2020年8月22日土曜日

天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(9) 〔445〕

 天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(9)


不破側のもう一人の将軍大伴連吹負は倭京を陥落させた勢いで更に先に進もうと企んでいたのだが、その後の経緯が記述される。引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

壬辰、將軍吹負、屯于乃樂山上。時、荒田尾直赤麻呂、啓將軍曰、古京是本營處也、宜固守。將軍從之。則遣赤麻呂・忌部首子人、令戍古京。於是、赤麻呂等、詣古京而解取道路橋板・作楯、堅於京邊衢以守之。癸巳、將軍吹負、與近江將大野君果安戰于乃樂山、爲果安所敗、軍卒悉走。將軍吹負、僅得脱身。於是、果安追至八口、仚而視京毎街竪楯、疑有伏兵乃稍引還之。

七月三日、将軍「吹負」は思いの通りに「乃樂山」に駐留した。その時、部下の「荒田尾直赤麻呂」が古京(倭京)をちゃんと守りましょう、と進言し、将軍はそれを受入れ、「赤麻呂」等を遣わしている。彼等は古京に戻って、橋板で楯を作って守りを堅固にしたと言う。

明けて四日、乃樂山にて近江将軍「大野君果安」と戦ったが、負けてしまって兵士達ほあ悉く逃げ去り、「吹負」も辛うじて脱出したと述べている。近江側の「果安」将軍は追い駆けて「八口」まで至ったが、山に登って京を見ると、堅固な守備がなされており、伏兵などの疑いもあってそのまま引き返したようである。

「乃樂山」は通常、現在の奈良市の平城山丘陵を示すと言われているが、「古京」(倭京とも、勿論飛鳥と表記されていないが)との直線距離25kmを越える。また「八口」の場所を曖昧にしていることも空間感覚を暈した表現となっている。書紀編者の典型的な手口であるが、読み手に任せる記述であろう。「乃樂」も「奈良(ナラ)」と読めないこともなかろうが、素直な表記ではない。

兎も角も、寄せ集めの「吹負」隊は、尋常の戦いでは勝ち目がないことは承知の上であって、強くなるにはもう少し時間が必要だったのであろう。大事なことは、殺されないこと、粘ってているといつかは勝機が訪れる、そんな具合であろう。

近江将がまたもや、中途半端なところで、恐るべし「伏兵」で帰還してしまったことであろう。倭京奪還が使命なのか、あやふやで、組織だった行動とは思えない勝利であったと思われる。息の根を止めない限り敵は蘇るのが通常であり、一見、頼りなさそうな将軍「吹負」が後に大仕事を成遂げることになる。

<乃樂山>
乃樂山

上記でも少し述べたが、これが何処の場所を示すかが重要であり、関連して「八口」の場所、そしてそこから少し登ったところから「倭京」が丸見えでなければならない、そんな地形要求を満たす地である。

「乃樂山」の場所は、後に記述されところによれば「稗田」の近隣であることが示されている。古事記の速須佐之男命の御子、大年神の子である「大山咋神」が坐した近淡海國之日枝山の場所と推定した。書紀風だと「近江之守上山」かもしれない。勿論、書紀には登場しない。現地名は行橋市下稗田である。

乃=弓の弦が緩んだ様を象った文字と解説される。「樂」は、度々登場する「藥」の文字に含まれる要素であり、同様にして「樂」=「糸+糸+白+木」と分解しする。樂=小ぶりな丸く小高いところが連なっている様と読み解いた。すると図に示した上稗田にある山稜が「乃樂」の地形を表していると思われる。

「乃樂山」は、その中心の最も高い場所となろう。「日枝」の地は、近淡海國の中心にあり、上記したように「大国主命」が登場する何代も前に開かれた地だと古事記は記している。そんな場所を近江やら奈良大和に求めても混迷に陥るばかりであろう。勿論、この地の行き着くところは「比叡山」となっている。これは動かし難い国譲りなのである。とすると、本紀の記述との辻褄が合わなくなって来るようであるが、残る一手は書紀編者がおかしい、なのかもしれない。

<乃樂山・八口・古京>
八口

破れた「吹負」の兵達は、一目散に守りを固めた倭京の方に逃げたであろう。その行程は、現在の長峡川沿いに上流方向に向い、京都郡みやこ町勝山浦河内の谷間の入口に至る。

ここを「八口」と記している。何処にでも当て嵌めて下さい、と言う感じの記述であろう。八口=谷間の入口である。

ところがこの「八口」を進むと仚=人+山=山上に人がいる様となる。そして眺めるのである。古事記の大長谷若建命(雄略天皇)が長谷長倉宮から后がいる河内へ日下之直越道で向かう途中で「師木」(現在の香春町中津原近辺)の家並みを眺める峠があった。現在の味見峠である。この峠からは「古(倭)京もさることながら「師木」まで見えることを古事記が記述していたのである。

――――✯――――✯――――✯――――

新規の登場人物は、「荒田尾直赤麻呂」(東漢一族に併記)、「忌部首子人」(忌部首子麻呂に併記)、「大野君果安」である。

<大野君果安>
● 大野君果安

「大野」だけでは皆目見当が付かない有様であるが、調べると「下毛野」に関係がある人物と分った。この地は、古事記の御眞木入日子印惠命(崇神天皇)紀に登場する豐木入日子命が祖となったと記載されている(こちら参照)。

「記紀」には登場する機会が少ない地であって、かつ、大野=平らな頂の野原と読める故に山稜の端にある場所を示していると思われる。

「果安」の文字は既出であって、蘇我果安臣(天武紀では蘇賀臣果安と表記)に含まれていた。果安=丸く小高い地がある山稜に囲まれた谷間が嫋やかに曲がっているところと読み解いた。山の中腹の谷間の地であったが、全く異なる地形で見出せるか?・・・。

標高差が少なく見極め辛いが、図に示した場所が、その要件を満たしていることが解った。山稜の端の谷間に丸く小高いとこらが幾つかくっ付いたような地形を表している。「大野君果安」の居場所は、おそらくその谷間の出口辺りと推定される。何れにしても、図中の青っぽいところは、当時は海面下であったと思われる。大河の河口付近、現在とは大きく異なる風景である。

余談になるが、「忌部首子人」は、中臣大島(父親中臣渠毎連)と共に書紀編纂に関わっていたと伝えられている。長生きされ、戦後も多くの活躍があったようである。尚、父親は「忌部佐賀斯」とある。

――――✯――――✯――――✯――――

甲子、近江別將田邊小隅、越鹿深山而卷幟抱皷、詣于倉歷。以夜半之、衘梅穿城、劇入營中。則畏己卒與足摩侶衆難別、以毎人令言金。仍拔刀而毆之、非言金乃斬耳。於是、足摩侶衆悉亂之、事忽起不知所爲。唯足摩侶聰知之、獨言金以僅得免。乙未、小隅亦進、欲襲莿萩野營而急到。爰將軍多臣品治遮之、以精兵追擊之。小隅獨免走焉、以後遂復不來也。

七月五日に、近江の別将「田邊小隅」が「鹿深山」を越えて「倉歷」に届いている。夜中に「城」に侵入し、合言葉「金」を決めて、敵味方を区別しながら「足摩侶」(足麻呂)隊に襲い掛かったと述べている。「足摩侶」は敏く、何とか逃げ延びたようである。合言葉まで記述しながら、「城」の名称を省く、何とも書紀編者の”姑息さ”・・・いえ、書けなかったのである。

「鹿深」も重要な地点なのであるが、明瞭ではない。高市皇子が逃げた道は、この「鹿深」越えの行程だと述べていた。「近江大津」から伊勢に向かう時に通過する地点である「吉野越え」と対峙する「鹿深越え」、なのである。即ち、「鹿深」と「城」は密接に関連することが伺える。略記しながら、それを暗示する記述と思われる。

翌日六日に「小隅隊」は「亦進」と記載されている。しかもその向かった先は莿萩野だと述べている。そこで結局は待ち構えていた「品治隊」に敗れ去ってしまったようである。またもや「亦進」と言う曖昧な表現をしている。サラッと読めば「倉歷道」を進んだように錯覚するが、「亦」はそのまま先に進むとは限らない表記であろう。むしろ「韋那公磐鍬」、彼が「倉歷道」を通ったとは記載せず、「東國」と記載するしたたかさであるが、の報告、伏兵多しを知れば、決してそのまま先には進まなかったであろう。

上段に加え、この段も書紀編者の悪戦苦闘ぶりがまざまざと浮かび上がっている状況のようである。彼等の曖昧に暈した表現を白日の下に曝してみよう。できることは、記載された場所を求めることである。

<鹿深山>
鹿深山

「倉歷道」の近辺で探すことになるのだが、「鹿深」とは如何なる場所を表しているのであろうか?…この二文字は地形象形表記に用いられている。

「鹿」は通常「山麓」と解釈して問題のない文字であるが、深=水辺がある谷間に[炎]のような山稜が延びているところとは、些か繋がりがしっくり来ないようでもある。

しかしよく見るとこの山稜の西麓は蘇我高麗がいた地であり、その後にも「高麗(狛)」の名前を持つ人物、例えば高麗宮地が登場しているところである。

「高麗」に「鹿」が含まれていることが解る。麗=丽+鹿=鹿の角が二つ並んだような様と読み解いた。即ち、鹿深山=[深]の谷間の麓が[麗]の形をしている山と解釈される。現在の苅田アルプスの峰の大久保山である。

既に求めた「倭國高安城」は、この山の北方の峰、諌山の北側にあったと推定したが、正に苅田アルプスの各峰を彷彿とさせるような記述であることが解る。そして「鹿深越え」は、この山を越えて倉歷道に入って行く行程を表しているのである。

これで、「城」の名称が省かれる理由が明らかとなる。「倭國高安城」は”西海”からの侵攻を見張る城であった。その城が”東國”への入口にあっては、全く矛盾する記述に陥ってしまうからである。後の記述に「高安城」が登場する。さて、彼らは何を伝えんとしたのであろうか・・・。

倉歷道から茅渟道へ

さて、別将「田邊小隅」は、「倉歷道」を守れと命じられた「足麻呂隊」が「倭國高安城」に陣取っているところを夜中に急襲した。「足摩侶」は辛うじて逃げ延びたと告げている。どちらかと言うと、勝って敵を追い散らすのではなく、後ろに控える大隊が伏兵となって、誘き寄せ殲滅することが目的だったように思われる。敵が追いかけて来なく、引き返すことも想定内であったろう。即ち、「男依隊」がいつでも突入できる道を作ることが与えられた使命だったと推測される。

「小隅」はそんな手には引っ掛かるわけではなく、更に「倉歷道」を見れば、この道から数万もの兵がやって来るとは思われず、やはり敵の本隊は、伊賀大山越の「莿萩野」を通って来ると確信したのであろう。彼の読みは正しかった。だが、それ以上に不破側はその行動を読み切っていたのである。

息せき切って届いては、待ち構えていた「品治隊」には歯が立たなかった。おそらく「今來大槻」の麓に降り、茅渟道を通って、倉山田石川大臣の逃亡行程を逆行して、「吉野」へ抜けて「伊賀郡」に向かった、と思われる。これでは兵の体力消耗は否めない行程だったと思われる。勝ち組みが残した記録とは言え、攻撃と防御の戦略なくして戦の勝利は望めないようである。

――――✯――――✯――――✯――――

この段では唯一の初登場は「田邊小隅」である。「犬上川濱」での大隊上層部の混乱に業を煮やして行動に出た感じであるが、大隊と別動隊の連携があって初めて作戦も機能するのだが、単独行は負けると惨めである。出自の場所は、前出の河内直鯨に併記した。

――――✯――――✯――――✯――――

丙申、男依等、與近江軍戰息長横河、破之、斬其將境部連藥。戊戌、男依等、討近江將秦友足於鳥籠山、斬之。是日、東道將軍紀臣阿閉麻呂等、聞倭京將軍大伴連吹負爲近江所敗、則分軍、以遣置始連菟、率千餘騎而急馳倭京。壬寅、男依等、戰于安河濱、大破。則獲社戸臣大口・土師連千嶋。丙午、討栗太軍追之。

七月六日に「田邊小隅」が「莿萩野」へ転進して「倉歷道」が開けた。その隙を狙って、七日に「男依隊」が近江へ突入したのである。そして「息長横河」で敵を破り、将軍「境部連藥」(坂合部連藥)を斬捨てている。

九日には、近江将軍「秦友足」を「鳥籠山」で討ち果たしている。同日、東道将軍「阿閉麻呂」等は、倭京将軍「吹負」の敗戦を知って、「置始連菟」に千余騎を付けて「倭京」に急行させたと述べている。

十三日には「男依隊」が「安河濱」で戦い、「大破」している。その時「社戸臣大口・土師連千嶋」を捕えたようである。十七日には「栗太軍」を追撃している。

近江突入以来、十日余りで敵陣深くに侵攻したようである。背後からの報復など全く気にせず、直進した感じの記述である。到達地点は「安河濱」である。本来は、近江側は犬上川濱に集結していた筈であるが、混乱が生じて「息長横河」まで後退してのであろう。あるいは、まさか、まさかの大軍の到来で後退りしながら、止むを得ず追い付かれて「息長横河」で決戦となったのかもしれない。

「阿閇麻呂隊」が威風堂々の主戦部隊なら、「男依隊」は機動部隊の様相である。ところで、本段にも怪しげな記述がなされている。「栗太軍」である。「栗太」の文字列は、「淡海國」の「栗太郡」として書紀は記述している。通説に従うと、出動要請の連絡及び駆け付ける時間を合わせると、とても「淡海」からは間に合う筈はなく・・・おっと、読み手が勝手に「淡海=近江」に解釈していた・・・。これも書紀編者の策略にまんまと引っ掛かったところであろう。

では何故、「栗太軍」追撃のことを記載したのか?…それは「淡海」方面から兵が送られていたことを暗示するためであろう。後に追記の形で「吹負」将軍の活躍が語られるが、彼の相手は「淡海」方面からの近江朝援軍との戦いであることが解る。不破側の背後を突く、最後の切り札、であろう。詳細は後日となる。

<息長横河>
息長横河

「男依隊(軍)」数万の兵士が満を持して倉歷道を駆け上り「近江」の地に侵入した。この地は、紛れもなく「近江」、古事記の言う近淡海國である。

これは凄まじいくらいの突進であったと推測される。あっと言う間に犬上川濱(現在の白川)、もう既に近江軍にはガッチリと受止める気力も薄らいでいたのではなかろうか。

追い付かれて「息長横河」での決戦となったしまったようである。現地名の京都郡苅田町鋤崎にある特異な地形を表していると思われる。息長=谷間の奥から(息を吐くように)山稜が長く延びたところと読む。

古事記で最初に「息長」の文字が登場する息長水依比賣の子、丹波比古多多須美知能宇斯王が「息長」の地形を示す名前である。

その延びたところを川が横切る場所を「息長横河」と表現したと思われる。現在の小波瀬川、古事記では「吉野河」と記載している川である。その川の源流が吉野(現在の平尾台)となる。進軍の行程として、真っ直ぐに「近江」の中心部に向かっていることが解る。

<鳥籠山>
鳥籠山

「息長横河」で撃破したが、更に敵の残党を追い討ちながら先に進むことになる。そんなに距離をないが、まだまだ小競り合いが発生する状況であったろう。慎重に、着実に前進しながら、敵の大将を仕留める目論みである。

丘陵のような山稜を越えて、次の山稜に差し掛かったところで追い付き、二人目の近江将軍を打ち取ったと述べている。その場所が「鳥籠山」と言われたたところであった。

そこには大きな鳥が二羽、書紀で登場の依網連稚子、そしてもう一羽は、古事記の倭建命の陵墓の名前で登場した白鳥御陵である。

「鳥籠山」の「籠」は「箙(エビラ)」の意味を持つ。「矢を入れる籠」であり、すると鳥籠山=矢のように鳥を入れた籠(エビラ)の山と読み解ける。二羽の鳥が頭を寄せ集めたところを表している。もう既に「男依軍」を誰も止めることは叶わなかったのであろう。次の決戦に備えて十分な休養を取りながら前進である。現地名は行橋市下崎の鳥井原である。

<安河濱>
安河濱

そのまま南下すると「安河」に届く。現在の長峡川である。「安」は頻出の文字であり、安=山稜に囲まれた嫋やかに曲がる(谷間)様と読み解いた。

途中「田邊小隅」の出自の場所を通過する。ひょっとすると残党狩りを行ったのかもしれない。何せ、背後に敵を置くことは最も危険な状況を生み出す。前進することは後ろを固めつつ進むことなのである。

そして「安河濱」での決戦も容易に勝利することができたようである。敵将もかなりやる気を消失してのであろう。早くに降伏、故に切り殺さなかった。

「栗太軍」については上記で述べたように、「淡海國」から馳せ参じた軍であろう。書紀の位置付けは「新興国」であり、それだけに功名心が旺盛、だがそれだけでは実戦で成果をあげるには至らなかったようである。淡海方面の状況については後程述べることにする。

――――✯――――✯――――✯――――

この段での初登場の人物の出自を求めておこう。「秦友足」、「社戸臣大口」、「土師連千嶋」の三名である。

<秦友足>
● 秦友足

「秦」は山背國の地を示すと思われる。既出の秦大津父などで読み解いた場所である。その中で「友足」の地形を探すのであるが、「足」だらけの地で「友」(又+又)も同様に多く見られるようである。

そんな中で、同じ大きさの山稜が人の足のように延びている場所が見出せる。図に示した、前出の調首淡海の西側に当たるところと思われる。現地名は京都郡みやこ町犀川木山である。

古事記の袁本杼命(継体天皇)紀に登場した坂田大俣王の比賣・黑比賣が生んだ多くの御子が散らばった地に当たる。彼等との繋がりは定かではないが、確実に人々が佇まっていた場所であろう。

● 社戸臣大口(久努臣麻呂)・土師連千嶋(土師連眞敷)

社戸臣」は「許曾部臣」とも表記される。孝徳天皇紀に登場した阿倍渠曾倍臣であろう。すると「大口」は「渠」の入口辺りを表している思われる。書紀中でも一度の登場で、「社戸」の表記は貢献度の極めて高い「阿倍臣」への気遣いか?…社戸=高台が戸になっているところと読める。

<社戸臣大口・久努臣麻呂・土師連千嶋-眞敷-甥>
後になるが、調べないと阿倍一族とは思われない久努臣麻呂が登場する。余り良い役柄ではないが・・・物部一族に類似した様子で、ご本家からの分家のようである。

久努=くの字に大きく曲がった山稜の様と読み解くと、その麓に「麻呂」が見出せる。既に「阿倍」の地形ではなくなっている場所であろう。

「土師連」は幾度も登場した一族で、上記の「阿倍臣」の北西に当たる場所と推定した。これまでの命名とは些か異なる様子なのであるが、「千嶋」は何と読み解けるか?・・・。

「千」=「人+一」と分解される。地形象形的には、千=谷間を束ねる様と読み解いた来た。また「嶋」は、頻出であり、嶋=山+鳥=山腹に[鳥]の形がある様と読み解く。すると、千嶋=山稜が[鳥]の形している前で谷間を束ねているところと読み解ける。

古事記の速須佐之男命の御子の八嶋士奴美神が坐した場所と推定したところを表していることが解る。正に古くから開かれた地、歴史の表舞台から遠ざかってはいても延々と繋がっていることが伺える。「記紀」の記述が何を伝えようとしたのか、朧気ながらその先が透けて見える気分である。

「土師連」にも後に土師連眞敷が登場する。平たく敷き詰められて()谷間を一杯にした()様を表しているのであろう。乱の功績評価で大錦上位を贈られている。おそらく「千嶋」に従っていたが、降伏を勧めたのかもしれない。更に唐の留学生であった土師連(改姓に従って宿禰)甥が抑留されていたが帰国したと述べている。「甥」の地形の前であろう。併せて図に記載した。

――――✯――――✯――――✯――――

物語は、いよいよ最終決戦へと進んで行くようである。がしかし、これでは近江朝側は何の策もなく敗れてしまったかのようになってしまう。それが長く引用されるが、一先ず決着へ・・・。