2020年8月4日火曜日

天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(3) 〔439〕

天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(3)


さて、いよいよ吉野を出立である。徒手空拳とは言え、総勢にすれば、そこそこの人数になる。目立たず、速やかに美濃の不破に辿り着けるのか、神のみぞ知るであろう。引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

是日、發途入東國。事急不待駕而行之、儵遇縣犬養連大伴鞍馬。因以、御駕、乃皇后載輿從之。逮于津振川、車駕始至、便乘焉。是時元從者、草壁皇子・忍壁皇子、及舍人朴井連雄君・縣犬養連大伴・佐伯連大目・大伴連友國・稚櫻部臣五百瀬・書首根摩呂・書直智德・山背直小林・山背部小田・安斗連智德・調首淡海之類、廿有餘人・女孺十有餘人也。卽日、到菟田吾城。大伴連馬來田・黃書造大伴、從吉野宮追至。於此時、屯田司舍人土師連馬手、供從駕者食。過甘羅村、有獵者廿餘人、大伴朴本連大國爲獵者之首。則悉喚、令從駕。亦徵美濃王、乃參赴而從矣。運湯沐之米伊勢國駄五十匹、遇於菟田郡家頭。仍皆棄米、而令乘步者。到大野以日落也、山暗不能進行、則壤取當邑家籬爲燭。及夜半到隱郡、焚隱驛家、因唱邑中曰「天皇入東國、故人夫諸參赴。」然一人不肯來矣。

六月二十四日、「駕」も使わずに発たれたが、途中供の鞍の付いた馬に乗った。勿論皇后は輿である。「津振川」に着いた時に「車駕」が間に合ったと述べている。この時に従者が列挙されている。「草壁皇子・忍壁皇子」以下二十余名、女孺(女官)が十余人であった。「菟田吾城」に着いた時に「大伴連馬來田」等が吉野宮から追って合流している。

「甘羅村」を過ぎる辺りで「獵者」二十余人を従えることでき、美濃王を呼び寄せ、従わせている。「菟田郡家頭」で米を運ぶ馬の米の代わりに歩行者を乗せて急がせたものの「大野」に至った時には既に日は落ち、歩行困難になったようである。「家籬」(家の垣根)を燃やして灯りをとりつつ、夜中になって漸く「隱郡」に辿り着き、早速に「驛家」を燃やした。村中に参加を呼び掛けたが誰も従わなかったようである。

「驛家」は「律令制で,駅使や官人の往来,あるいは文書の伝達のため,宿舎・食糧・人馬などを供した施設。駅長が駅子(えきし)を指揮して運営した。駅亭。うまや。」と辞書に記載されている。近江朝側の情報伝達遮断である。些かの抵抗があったと推測されるが、記載されず。勿論、これは予定通りの行動であったと思われる。

登場人物の出自は、後で纏めて述べるとして、逃亡ルート上に記載された地名を求めてみよう。到着した順は・・・①津振川 ②菟田吾城 ③甘羅村 ④菟田郡家頭 ⑤大野 ⑥隱郡(驛家)・・・出発時刻は不明であるが、夜中に⑥に到着したと記している。
 
<吉野宮~津振川~菟田吾城>
吉野宮を出て、古事記の言う宇陀之穿を抜け、崖を下ることになる。相当に急傾斜の崖を九十九折れながら下ると物部朴井連の地に入る。前出の朴井連雄君の出番であったろう。

彼の出自の場所を通過すると川に出合う。これを「津振川」、現在名は東谷川と思われる。

①津振川

どんな川だと言っているのであろうか・・・「振」=「手+辰」と分解される。「辰」=「二枚貝が舌を出した様」とすると「振」=「山稜の端が二枚貝の舌のような様」と解釈する。

すると津振川=山稜の端が二枚貝の舌のような地が集まった川と読み解ける。要するに蛇行が連続した川の様相を象形した表現であることが解る。

その表現に耐え得る東谷川であろう。渡渉の場所は定かではないが、おそらく現在の架橋されている辺りではなかろうか(現地名は北九州市小倉南区市丸辺り)。川向こうの山麓を歩んだと推測される。がしかし、結構な段差を歩まねばならず、歩行困難者が多く出たものと思われる。その後の馬の確保は必然だったと推察される。

②菟田吾城

やっとの思いで辿り着いた城で一休みなのであろう。「吾」=「五+囗」と分解する。「五」の古文字は「✖」であり、「囗」(区切られた地)が交差するような様を表すと解釈した。前出の譯語田宮御宇天皇(敏達天皇)に含まれる文字である。「言」がないので吾=山稜が交差するするようなところと読み解くと、図に示した場所と推定される。現地名は同区木下辺りである。
  
<菟田吾城~甘羅村~菟田郡家頭~大野~隱郡
③甘羅村

この村を過ぎたところで「大伴朴本連大國」が率いる「獵者」集団が加わったと述べている。おそらく、彼らは「物部」の地を通過するショートカットをしたのであろう。現在名の井手浦川が合流する場所と思われる。「獵者」の集団も吉野での狩猟を生業としていたのであろう。

既出の「甘」=「動物の舌」を象った文字であり、地形象形的には甘=谷間で舌のような平らな地を覗かせる様と読み解いた。甘檮岡などで使われていた。羅=連なる様であり、「甘」の地が連なっているところを表している。現地名は同区新道寺である。

④菟田郡家頭

菟田郡の屯倉故に米を運ぶ馬がいたのであろう。米ではなく、馬が必要であった。この屯倉の場所は、勿論記載されている。「家」=「宀+豕」と分解され、「頭」と合わせて家頭=山稜に囲まれた豚の頭のようなところと紐解ける。

甘羅村からほんの少し北に向かった場所の左側に見える麓の光景であろう。五十人以上に膨らんだ一団、既に目立ち始めていたのではなかろうか。訊ねて来る連中はいなかったとは思うが、聞かれたら、ひょっとすると”お伊勢参り”とでも答えたのかもしれない。

⑤大野

山道に慣れて来たかと思うと、既に日没になったようである。道の段差も幾分少ないようではあるが、暗くては如何ともし難かったと思われる。遠慮なく家垣を松明替わりにしたのであるが、これもほぼ想定内の行動であったと思われる。生木を燃やすわけには行かない筈である。現地名は同区石原町である。

隱郡(驛家)

ここまで殆ど苦労なく追跡して来たが、ハタと止まった感じである。取り敢えず「隱」=「阝+㥯」と分解され、更に「㥯」=「爪+工+⺕+心」に分解される。「下向きの手(爪)と上向きの手()を合せた(工)の中心」と読め、これが「隠(カク)す」の意味をもたらすと解説されている。そのままではこれが示す地形は洞窟になってしまう。勿論立派に隠すことになるのだが・・・。

そんな時に通説は如何に納得しようとしているのかを見てみると、現地名の「名張」に宛てるのであるが、「隠」は・・・四方を囲まれていることを意味するが、どう見ても名張の地形ではない、がしかし、より広くみると山稜に囲まれているから、良しとしよう・・・のような解釈があった。これが重要なヒントを提供してくれたのである。上下で挟むのではなく、高い位置で四方が囲まれている場所ならば上下で挟まれた時と同様の”隠し効果”が生じる。

図に示した通り、尾根に四方を囲まれた地が見出せる。特異な山稜であるが、尾根に盆地が存在するのである。その谷間の麓に「驛家」があったと推定される。現地名は同区高津尾、現代風に読み解くと「高いところが集まった尾根」とでもなろうか。時間を掛けただけのことはあった、確度の高い場所となったようである。

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以下に登場人物の出自の場所を求めておこう。概ね登場順である。前記で登場の朴井連雄君黃書造大伴はそれぞれのリンクを参照。

縣犬養連大伴-手繦
● 縣犬養連大伴

「縣犬養」についての詳細はこちらを参照願うとして、頻出の「大伴」の地形は容易に見出せる。「縣」の北麓の谷間であろう。古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が娶った富登多多良伊須須岐比賣命の母親である勢夜陀多良比賣が坐していた場所である。

比賣も、まさか自分の場所名が「縣」になるとは思ってもいなかったであろうか・・・がしかし、「勢夜陀多良」は難解である。詳細な地形を教えてくれてはいるのだが・・・。

「大伴」だけでは何とも捕えようがないのだが、調べると「大侶」の別名があることが判った。「侶」=「人+呂」と分解され、「谷間で積み重なった様」であるが、侶=積重なった地で挟まれたところとも読める。谷間の入口近くの場所と推定される。書紀編者にしてみれば、「大伴」で十分判るから省略、であろう。

後に縣犬養連手繦が登場する。手=腕を延ばしたような様である。「繦」=「糸+強(異字体)」と分解すると、繦=糸をピンと張った様と解釈される。図に示した谷間の真ん中にある山稜の形を表していると思われる。その先端辺りが出自の場所と思われる。

● 草壁皇子

菟野正妃の息子である。今後、度々ご登場願うことになりそうである。「草壁」=「日下部」であり、古事記の大長谷若建命(雄略天皇)紀に記載される日下に由来する地名である。おそらく長谷朝倉宮が出自の場所と思われる。高市皇子は景行天皇の場所(纏向日代宮)であったが、歴代の天皇の宮を借りて育てる、合理的な話であろう。土地の人々にとって世話役を含めると結構な人数であろうが、租税の代わりと思えば納得できた、のかもしれない。

● 忍壁皇子

母親が「宍人カヂ媛娘」(カヂ=木+殻)であり、御子四人が誕生、その長男である。後に登場した時に詳細を述べることにするが、母親は膳臣の一族であり、春日(現地名は田川郡赤村内田)が出自である。地形的には、膳=宍である。

「忍坂部皇子」、「刑部親王」の別名があると知られている。「刑」の文字が示す場所は、古事記の品陀和氣命(応神天皇)の御子、大山守命が祖となったと記されている。即ち神倭伊波禮毘古命(神武天皇)紀の忍坂大室の地である。その谷間を出たところを「刑部」と称していたと推定される。

<佐伯連大目・佐伯連男(廣足)・大伴連御行>
● 佐伯連大目・佐伯連男

「目」=「谷間」と読む。多様に用いられる文字ではあるが、「目」と単純に記載された場合は概ね傾斜の大きな谷間を表すようである。見た目が立っている様であろう。

調べると大錦上佐伯連子麻呂の子であり、大海人皇子の舎人だったことが知られている。併せて後に登場する「佐伯連男」の場所も示した。

「男」は前記の村國男依と同じ解釈と思われる。かなり小ぶりになってはいるが・・・父親が「廣足」と言われ、後に登場する。廣足=広がった山稜の端であろう。その父親が佐伯連東人であり、弟に麻呂が居たと知られる。纏めて図に示した。

後に大伴連御行が登場する。御行=真っ直ぐに延びた山稜を束ねたところとして、「大目」の東隣の山稜を表していると思われる。どうやらこの辺りが「佐伯連」と「大伴連」の境だったのであろう。如何せん、この狹い谷間からの人材の輩出は凄まじい。大臣まで出たのだが、現在の様子とのギャップに戸惑いを感じさせられる場所である。

● 大伴連友國・大伴朴本連大國・大伴連馬來田
 
<大伴連馬來田-吹負-友國・大伴朴連大國>
「大伴」の地で求めてみよう。「吉士」と同様に、この地も一杯であるが、果たして余地はあるのか?…先ずは文字解きである。

「友」=「又+又」と分解される。前出の於友郡などで解釈と同様に、友=二つの山稜が並ぶ様である。

大伴連友國の出自の場所は、谷の出口辺りで大きく岐れる前に並んでいるところと推定される。更に朴=木+卜=山稜が岐れ離れて行くところを「朴」と表記している。

その「卜」になるところが本=木+一=山稜が区切られているところと表記し、その麓辺りは、「大」=「平らな頂の麓」でもあり、それを「大國」と表記したと思われる。大伴朴本連大國の出自の場所と推定される。既出の物部朴井連と同様の地形を表していると思われる。

大伴連馬來田は、「馬」の地形から來=山稜が延びて広がったところと読み解ける。前出の今來の解釈である。出自の場所は小高いところの麓辺りであろう。大活躍の弟、大伴連吹負がいる。吹=口+欠=口を開いたような様負=人+貝=谷間が二つに岐れている様と読めば、図に示した地形を表している。いずれにしても、この狭い谷間から多くの戦士が参加したのである。ひしめき合った状況を打破したかったのかもしれない。

<稚櫻部臣五百瀬>
● 稚櫻部臣五百瀬

久々の登場である古事記の伊邪本和氣命(履中天皇)が坐した伊波禮之若櫻宮の付近の地であろう。

櫻=二つの谷間が[Y]の形に寄り集まった様と紐解いた。倭國の「伊波禮」の北に位置する場所である。

後岡本宮の東側でもある。金辺川と呉川が合流する大きな州の近隣である。「稚」=「禾+隹」と分解される。「椎」に類似するとすると(こちら参照)、稚=しなやかに延び出た山稜がくっ付いて並んでいる様と読み解ける。稚櫻部は「櫻」の東側の麓を示している。

五百=連なった小高い地が交差するを示す(例えば伊豫之二名嶋の五百木など)。凹凸のある延びた山稜が交差するような場所があり、その先に淵になった川辺が見出せる。この地を五百瀬と名付けたと思われる。出自の場所は図に示した辺りと推定されるが、舎人として入宮していたと推測される。
 
<書直智德>
● 書首根摩呂

斉明天皇紀に「河内書首(闕名)」が登場している。当人達の奸計は不明だが、「河内」の「首」の近傍が出自の場所であろう。詳細はこちらを参照。調べると「尼麻呂」、「禰麻呂」の別表記があるらしい。尼=くっ付いて離れる様禰=広がった高台と解釈されるが、地形表記の側面を捉えていて興味深い。

● 書直智德

「書直」は「倭漢」一族(倭漢の近傍に住まう一族)であろう。「智」=「矢+口+日」と分解して矢+口=の地形を求めると、それらしき場所が見出せる。

天武天皇の舎人として功績大なるところがあったようである。歴史の表舞台に立たない舎人であるが、果たした役割は重要だったようである。

● 山背直小林・山背部小田・調首淡海
 
<山背直小林・山背部小田・調首淡海>
「山背」は御所ヶ岳・馬ヶ岳山系の南麓、現地名は京都郡みやこ町犀川木山辺りと求めて来た。欽明天皇紀には
山背國紀郡深草里の記述があり、「深草屯倉」として出現している。

古事記では極めて古くから登場する地名である。天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で誕生した天津日子根命の祖の記述に出現している。

「小」は山稜の形を模した表現であろう。同じく「直」もその麓の形を表していると思われる。林=谷間の入口が門のように山稜が並んでいる様から名付けられたと思われる。

「小田」はそれに隣接し、同じように「小」の山稜の麓の地を示していると推定される。彼等は、「深草屯倉」に隣接する地が出自の場所であり、大海人皇子との繋がりは深かったのかもしれない。

調首淡海については、いきなりではとても解読不可の名前なのであるが、調べると、なんと、古事記の筒木韓人奴理能美の後裔だとか・・・懐かしい名前である。大雀命(仁徳天皇)の皇后の石之日賣命が嫉妬に狂って山代國を彷徨い、行き着いたのが「奴理能美之家」であった。

山代を抜けたら葛城が見えるなんて言うものだから、古事記の記述は当てにならないと片付けられるところである。余談はこれくらいにして、奴理能美の地に「調首淡海」を当て嵌めてみよう。

結論を上図に示した通り、バッチリと収まるのである。「調」=「言+周」と分解すると、地形象形表現では調=周りが隈なく耕地(言)になっている様となる。淡=水+炎=水辺にある[炎]の様(小さな炎が見える)海=水+毎=水辺にある山稜が両腕で抱えるような様となる(水辺は松阪川)。「淡海」=「近江」は全くお呼びではないのである。「母」が「首」を「両腕」で抱えたら完成である。

<安斗連智德-阿加布>
●安斗連智德

「安斗連」の出自を調べると、物部一族であったことが判った。多くの派生氏族を残した邇藝速日命を遠祖に持つ一族だったと伝えられている。

後に「阿刀」とも表記され、「宿禰」姓を賜っている。さて、物部一族となれば、その派生氏族も含めて、現在の北九州市小倉南区を流れる東谷川周辺となろう。

先ずは、その名称の由来を読み解いてみよう。既出の文字列である、安斗=山稜に囲まれた嫋やかに曲がる谷間(安)の傍にある柄杓の形(斗)のところと読む。古事記で頻出の「斗」、書紀も使う時には使うのだと、告げているいるようである。

実は、この「斗」の地形を含めて「刀」と象り、阿刀=刀の形の台地を表すのである。やはり、「斗」の文字を避けたのかもしれない。「斗」と「刀」の古文字は極めて類似した文字形であることにも気付かされる。すると、図に示した現地名北九州市小倉南区志井の谷間に、その地形を見出すことができる。

智德の頻出の智=矢+口+日=鏃と炎の地がくっ付いている様德=彳+直+心=四角く区切られている様と解釈したが、図に示した場所にその地形を見出せる。父親が石楯=山麓にある山稜の端が谷間を塞ぐように延びているところと解釈される。谷奥の地を表していると思われる。子に夕張大足がいたと知られているが、それぞれ図に示した場所が出自と推定される。詳細は、登場の際に述べることにする。

後に東海軍を率いた一人として登場する安斗連阿加布の頻出の阿=台地加=押し広げられた様布=布を広げたように平らな様であり、谷間が平たく広がった場所が出自と思われる。父親が若麻呂と知られる。多用される若=叒+囗=おおくの山稜が延びている様であり、「斗」の裾野に細かく岐れて延びている地形を示していると思われる。

子に足嶋廣嶋玄昉がいたと伝えられている。兄二人については、図に示した場所が出自と推定される。玄昉については、入唐学問僧であり、帰国後に僧正となる。それに伴って政治に関わるようになり、歴史の表舞台での活躍が續紀に記載されている。

「玄」の文字は幾度か登場しているが、改めて読み解いてみよう。「玄」=「幺(糸)+一」と分解される。図形としては、細い糸がぶら下がった様を表している。文字としては「縣」と同様の形を表すことになる。「縣」の首(頭部)のような形ではないことが異なっている。これらを踏まえると地形象形的には玄=平らな台地がぶら下がっている様と読み解ける。

初めて用いられた文字である昉=日+方=炎のような地が広がり延びている様と読み解ける。それらの地形要素を持つ場所が図に示した「刀」の山稜の端にあることが解る。玄昉は、その付け根の地が出自と推定される。僧の名前は、凝っているのである。漢字の知識の違いであろうか。

安斗(阿刀)連一族を上記の谷間に配置することができたようである。この谷間がすっぽりと空いていたことが不思議なくらいであったが、やはり多くの人々の居処であったと思われる。

<土師連馬手>
● 土師連馬手

地味に活躍された人物のようであるが、持統天皇紀及びその後にも度々登場されている。だが、決して出自は明確ではないようで、一説には土師連身の子とも言われている。

「馬手」の「手」=「山稜が[手]のように延びている様」と解釈される。同族の土師連猪手が登場していた。この限られた地域で「手」の地形を示す場所は、この「猪手」以外に求めることは難しい。馬手=[手]のように延びた山稜の前で[馬]の形の地があるところと読み解ける。

「猪手」に近接する場所である。それぞれの履歴を確認すると、即位二年(西暦643年)に蘇我入鹿の命に従って斑鳩宮の山背大兄王を襲った時に反撃を喰らって「猪手」が戦死したと記述されていた。兄弟か親子か知る由もないが、そんな背景から出自について多くが語られなかったのかもしれない。

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さて、一行は翌朝⑥隱郡を発ち、⑦横河に向かう。まだまだ、先は長く、これより最も危険な場所、「伊賀」を通過することになる。