2020年12月25日金曜日

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(8) 〔479〕

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(8)


即位四年(西暦700年)八月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、和訳はこちらを参照。

八月戊申。宇尼備。賀久山。成會山陵。及吉野宮邊樹木無故彫枯。乙夘。長門國獻白龜。乙丑。勅僧通徳。惠俊並還俗。代度各一人。賜通徳姓陽侯史。名久爾曾。授勤廣肆。賜惠俊姓吉。名宜。授務廣肆。爲用其藝也。丁夘。赦天下。但十惡盜人不在赦限。高年賜物。又依巡察使奏状。諸國司等。隨其治能。進階賜封各有差。阿倍朝臣御主人。大伴宿祢御行並授正廣參。因幡守勤大壹船連秦勝封卅戸。遠江守勤廣壹漆部造道麻呂廿戸。並褒善政也。

八月三日、「宇尼備」(畝火山)、「賀久山」(香具山)、「成會山」(耳成山)及び吉野宮辺の樹木が原因不明だが衰えて枯れたと記している。既出の三山の別名である。それぞれの山容の特徴を捉えた表記である。詳細はこちらを参照。「吉野宮」については古事記の吉野國巢の場所を参照。

十日に長門國が「白龜」を献上している。これは間違いなく「白龜」の地形を表していると思われる。残念ながらこの地、現地名は北九州市小倉南区守恒なのだが、広域の宅地開発なされた後で、当時の地形を垣間見ることは難しいようである。辛うじてそれらしき場所と思われるところは、国土地理院写真(1961~9年)を参照して、こちらの谷間のように思われる。

二十日に僧の通徳と惠俊を還俗させ、前者は「陽侯史久爾曾」、後者は「吉宜」と名乗らせている。二十二日に十悪などの者を除いて恩赦を行い、高齢者に物を与えている。また巡察使より諸國司等に、その統治能力に応じて階級を進め、封戸を与えている。「陽侯史久爾曾」及び「吉宜」の出自の場所は、この時点では全く不詳であったが後に読み解けた(こちらこちら参照)。

阿倍朝臣御主人(布勢朝臣御主人)と大伴宿祢御行(大伴連御行)には正廣參位を授けている。因幡守の船連秦勝(船史惠尺に併記)には封三十戸、「遠江守」の「漆部造道麻呂」には二十戸を、その善政を褒めて賦与している。「因幡」は、古事記の稻羽、書紀の因播とした。

<漆部造道麻呂>
● 漆部造道麻呂

「漆部」は、天武天皇紀に「朝明郡迹太川邊、望拜天照大神」の際に馳せ参じた仲間の一人に「漆部友背」が登場していた。物部一族であり、また用明天皇紀に登場する「漆部諸兄」の谷間を本貫とする一族と思われる(こちらを参照)。

その「諸兄」の西隣に道=辶+首=首の付け根のようなところが見出せる。如何なる経緯で「遠江守」となったかは不詳のようである(浜松市文化遺産デジタルアーカイブ)。

遠江國は古遠賀湾に面した国と推定した。その地は「大井河」(現金山川)の上流域から山稜が海に延びた地形の場所である。古事記の淡海之久多綿之蚊屋野と名付けられていたところでもある。そんな未開の地を統治する役目であったのであろう。おそらく「遠江守」の居場所は「大井河」が流れ出す山麓辺りだったのではなかろうか(こちら参照)。

冬十月壬子。施京畿年九十已上僧尼等絁綿布。始置製衣冠司。己未。以直大壹石上朝臣麻呂。爲筑紫総領。直廣參小野朝臣毛野爲大貳。直廣參波多朝臣牟後閇爲周防総領。直廣參上毛野朝臣小足爲吉備総領。直廣參百濟王遠寶爲常陸守。癸亥。直廣肆佐伯宿祢麻呂等至自新羅。獻孔雀及珍物。庚午。遣使于周防國造舶。

十月八日に京及び畿内の九十歳以上の僧尼等に綿布などを与えている。製衣冠司(官人の衣冠を製造する役)を初めて設置したとか。十五日、石上朝臣麻呂を筑紫総領(筑紫大宰ではなく、筑紫都督府の場所)、小野朝臣毛野を大貳(次官の筆頭)に任命している。

また波多朝臣牟後閇(羽田朝臣齋)を「周防総領」、「上毛野朝臣小足」を「吉備総領」(吉備笠臣垂・諸石、前者が吉備大宰、後者が吉備総領の近隣)、百濟王遠寶(①-)を「常陸守」(常陸國、現在の吉志PA辺り?)にそれぞれ任命している。

<周防國・周防総領>
周防國:周防総領

「周防國」は、書紀の孝徳天皇紀で安藝國の詳細を述べた時にその西隣にあった國として求めた。あらためて「周防」が示す地形を読み解いてみよう。

「周」=「囗+米+囗」=「ぐるりと取り囲まれた様」、「防」=「阝+方」=「台地が延びて広がる様」と解釈すると、周防=ぐるりと取り囲まれた地から台地が延びて広がったところと読み解ける。

図に示した尾根から山稜が延びて広がった地形を表していることが解る。現在は広大な住宅地となっているが、その周辺の地形から当時を推測することが叶うように思われる。周防総領はその中心地を示すのであろう。

慶雲三年(706年)七月の記事に「周防國守從七位下引田朝臣秋庭等獻白鹿」と記載される。広がって細かく岐れた山稜の端を”鹿の角”と見做したと思われる。些か曖昧さが残っていた安藝國との境は、これで解消されたのではなかろうか。

<上毛野朝臣小足・廣人・安麻呂・宿奈麻呂>
十九日に佐伯宿祢麻呂(佐伯連麻呂)等が帰国。孔雀と珍物を献上している。二十六日、「周防國」
に船を造るように使者を遣わしている。

● 上毛野朝臣小足

「上毛野君(朝臣)」に関わる人物は「三千」あるいは車持君などが既に登場していた。おそらくその近隣と思われる。

すると彼らの東隣の地形が小足=山稜が延びて端が三角の形をしている様となっていることが解る。現地名は築上郡上毛町下唐原である。上毛の地も次第に埋まって来た感じであるが、さて更なるご登場があるのか、期待しつつ・・・と思うと元明天皇紀に入ると直ぐにご登場なさる。

上毛野朝臣廣人の系譜は知られていないようだが、名前が示す地形を見出すことは容易であった。図に示したように小足の先で谷間が広がった(廣人)地、その場所を出自としていたと推定される。同じような状況にある上毛野朝臣安麻呂が元明天皇紀に登場する。安=山稜に挟まれた谷間が嫋やかに曲がっている様と読み解いた。「小足」の上流域の谷間が出自の場所と推定される。

後(聖武天皇紀)に上毛野朝臣宿奈麻呂が”外従五位下”に叙爵されて登場する。由緒ある一族に”外”とは?…天皇の叱咤激励だったとか。「宿奈麻呂」は、そのまま解釈しても良いが、「少麻呂」とても、図に示した少=小+ノ=山稜の端が削り取られたようになっているところと思われる。

十一月壬午。新羅使薩飡金所毛來赴母王之喪。乙未。天下盜賊往々而在往遣使逐捕。壬寅。大倭國葛上郡鴨君粳賣一産二男一女。賜絁四疋。綿四屯。布八端。稻四百束。乳母一人。十二月庚午。大倭國疫。賜醫藥救之。

十一月八日、新羅が使者を寄越して母王が亡くなったことを知らせている。二十一日、盗賊が横行しているので追って捕えさせている。二十八日に「大倭國葛上郡」の鴨君粳賣(藤原朝臣宮子娘に併記)が二男一女の三つ子を産み、綿布、稲などに加えて、乳母一人も与えている。十二月二十六日、大倭國で疫病が発生し、医薬を与えて救援している。

<大倭國葛上郡>
大倭國葛上郡

「鴨君」と記載されているから余り考えることもなく場所を求めることができるのであるが、「葛上郡」の表記は書紀には出現しなかった。対応すると思われる葛城下郡が天武天皇紀に登場するのみであった。

桑原及び「鴨」が属するとなると「葛上郡」は、図に示した配置ではなかろうか。現在の福智山山系において山側の地域を「上」、彦山川側の地域を「下」と表現したと思われる。

当然ながら、「葛上郡」には早期の天皇の宮が多く並ぶ地域となる(古事記の各天皇の宮を示した)。Wikipediaでは・・・、

葛城の上郡の意で、近世までは「かつらぎのかみのこおり」と呼ばれた。2代綏靖天皇の葛城高丘宮(『日本書紀』)が御所市森脇に、5代孝昭天皇の掖上池心宮(『日本書紀』)が御所市池之内、6代孝安天皇の秋津島宮が御所市室にあったとされる。 

・・・と記載されている。第七代大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)の宮が含まれていないが、通説では奈良県磯城郡田原本町黒田周辺が比定地、勿論諸説ありなのだが、いずれも葛城の山麓から奈良盆地へ進出したとするものである。「黒」、「廬」が示す地形は山麓以外に存在しないと本著は結論付けた。

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續日本紀第一巻が、漸く終了である。「〇前・〇中・〇後」の國名表記が既に登場していたことには、少々驚かされた。「国譲り=律令制」と捉えること自体が誤りだったのであろう。「〇〇國△△郡」は、その地の地形を詳細に把握して初めて読み解け、結果的には推定場所の確からしさに繋がっている・・・まぁ、ボチボチと進んで行くしかないようである・・・。