2019年12月24日火曜日

『古事記』で読み解く『宋書倭國伝』 〔386〕

『古事記』で読み解く『宋書倭國伝』


「倭の五王」が登場する中国史書『宋書倭国伝(夷蛮伝倭国)』(南朝梁の沈約撰、西暦488年)について述べる。この書には、倭國の五王(讃・珍・濟・興・武)が朝貢(西暦421~478年)したと記録されている。同時代資料としての価値が高いとされている。読み下し文はこちらこちらなどを参照。

『宋書倭國伝』原文…、

倭國、在高驪東南大海中、世修貢職。高祖永初二年、詔曰「倭、萬里修貢、遠誠宜甄、可賜除授。」太祖元嘉二年、讚又遣司馬曹達、奉表獻方物。死、弟立、遣使貢獻。自稱、使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王。表求除正、詔除、安東將軍倭國王。又求除正倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國將軍號、詔並聽。二十年、倭國王、遣使奉獻、復以爲安東將軍倭國王。二十八年、加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東將軍如故。幷除所上二十三人軍郡。死、世子興遣使貢獻。世祖大明六年、詔曰「倭王世子、奕世載忠、作藩外海、稟化寧境、恭修貢職。新嗣邊業、宜授爵號、可安東將軍倭國王。」死、弟立、自稱、使持節都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大將軍倭國王。

順帝昇明二年、遣使上表曰「封國偏遠、作藩于外、自昔祖禰、躬擐甲冑、跋涉山川、不遑寧處。東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國、王道融泰、廓土遐畿、累葉朝宗、不愆于歲。臣雖下愚、忝胤先緒、驅率所統、歸崇天極、道逕百濟、裝治船舫、而句驪無道、圖欲見吞、掠抄邊隸、虔劉不已、每致稽滯、以失良風。雖曰進路、或通或不。臣亡考濟、實忿寇讎、壅塞天路、控弦百萬、義聲感激、方欲大舉、奄喪父兄、使垂成之功、不獲一簣。居在諒闇、不動兵甲、是以偃息未捷。至今欲練甲治兵、申父兄之志、義士虎賁、文武效功、白刃交前、亦所不顧。若以帝德覆載、摧此強敵、克靖方難、無替前功。竊自假開府儀同三司、其餘咸各假授、以勸忠節。」詔除、使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王。

「倭王武の上表文」は、中国南朝の六朝文化で流行した四六駢儷体という文体だとか、相当の漢文の使い手が存在していたことが解るそうである。倭の五王は、六ないし七國の安東将軍の認可を求めるのであるが、「百濟」は外されている。中国側からすると「百濟」を倭に任せるわけにはいかなかったのであろう。倭の要求そのまま飲めば朝鮮半島の南部全体となることを避けたかったと思われる。

登場する年代は、永初二年:西暦421年、元嘉二年・二十年・二十八年:西暦425年・443年・451年、大明六年:西暦462年、昇明二年:西暦478年とされている。およそ五十有余年で、半世紀程度の期間であったことが解る。前後を合わせるとほぼ西暦5世紀の期間、百済を除く朝鮮半島南部一帯を支配してと推定される。

前記で述べたように魏書・後漢書及び後になるが隋書に登場する倭國の人物名は、地形象形した表記であった。それ故に二文字以上の文字列でそれぞれの出自に関る地形を表していたのである。勿論一文字でも地形を象形することは可能ではあるが、別表記などで重ねられた記述とすることによって用いられていると思われる。上記の「讃・珍・濟・興・武」の一文字よる名称は他の場合と大きく異なっていることが伺える。

従来より推定年代から五人の天皇に比定したり、また委細は全く不詳となるが「九州王朝」の王だとか、色々と推測されて来ている。とりわけ上表文が記載されている最後の「武」を「雄略天皇」として、ほぼ日本列島を支配した王のような解釈がなされているようである。

本著が述べるところからすると、この五王の名称は、倭人が付けたものではない、と結論付けられる。狗邪韓國など洛東江下流の南西部に侵入した”非倭人”が騙ったものと推測される。宋書に記された倭國の”倭”は朝鮮半島南部にあったとする奥田尚氏の論考がある。下図に「狗邪韓國」を示した。
 
<狗邪韓國>
『新唐書
東夷伝』に「用明 亦曰目多利思比孤直隋開皇末 始與中國通」と記載されている。

この地を失った”本来”の倭(俀)國は、「隋」の時代まで東アジアの歴史の表舞台に登場することはなくなったのである。

憶測の域になるが、『魏志倭人伝』に記された「邪馬壹國」及びその他の諸国は、『宋書倭國伝』に登場する”倭國”によって帯方郡への道筋を断たれた。

そして百濟國西南の航路を辿るには航海技術が未熟であったと推測される。古有明海という内海での航海で事足りたことは外海に乗り出す技術を育むことを阻んだのではなかろうか。

『古事記』に伊邪那岐の禊祓で誕生した綿津見神の子、宇都志日金拆命阿曇連の祖となる記述がある。『古事記』はその一族のことを詳らかにすることはないが、後に海人族として名を馳せる一族となったと伝えられる。

Wikipediaによると瀬戸内海から近畿地方は言うに及ばず、伊豆から更には現在の山形県、内陸の長野安曇野にまで及ぶと言われ、中国、朝鮮半島との交易を促したと伝えられている。
 
<宇都志日金拆命・阿曇連>
「俀國」が対馬(對海國)を経ることなく帯方郡、更には中国本土に向かうことができたのは、
「綿津見神」を祖先とし優れた航海技術を獲得した「阿曇族」の航海技術に依るものと思われる。

「阿曇一族」の隆盛こそが「倭國」から「俀國」への主役交替に最も重要な役割を果たしたのではなかろうか。

古有明海は豊か過ぎた、のである。そして国々が並立する緩い連合体制であり、抗争が絶えない地域と、中央集権とまでには至らないが、それに限りなく近い体制を整えた地域との格差を伺わせるのである。

深読みすれば、『古事記』が「阿曇族」について詳細に語らないのは、その発達した航海技術の先に彼ら「天神族」の行く末が依存するからではなかろうか。「日本國」の登場は『古事記』の範疇ではないからである。