2020年8月25日火曜日

天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(10) 〔446〕

 天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(10)


七月十三日に「男依軍」は「安河濱」で大勝し、更に十七日には「栗太軍」追撃し、討伐している。その勢いで「瀬田」に到着したのが二十二日だったと伝えている。最後の決戦記、しかと読み下してみよう。引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

尚、書紀本文は、最終の結末に至る前に大伴連吹負将軍の活躍が長々と記述される。極めて重要な箇所であるが、本著は先に結末までを読み、その後に回すつもりである。

辛亥男依等到瀬田。時、大友皇子及群臣等、共營於橋西而大成陣、不見其後。旗旘蔽野、埃塵連天。鉦皷之聲聞數十里、列弩亂發矢下如雨。其將智尊、率精兵、以先鋒距之。仍切斷橋中須容三丈、置一長板。設有搨板度者、乃引板將墮。是以、不得進襲。於是、有勇敢士、曰大分君稚臣。則棄長矛・以重擐甲・拔刀急蹈板、度之。便斷着板綱、以被矢、入陣。衆悉亂而散走之、不可禁。時、將軍智尊、拔刀斬退者而不能止。因以、斬智尊於橋邊。則大友皇子・左右大臣等、僅身免以逃之。男依等、卽軍于粟津岡下。是日、羽田公矢國・出雲臣狛、合共攻三尾城、降之。

壬子、男依等、斬近江將犬養連五十君及谷直鹽手、於粟津市。於是、大友皇子、走無所入、乃還、隱山前、以自縊焉。時、左右大臣及群臣、皆散亡。唯物部連麻呂・且一二舍人、從之。

七月二十二日に瀬田到着の作戦は、実に巧妙だったと思われる。後に、この日に作戦参加の全軍、勿論「吹負隊」も含めて近江大津宮を取り囲むように集結していたと記載されている。即ち、瀬田橋の決戦は、不破側の止めの攻撃だったことが分る。退路を断たれたら、自害しか残らない、と言うのが当時の決戦の結末であろう。

先走りは、これくらいにして、本文は、待ち構える近江側について「大友皇子及群臣等、共營於橋西而大成陣、不見其後」と記している。東から攻められる状況では、あたり前の記述であるが、逆にこれを書く必要があったのか?…と勘繰りたくなる一文である。更に続けて、大勢の兵士が集まって砂塵が舞って旗が地面を蔽い尽くしていたと述べている。鐘を打ち鳴らし、矢を矢鱈めったら放つなど、追い詰められた烏合の衆の様相であろう。

近江側の将「智尊」(名前からすると沙門?)が瀬田橋に細工をして、簡単に渡れないようにしたのだが、不破側の大分君稚臣が勇敢にも橋を渡り切り、敵将を斬捨てた。それが切っ掛けになって近江軍が総崩れとなり大友皇子、群臣達は逃げ、「男依隊」は悠々と「粟津岡下」に軍を置いた、と記述している。この日、羽田公矢國出雲臣狛が相伴って三尾城を攻略したと付記されている。

翌日の二十三日に近江将軍、犬養連五十君、「谷直鹽手」を「粟津市」で斬首。大友皇子は走り去る場所もなく、戻って「山前」に隠れ、そこで自害したと述べている。「物部連麻呂」は見届け役、事後処理、介添えの役目であろうか。幾度か同様の場面で「物部」一族が登場するようである。

瀬田橋

<瀬田橋の攻防>
最後の決戦場所を求めてみよう。「瀬田」は何と解釈できるであろうか?…瀬=水+頼(賴)=水が飛び跳ねる様を表す文字と読んで来た。

すると、瀬田=水が飛び跳ねる傍らの田となるが、とてもそんな急流の地ではない。

「瀬」の用法には、水が飛び跳ねる場所は急傾斜ばかりではなく、大きく曲がって水が陸地とぶつかる場所も「瀬」と表現している。

舒明天皇以前となるが、大泊瀬幼武天皇(雄略天皇)にも含まれる「泊瀬」は、古事記の「長谷」に対応する。現在の田川郡香春町を幾度も蛇行しながら流れる金辺川に関わる表記である。視覚的ばかりでなく、流れる水音が聞こえる場所を「瀬」と表現しているようである。

すると広大な田地の中で、現在の井尻川と大谷川が合流点近傍の三角州(中州)で井尻川が二回大きく蛇行するを見出すことができる。ここを「瀬田」と表記したと思われる。当時の川の流れと少々異なるかもしれないが、二つの川の合流点より下流域で渡渉、橋が架けられていたのではなかろうか。「男依軍」は西から長峡川沿いを進むと、この橋の北側に至る。

即ち、橋は、ほぼ南北に架かっていたと推測される。「男依軍」と「近江軍」は、川を挟んで南北に対峙したことになる。この配置が、書紀本文の余計な文言を説明してくれるのである。図に概略の「近江軍」兵士達の配置を示したが、川と山稜に挟まれた地に広がっている様子が伺える。ひしめき合う兵士達で押し出され、知らずの内に大友皇子は橋の西側で戦況を見守っていたのである。

粟津岡・粟津市

「粟津」は、前出の「大郡・小郡」がある山稜が延びた地形を表していると思われる。粟津=粟の粒のような地が集まったところである。それには「岡」と「市」があったと述べている。「岡」は米粒に挟まれた平らなところであり、その麓を「粟津岡下」と表記したのであろう。「市」は、粟粒に囲まれたところ、粟津の中央部の谷間であろう。水辺の近隣、斬首場所のようである。大郡・小郡・三韓館についてはリンクを参照。

辛亥、將軍吹負、既定倭地、便越大坂往難波。以餘別將軍等、各自三道進至于山前屯河南。卽將軍吹負、留難波小郡而仰以西諸國司等、令進官鑰・驛鈴・傳印。癸丑、諸將軍等悉會於筱(筱此云佐佐)浪、而探捕左右大臣及諸罪人等。乙卯、將軍等向於不破宮、因以捧大友皇子頭而獻于營前。

書紀本文では、将軍「吹負」の活躍物語りが挿入され、その後に上記の記述となる。同日(七月二十二日)の記事である。「倭地」を平定した将軍は「大坂」を越え、難波へ向かい、「難波小郡」(小郡宮)で西の諸国司等に駅鈴などの伝達機能を回復するように指示している。後に述べることになるが、将軍「吹負」は一回り以上の成長を遂げられたようである。

「便越大坂往難波」(大坂を越える便で難波に往った)の行程は、古事記の御眞木入日子印惠命(崇神天皇)紀の謀反人、建波邇安王の征伐で通った山代之幣羅坂・丸邇坂の「幣羅坂」に該当する坂と思われる。まかり間違っても「大坂道」ではない。また実際には通らなかったが(「大坂山口」ではなく「當岐麻道」に向かった)、伊邪本和氣命(履中天皇)紀の騒動、墨江之中津王によって難波之高津宮を焼け出されて逃亡した伊邪本和氣命が通った道がこの「幣羅坂」に繋がる。書記編者の微妙な言い回しに惑わされては、伝わって来ない件である。

その他の将軍達は、それぞれの道を進んで、「山前」に至り、「河南」で駐屯したと述べている。詳細な時間は記されてないが、「男依軍」が勝利して、大友皇子が「山前」へ逃げ込んだ後、当然のことながら、それを取り囲んでいたのであろう。翌二十三日に皇子は自害する。その翌日(二十四日)に将軍達は「筱浪」に集まって左右大臣ら諸罪人を逮捕に取り掛った。二十六日、不破宮に大友皇子の頭を捧げた、と記している。

<山前・難波小郡>
山前・難波小郡

「山前」は、孝徳天皇が最後に御された宮、山碕宮であろう。中大兄皇太子(後の天智天皇)が、諸々を引き連れて倭京に帰ってしまい、失意の中で逝かれた場所である。実に性格の良い生真面目な天皇の最後であった。

因果は巡る、であろうがなかろうが、起こるべくして起こった事件と思われる。それにしても寂しい結末のようである。

諸将が駐屯した「河南」も舌足らずの表現である。いずれにせよ、物語の舞台が孝徳天皇の件は難波、今回は近江であり、「山前」を「山碕」に確定し辛くすることが目的であろう。

異なる場所を、一見類似の表記、また同一場所を、見た目異なる表記を用いる。これが書記の手管と知れば、ここも惑わされることはないであろう。

「河」=「水+可」と分解する。単純に「川」の意味と解釈されるが、分解した結果は、河=谷間から川が流れ出るところと読める。肅愼國征伐のところで使われた大河側がある。前後の関係で判断するのであるが、今回もこの解釈が有効のようである。即ち、山碕宮の北麓に集結したと述べているのである。

「難波小郡」は小郡宮があった場所である。全ての将軍達が「近江大津宮」の周辺に参集し、それぞれの残務をこなそうとしていたのである。処罰対象の逃げた近江側の諸将(群臣)を早々に見つけ出すことも重要であったと思われる。

筱(佐佐)浪

幾度か登場の場所である。古事記の品陀和氣命(応神天皇)紀に登場した佐佐那美であり、書紀では孝徳天皇紀に記載された狹々波がある。現地名は京都郡みやこ町犀川大坂の笹原・松坂辺りである。それぞれのリンクを参照。古代の交通の要所であったことには違いない場所である。ここで手分けの相談も納得であろう。

八月庚申朔甲申、命高市皇子宣近江群臣犯狀。則重罪八人坐極刑、仍斬右大臣中臣連金於淺井田根。是日、左大臣蘇我臣赤兄・大納言巨勢臣比等及子孫、幷中臣連金之子・蘇我臣果安之子、悉配流。以餘悉赦之。先是、尾張國司守少子部連鉏鉤、匿山自死之。天皇曰、鉏鉤有功者也、無罪何自死、其有隱謀歟。丙戌、恩勅諸有功勳者而顯寵賞。

終戦後一か月余りが経った八月二十五日、高市皇子が近江群臣の罪状を公表している。重罪が八人、右大臣中臣連金は「淺井田根」にて斬首。左大臣蘇我臣赤兄、大納言巨勢臣比等とその子孫、中臣連金の子、蘇我臣果安の子が流罪となっている。尾張國司守少子部連鉏鉤が自死したのに対して、何か策謀があったのか?…と述べられている。

実戦では登場しなかった大納言巨勢比等(人)の処罰が厳しくなされている。後にその理由を推し測ってみよう。その他は赦されたようで、大乱ではあるが、全体としての損失は可能な限り抑えられたのではなかろうか。勿論、西海の脅威が減じたわけでもなく、人材確保は最優先事項であったと思われる。

「淺井田根」は上図<瀬田橋の攻防>に示した場所と推定した。「淺」=「水+戈+戈」と分解される。淺=水辺で戈のような地が並んでいる様と読み解ける。井=四角く囲まれた様であり、田根=田が広がり延びる根本と読んで、淺井田根=[淺]の傍の[井]の地にある[田根]のところと解釈した。やはり斬首は水辺で行われるようである。

九月己丑朔丙申、車駕還宿伊勢桑名。丁酉宿鈴鹿、戊戌宿阿閉、己亥宿名張、庚子詣于倭京而御嶋宮。癸卯、自嶋宮移岡本宮。是歲、營宮室於岡本宮南。卽冬、遷以居焉、是謂飛鳥淨御原宮。冬十一月戊子朔辛亥、饗新羅客金押實等於筑紫。卽日、賜祿各有差。

十二月戊午朔辛酉、選諸有功勳者、増加冠位。仍賜小山位以上、各有差。壬申、船一隻賜新羅客。癸未、金押實等罷歸。是月、大紫韋那公高見、薨。

九月九日に「伊勢桑名」を発って「鈴鹿」で宿し、十日は「阿閉」、十一日は「名張」で宿している。十二日には「倭京」を詣でて「嶋宮」で御している。十五日に「岡本宮」に移り、その宮の南に宮室を設けた。冬には「飛鳥淨御原宮」に遷ったと記されている。

十一月二十四日に筑紫にて新羅の使者を饗応している。十二月四日、勲ある者に冠を昇位させている。十五日に船一艘を新羅に与え、彼らは二十六日に帰国したと伝えている。この月、大紫韋那公高見(「磐鍬」の兄)が亡くなっている。これで書紀本紀二十八巻終了である。

<凱旋帰京>
記載された凱旋帰京の行程を図に示した。「伊勢桑名」は桑名郡と記載されていた。皇后を含め一族共々歓喜したことであろう。そして夢にまで見た凱旋の旅に向かわれた。

その日の宿泊場所は「鈴鹿」であり、伊勢鈴鹿(關)である。「伊賀」から背後を襲われはしないかと不安が押し寄せて来た場所であった。がしかし、油断は禁物、後顧の憂いがないように・・・きっと手を打たれたことであろう。

翌日は「隱郡」では宿泊設備が不十分だったのだろう。また、時間もたっぷりあって、もう少し先に進んで、また渡渉もして「阿閉」で泊まったと言う。「阿閉」は第一大隊長紀臣阿閇麻呂の名前にも含まれていた。

阿閉=台地の谷間が閉じられているようなところと読み解いた。その地形が図に示した場所、現地名は北九州市小倉南区新道寺、母原との境に見出せる。本来の行程だったのであろう。往路は、何と言っても逃亡行程、全く状況が異なっている。

翌日、「名張」に向けて出立する。現地名ではない。この文字はこれが初出、後一回登場する。この由緒ある地名を勝手に「隱郡」なんかに当てては失礼千万であろう。

日毎の行程距離から見ても、「名張」は別の場所であることを示している。既に読み解いたようにこの地は菟道の西隣、現地名は小倉南区呼野である。ここで一泊であろう。金辺峠の急坂を登り切らないと「倭京」には届かない。そして翌日は長く続く「忍坂」を威風堂々と進んだことであろう。

名張=山稜の端の三角州が張り出た様である。現在の地形もそれなりに地形象形表記となっているようである。とすると往路の行程が怪しくなって来る。ちぐはぐな有様、そんな細かいところはどうでも良い、なのであろう・・・嶋宮で身辺整理をし、一旦岡本宮の南に居を構え、そしてその年が暮れる前に飛鳥淨御原宮(古事記序文の飛鳥淸原大宮)に遷られたと記載している。

<飛鳥淨御原宮>
飛鳥淨御原宮

その場所は既に古事記に記載された名称から求めることができている。現在の田川郡香春町、金辺川と五徳川が合流する三角州の上に建てられた宮と推定した。

また天渟中原瀛眞人天皇の和風諡号もその地を表していると読み解いて来たが、古事記の名称「飛鳥淸原大宮」に対する「飛鳥淨御原宮」は同一の宮を示しているのであろうか?…あらためて文字解釈を行うことにした。

「淨」=「氵+爭」と分解される。更に「爭」=「爪(手)+ノ+又(手)」と分解される。二つの手が引っ張り合う様を表し、通常の「争う」の意味を実現していると思われる。「氵(水辺)」を含めて地形象形的には「水辺で二つの腕のような山稜が引っ張り合うような様」と解釈される。

頻出の「御」=「束ねる様」から淨御原=水辺で二つの腕のような山稜が野原を引き寄せて束ねる様と読み解ける。図に示したように赤駒の胴体・脚が作る地形を「淨」の一文字で表現しているのである。古事記は淸原宮=水辺の元からある四角く囲まれた野原の傍らの宮と読み解いたが、何とも素朴な表現である。古事記本文ではないこともあろうが、やはり書紀の表現は洗練されていると感じられる。この宮の場所は、現在の須佐神社辺りと推定される。

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上記した範囲で初登場の人物の出自場所を求めておこう。尚「智尊」については全くの不詳である。

<物部連麻呂>
● 物部連麻呂

実にシンプルである。すると物部の谷間の中心にある「麻呂」な地形の麓が出自の場所であろう。古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)紀に登場した兄宇迦斯・弟宇迦斯の弟が祖となった宇陀水取での谷間の奥、物部一族の奔流の地と思われる。

物部一族の”本家”と言えるであろう。調べると、「石上麻呂」とも言われ、後には「正二位・左大臣、贈従一位」と記されている。七十八歳で没。

「石上」と名乗るようになったのは、朝臣姓を賜った時からとも言われているようである。「石上神社」に関係したからか、あるいは地図から推測すると現在の井手浦浄水場辺りが沼状であって「石=磯」を形成していたことによるのかもしれない。

この乱の初期に貢献した「朴井連雄君」を含め、物部一族の忠誠の態度が近江側に居たこととは関係なく処せられた理由の一つではなかろうか。大津皇子を含め幾人かの連中がこの地を通過して大海人皇子の一団に追いついた時、手を下さなかったことも、挙げられるかもしれない。

<谷直鹽手・根麻呂>
● 谷直鹽手

「谷直」は倭漢一族と知られているようであるが、書紀では天武天皇紀のみの登場である。「谷」もありふれた文字で、そのまま読んでも居場所のヒントには及ばない。

「谷」=「八+八+口」と分解してみると、谷=二つの谷間が重なった地の入口と読み解ける。前記の「河」の用法に類似する表記であろう。

要するに、百濟河の出口付近の場所を表していると思われる。すると、既出の鹽=鏡のように平らな様で、手=山稜が腕のように延びた様の二つを満たす地形が見出せる。

また、後述で将軍「吹負」に従う谷直根麻呂が登場する。北側の山稜が延び出たところを示していると思われる。多くの倭漢一族が登場するのであるが、この谷間の出口には該当する人物は見られなかった。「谷直鹽手」の戦闘上での記載はなく、「犬養連五十君」と共に斬首される場面で現れると言う役柄である。「五十君軍」が駐屯した「村尾」の近隣が出自の場所であり、補佐役だったのであろう。「根麻呂」とは兄弟のような気もするが・・・。

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「壬申の乱」の結末まで読み下すことができたようである。この乱の全体図を纏めるつもりだが、将軍「吹負」の活躍場面を再現してからにする。これが、また、書紀編者の悪戦苦闘の様子が伺えて、実に興味深い、ようである・・・。