2018年5月28日月曜日

氷羽州比賣命の御子:印色之入日子命 〔215〕

氷羽州比賣命の御子:印色之入日子命


開化天皇の御子、日子坐王の娶りの記述に登場する後裔達、彼らが、また、多くの子孫を誕生させる。その名前の通りに天皇家の「開花」(花=艹+化)の時を迎えたのである。その中でもとりわけキーマンと思しき旦波比古多多須美知宇斯王の系譜に「印色之入日子命」がいた。既稿で簡単に述べたのであるが、再度取り上げてみようかと思う。

古事記原文…、

旦波比古多多須美知宇斯王之女・氷羽州比賣命、生御子、印色之入日子命印色二字以音、次大帶日子淤斯呂和氣命自淤至氣五字以音、次大中津日子命、次倭比賣命、次若木入日子命。五柱。

旦波比古多多須美知宇斯王が丹波之河上之摩須郎女を娶って誕生したのが比婆須比賣命(氷羽州比賣命)である。この詳細はこちらを参照願う。その長男が「印色之入日子命」であり、次男が大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)と記述される。

「旦波」と「丹波」がそれとなく使い分けられている。「旦」は水平な地に太陽が昇る象形「丹」は赤米の穂が波打つ様を示したものと思われる。それそれが坐した地形を同じ「タンバの国」でありながら表記を使い分けているのである。この国の有り様が見えて来た今になって古事記編者達のきめ細かい表現方法に首肯かざるを得ないようである。

さて、「印色之入日子命」は何処にいたのであろうか?…「タンバ」が重なる出自を持つのだからやはり「タンバ」及びその周辺であろうとして、既稿で比定を行った。それを見返しながら、もう少し掘り下げてみよう。

「印色」で「以音」とある。推定の旦波国の中に印色(イニシキ)に類似する地名を探すと「錦(ニシキ)」という町名が残っていることがわかった。今の町名ではなく、旧町名のようであるが、現在の福岡県京都郡みやこ町豊津に含まれている。またもう少し南に下って「錦ヶ丘」という地名もある。

住居表示が変更されても残る地名は重要である。その地の古くから伝わる名前を大切に思う気持ちは万人に通じる、筈である。いや、通じなくなって来ているのか?・・・横道に逸れそうなのでこの辺で・・・。既稿より随分と時が経った今は文字解釈そのもので居場所を突き止めることができるであろうと、意気込んでみる。

「印」=「首(水辺の凹地)」は崇神天皇の和風諡号、御眞木入日子印惠命に含まれるものと同義と思われる。「首」は現在の下関市彦島の「田の首町」が印象深い。この地形に由来する名前、と言っても定かではないが。仁徳天皇紀には歌中で「由良能斗」と表現される。凹の地形であることを示している。

「色」は穂積之臣の祖となった内色許男命及び彼の後裔達に含まれる。おっと、忘れるところであった葦原色許男命、大国主命の多くの別名の一つもそうである。「色」=「人+巴(渦巻く地形)」と紐解ける(詳細はこちら)。すると…、


印色=水辺の凹地で渦巻く地形(巴)
 
…と紐解ける。図から文字が表す通りの地形が見出だせる。それを取り囲むように「錦」の地名が示されている。

凹地は「彦徳(ケンドク)」その「徳」から「徳利」を想起させる。上図を回転させれば首の長い「徳利」である。

「徳利の彦」↔「印色の(入)日子」となるが、その由来は全く定かでないようである。現存地名と深く関わっているのではなかろうか。

やはり「入」が付加される。「苗代・田植え」を示していると思われるが・・・。前記した大毘古命と建波邇安王の戦いがあった「伊豆美(泉)」の近隣である。犀川の河口近くの要所であったと推定される。丹波国の北西の端に当たり、豊国との境界領域を形成していた場所と思われる。

天皇の兄、謀反を起こさなければナンバーツーとして大いなる実権を有していたと思われるが、彼の活躍が記載される…、

印色入日子命者、作血沼池、又作狹山池、又作日下之高津池。又坐鳥取之河上宮、令作横刀壹仟口、是奉納石上神宮、卽坐其宮、定河上部也

なかなかの働き者、「鳥取之河上宮」に坐することを許された命である。池作りの名人、大刀も…筒木作りには鉈が要る、両方揃えて池作りってところであろうか。鋸はあったのであろうか…と初見で述べた。

「鳥取」の「鳥」は邇藝速日命が定住した「鳥見之白庭山」関連するとし、また「取」は現在の地名(見取)から現地名田川郡赤村赤の見取に比定した。

鳥取之河上宮

<鳥取>
邇藝速日命の「鳥見之白庭山」即ち戸城山近隣を示すと述べたが、あらためて「鳥取」の文字解釈を行ってみよう。

「鳥」=「ト」である。古事記は「登美」と表わすが、これは当て字(以音)である。


登(登る)|美(微かに)

…緩やかな谷に広がる水田地帯の象形と解釈した(こちらを参照)。

上記した鳥見之白庭山に含まれる「鳥見」こそが本来の地名であったと推測される。

鳥取の「鳥」はこの「鳥(ト)」を意味すると解釈される。更に「取」=「耳(縁)+手(手の形)」と分解すると…、


鳥取=鳥(鳥見の地)|取(縁にある手の地形)

…「鳥見の地の縁にある手の形をしたところ」と紐解ける。上図<鳥取>で橙色で囲んだところを「手」の地形と見做せるのではなかろうか。「取」については宗賀一族の王子の一人「足取王」の紐解きに類似する。既稿ではあるが、引用すると・・・、

<足取王>
足取王の「足」は山稜が延びたところであろうが「取」の紐解きに工夫を要した。


取=耳+手

…と分解できる。

古代の戦闘で倒した敵の耳を取って戦果(人数)としたことから「取」の字ができたと言われる。何とも物騒な文字なのであるが、現実だったのであろう。

これを適用すると、苅田町山口、現在の貯水池の西側に手の形をした山稜の端が目に止まった。

・・・図<鳥取>に示されているように、ここは犀川(現在の今川)が極端に蛇行し極めて特徴的な地形を示している。千数百年間の地形を保っているかと思えば、さもありなんと思う気持ちと、よくぞ残したという感じでもある。人為的な変化が加わらない限り地形は、悠久の時を流れて来た地球の歴史からすればアッと言う間の短い時のものなのであろう。

「鳥取」は蛇行する川に接するところでもある。だからわざわざ「河上」と補足したものと思われる。安萬侶コード「取(縁にある手の地形)」としておこう。河上は、山中に忽然と現れる見事な水田地帯になっていることも前記で述べた。実に巧みな耕地の開拓が行われたものと推測される。

作った三つの池の場所は求められるであろうか?…「血沼池」は宇陀の「血原」の近傍と思われる(現地名は北九州市小倉南区呼野近隣)。「血沼」は既出で相武国(現在の北九州市小倉南区)に比定したが、沼ではなく池と記していることから別の地、宇陀にあったとした。

「日下之高津池」は日下、後の雄略天皇が坐した場所の近隣と思われる。現在の田川郡香春町採銅所の宮原辺りと推定される。少々山麓を登ったところにある川の合流点を求めることになる。

「狭山池」は何と紐解くか?…一般的な名称になるなら、間違いなく地形象形表現と思われる。


狭山=狭(幅が狭い)|山(山稜)

…多くの山稜がある中で目立つ狭さ、というところであろうか。地図から同採銅所の黒中辺りにそんな山稜が見出だせる。これらを上図に示した。それらの場所に現在も池らしきものが示されている。当時のものかどうかは不明だが、池が必要とされる地であることに変わりはないようである。


<血沼池・狭山池・高津池>

倭国のセンターライン、後の「長谷」から尾張に抜ける道筋の開拓に勤しんだ命であったと告げている。日下の地が開かれ、倭国はその頂点を極める雄略天皇へと繋がって行く。真に着実な歩みと読み取れるのである。

天皇の兄が働くと国が発展する。良き時代だったのでろう。がしかし、言い換えれば、働き場所、開拓できる土地がなくなって来ると何かと諍いが始まる…これも世の常の出来事なのであろうか・・・。
<追記>

「鳥見」は何と解釈できるのであろうか?…古事記では記述されることはないので別項で紐解いてみよう…、

鳥見=鳥が見える
 
…と単純に読み解くと、見晴らしの良い高台のイメージである。確かに大坂山からの枝稜線の端にある戸城山は背後に聳える大坂山の方向を除き見事に視界が開けたところと思われる。

だが、それだけのことで命名したとは思えない。何かを意味していると思われる。

図に示した通り、戸城山の頂上付近以外では香春一ノ岳、その麓までは目視できない地形であることが判る。大坂山山稜が延びて遮っているのである。

とすると、「鳥」=「香春一ノ岳」を意味することになる。何故、鳥?…思い付くのが一ノ岳の山容を示しているのではなかろうか。残念ながらこの山は図に示した有様であって確認不能である。検索すると元の姿を留める写真などが見出だせるが・・・。

関連するのは速須佐之男が降臨した場所を「鳥髪」と記載される。この地は現在の企救半島にある戸ノ上山とした。また後日に地形象形であるのかを調べてみようかと思う。植生は短い期間で変化もする。地形ならば…判れば、ラッキーとでも思っておこう・・・。

このことは「飛鳥」の表現とも深く関わる。どうやら香春一ノ岳は「飛鳥」の地形であったのではなかろうか。「遠飛鳥・近飛鳥」を含めて、本ブログの最も関心深いところの一つである。後日の課題としよう。