2020年8月17日月曜日

天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(7) 〔443〕

天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(7)


いよいよ戦局が変わって互いが衝突場面となる。先を急いでみよう。引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

丁亥、高市皇子、遣使於桑名郡家、以奏言「遠居御所、行政不便。宜御近處。」卽日、天皇留皇后而入不破。比及郡家、尾張國司守小子部連鉏鉤、率二萬衆歸之。天皇卽美之、分其軍塞處々道也。到于野上、高市皇子自和蹔參迎、以便奏言「昨夜、自近江朝驛使馳至。因以伏兵而捕者則書直藥・忍坂直大麻呂也。問何所往、答曰、爲所居吉野大皇弟而遣發東國軍、韋那公磐鍬之徒也。然、磐鍬、見兵起乃逃還之。」既而天皇謂高市皇子曰「其近江朝左右大臣及智謀群臣共定議、今朕無與計事者、唯有幼少孺子耳。奈之何。」皇子、攘臂案劒奏言「近江群臣、雖多何敢逆天皇之靈哉。天皇雖獨、則臣高市、頼神祇之靈、請天皇之命、引率諸將而征討。豈有距乎。」爰天皇譽之、携手撫背曰「愼不可怠。」因賜鞍馬、悉授軍事。皇子則還和蹔。天皇於茲、行宮興野上而居焉。此夜、雷電雨甚。天皇祈之曰、天神地祇扶朕者雷雨息矣。言訖卽雷雨止之。

戊子、天皇、往於和蹔、檢校軍事而還。己丑、天皇往和蹔、命高市皇子號令軍衆。天皇亦還于野上而居之。

六月二十七日になって、高市皇子が使者を寄越して、その言に従って、皇后を残し、その日不破に入ったと述べている。尾張國守が兵二万を率いて味方となっている。これは実に頼もしい限りなのだが、確か前記で近江朝廷の命令で集めた兵の筈であり、全くの寝返りであろう。馬來田兄弟のように初期に加わっていても、韋那公磐鍬が逃げ帰ったことで判断したり、どちらを味方するは極めて流動的な状況であったと伝えている。

その事件のあらましが記載されている。やはり東國への先発部隊、書直薬等が捉えられていたのである。近江側には左右大臣やら幾多の智謀の群臣がいるが、こちらは「幼少孺子」しかいない、とぼやくと、高市皇子がやる気を示し、彼に全軍を任せている。やや老獪な面を覗かせた記述であろう。この時、高市皇子は「和蹔」に駐留し、また大海人皇子は「野上」に行宮を造っている。

六月二十八日、天皇(大海人皇子)は「和蹔」との間を行き来している。軍事(作戦?)であろうか。翌日も同じ行動であったが、高市皇子を総大将とする軍隊編成を周知せしめたのであろう。三々五々に手勢を従えて参集した連中に加えて、二万の兵士が揃ったわけで、指示命令系統を徹底する要があったと推測される。それにしても、ゲリラ戦法しか行えないような有様から一気に正面切っての戦いを挑む戦略変更を行ったようである。

<野上(行宮)・和蹔>
野上(行宮)・和蹔

「不破」の「野上」で行宮を造られた。これが正に本陣であり、前図<近江朝初動作戦>を参照すると、北と南に貫山山塊を挟んで対峙する構図となったようである。

「不破」の地形は、当時は巨大な入江(湾)に突出た半島のようであったと推定される。現在名で言えば、東は朽網川の、西は貫山川及びその支流の河口付近である。

「不破」を抜けるにはその窪んだところを通過するしか道はなく、ここを封鎖すれば、東西陸路は遮断される。

「野上」はその道の上にあったと推定される。現在の朽網小学校辺りかと思われる。

現地名は北九州市小倉南区朽網西である。「和蹔」はその東方にあったと思われる。「蹔」=「斬+足」と分解される。和蹔=しなやかに曲がる山稜が切り離されて延びたところと読み解ける。現在の京都郡苅田町若久町である。拠点は、おそらく図に示した丘陵の西側辺りであろう。

図<近江朝初動作戦>を参照すると、この地は近江大津宮から東國へ向かう陸路・海路上の動静を監視するのに極めて好都合な位置にあることが判る。ここからの指令で「書直薬」等を捉え、「韋那公磐鍬」等を退却させることができたのであろう。山稜の端が海辺まで延びる地を横切る相手を待ち伏せるのに都合の良い場所が無数にある。それも活用した戦術、まるで罠に嵌まった状況を作り出したと推測される。

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この段の初登場人物は、「尾張國司守小子部連鉏鉤」であり、出自の場所を求めておこう。

<尾張國司守小子部連鉏鉤>
● 小子部連鉏鉤

「尾張國」は、現在の北九州市小倉南区長野辺りである。その地で「小子部」の地形を求めると、津田南町辺りの山稜の端が目に止まる。

「小」=「[小](三角形)の形」、「子」=「生え出た様」とすると、小子=三角形の地が山稜の端から生え出たところと読み解ける。「鉏」、「鉤」はそのまま、鉏鉤=鉏のような地が鉤型に曲がっているところと読める。

 小子部連鉏鉤」は、この二つの地形が寄り集まったところと解釈される。図に示した海辺の台地が出自の場所と推定される。

「司守」の地形も満たしていると思われるが、図の解像度の限界を越えているようで、明瞭ではない故に省略した。後に、大海人皇子側に二万もの兵士を提供したわけだが、結局自決の道を選択される。様々な経緯があってのことであろうが、真相は不詳のようである。

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軍編成が可能となったわけだが、元来のゲリラ戦法を実行した大伴連吹負の話題が続くことになる。書紀編者の腕の見せ所でもある。

是日、大伴連吹負、密與留守司坂上直熊毛、議之謂一二漢直等曰「我詐稱高市皇子、率數十騎、自飛鳥寺北路出之臨營。乃汝內應之。」既而繕兵於百濟家、自南門出之。先秦造熊、令犢鼻而乘馬馳之、俾唱於寺西營中、曰「高市皇子、自不破至。軍衆多從。」爰、留守司高坂王及興兵使者穗積臣百足等、據飛鳥寺西槻下、爲營。唯百足、居小墾田兵庫、運兵於近江。時、營中軍衆、聞熊叫聲、悉散走。仍大伴連吹負、率數十騎劇來。則熊毛及諸直等共與連和、軍士亦從。乃舉高市皇子之命、喚穗積臣百足於小墾田兵庫。爰、百足乘馬緩來、逮于飛鳥寺西槻下、有人曰「下馬也。」時百足、下馬遲之。便取其襟以引墮、射中一箭、因拔刀斬而殺之。乃禁穗積臣五百枝・物部首日向、俄而赦之置軍中。且喚高坂王・稚狹王而令從軍焉。既而遣大伴連安麻呂・坂上直老・佐味君宿那麻呂等於不破宮、令奏事狀。天皇大喜之、因乃令吹負拜將軍。是時、三輪君高市麻呂・鴨君蝦夷等及群豪傑者、如響悉會將軍麾下。乃規襲近江、撰衆中之英俊爲別將及軍監。庚寅、初向乃樂。

「是日」(六月二十九日)に「大伴連吹負」が留守司の坂上直熊毛と謀って、一、二の漢直達に「自分が高市皇子と偽って、飛鳥寺の北の道から陣営に向かう。その時内からそれに呼応しろ」と指示している。その時既に「百濟家」で兵器を整えて南門から出るのだが、先に「秦造熊」に褌一つで寺の西側にある陣営で「高市皇子が不破より来た。皆従え」と言わさせている。

留守司の高坂王等は飛鳥寺の西槻の麓に集まっていたが、兵を起こした使者の穂積臣百足は小墾田の兵器庫から近江に運ぼうとして居なかった。陣中の兵士等は「熊」の叫びを聞いて散り去っている。その時「吹負」が数十騎を率いてやって来ると「熊毛」等が呼応し、他の兵隊等もそれに従ったようである。

高市皇子の命だと称して、小墾田の「百足」を呼び返したらノコノコと帰って来たところを殺害し、これによって他の連中は皆従うことになったと述べている。使者を不破に送ると天皇(大海人皇子)が大喜びで、「吹負」は、その思惑通りに、将軍となったようである。早速別将・軍監を定めている。呆気なく倭京を陥落させて、次は「乃樂」へ赴くと言っている。

多数の登場人物に加え、狭い範囲ではあるが、移動(場所)を伴う記述である。分り辛いと言える段であろう。補足しながら整理をしてみよう。

<飛鳥寺攻防>
「吹負」は、一旦地元に引揚げて、兄と相談の結果、大海人皇子側に付くことは決まりだが、自分は、ちょっと一旗揚げようと企んだと記載されていた。要するに僅かな手勢で「倭京」を落とそうとしたわけである。

彼の地元(現地名は京都郡苅田町山口)から味見峠を越えて、勿論「倭京」の前を通ることは無く、甘檮岡(現地名香春町長光辺り)から五徳峠越えで、向かったのは「百濟家」であった。

「留守司坂上直熊毛」には事前に協力の約束を取り付けていたのであろう、そこで具体的に策謀している。その一は、内通している漢直(宮の護衛)の呼応、混乱を生じさせること。その二は、「秦熊」に敵軍の中に走り込ませて、高市皇子軍が多勢で攻めて来ると吹聴させる。

この時に重要なのは、身包み剥がされた風体で、西から敵軍に向かうことであって、西に皇子軍が迫っているように見せ掛け、言葉は、北からと叫ぶようにする。敵軍に既に取り囲まれ、身動きできない雰囲気を醸し出すこと、である。

北から倭京に向かう時、道は「甘檮岡」で二手に分かれる。そのまま谷を下るのと、五徳峠越えで向かう道である。前者は穴戸國(現地名香春町瀬戸辺り)を通過せねばならず、後者は登りがある、と言う地形である。戦時ならば、峠も油断はできないが、おそらく後者になろう。

即ち、敵軍に高市皇子軍がそこで二手に分かれて進軍して来つつあるように思い込ませることである。思惑通り見事に的中したから、いとも簡単に武装解除となったと記述しているのである。そして「吹負」自身は、完全武装で騎乗して、一旦五徳峠に逆走して戻り、恰も北から進軍してかのように「飛鳥寺」に向かったのである。

「百濟家」(家=宀+豕=豚の口のような様)は「倭京」防備用の武器保管場所であり、「漢直」が常駐していた場所ではなかろうか。但し、保管武器はかなりお粗末な状態であったと思われる。殆ど必要がない、見掛けがそれなりであれば、であろう。「百足」は、まさか留守の間に乗っ取られているとは夢にも思わずで、命を落とす羽目に、何ともお気の毒な出来事だった。

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登場人物の出自は上記のリンクを、また既に登場した物部首日向三輪君高市麻呂、また併記した穗積臣五百枝稚狹王坂上直老はそれぞれのリンクを参照。初登場の人物の出自場所を求めてみよう。

<秦造熊-綱手>
● 秦造熊

「秦造」は、既出の葛野秦造河勝・朴市秦造田來津の近隣と思われる。現地名の田川郡赤村赤辺りを探索するとそれらしき場所が見出せる。

この者の父親が「秦造和賀」と知られているようで、その和賀=しなやかに曲がる押し広げられたような谷間の出口辺りと推定される。現地名が「丸熊」となっていて、残存地名かもしれない。

「秦造」ももう少し人材輩出があっても良いような地なのであるが、意外に少ない。歴史の表舞台に登場しないだけで営々と引き継がれていたのであろう。

書紀本文では、褌一つで駆ける役柄であるが、その役者ぶりが認知されていないのは、何とも哀しい現状であろう。彼一人の演技で、「倭京」の西側は閉ざされたにも関わらず、ある。

後に秦造綱手が登場する。死亡記事なのであるが、『壬申の乱』の功績で大錦上位を贈られている。調べると「熊」とは兄弟だった説もあり、それに従った表示にしてみた。綱手=綱の様に延びた山稜の端が手の様と解釈される。西側の山稜の麓が出自の場所と思われる。

<大伴連安麻呂・倭馬飼部造連>
● 大伴連安麻呂

単なる伝令ではない、と言っても当時は駆け出しの身だったのであろう。大伴氏の氏上となり、後の参議から大納言になったと知れられている。父親は「長德」、巨勢臣人の娘を娶って「旅人」が誕生している。

前記の「長德」の図に書き加えて、出自の場所を示した。奥側の小高くなったところと推定される。狭い谷間、目一杯拡大した図で居場所探しである。これに応えてくれているだけでも幸運と思うべし、かもしれない。

また倭馬飼部造連が登場する。谷の西側の麓を示していると思われる。前出の馬飼造(闕名)の子孫に当たるのではなかろうか。併せて図に示した。

「巨勢臣人」は本事件に深く関わったようである。後に詳述するが、その娘を貰っている。複雑な心境、当時によくあった関係でもある。いずれにせよ、緊張感のある時代であったと思われる。

<佐味君宿那麻呂>
● 佐味君宿那麻呂

「佐味」の文字列は、これが最初である。後の記述はこの人物に関わっているようである。調べると「上毛野」が出身地となっている。早速、現地名の築上郡上毛町辺りを探すことにした。

「味」は古事記で幾度か登場した文字で、古くは山佐知毘古が通った味御路がある。「味」=「口+未」と分解され、更に「未」=「木+一」と分解される。

地形象形表記として、「味」=「山稜が途切れたところの入口」と読み解いた。田川郡香春町と京都郡勝山浦河内とを結ぶ「味見峠」は、間違いなく、残存地名と思われる。

すると大きく山稜が途切れて大きな谷間を作っている場所が見出せる。現地名は上毛町野間である。「佐」=「人+左」と分解すると、「佐」=「谷間で山稜が左腕のように延びている様」と解釈される。佐伯連東人などで用いた解釈である。纏めると佐味君=谷間で左腕のように延びた山稜(佐)が途切れたところの入口(味)に坐す君と読み解ける。

図に示したように左腕(手)の地形、更に東側に右腕(手)の地形も確認することができる。複雑な山稜のように見えるが、それを巧みに言い表した表現と思われる。名前に含まれる「宿」も多く見られる文字であるが、宿=宀+人+百=山稜に挟まれた谷間で連なった小高いところと解釈した。図に示したように「那」=「なだらかな様」の台地(麻呂)が並んでいることが解る。

実に丁寧に付けられた名前と思われる。後に別名「少麻呂」(宿那:スクナ)と表記されいてる。少=小+ノ=[小]の形が切り分けられたところと読める。正に別名表記であろう。

<鴨君蝦夷>
● 鴨君蝦夷

鴨君は、古事記の御眞木入日子印惠命(崇神天皇)紀に登場する、疫病対策で貢献した意富多多泥古命が祖となったと記載されている。

「鴨」=「甲+鳥」であり、鴨=覆い被さる(甲)ような鳥の形をしたところと読み解いた。陰影起伏図を載せたが、脚まで揃った見事な鳥の姿を示している。

かつては頻出した「蝦夷」はそのまま(カエル)の形と見做したと思われる。「蝦夷」の父親は「由加古」と知られ、由加古=加えられた丸く小高いところと解釈すれば、現在の赤坂八幡社辺りであろう。

その北側に不鮮明だが「カエル」の姿が見出せる。おそらくその中心部が出自の場所と思われる。「大物主大神」が遠祖となるわけだから、何ともすごい家系である。後に姓が朝臣となったそうである。

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「倭京」を陥落させた「大海人皇子」は、いよいよ近江朝の本陣に狙いを定めて「不破」からの全軍攻撃に入ろうとし、将軍「大伴連吹負」は「乃樂」へ進軍すると言うが、この続きは次回としよう・・・。