2020年8月10日月曜日

天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(5) 〔441〕

天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(5)


疲労困憊に上に雷雨に打たれてやっとの思いで三重郡に辿り着き、一夜を明かした。眼前には巨大な中州が広がる地、大河を渡って先を急ぐ計画であったろう。引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

丙戌旦、於朝明郡迹太川邊、望拜天照大神。是時、益人到之奏曰「所置關者、非山部王・石川王、是大津皇子也。」便隨益人參來矣。大分君惠尺・難波吉士三綱・駒田勝忍人・山邊君安麻呂・小墾田猪手・泥部眡枳・大分君稚臣・根連金身・漆部友背之輩從之、天皇大喜。將及郡家、男依乘驛來奏曰「發美濃師三千人、得塞不破道。」於是、天皇、美雄依之務。既到郡家、先遣高市皇子於不破令監軍事、遣山背部小田・安斗連阿加布發東海軍、又遣稚櫻部臣五百瀬・土師連馬手發東山軍。是日、天皇、宿于桑名郡家、卽停以不進。

日が変わって六月二十六日の早朝、「朝明郡⑰」の「迹太川⑱」の川辺で「天照大神」を「望拝」したと記載している。「朝明郡」の地形と関連付けて下記で述べることにする。と、そこに伊勢鈴鹿關に遣わした路直益人が戻って来て、「山部王・石川王ではなく、大津皇子だ」と告げている。そしてまた、新たな者が加わったと告げている。

「朝明郡家⑲」に着きかけた時に、「村國雄依」が「美濃の戦士三千人で不破道を塞いだ」と言う朗報をもたらした。あからさまな「男依」をリスペクトして「雄依」としている。その時高市皇子に命じて東海軍として山背部小田(山背直小林に併記)・安斗連阿加布(智德に併記)、東山軍として稚櫻部臣五百瀬土師連馬手のように編成を行ったと記載している。天皇(大海人皇子)一行は、「桑名郡⑳」に留まり、その先には進まなかったようである。

さて、吉野宮を脱出した一行がその目的地に向けて最後の力を振り絞って進んだ行程である。そこに待ち受けていた運命や、如何に・・・少々講談風になって来たが・・・。

⑰朝明郡

早朝に「⑯三重郡家」を発ち、「⑱迹太川」を渡って「⑰朝明郡」に入っている。そこで川辺で「天照大神」を「望拝」したと述べている。「朝明」は、そのまま読めば「朝が明るい」であろう。これは「朝倉」に対応する表記と思われる。すると地形を教えてくれていることになる。

即ち、「朝倉」のように東側が山稜に囲まれて朝日が差さない地形とは真逆な東側が開けて遮る山稜がない地形である。「朝倉」は特異な地形として情報として有用であろうが、「朝明」は多くの地が有していそうな地形である。では、何故その地名に「朝明」を用いたのであろうか?…特異なことでもあるのか?…広域の図を見ると、その理由が見出せる。
 
<朝明郡・迹太川・桑名郡>
この地は、既に逃げて来た東谷川、紫川の大河が流れる大きな谷間の中の中州の地形を示している。南から北に向かう時、その東側はずっと山稜が存在していたわけである。

それがほんの一部だが、途切れ、更にまたその東側にある山系(現在名貫山山系)も途切れる場所に重なり、何と遥か彼方の周防灘まで見通せる位置関係であることが判る。

即ち、この地の東方が貫山山系の北麓にある尾張國・美濃國となる。巨大な中州で「朝明」の地と呼ぶに最もふさわしい地が、ここなのである。

湾の西岸にある地は、全て「朝明」、その一部に名付ける理由を見出すことは叶わないであろう。

この地形は「望拝」と密接に関連しているのである。夜が明けるに伴って、巨大な中州の西岸にある「伊勢神宮」が光り輝く様、正に「天照大神」と、そしてこの先の武運を示す輝きと受け取ったのであろう。朝敵となり、落ち延びて行く人々、幾らかの味方が増えたとは言え、先行きの不安を消し去ってしまうほどではない。

そこに現れた「天照大神」の再来のような光景に身体が震えるほどの感動を覚えたに違いなかろう。書紀編者達にとっては、ヤバイ状況、がしかし、この感動をスルーするわけには行かなった、と推測される。「望拜天照大神」と記し、決して「望拝伊勢神宮」とは言わないのである。1,300年間、彼らの感動が伝わっていない、悲しい現状である。ともあれ、現在に繋がる「皇祖天照」信仰が誕生した瞬間である。

⑱迹太川

上記の「⑰朝明郡」の考察からすると「⑱迹太川」は、現在の紫川である。「⑦横河」(横切る川)とは異なり川の様相を表現していると思われる。「迹」は「跡」(アト)の異字体であり、示す意味は同じと解説されている。ならば「迹」は「川が流れた(痕)跡」とすれば、迹=川が流れた痕跡=中州と解釈される。確かに川には「足」がないから、「辶」を用いたのであろう。

水が連続的に流れても何らの「痕跡」も残らないが、それを「中州」で捉えた表記である。纏めると迹太川=大きく広がった中州がある川と読み解ける。当時は現在よりももっと多くの中州が形成されていたと推測される。それを知る由もないが、現在の川に見られる中州で代用させてもらった。書紀編者が迹=中州を思いついたら、「朝明横河」では勿体ないと・・・当時の紫川を表す表記として真に相応しいものであっただろう。

「山部王・石川王」ではなく、天皇の後から来て追い付いた「大津皇子」であったことは、後の事件の伏線であろう。先取りになるが、近江朝側の総大将の位置付け(明記されてはいないが)の王が、殺害され、また殺害した本人も一線から引き下がるという不祥事に発展する。

この事件の詳細は一切語られないが…おそらく資料的根拠が乏しかったのであろう…「山部王が鈴鹿に居た」と言う噂が原因ではなかろうか。大津皇子、まさかの策謀?…憶測はそこまで、ともかくも、二人の皇子は同じ道ではなく、全く異なる道を選んで近江大津宮から脱出したと伝えている。

⑲(朝明)郡家・⑳桑名郡家

本文では、言わずもがなで「朝明」が省略されている。また「家」=「宀+豕」であり、「豚の口のような山稜の端」を表している。前記の「⑯三重郡家」、「⑳桑名郡家」もおそらくそうであったと思われるが、山稜の最末端で判別が困難である。一方、「⑲朝明郡家」の地は渡渉地点から東に進んだ山麓にその地形を見出すことができる。

この地で「天照大神」のお陰か、朗報が届く。戦は、何はともあれ、作戦通りに進捗することが肝要である。不破道の封鎖は、拠点の防衛を含めて極めて重要な作戦だったことが読み取れる。「男依」への信頼が一気に加速した模様である。勢い付いて軍編成まで作業が進んだとのことである。

そして、この日の内に「⑳桑名郡家」に到着し、逃亡の行程は完結した様子である。この背後が「忌部首」の地である。伊勢神宮と外宮を結ぶ地域は、神域であろう。それを司る「忌部首」一族は「中臣」の隆盛によって伊勢神宮の祭祀の主役であった座から引き摺り降ろされてしまった。中臣(藤原)鎌足が逝ってしまっても、今や右大臣中臣金連である。そんな背景からも神域に限りなく近い桑名の地が選ばれたのかもしれない。

現在の桑名市の背後に員弁(イナベ)がある。関係ありそうな地名を散りばめてみても、何も伝わって来ないことが解る。後の記述に拠るが、皇后等はこの地に留まったようで、戦略拠点である「不破」へは天皇のみが出掛けたと記載されている。

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吉野からの脱出行程は以上の通りとなった。よく知られた『壬申の乱』それ故に従来の説がかなり頭の中に蔓延っていたことが実感された。それを払拭しながら、地形象形のルールに徹して辿り着いた結論である。実に多くの新しい発見があった。「望拜天照大神」の記述は、誰が読んでも「朝明」から「伊勢神宮」を拝むか?(直線距離で60kmを越える)…の思いも、朝日に光り輝く伊勢神宮を目に浮かべられた瞬間、天空に飛び去ったようである。事実は「伊勢神宮」を「望拝」したが、その不合理な行為を読み手に解釈させた。冴え渡った書紀編者の筆さばきであろう。

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初登場の人物の出自を調べておこう。先ずは鈴鹿關からである。高市皇子・大津皇子に脱出の知らせをした大分君惠尺が居るところからも大津皇子と共に近江大津宮から従って来た連中であろう。

<難波吉士三綱>
● 難波吉士三綱

またまた「吉士」の地が埋まることになるのだが、何処に求めるのか?…「綱」=「糸+岡」と分解される。「三つの狭い岡」と読める。すると、既出の難波三津之浦に関わる場所ではなかろうか。

山稜の先端部、標高差で見るにはかなり限界に近い地形であるが、現在の川を頼りに概略の地形を見積もることができそうである(住宅の並びもそれなりに参考になる)。

なんとか「三津之浦」を作る三本の山稜が認められたようである。出自の場所は、それら三本の山稜が集まる小高いところと推定した。現地名は行橋市西泉である。

「難波」が冠されていることも海辺に近い地を表わそうとしているのであろう。近隣は度々登場した場所であるが、この地は抜けていたところである。

<駒田勝忍人>
● 駒田勝忍人

この人物に素性も殆ど知られていないようである。検索すると「駒田」の文字列も書紀中、ここだけであり、関連するところは見当たらない。更に広げて「駒」とすると多数ヒットするが、関連ありそうな吉士駒(絲)が見つかった。

勝=盛り上がった様忍人=一見谷間に見えない様と読み解く。古事記の忍坂(書紀では押坂)に類似した解釈である。現在は広大な宅地になっているところにそれらしき場所が見出せる。

図に示した「吉士駒」の西側、「難波吉士八牛」の北側辺りの地形を表していると思われる。勿論、この地に出自を持つ人物の登場はなく、推定場所として採用できるであろう。

尚、吉士長丹も既に登場済みであるが、この人物の出自は上記の「難波吉士三綱」の最も西側の「綱」を表している。真に張り巡らされた人材輩出場所であったようである。

<山邊君安麻呂>
● 山邊君安麻呂

「山邉」と記載してくれれば、的を絞った探索が行える。古事記の「山邉」出身者を引っ張り出すと、やはりこの人物であろう。「鵠」を求めて彷徨い歩いた山邊之大鶙である。

現在の愛宕山南麓が描く地形を模した表記で場所を表していた。その東側が求める「安麻呂」の出自の地と推定される。現地名は田川郡香春町大字高野である。

伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)の御子、大中津日子命が祖となった山邉之別が「山邉」の最初の登場ではなく、御眞木入日子印惠命(崇神天皇)の御陵が「御陵在山邊道勾之岡上也」と記載されている。

古い土地柄なのである。がしかし水田稲作には不向きでその後の発展には限りがあったのであろう。

● 小墾田猪手

小墾田」は、推古天皇の宮があった場所であろう。前記の竹田大德の図に併記した。「猪手」=「豚足」とさせて貰ったが、失礼だったかもしれない。

<泥部眡枳>
● 泥部眡枳

「泥部」は書紀に既出であって、天國排開廣庭天皇(欽明天皇)が蘇我の堅鹽媛同母弟曰小姉君を娶って誕生した御子に「泥部穴穗部皇女」、「泥部穴穗部皇子」がいたと記載されている。

対応すると思われる古事記の箇所では、天國押波流岐廣庭天皇(欽明天皇)が岐多志比賣命之姨・小兄比賣を娶って誕生した御子の中に間人穴太部王がいたと記載している。

一文字一文字を紐解いてみよう。「泥」=「氵+尼」と分解して、「泥」=「川が近付いて離れていく様」と読んだ。次の「眡」は「視」の異字体と知られるが、わざわざこれを使ったのには意味があると思われる。

「眡」=「目+氐」と分解される。「氐」は底、低の要素であり、更に「氐」=「氏+一」と分解される。「匙の端」を表す文字と言われる。

それから「底(ソコ)」「低(ヒク)い」へと展開するわけである。単純ではない文字である。「目」=「隙間(谷間)」であり、眡=谷間にある[匙]の形の端を示すと読み解ける。

「枳」は既出で熟田津の別名儞枳拕豆で登場していた。「枳」=「二つの谷間に挟まれた山稜(谷間に山稜が延びる様)」と解釈した。纏めると、泥部眡枳=川が近付いて離れて行く地で谷間にある[匙]の形の端が二つの谷間に挟まれた山稜にあるところと読み解ける。

<根連金身>
古事記の上宮之厩戸豐聰耳命の弟、植栗王の出自の場所と推定したところである。橘豐日命(用明天皇)紀の記述は極めて簡素になっていてその後人の繋がりは語られない。空白が埋められて行くような感じである。

● 根連金身

調べると「根連」は春日一族と簡単に記載されている。古事記の若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)にも「根」は含まれている。春日一族の名称、穂積の地形は、「穂」と見るか「根」と見るか、であろう。

「金身」の地形を探すと、”簡単に”見出すことができる。目立つ地形なのであるが、今までに登場したことはなかった場所である。現在は住居も無いような入組んだ谷間の地となっているようである。

地名は田川郡赤村内田の門前である。忘れるところであった、上記の開化天皇が坐した伊邪河宮は、図中の大祖神社辺りと推定した。

<漆部友背・漆部諸兄>
● 漆部友背

書紀の用明天皇紀に「漆部諸兄」が登場している。と言ってもこれだけで、やはり調べると物部一族であることが分かった。「諸兄」の表記がヒントになって「友背」の場所も突止めることができたようである。

「兄」は幾度も出現した文字で、谷間の奥が広がった様を示している。山背大兄皇子、中大兄皇太子、古人大兄皇子など多くの例が挙げられる。

すると、彼等に全く引けを取らない立派な「兄」が物部の地、塔ヶ峯の南麓に広がっている場所が見出せる。その窪んだ地に「諸兄」の諸=言+者=耕地が交差するような様で表した耕地を作っていたのであろう。

居場所も明確ではないが、図に示した辺りではなかろうか。友=又+又=山稜が並んで延びる様であり、背=背になっている様である。「兄」の谷間の入口付近の地形を表していると思われる。

「漆部」の文字を解釈するまでもなく場所を求めることができるが、そもそも「漆部」、勿論これは「漆器」の品部と解説されている。だが、これも見事な地形象形表記である。「兄」の谷間を「漆」を採取する時の形に模したものと思われる。「漆」=「水+桼」と分解される。桼=木に切れ目を入れて液を垂らす様を象った文字と知られている。

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さて、桑名郡家に一族を集結し、後顧の憂いを無くして、いよいよ戦闘開始である。郎党も、負ければ首を刎ねられるか、軽くても島流しの運命となることは重々承知であろう。残るは自死しか道はない。様々な思いが錯綜する中で時が流れていたのであろう。大海人皇子は、桑名で立ち止まった、これも何らかの目的があったと思われるが、ひょっとしたら、中臣金連大臣の出方を伺っていたのかもしれない。