2020年8月7日金曜日

天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(4) 〔440〕

天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(4)

 
夜中に辿り着いた隱郡⑥から、いよいよ難所の伊賀に向かうことになった。追手の出現を心配しながら、急ぐ気持ちを抑えながらの逃避行であろう。引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

將及横河有黑雲、廣十餘丈經天。時、天皇異之、則舉燭親秉式占曰「天下兩分之祥也。然朕遂得天下歟。」卽急行到伊賀郡、焚伊賀驛家。逮于伊賀中山、而當國郡司等率數百衆歸焉。會明至莿萩野、暫停駕而進食。到積殖山口、高市皇子、自鹿深越以遇之。民直大火・赤染造德足・大藏直廣隅・坂上直國麻呂・古市黑麻呂・竹田大德・膽香瓦臣安倍、從焉。越大山、至伊勢鈴鹿。爰國司守三宅連石床・介三輪君子首、及湯沐令田中臣足麻呂・高田首新家等、參遇于鈴鹿郡。則且發五百軍、塞鈴鹿山道。到川曲坂下、而日暮也。以皇后疲之暫留輿而息、然夜曀欲雨、不得淹息而進行。於是、寒之雷雨已甚、從駕者衣裳濕、以不堪寒。乃到三重郡家、焚屋一間而令熅寒者。是夜半、鈴鹿關司、遣使奏言「山部王・石川王並來歸之、故置關焉。」天皇、便使路直益人徵。

六月二十五日の行程である。「横河⑦」に辿り着こうとした時に大きな黒雲が空に架かっていた。それを見た大海人皇子は早速占ったら、天下が二つに分かれるが、自分が最後にそれを得る」と出たそうである。急ぎ「伊賀郡⑧」に至って、「驛家」を焼いている。進んで「伊賀中山⑨」に近付いた時、その地の郡司等数百人が従って来たと述べている。

夜明け頃に「莿萩野⑩」に到着、そこで休息と食事をした。「積殖山口⑪」に達した時に「高市皇子」が「鹿深」を越えて、そして「民直大火・赤染造德足・大藏直廣隅・坂上直國麻呂・古市黑麻呂・竹田大德・膽香瓦臣安倍」を従えて、合流したと述べている。

「大山⑫」を越え、「伊勢鈴鹿⑬」に至っている。その時「三宅連石床・三輪君子首・田中臣足麻呂・高田首新家」等が参加したようである。五百人で「鈴鹿山道⑭」塞いでいる。「川曲坂下⑮」に差し掛かった時に皇后の疲れが酷く、休息していたら日暮れになって、その上雷雨が降り寒さが厳しくなって来た。急いで「三重郡家⑯」に辿り着き、家を一軒焼いて暖を取った言う。

夜中に「伊勢關司」がやって来て、「山部王・石川王」がやって来たので「關」に留めていると報告があり、確認するための「路直益人」を遣わしたと記している。
 
<横河・伊賀郡・伊賀中山>
夜中に到着した「隱郡⑥」から夜を徹しての行程である。夜中に「隱郡」の、まだ夜が明けきらない内に「伊賀郡」の両「驛家」を焼き払っている、これも計画通りの行動であろう。

逃亡開始二日以内に主要な「驛家」を使い物にならなくするのは賢明であろう。更に、高市皇子の仲間が加わり、また地の者達の合流も頼もしく感じられたことと思われる。参加者の出自の場所は、後に纏めて述べることにする。

登場した⑦横河~⑯三重郡家までを求めてみよう。北九州市小倉南区高津尾、東谷川の畔から、狭い谷間を縫うように抜けると多数の川が合流する地点に出合う。東谷川に加え、紫川、合間川の合流地域となる。

渡渉の記述は概ね省略される記述が多いように思われるが、この段の記述は、実に正確である。吉野を出てから「津振川」で一度渡渉して以来初めて出くわす「横河」である。

⑦横河・⑧伊賀郡

合間川と紫川の合流点近く、現在の地図では紫川となるが、蛇行部の端の浅瀬を選んで渡渉したのであろう。地形的にはそれまでの凹凸の激しい山麓から少しは穏やかになった、丘陵地帯を抜けたと推測される。「横河⑦」の名称は「進行方向に対して横たわる川」であろう。通過点に対する名称として十分な表記である。

到着した場所は「伊賀郡⑧」、「驛家」は現在の西谷郵便局~稲荷神社の間にあったのではなかろうか。大友皇子の出自の場所である。前記で彼の母親の名前が伊賀采女宅子娘であり、大友皇子の別名が伊賀皇子と記載されていた。そしてこの地は古事記の采女の地である。正に緊張が極限に達した状況なのである。ところが、味方が増えた(同じ伊賀でも南北の違いか?)。

⑨伊賀中山・⑩莿萩野

勢い付いて更に進むと「伊賀中山⑨」と書かれている。進行方向左手に見える小高いところかと思われる。山稜沿いに進むと莿萩野⑩」に至り、休息・朝食をしたと述べている。
  
<莿萩野・積殖山口・大山・伊勢鈴鹿郡(關)>
莿萩野」の「莿」=「艸+刺」と分解される。幾度か出現した「刺」の地形を表していると思われる。すると山稜の上に「刺(朿)」のように小高くなったところが見出せる。

また、その麓が「炎」のように山稜が延びた形であることが解る。「萩」=「艸+禾+火」と分解した中の「火」が表す地形である。

莿萩野=山稜に[朿]と[炎]のような形がある麓の野原と読み解ける。現地名は小倉南区徳吉西である。

⑪積殖山口・⑫大山

記述は休む間もなく「積殖山口⑪」に向い、それを登って先に進んだとなっている。「積殖」とは、何だか重苦しそうな名称であるが、「殖」=「歹+直」と分解される。

「歹」=「骨の関節部」を象った文字であり、「分かれてバラバラになる、尽きる」などの意味を持つ文字要素である。地形象形的には「殖」=「真っ直ぐに延びて岐れて尽きる様」と解釈される。

纏めると積殖=山稜が真っ直ぐに延びて尽きる地が積み重なって小高くなっているところと読み解ける。図に示した骨の関節部のような地形を表し、この小高いところの東麓が積殖山口と表記していると思われる。この登り口を上がれば広い台地に届く。そこに「大山⑫」があると述べているのであるが、頻出の大=平らな頂の山(盛り上がった)様を表すのであって、「大きな山」ではない。

その通りの地形が見出せる。それを越えて谷を下れば「伊勢鈴鹿⑬」に至ると記載されている。高市皇子との合流については後に述べる。重要な「鹿深」の地名が関わる解釈である。

⑬伊勢鈴鹿・⑭鈴鹿山道

「鈴鹿」は地形象形か?…と疑いたくなるような表記であるが、実に見事なものなのである。鹿=山麓(山稜の端)として、鈴=山稜が鈴の形をしているところと解読される。栗の雄花のように長く延びた山稜の端が、丸く寄り集まって、少し開いている様を表現したのである。いやぁ、お見事である。

「鈴鹿山道」を塞ぐのは、図に示したように「伊賀」への出入口を塞ぐことを意味することになる。最も恐れなければならない場所との遮断を試みたわけである。「關」(鈴鹿關)があったと知らされる。「大山」を越えて「莿萩野」へ向かう道と「伊賀」へ向かう道との分岐点、それを表している。

⑮川曲坂下・⑯三重郡

更に多くの味方を増やしつつ、先に進んだのだが、疲労困憊の上に雷雨までが行く手の邪魔をしたようである。それでも何とか踏ん張って「川曲坂下」を通過、この川は、東側の大河、紫川ではなくその支流である「鈴鹿」から流れ出る川と思われる。川曲坂下=川が曲がる隅の傍らの坂の麓であろう。そして漸く「三重郡」に到着したと記している。また暖を取るために家を焼いたとか・・・。

「三重」は、古事記の倭建命が東方十二道への遠征後に倭國に戻る際、伊服岐能山の神に痛め付けられて、この地で「身体が三重になってしまった」と嘆かれた地である。三重=山稜の端が三つ重なったところと読み解いた。「鈴鹿」の先が「三重」、山稜が長く延びた様を如実に表現してことが解る。鈴鹿も含めて、現地名は小倉南区長尾である。

夜中に「伊勢關司」が伝えて来た内容は、重要である。戦闘が始まって様々なことが起きる中で、勝敗を決める出来事かと思われるが、書紀の口が、やや重い感じがするところである。まだまだ逃亡は続くが、記述に従って以下は、この段の初登場人物の紹介である。

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高市皇子に従って「鹿深」越えで合流した連中である。皇子の人望なのか、単に若者の血気に任せた行動なのか、はたまた大海人ー高市親子の挙動が若者の感性に訴えるものがあったのか、妄想するだけでも楽し気な・・・命懸けの行為に失礼千万ではあるが・・・。

<民直大火・小鮪
● 民直大火・小鮪

調べると「民直」は「倭漢」一族とある。一応の目安はあるのだが、そもそも「民」の文字を何と解釈するか、であろう。

字源的にみても、これが決して単純な意味ではなく、かなり特殊な文字であるっことが判った。これでは益々地形からは遠ざかり、「倭漢」を彷徨う羽目になった。

書紀の欽明天皇即位七年に・・・、

「秋七月、倭國今來郡言「於五年春、川原民直宮(宮名)登樓騁望、乃見良駒紀伊國漁者負贄草馬之子也、睨影高鳴、輕超母脊、就而買取。襲養兼年、及壯、鴻驚龍翥、別輩越群、服御隨心、馳驟合度、超渡大內丘之壑十八丈焉。」川原民直宮、檜隈邑人也。」

・・・と記載されている。今來郡の者が言うには、一昨年のこと、川原の民直宮と言う人物がとても良い馬を見つけた、らしい。この川原民直宮は檜隈邑の人だと記載している。

「民」の文字形を当て嵌めた象形であった。現在の豊前大熊駅近隣である。「熊」の方がよっぽど象形らしいが、混乱回避かも、である。大火=平らな頂で三つの小高いところが[火]の頭のように並んでいるところを表していると思われる。「火」を垂直方向で用いるのは、畝火山之北方白檮尾上など余り多くはなく、久しぶりである。勿論、これは香春岳である。現地名は田川郡糸田町である。

後に登場する「民直小鮪」については、幾度か出現した「鮪」=「魚+有」と分解して、鮪=小ぶりな四つの[鰭]のような山稜が突き出て(魚)しなやかに曲がる山稜から延びた三角州(有)があるところと読み解いた。現地名は田川郡福智町金田である。「民」の西と東側の地形を示していると思われる。
 
● 赤染造德足

この人物も素性を調べないと出自の場所を闇雲に探すことになる。どうやら香春神社の神職を務めた経緯があるとのことであった。すると香春岳周辺の地ではなかろうか・・・續紀の聖武天皇紀に赤染造廣足が「常世連」氏姓を賜ったと記載されている。これで「赤染造」の出自の場所を求めることが叶った(こちらを参照)。

大藏直廣隅・田中臣足麻呂
● 大藏直廣隅・田中臣足麻呂

「大藏」は斉明天皇紀に登場した大藏衣縫造麻呂の場所に関わるところであろう。おそらく、この四角い場所の北側の隅を示していると思われる。

名前の通りの「広い隅」とはとても言えそうにもない場所である。現在では家が建っている様子を伺うことは難しいようである。

「田中」は、既に登場した田中宮の近隣と思われる。山稜の端が谷間に突出たような地形の場所であり、宮はその山稜の端にあったと推定した。

「足麻呂」は、足=山稜が延びた先のところであり、そこが「麻呂」の地形をしていることを表していると思われる。宮の南側の山稜の端辺りが出自の場所と思われる。後に田中臣鍛師が登場する。「鍛」=「金+段」とすれば、鍛=三角の地が段となった様と読み解ける。その麓の師=凹凸のある様の場所を表していると思われる。上図に併せて記載した。

<東漢一族>
● 坂上直國麻呂

歴とした東漢一族であろう。今回の戦にも多くの東漢の人々が参加している。宮中の護衛を主たる任務としていたと伝えれる通り、戦いを避けることは叶わなかったであろう。

既に、及びこれから登場の人物を纏めて図に示した。鳥観図にしたが、若干居場所を示すのは確度が低下するが、全体を把握することを主とした表記にしてみた。

ここでは直近に登場の「坂上直國麻呂」と少し後に登場する同じく坂上直熊毛坂上直老及び路直益人について記し、他は登場した時に補足する。「坂上直」の國麻呂=大地が麻呂と解釈されることより、坂の上の突端部の平たくこんもりとした場所と推定した。前出の「子麻呂」の上に当たるところである。

「熊毛」の熊毛=隅(熊)にある鱗(毛)のようなところと読み解ける。「國麻呂」の東側、台地の隅に当たる場所と推定した。老=海老のように曲がったところと読むと、「子麻呂」の先の山稜がその地形を示している。

「路直益人」の路=足+各=山稜の端が足のように二つに岐れて延びている様益=八+八+一+皿=谷間に挟まれて一様に平らになっている様と解釈される。図に示した場所の地形を表していると思われる。

現地名は、ここのみ京都郡みやこ町光冨となる(他は同町豊津)。一人一人追加され、収まるにつれて東漢一族の地としての確度が増していくような気分である。尚、蛇足になるが、東漢=川が直角に曲がって流れる地を突き通すように山稜が延びているところと解釈する。決して方位の”東”とを重ねた、巧みな表記なのである。
 
古市黑麻呂
● 古市黑麻呂

「古市」の文字列は、古事記の廣國押建金日命(安閑天皇)の御陵の場所、河內之古市高屋村で出現する。もっと古い時代に登場していても不思議はないのだが、交通の要所であっても事件は発生しなかったのかもしれない。勿論、たったの一度で十分であろう。

幾度か出現の「黑」=「囗++灬(炎)」と分解され、黑=[炎]の地形の傍に稲田があるところと読み解いた。多くの例があるが大雀命(仁徳天皇)紀の吉備の黑日賣を挙げておこう。

少し横道に逸れるが、「古」の地形象形は「頭蓋骨のような形」に基づいていて、東・南側の山稜はその通りの形と思われ、西側は省略して来た。

全く根拠はないのだが、ひょっとすると当時は現在よりもっと標高がある山稜が延びていたのかもしれないと思い始め、故に、西側も「市」の仲間に入れてみた次第である。現地名は行橋市長尾である。

<竹田大德・小墾田猪手>
● 竹田大德

竹田」の文字列も古事記では、たったの一度の出現である。沼名倉太玉敷命(敏達天皇)が庶妹豐御食炊屋比賣命(後の推古天皇)を娶って誕生した御子の一人、竹田王である。

一時は皇位継承候補の筆頭に挙げられていたが、残念ながら実現しなかった王である。勿論、「蘇我」(賀ではない)の地の中心に位置する場所が出自である。

歴史の表舞台に登場したのだが、その後に関する記述は見られないようである。

「大德」の名前から出自の場所を推定したが、明確ではなく、図に示したところ辺りが一応の候補と思われる。

「蘇我」一族が退いた後の経緯は、曖昧模糊とした状況と思われる。後に登場する小墾田猪手も併記した。「猪手」とは「豚足」と解釈して良いであろう。
 
膽香瓦臣安倍
● 膽香瓦臣安倍

膽香瓦臣安倍」の出自は、古事記の伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)が沼羽田之入毘賣命を娶って誕生した伊賀帶日子命に関わることが判った。要するに「膽香瓦」の地形象形が「伊賀帶」の別表記となる。

頻出と言えそうな「膽」=「月+詹」と分解され、膽=大きく広がった山稜の端に三角州があるの様と読み解いた。「香」=「黍+甘」と分解され、香=四角い地からしなやかに曲がる山稜が延びている様と読み解いた。

前者は膽駒山、後者は天香山の例がある。それぞれ重要なランドマークの地形象形表記で用いられた文字である。瓦=瓦のように平らに広がった様である。これで前半部の地形が浮かび上がって来た。

「安倍」は、そのまま読み解けば安倍=山稜に囲まれた嫋やかに曲がる谷間の傍にあるふっくらとした小高いところと読み解ける。これらの地形要件を満たす場所が、現在の安浦神社の辺りと推定される。「記紀」を通した地形象形表記を相矛盾することなく、具体的に示された文字列であろう。現地名は行橋市稲童である。

高市皇子に従って来た「民直大火・赤染造德足・大藏直廣隅・坂上直國麻呂・古市黑麻呂・竹田大德・膽香瓦臣安倍」、彼らの出自は、当然ながら豊かな地ではなかった、あるいは過去の栄光はあっても没落したような地であることが判った。乱後の消息は不明のようだが、それぞれの志は成遂げられたのであろうか・・・引き続き伊勢鈴鹿で仲間となった連中である。

<三宅連石床・三宅吉士入石>
● 三宅連石床

「三宅連」は、古事記の垂仁天皇紀の記述、「天皇、以三宅連等之祖・名多遲摩毛理、遣常世國、令求登岐士玖能迦玖能木實」に登場する。

多遲摩毛理」の出自は、新羅の王子、天之日矛が「故更還泊多遲摩國、卽留其國而、娶多遲摩之俣尾之女・名前津見、生子、多遲摩母呂須玖。此之子、多遲摩斐泥、此之子、多遲摩比那良岐、此之子、多遲麻毛理」と記載されている(系譜はこちらを参照)。

本著の地形象形表記として紐解くと、これだけの情報があれば、三宅連の場所は一に特定された。現地名は築上郡築上町下別府である。

石床=麓の四角いところと読み解くと、図に示したように出自の場所が求められる。上記の「膽香瓦臣安倍」とで現在の航空自衛隊築城基地を南北に挟んだ位置付けである。古は「息長」と繋がり、皇統に絡む人材輩出の地であった。早期に開けた地であり、その後も途切れることなく人々が住まっていたのであろう。

後に三宅吉士入石が登場する。既出の吉士=蓋をするように突き出た山稜が延びているところと解釈した。図に示した「三宅」の西側の山稜を表していることが解る。すると、「吉士」と「三宅」の間にある谷間の入口に丸く小高くなった地を見出せる。それを入石と表現したのであろう。地形の変形を辛うじて免れた場所である。

余談になるが、古事記の「登岐士玖能迦玖能木實」は書紀では「非時香菓」と表記される。「不老長寿の木の実」のような寝惚けた解釈が通説である。「非時香菓」も同じ地形を表す立派な地形象形表記である(何と読み解ける?)。天皇の埋葬に伴う生身の人柱から埴輪に変わった重要な事柄を伝えているのである。
 
三輪君子首・三輪君高市麻呂
● 三輪君子首・三輪君高市麻呂

またもや登場の「三輪君」である。現在の足立山西麓辺りを出自の場所として求めてみよう。すると前出の「大口」、「根麻呂」の南側が出自の場所と解る。

「高市」は前出の「高市皇子」と同じ解釈であろう。高市=皺が寄ったような山稜が集まるところである。砲台山西麓の急斜面にある山稜が描く地形を表している。「麻呂」は麓にある台地、本通寺辺りと思われる。

子首=生え出た山稜の端にある[首]の形のところと読み解ける。「高市」の谷間の先にある窪んだ場所を示しているのであろう。

現地名は北九州市小倉北区霧ヶ丘である。彼らは、血気の若者ではなく、それなりの地位、一族の命運をかけた寝返りだったのであろう。

<高田首新家-首名-石成>
<高田毘登足人>
● 高田首新家

「高田」は高田醜醜、高田首根麻呂で登場した地である。この地も決して広くはないが、「新家」が示す場所を探してみよう。「新」を通常の意味で読んでも何も得られることはなく、「新」=「辛+木+斤」と分解して漸く地形象形に近付く。

「新」=「山稜を斧で切り裂いたような様」と解釈される。「家」=「宀+豕」=「山稜で囲まれた[豚]の口ような様」と解釈すると、新家=斧で切り裂いたような山稜の端が豚の口の形をしているところと読み解ける。

残念ながら、現在は広大な団地となっていて、国土地理院航空写真1961~9年を参照して、出自の場所を求めた。これでこの系列はおしまいかと思いきや、續紀で二名の人物、息子と孫が登場している。

伝えられている系図では「根麻呂」→「新家」→「首名」と繋がるとのことである。「首名」は後の文武天皇紀(續紀)に父親の遺産相続で登場するようだが、上図に併記した。首名=山稜の端にある三角州が首の形をしている様と読み解ける。

更に淳仁天皇紀に高田毘登足人(高田首足人)が「新家」の孫、「首名」の子となるのであろうが、『壬申の乱』の功績である遺産を没収されてしまうという不始末をしでかしている。世は常ならず、なのかもしれない。図に出自の場所を併記した。

後(持統天皇紀)に高田首石成が登場する。石=厂+囗=崖下の区切られた様成=丁+戈=平らに盛り上げられた様であり、図に示した場所が出自と推定される。

鈴鹿合流組には「湯沐令田中臣足麻呂」が居たが、上記「大藏直廣隅」のところで既に述べた。「湯沐令」については前記で述べたが、急勾配の香春岳西麓も川が蛇行して流れる地形である。美濃國安八磨郡との類似は極めて高い場所であり、天皇所轄領であったことを伝えている。

<吉備國蚊屋采女・蚊屋皇子・山部王>
● 山部王・石川王

山部王は、ここでは実際に登場されたわけではないが、後に敢無く惨殺されてしまうと言う役柄である。調べるとこの王は、舒明天皇の御子、吉備國蚊屋采女を娶って誕生した蚊屋皇子の子と記載されている。

吉備國出身者が多く登場する時代であった。「山部王」の出自の場所は、山部=山稜が[山]の文字形をした近隣のところと解釈される。長老とまではいかなくとも、年齢を重ねて存在だったと推測される。

石川王は、敏達天皇の御子、難波皇子の子と記載され、栗前王、高坂王とは兄弟である。前記に掲載の図に併記した(こちら参照)。石川=川の傍にある麓の小高くなったところと読めるであろう。『壬申の乱』での出番は見当たらないが、後に「吉備大宰石川王」として登場されるようである。

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漸く「三重郡」まで逃げ延びたが、これから大河を渡渉して目的の「桑名郡」へと向かうことになる。まるで絵に描いたように現在の紀伊半島東部(三重県)の地名が登場する。さて、どうなることやら・・・。