦術と思われる。

そうならば「倉歴道」は、第二大隊の経路上にあって、同様の役割を果たすことができる場所であろう。「和蹔」から「近江」に入るまでの要所と思われる。

「倉」=「谷間」として、「歷」はなんと解釈するか?…「歷」=「厂+秝+止」と分解される。地形象形的には、歷=崖(厂)にしなやかに曲がる山稜が並んでいる()麓(止)と読み解ける。海辺の山稜の端の地形から内陸部に入る場所にある崖に囲まれた深い谷間の地形を表していると思われる。

これらの情報を総合すると、京都郡苅田町馬場辺りから谷に向い、高城山(高安城近隣)の麓を抜ける道と推定される。この道は、古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が「倭」に向かう時に彷徨った高倉下が居た場所と思われる。高城山山系の西麓は頻度高く登場しているが、東麓の詳細は初めての表記である。「高」の文字は、「高麗」と表記された西麓でも、当然成立つものであろう。

犬上川濱

これまで古事記・書紀と読み進んで来て、「犬上」とくれば即答できる筈である。由緒正しき地名、古事記での初出は倭建命の子、稻依別王が祖となった犬上君である。書紀では多くの君達が雛壇に並ぶように鎮座されている。そこから流れ出す川、蘇賀石河宿禰の石河である。書紀では倉山田石川大臣にも使われている。現在の京都郡苅田町の白川である。「濱」と付けば、河邊臣百依の近隣であろう。

<玉倉部邑>
玉倉部邑

玉倉=玉のようなところがある谷間として、「邑」=「村」と解釈しても大きく見誤ることはないであろうが、今一歩踏み込んでみると、意外なことが浮かび上がって来る。

「玉倉部」の「部」を加えて、その谷間の一部とすると、「邑」=「囗+巴」と分解され、巴=大地が跪く様と読み解ける。図は蘇我蝦夷の「蝦夷」の「カエル」で代用したが、正に「蝦夷」の地を表していることが解る。

通常は「限られた地に人が跪いて寄り集まっている様」として「村」に通じる解釈となるが、それを地形象形に使うとは、驚かされる。まぁ、「カエル」が居なければ使わなかったのであろうが・・・。

この谷間、かつての古人大兄王の出自の場所であるが、ここを登って行っても「高安城」に向かうことができる。「出雲臣狛」はこのルートを守っていたことになる。後の出自のところで詳しく述べる。

<両軍進攻作戦図>
さて、「倉歷道」、「犬上川」、「玉倉部邑」が判れば、不破側と近江側との進軍作戦を描くことができる。
①阿閇麻呂隊は、大海人皇子が逃亡した行程を逆行して「菟田」へ向かい、「名張」、現在の金辺峠を越えて「倭京」に向かうことになる。

最後甘檮岡の分岐でどちらかを選択することになるが、それは後日に述べる。莿萩野での備えは重要であろう。本隊通過後、敵の別動隊に突破されては、本陣危うし、である。如何に敵の背後突くかが、勝敗を決める。

②男依隊の戦略はどうであろうか、別動隊の「足麻呂隊」の役割は、「品治隊」とは異なり、当該隊の近江突入を如何に容易にするかが主であったと推測される。既にこちらの防衛は確認済みであったことからも伺える。

また、突入後敵の本隊が待ち構えていることも承知の筈で、狭い「倉歷道」を抜け出たところで戦闘に入るなら、敗戦もあり得る状況である。如何に「足麻呂隊」は戦ったのかは、後日に述べる。

一方の近江側の布陣は、貧弱そのもので、上記した如く、内紛あり、寝返りあり、また別動隊が先行しようとしたら、逆に攻撃されてしまったような八方塞がりの状況であったと述べている。

彼等の本来の戦略は。「倭京」を守り、「筑紫・吉備」を味方にして敵の”背後”から攻撃する筈であったのが、全て失敗に終わっている。ある意味この状態で、勝負あったとも言える布陣であろう。残された唯一の援軍が来るのだが、これも後日に回す。

通常、「北入越」は「北越に入らせる」、「北方へ越に入らせる」などと訳されているようである。曖昧な表記なのだが、この後の記述に「越」など全く無関係、勿論今までの記述に関しても「越」が出る幕はないないのだが、不破の将軍となった羽田公矢國は、「三尾城」を「出雲臣狛」と共に攻め落としている。

この城の場所などは後程述べることになるが、遠い「越」の城をこの時期に攻める必要性は皆無であろう。「越」に何か脅威が発生したらしいとまで深読み解釈が登場する。「北入越」=「北に入り越す」と訳す。これも通説の各場所の配置では、少しばかり都合が悪かったのであろう。不破と近江大津は北南の位置関係であり、東西ではない。見逃せない文字列である。

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さて、初登場の人物の出自の場所を求めておこう。既出、あるいは併記して既に求めた人物は、上記のリンクを参照。

<紀臣阿閉麻呂>
● 紀臣阿閉麻呂

既に多く登場している「紀臣」の地が出自の場所であろう。大方の傾向は、海辺に近付く地に注目されて来たのだが、どうも異なるようである。

少し山側、内陸の谷間を探索することにした。「閉」=「門+才」と分解される。これで「閉じる様」を表す文字となる。「門」は、これまでも頻度高く出現し、「谷間」を示している。

すると閉=谷間を閉じるような様と解釈される。現地名豊前市川内にある山稜が交差するように集まって、狭い谷の入口を形成している場所が見出せる。

山稜の端が延びて「麻呂」の地形となっている場所が出自と推定される。近くの既出の場所は、図に示した紀温湯などであり、かなり谷奥に入った場所であることが解る。父親が「紀臣麻呂岐」と知られる。山稜の頂上が「麻呂」の地形でそこから幾つかの山稜が分岐している様を示している。

<置始連菟>
要するに今まで日の目を見なかった地の人物が大海人皇子に加担した、と言うことであろう。それでも由緒正しき地の出身者が第一大隊長を任されたのである。海辺の
紀大人臣は御史大夫(大納言?)の要職に昇っているが、実に対照的な様相を記述している。

● 置始連菟

「置始連」は既出の置始連大伯の場所、調べるとその子であると判った。「始」の文字は「菟」と類似の地形を表す文字である。菟=艸+免=山稜に囲まれて窪んでいる様と解釈すると「始」の中にもう一つの類似の地形が見出せる。古事記の稻羽之素菟に用いられている頻出の文字である。

別名に「宇佐伎(ウサギ)」と訓した表記が知られている。宇佐伎=囲まれた山麓(宇)で谷間が二つに分かれた(伎)傍(佐)のところと読み解ける。勿論「菟」の場所、その詳細を表していることが解る。父親の西隣である。

<羽田公矢國-大人>
● 羽田公矢國・大人

「羽田」は、実に古い、早期に開けた土地柄である。速須佐之男命の御子、大年神の子である羽山戸神が後裔をこの地の周辺に拡げた時代から、幾多の変遷を経て来たと思われる。

「羽田」の名称の直接の元となるのが、孝元天皇の御子、建内宿禰の子の波多八代宿禰が祖となったことであろう。古豪中の古豪が復活の様相なのであるが、大乱は様々なものを掘り起こす機会を与えたとも思われる。

矢國=矢のような山稜で取り囲まれているところ大人=平らな頂の山稜の麓に谷間があるところと読み解ける。現在の矢筈山の西麓、矢筈町である。後に真人(最高位の姓)を送られている。出自に加えて大乱での寝返りが、それをもたらしたのであろう。古豪一族に再びの繁栄が訪れたかもしれない。

別表記の八國=二つに岐れた山稜に取り囲まれているところも図に示した場所の地形をより分かり易く表していることが解る。「矢」の北側の狭い谷間を夜麻登と古事記は記載している。

<出雲臣狛・三尾城>
● 出雲臣狛

「出雲」と言われても一体その中の何処を示すの皆目見当も付かない有様であろう。古事記に袁本杼命(継体天皇)が三尾君之祖である名若比賣を娶って誕生した御子に出雲郎女がいた。

「三尾」は天皇家の草創期における重要な地であって、旦波の三尾、多遲麻の俣尾と五つに岐れた山稜の端を分け合ったところである(現在は京都郡みやこ町と築上郡築上町が二つ半づつ分け合っているが)。

この地に出雲?…何と「出雲」の地形が、相似形の「夕(多)」の地形が見出せたのである。残念ながら「出雲郎女(書紀では出雲皇女)」との関係は不詳なのだが、この小ぶりな出雲の地に出自を持つ人物と推定される。

その「斗」への入口で山稜が延びて「狛」(平らな頂がくっ付いている様)の地形となっていることが確認できる。その近傍が彼の出自の場所であろう。更に後に彼が上記の「羽田公矢國」に伴って落城させる「三尾城」が山稜の頂にあったと推定した。この頂は北の「高安城」から東側一帯の地を遠望できる格好の見張りができる位置にあることが分る。おそらく倭京への東側入口、「近江大津宮」の南側の防御用に造られていたのではなかろうか。

憶測を恐れずに進めると、「出雲臣狛」は何らかの形で三尾城に関わり、同じ役割を持つ北の高安城とも関わっていて、上記の「玉倉部邑」での防御戦に関わったのではなかろうか。「三尾城」の陥落は、彼の案内で易々と行われたのである。

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いよいよ決戦の時が近付きつつある様相である。「男依隊」が如何に突入し、その後を戦うのか、もう暫く諸手続きが記述されるようである・・・。