天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(2)
出家した大海人皇子は吉野でのんびりと余生を送ろうと思っていたが、近江朝、即ち大友皇子側が仕掛けて来た、と記載された。一ヶ月前後の期間を空けて具体的な行動に移る。時は「壬申」(西暦672年)である。原文引用は青字で示す。日本語訳は、こちら、こちらなどを参照。
六月辛酉朔壬午、詔村國連男依・和珥部臣君手・身毛君廣、曰「今聞、近江朝庭之臣等、爲朕謀害。是以、汝等三人、急往美濃國・告安八磨郡湯沐令多臣品治・宣示機要而先發當郡兵、仍經國司等・差發諸軍・急塞不破道。朕今發路。」
六月二十二日になって、三名「村國連男依・和珥部臣君手・身毛君廣」に具体的な指示を出された。美濃國に向い、「安八磨郡湯沐令多臣品治」に近江朝廷の「謀害」のことを告げ、兵を起こして「不破道」を急ぎ塞ぐようにせよ、と仰った。美濃國に拠点を構え、近江朝との決戦を行う、最初の具体的な命令である。
「湯沐令」とは、中国の古代からある「湯沐邑」の名称を使って、皇族の領地を表したものとある。それを独自に、しかも短期間のみ設置されたもののようである。大海人皇子の食い扶持を提供する地とでも受け取っておこう。勿論、軍事用の兵糧確保(財源)である。
美濃國安八磨郡・不破道
ここで登場する地名が美濃國安八磨郡と不破道の二つである。美濃國不破郡・片縣郡は既出であり、現地名の北九州市小倉南区朽網辺りと推定した。百濟の鬼室福信が連れて来た唐の捕虜を住まわせた地である。両郡との間の凹んだ場所が不破道であろう。
<美濃國安八磨郡・不破道> |
当時は海に突出た半島のような地形であって、ここを塞げば陸路の東西往来を遮断できる、格好の場所であったと推定される。兵糧(財源)を守るためにも、死守すべき「道」であったと思われる。
後に不破の「野上」を拠点とする。図に示した現在の朽網小学校辺りと推定されるが、近江大津宮に対する「不破宮」と位置付けられる。
これらの戦略拠点の意義付けを含めて、最初に取り掛かった軍事行動だったと思われる。
「安八磨郡」の頻出の「安」=「山稜に囲まれた嫋やかに曲がる谷間」と読み解いた。この谷間の出口から大きく広がった地形となる。それを「八」で表したと思われる。
更にこの広がった谷間の出口は、真ん中が少々窪んだ地形、図でも「八」の真ん中の標高が低くなっていることが伺える。その地形を「磨」=「臼のような様」と表現したと思われる。
即ち、安八磨郡=山麓に囲まれて嫋やかに曲がる谷間(安)が広がった(八)場所が臼のように窪んだ(磨)郡と読み解ける。現地名は北九州市小倉南区貫である。この谷間は現在も多くの棚田が作られていて、標高150mを越える場所まで積み重ねられたように見える場所である。
「多臣」だから出雲系と片付けてしまっては勿体ないであろう。頻出の「多」=「山稜の端の三角州」、「品」=「段差のある麓」、「治」=「水辺で耜のような地がある様」と解釈すると、上図の「安」の谷間の中腹、貫川と上貫川の合流点付近の地形を表していることが解る。多臣品治=山稜の端の三角州が段差のある耜のような形をしたところの臣と読み解ける
「湯沐」も上記の解説だけでは、真に勿体ない、であろう。頻出の「湯」=「飛び散る水が流れる谷間」でとした。繰り返すが、「お湯、温泉」ではない。「沐」=「髪を洗う、恵みをうける」の意味があると解説されている。すると、湯沐=水が飛び散る谷間の恵みを受けるところと読み解ける。
余談だが、「多臣品治」の子に太安萬侶(古事記編者)がいた。父親の少し下流に「太」=「平らな頂の麓(大+・=中腹の小高い山稜)」、「萬」=「蠍の地形」、「侶」=「人+呂」=「谷間で積み重なった様」である。これらの地形象形の要素満たす場所が、容易に見出せる。親子であるが、「多」と「太」(共に[オオ])を使い分けて出自の場所を表す、常套手段である。
「村國連」は、勿論書紀中の初登場である。少し調べると、美濃國の出身であるが、姓(カバネ)の「連」はこの戦いの後に授けられたようである。近江朝のような錚々たる「姓」の持主ではなく、名も無き士に主力隊を任せた大海人皇子との繋がりが知りたくなるところであるが、不詳。その一端を知るためには、彼の出自の場所を求めることであろう。
先ずは文字解釈から、「村」は、白村江で読み解いたように村=木+寸=山稜が手(腕)のように延びた様と読み解いた。問題は「男」の解釈なのであるが、決して「田+力」=「田を耕す人」ではない。古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)紀に登場した紀國男之水門と類似の解釈と思われる。すると図に示したように逞しい「男」が見出せる。
また「小依」の別称があることから、[男]の半ばの三角の小高いところの麓が出自の場所と推定される。安八磨郡の片隅で、全幅の信頼ができる「品治」、秀でた軍事能力の持主「男依」であることを大海人皇子は熟知していたことが解る。
少々余談になるが、通説では「村國男依」の出自は「各務原」となっている。各=大地が至って尽きる様であり、務=敄+力=矛のような地が力強く延びた様を表すと解釈される。正に「男」の別表記と見做せることが解る。書紀本文には出現しないが、当時の地形象形表記がそのまま残った例であろう。
● 和珥部臣君手
「和珥」は、本ブログでは初登場であるが、書紀中の神武天皇紀以降、頻出である。古事記で言う「丸邇」に当たり、時代と共に、その勢力範囲の拡大に伴って、「宇遲」と表記される。邇藝速日命一族から派生した氏族と読んで来た。
それを書紀では「和珥」と表記する。図に示したように「珥」=「玉+耳」と分解され、珥=耳にくっ付いた玉がある様と読み解ける。
古事記は「丸」に拘った表記であるが、書紀は実に”洗練された”文字使いを行っていると言える。それが怪しさを示すこともあるが・・・。「手」の形をした場所を端的に表していると思われる。「部」=「近隣の地」と解釈される。
古事記で登場する宇遲能和紀郎子の場所であろう。「君」=「|+又+囗」=「区切られた大地」とすると、君手=区切られた大地が[手]のようなところと読み解ける。おそらくその谷間が出自の場所と思われる。正に古豪の末裔と言った感じである。
後(續紀の元正天皇紀)に壬申の功より息子、大石に田が与えられている。「手」の先端部を示していると思われる。原文は”丸部臣”であり、續紀は、限りなく古事記表記を尊重したものとなっている。後日にまた繰り返し述べることになりそうである。
<身毛君廣・和蹔> |
● 身毛君廣
「身毛」は景行天皇の御子、大碓皇子について「是身毛津君・守君、凡二族之始祖也」と記載された「身毛津君」に含まれている。「守君」は斉明天皇紀に守君大石で登場している。
古事記で言えば、「大碓命、娶兄比賣、生子、押黑之兄日子王。此者三野之宇泥須和氣之祖。亦娶弟比賣、生子、押黑弟日子王。此者牟宜都君等之祖」の記述に対応すると思われる(こちらを参照)。書紀は「始祖」として簡略化している。
「身」=「弓なりにふっくらとした様」、「毛」=「鱗のような様」と読み解いて来た。即ち、「身毛」=ふっくらとした鱗のようなところ」と読み解ける。
本題の「身毛君廣」には「津」が含まれておらず、かつ「廣」が付加されている。即ち、「宜」もしくは「毛」が寄り集まったところではなく、大きく広がった地がある「毛」の麓が出自の場所であることを表している。日本の耕地は、山の谷間から海辺へ、である。併記した「和蹔」は後に登場する地名である。古事記では、ここは「三野」と述べていた。
六月二十四日には臣下の情報によると既に道路を塞がれ、一兵卒もない、正に徒手空拳の状態では事は成遂げられないと悟り、「男依」等を呼び寄せようと思ったが、先ずは「驛鈴」が使えなくなっているかを確認し、そうならば子供達に連絡を取って、逃亡させようとした。危機状態の最終確認であり、同時に行動開始である。この辺りの指示が極めて簡潔明瞭である。軍事行動上、大切なことであろう。
● 高市皇子
「高市」の登場は古く、天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で誕生した天津日子根命が祖となった地、「高市縣」で出現する。
高=皺が寄ったような山稜が延びる様であり、市=寄り集まる様である。皺が寄り集まったような地形を表している。
「高」=「高い」としては、記紀は読み下せないのである。「大」=「大きい」と読んでは意味不明になるのと同様である。場所は図に示した山稜の端でぐちゃって山稜が寄り集まっているところである。現地名は田川郡香春町鏡山である。
後に登場する「高市縣主許梅」、「高市社」、「金綱井」及び「身狹社」の場所を併せて示した。詳細は、その時に述べるが、古事記の大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)が坐した地に様々な「社」が建てられていたことが解る。
「高市皇子」の母親は、胸形(現在の宗像市)と伝えている。この地も実に古から「記紀」に登場する地であるが、決して天皇家との積極的な関わりを持たなかったのであろう。或る意味不思議な存在感のある地と思われる。
胸形君德善・尼子娘
「胸形君德善女尼子娘」と記載されているのを頼りに母親の出自を求めてみよう。母親の父親に含まれる「善」は「記紀」を通じて同じように解釈できることを既に述べた。
「善」=「誩+羊」と分解される。「言」=「耕地された地」であり、誩=耕地にされた地が並んでいる様と読み解いた。
多くの山稜が釣川に向かって並んでいる地であるが、「真っ直ぐな山稜」は意外と少なく、一に特定される。現地名は宗像市吉留の松丸辺りである。「尼子」は「尼」=「尸+ヒ」と分解され、そんな地形が、山稜の端で見出せる。
后の財力がものを言う時代ではなくなったであろうが、ことが生じた場合にはきっと大きな助けとなったであろう。残念ながら書紀の記述では露わにされることはないようである。
● 大津皇子
天智天皇の大田皇女に生ませた御子である。姉が大伯皇女である。この二人の名前は斉明天皇が「娜大津」から「大伯海」を経て熟田津に向かう時に因んで付けられたようである。大田皇女は天武天皇の即位前に亡くなられた。皇子五歳の時と知られる。世が世ならば皇后の子となり、その後の人生も変わっていたかもしれない。
<大分君惠尺・稚(見)臣> |
「大分」は大分県ではなく、古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の御子、神八井耳命が祖となった地である(詳細はこちら)。更に古くは、速須佐之男命が娶った櫛名田比賣の出自の場所である。大変古い土地柄なのである。現地名は北九州市門司区奥田である。
「惠」=「叀+心」と分解される。「叀」=「糸を巻き取る装置」を象った文字と知られる。「周辺から中心に向かって丸く抱え込む様」と解説されている。地形象形的には、惠=山稜に取り囲まれた中に小高いところがある様と読み解ける。
「櫛」のような二つの山稜に取り囲まれた地形を示していることが解る。更に尺=親指とたの指とを拡げた様(長さの計測)であり、谷間に中で更に山稜が二股に岐れているところを示している。即ち、これらの地形が集まったところがこの君の出自と推定される。
「乱」の最後に登場する「稚臣」に含まれる、幾度となく出現する「稚」=「禾+隹」と分解して、稚=山稜が鳥の形を表すところであろう。谷奥の突き当りにその姿を伺うことができそうである。「臣」が付けられているのは、現在の淡島神社ではなく、その西麓の谷間が出自の場所だったと思われる。彼らが如何様に大海人皇子に関わっていたのかは不詳だが、この二人は最初と最後に活躍されたようである。
● 黃書造大伴
既に登場した黃書造本實に併記したこちらを参照。黃=平たく広がった様、幾度か登場の書=聿+者=山稜が交差するように集まった様と読み解いた。その交差する山稜が谷間でくっきりと区切られた(大伴)ところを表していると思われる。現地名は京都郡みやこ町犀川大村である。垂仁天皇紀ぐらいまでは多くの御子達が誕生した地である。その後に入植した人々の中にいたのかもしれない。
● 逢臣志摩
「逢臣」については、極めて情報が少なく、かなりの豪族だったようだが、その素性は殆ど知られていないようである。書紀を検索すると、「逢臣讚岐」の名前が出現する。
欽明天皇紀の逸話のようなところで、馬飼何某(大伴連馬飼に関連)も併せて登場する。するとその近隣の地が出自の場所と推測して、「讚岐」の地形を探すと、棚田が奇麗に先で岐れた地が見出せる。
これがヒントになって「逢」の意味が読み解けた。「逢」=「辶+夆」と分解される。「夆」は「峰」、「縫」などに含まれる文字で「寄せて合わさり盛り上がった様」を表すと解説されている。そのまま地形象形として、逢=寄せて合わさり盛り上がった様と読み解く。
志摩の志=蛇行する川、摩=山稜が細切れになっている様と解釈される。現在は広い棚田になっていて、当時の地形は推測するしかないが、「讃岐」が分岐する地形が山稜の端が細かく岐れていたのではなかろうか。出自の場所は、図に示した辺りと思われる。
「大伴」の狭い谷間から溢れんばかりに人材が輩出し、それに伴って地域を拡大、古豪は押し流されんばかりの状況にあったのかもしれない。何かを求めて古豪の末裔は”謀反”に加担した、のかもしれない。「逢臣志摩」が歴史の表舞台に登場するのはこれが最初で最後だったようである。
調べるとこの王は敏達天皇の御子、難波皇子の子と記載されている。前出の栗前(隈)王と兄弟だったのかもしれない(栗前王に併記)。現地名は田川郡赤村赤の浦山辺りが出自の場所と推定される。倭京の「留守司」を命じられていたが、やる気満々の相手をするには、些か荷が重かったようである。
「惠尺」の連絡を受けた高市皇子・大津皇子の逃亡が始まる。その詳細は語られないが、前者は「鹿深」を越えて、後者は父親の後を追って、約束通り、「伊勢」で落ち合う。さて、如何なることになるのか・・・。