2020年8月13日木曜日

天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(6) 〔442〕

天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(6)


大海人皇子一行が桑名に逃げ、不破道を封鎖したりしている時、一方の近江朝廷側は如何なる行動を取っていたのであろうか?…謀反と知れば、素早い対応が自慢の朝廷であった筈なのだが・・・大友皇子を中心とした群臣達の戦略は、果たして的を得たものであったのであろうか、書紀が語る顛末である。引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

是時近江朝、聞大皇弟入東國、其群臣悉愕京內震動、或遁欲入東國、或退將匿山澤。爰大友皇子謂群臣曰、將何計。一臣進曰「遲謀、將後。不如急聚驍騎乘跡而逐之。」皇子不從。則以韋那公磐鍬・書直藥・忍坂直大摩侶遣于東國、以穗積臣百足・弟五百枝・物部首日向遣于倭京、且遣佐伯連男於筑紫、遣樟使主盤磐手於吉備國並悉令興兵。仍謂男與磐手、曰「其筑紫大宰栗隅王與吉備國守當摩公廣嶋二人、元有隸大皇弟、疑有反歟。若有不服色、卽殺之。」於是、磐手、到吉備國授苻之日、紿廣嶋令解刀。磐手、乃拔刀以殺也。男、至筑紫時、栗隈王、承符對曰「筑紫國者、元戍邊賊之難也。其峻城深隍臨海守者、豈爲內賊耶。今畏命而發軍、則國空矣。若不意之外有倉卒之事、頓社稷傾之。然後雖百殺臣、何益焉。豈敢背德耶、輙不動兵者其是緣也。」時、栗隈王之二子三野王・武家王、佩劒立于側而無退。於是、男、按劒欲進還恐見亡、故不能成事而空還之。東方驛使磐鍬等、將及不破。磐鍬、獨疑山中有兵、以後之緩行。時、伏兵自山出、遮藥等之後。磐鍬、見之知藥等見捕、則返逃走、僅得脱。

當是時、大伴連馬來田・弟吹負、並見時否、以稱病退於倭家。然知其登嗣位者必所居吉野大皇弟矣。是以、馬來田、先從天皇。唯吹負、留謂立名于一時欲寧艱難。卽招一二族及諸豪傑、僅得數十人。

大海人皇子の東國入りで、朝廷内は大騒ぎのてんやわんやになったと記載している。東國に行こうかとか、山に隠れてしまおうかとか、真偽のほどは定かでないが・・・騎馬で追いかけては、と進言する者もいたが、大友皇子は同意せずに幾つかの行動に出ている。一つ目は、東國と倭京に使者を出すこと、二つ目が、吉備國と筑紫國に使者を出すのだが、これらの國が歯向かえば、即座に始末しろと仰っている。

そして吉備國守を有無を言わせず斬捨ててしまったが、筑紫國(栗隈王は筑紫大宰)は、対外的な場所である故に国内のいざこざには関与しないと突っぱねたようである。東國に向かわさせられた使者は、不破に到着する前に伏兵に出合って退散したと伝えている。こんな状況の中で、大伴連馬來田・弟吹負は勝つのは大海人皇子と確信し、それぞれの思惑は違ってはいるが、皇子に従うことにしたと伝えている。

謀反の張本人に接触することもできず、例え出来たとしても即刻首を刎ねられたであろうが、逃げ帰っては何の情報も得られなかったであろう。吉備と筑紫へ使者を出すとは?…通説に従えば、帰る頃には事件は決着した後であろう。勿論、この筑紫への派遣及び大宰が協力を拒んだことは、極めて重要な意味を持っている。後に詳述する。

<近江朝初動作戦>
進言である「遲謀、將後。」を絵に描いたような戦略だったわけで、結果論的に大したことはしていないと片付けられ、読み飛ばされて来たところであろう。

いや、書紀の記述は継ぎ接ぎだらけで時系列など全く当てにならないとされるのかもしれない。

大海人皇子が桑名に辿り着いた時点での全体の配置を示してみた。大友皇子の作戦は、東國、倭京、吉備及び筑紫への使者の派遣であった。

倭京への経路は図に示したように思われる。詳細は後に判明する。

東國への経路は、高安城の下を抜ける行程と推定される。倉山田石川大臣が謀反の嫌疑を掛けられて逃げようとした今來大槻近隣の「倭國境」を通る。

使者は「將及不破」と記されることから図に示した辺りで一部は捉えられ、また退却している。「和蹔」は後に登場するが、この地に大海人皇子側の先遣隊が駐留して場所で、これに挟まれた状況だったであろう。

吉備、筑紫は何度も登場であり、図に示した場所である(吉備は紙面の都合上割愛)。ここには、間違いなく海路で進んだものと思われる。「筑紫大宰」の頑とした抵抗にあって敢無く帰還するのだが、あらためて地図を眺めると、極めて重要なことに気付かされる。

「筑紫」と「桑名」の距離である。直線距離で3km強に過ぎない。「桑名」で大海人皇子が留まったのは、中臣金連大臣の動向か、と前記で述べたが、もっと危険な状況の確認があったのである。「筑紫大宰」の動向である。おそらく、この状況は、大宰が動かないことも含めて、想定内であろうが(勿論根回しもあって)、殺害されてしまっては、もっと危険な状況になる。

倭國の主力軍団を抱える頭領が動かず、この最終確認は避けては通れない有様であったと推測される。書紀は、筑紫の場所をあからさまにしない。読み手に委ねた記述である。故にこの状況を省略したのであろう。当然のことながら、大海人皇子は、安全確認ができた桑名を離れ、単身で不破に移動することになる。

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数は些か減ったが、初登場の人物の出自を求めておこう。栗隈王の息子達、良き働きであった。敬意を評して出自場所を加えるつもりである。「弟吹負」は後の登場場面で詳しく述べることにする。

<韋那公磐鍬>
● 韋那公磐鍬

「韋那公」の出自は、既出の猪名公高見の場所と思われる(本紀最後に「韋那公高見」と記載されている)。そもそもこの地は、古事記の葦那陀迦神(八河江比賣)の地を洒落て命名されたと解釈したが、限りなく元祖に近付いているようである。

この地の「磐鍬」を探すと、図に示した台地の麓の様子が「鍬」の形と見做すことができそうである。この台地の上は、広い住宅地となって当時の地形を伺うことは叶わないが、崖状の麓は何とか地形が保たれているようである。

ご本人は、その崖下が広がった場所が出自であろう。調べると「高見」とは兄弟だったとのことである。

別名、石次=崖下で揃って並ぶ様とも記されていて、「鍬」の地形の別表現と思われる。繰返しになるが、別名表記は重要である。余談だが、この別名は『続日本紀』の記述に基づくとのことで、やはり地形象形表記が受け継がれているようである。

<書直藥>
● 書直藥

「書直」は、「倭漢」の地の出身であろう。この地も多くの人材を輩出していて、如何にも密度が高い場所である。「薬」は幾度か登場の文字で、薬=山稜に挟まれた地で小ぶりな小高いところが
連なっているところと読み解いた。

坂合部連薬などに用いられていた。小ぶりな故に判別にやや難がるが、確実に小高いところが寄り集まった地形を示していると思われる。

「倭漢」の百濟川とした近辺でその地形を求めると、百濟池の西側に見出せる。現地名は田川市夏吉である。

<忍坂直大摩侶>
● 忍坂直大摩侶

「忍坂」は古事記で神倭伊波禮毘古命(神武天皇)紀に登場した忍坂大室の近隣であろう。忍坂=一見坂ではないような坂と解釈した。なだらかな坂道の様子を表現したものと思われる。

「大」は西側の山稜の頂を表しているとして、麓の地形に「摩侶」を探すと、「大室」が少し南側の地に見出せる。現地名は香春町採銅所であるが、小字花古屋と記載されている。

「侶」も頻出の文字で、摩侶(人+呂)=谷間にある積重なって盛り上がった地(侶)が近接している(摩)ところと読み解いた。出自の場所は、その麓辺りと推定される。

小字の花古屋=端が丸く小高い尾根が延びたところと読める。地形象形表記が残存している名称かもしれない。この地も既に登場していても良さそうな場所であるが、採銅場所に近接し過ぎだったのかもしれない。

<穂積臣百足-弟五百枝・穂積朝臣蟲麻呂-山守-老>
● 穗積臣百足・弟五百枝

「穂積」の地で百足(ムカデ)の地形を探すことになる。すると実にそのままの地形が見出せる。この場所も既出であっても不思議のないのだが、何故か登場は見られなかったようである。

幾度か登場した百=白+一=丸く小高い地が連なっている様と解釈した。足=山稜が延びた様であり、その通りの地形を示していると思われる。

弟の「五百枝」に含まれる「五百」も度々出現した文字列で、五百=交差するような[百]と解釈した。「百足」から脇に生え出たところを表していると思われる。

南側が大宅臣鎌柄の場所と推定した場所である。ここも、「鎌」の形そのものの象形であった。山稜が、小ぶりであるが、明確な地形を示していて判り易いのであろう。名付ける方も苦労がなかった、かもしれない。

後に穗積朝臣蟲麻呂が登場する。「百足」の子と知られる。蟲=小さな山稜が寄り集まった様の地形を見出すことができる。既に「八色之姓」で「朝臣」と表記されている。

更にその子の穗積朝臣山守が持統天皇紀に登場する。守=宀+寸=山稜に囲まれて蛇行する川がある様と読み解いた(こちら参照)。山側にある山稜の隙間のようなところと思われる。古事記の大毘古命の出自の地と推定したところである。山守の弟がと知られる。續日本紀の文武天皇紀に登場する。図に示した老=海老のように曲がった様の場所を表している。

現地名は田川郡赤村内田の大坂、柿下大坂と接する場所である。「丸邇(書紀では和珥)氏系」と「穂積氏系」の境界に当たる。丸邇氏の台頭によって領地拡大が起こるが、この境界付近で止まる。穂積氏がこれ以上の膨張を阻止したような雰囲気である。現在も柿下大坂(香春町)と大坂(赤村)と区分されている。

<物部首日向>
● 物部首日向

「物部」の地で「首」と「日向」の地形を有する場所を求めることになろう。既に何度も登場の地形要素であり、簡単かもしれない。しかしながら「首」の形が少々歪な状態で該当する場所と思しきところが見出せた。

背後のある日向=北向きの窓に山稜が立ち昇る様も、やや小ぶりな感じであるが、何とか地形要素持っているように伺える。現在の浄泉寺辺りが出自の場所かもしれない。

前出の「漆部諸兄・友背」の南側に当たる。「物部」の谷奥に広がっていく感じである。

近江朝側にはもっと多くの人材が登用されていたと思われるが、大臣関連の場所とか、にも拘らず大海人皇子側と変わらないような人選である。謀反征伐には、将軍達が活躍の場面となるが、少々様相が異なるようである。

● 佐伯連男

既に佐伯連大目に併記した。舒明天皇紀に登場の佐伯連東人の後裔とする系譜があるとのこと。乱後の処罰は避けられたようである。父親の「廣足」は「大目」の谷を挟んで西側と思われる。併せて「大目」に記した。

<樟使主盤磐手>
● 樟使主盤磐手

「樟」の文字は、崇神天皇紀の「樟葉」で用いられている。古事記の久須婆([く]の字形に曲がる州の端)であろう。同じく御眞木入日子印惠命(崇神天皇)の大毘古命の武勇伝である。

「樟」=「木+章」と分解される。これから樟=山稜が区分けされた様と解釈する。川によって大地が区分された地形を表している。

既出の使=人+中+手=谷間の真ん中を山稜が突き通る様と解釈した。頻出の主=真っすぐに延びる様である。「盤」=「般+皿」と分解して、盤=丸く平らな様と読み解く。磐=台地が広がる様手=手のような様とする。

纏めると、樟使主盤磐手=山稜が区分けされて谷間の真ん中を突き通るように真っ直ぐに延び丸く平らに広がって手のようになったところと読み解ける。中州の先端部の一段高くなった場所の地形を表している。正にこの地が古事記の「久須婆」であり、現在「草場橋」が架かるところである。有間皇子の事件の時に出現した牟婁津はもう少し北側のことを示しているのであろう。

<當摩公廣嶋・廣麻呂・豐濱>
● 當摩公廣嶋

吉備國守」と冠されているが、その地に赴任していたのであろう。ある意味とんだ災難にあったものである。「當摩」の出現は古く、古事記の若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)紀に小俣王が祖となった「當麻勾君」の當麻である。

福智山の南西麓、現在の田川郡福智町(「葛城」と推定)の北端に当たる場所である。その後も幾人かの重要人物の出自の場所でもある。

「嶋」は「島」ではなく、「山鳥」である。この地の特異な山稜の姿を「鳥」に形に見立てたものと思われる。「広がった鳥」は、「當麻」の付け根辺りにある「鳥」(三角形の地)を表していると思われる。

また、後に當摩公廣麻呂當摩公豐濱が登場する。前者は「鳥」の南側の平たく広がった地と推定される。後者は大浦池に接する(濱)崖上の段差(豐)の場所と思われる。これらは未だ記載されていなかった地である。

<三野王・武家王>
● 三野王・武家王

栗隈王の子、二人の出自の場所を求めてみよう。父親の近隣であるに違いない、として探すと、両脇にそれらしき場所が見出せる。父を挟んで支えた修羅場を演じた役柄に相応しい配置であろう。

「三野王」は父親の西側、谷間が三段に区分けされたようになっているところを表していると思われる。また「武家王」は、東側の「戈」のような山稜の先が「家」(豚口)のようなところと思われる。

この地の反対側(北)は、古事記の智奴王(書紀では茅渟王)の場所と推定した。「智」=「鏃+炎」であり、「茅」=「艸+矛」である。地形として「武」=「止+戈」に通じる表記であることが解る。また「三野王」の別名が「美努王」と知らている。西側の山稜が谷間(美)を押し拡げるように嫋やかに曲がって延びる(努)様を表している。上記もそうだが、別名の方が分り易く、的確な表記のように感じられるが、書紀編者の意地悪か?…そんなことはないと思われるが・・・。

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さて、いよいよ戦闘開始である。しかも、朝廷側が圧倒的に武力優位となる筈の”筑紫軍”が傍観の立場を取ると言う事態になった。真に”公平な”内輪揉めの戦いである。殆ど気力と少しばかりの知力がものを言う事態であろう。いやいや戦場に臨んでも、ヤバくなったら、逃げるか、寝返り・・・次回としよう・・・。