2018年4月5日木曜日

血原・血沼・血浦 〔194〕

血原・血沼・血浦


古事記中に「血」は度々登場するのであるが、地名に係る記述は血原、血沼、血浦の三つのようである。全て血が迸る凄惨な内容であり、まるでその地は血で染まってしまったような場面となる。それはそれであり得るか、と詠んでしまうのであるが、やはり何らかの地形との繋がりを含めているとも思われる。

凄惨なところで尚且あらかたの場所が判ったところなので少々省略しながら読み進めて来たが、いよいよ紐解きに取り掛かろうかと、案の定、詳細な場所を示していたようである。いつもながらの安萬侶コードの表記である。

宇陀之血原

神倭伊波禮毘古命が宇陀に侵出、兄宇迦斯の策略を見抜いて(弟宇迦斯の内部告発?による)、斬殺する段である。何といっても最強の武将、道臣命と大久米命の登場である。従来よりよく知られた戦闘場面であり、奈良大和には血原橋と名付けられたものまで準備されている。

古事記原文[武田祐吉訳](以下同様)…、

爾大伴連等之祖・道臣命、久米直等之祖・大久米命、二人、召兄宇迦斯罵詈云「伊賀此二字以音所作仕奉於大殿內者、意禮此二字以音先入、明白其將爲仕奉之狀。」而、卽握横刀之手上、矛由氣此二字以音矢刺而、追入之時、乃己所作押見打而死。爾卽控出斬散、故其地謂宇陀之血原也。
[そこで大伴の連等の祖先のミチノオミの命、久米の直等の祖先のオホクメの命二人がエウカシを呼んで罵って言うには、「貴樣が作ってお仕え申し上げる御殿の内には、自分が先に入ってお仕え申そうとする樣をあきらかにせよ」と言って、刀の柄を掴み矛をさしあて矢をつがえて追い入れる時に、自分の張って置いた仕掛に打たれて死にました。そこで引き出して、斬り散らしました。その土地を宇陀の血原と言います]

「宇陀之血原」血だらけの原っぱ、今更残っている筈がない…「茅原」に置き換えられて「茅が茂った原っぱ」という説もあり、比定地は奈良県宇陀市莵田野町宇賀志とのことであるが、全く不詳の部類に入るものであろう。


「血」の地形象形は一体何であろうか?…吹き出た血が流れる様を表していると紐解くと、山麓を血が流れるような様子を示すところではなかろうか。

「竜ヶ鼻」の山麓に盛り上がって血が流れているように見える場所が見出せる。決して直線的に流れるのではなく血のようにゴロゴロとした様相を示している。

「血原」はその麓にあった野原と解釈される。「宇陀」の南端に近くで宇陀の高台という表現にも当て嵌まる場所であろう。

あらためて見ると「血」の文字そのものが「山麓の突き出たところから複数の稜線が麓に届く」の地形象形と気付かされる。これを使っていたのである。安萬侶コードまた一つ追加しておこう。

「竜ヶ鼻」は後の雄略天皇紀に「袁牟漏賀多氣」として登場する。「袁(ゆったり)|牟(大きい)|漏(液体が隙間から出てくる)|賀多氣(ヶ岳)」頂上が広く大きな湧水の豊かな山を示している。告発者、宇迦斯は「宇陀水取」の祖になったと伝える。カルスト台地に隣接するこの地は湧水が多量に発生するところである。現在も呼野駅付近に多くの池がある。古代より清水が豊かな土地であることがわかる。

これら古事記の文言全てに合致する地は、北九州市小倉南区の旧東谷村である、と断じることができる。「血原」の紐解きは「宇陀」の地の比定に極めて重要な寄与を為すことが判った。

血沼海・血沼之別

上記で「血」の意味するところが判って来ると、サラリと読み飛ばしてしまうところも今一度調べてみよう。一つは神武天皇紀の上記の段の前に出現する。五瀬命が登美能那賀須泥毘古との戦いで負傷をして血を流す場面である。もう一つは大倭日子鉏友命(懿徳天皇)紀に誕生した多藝志比古命が祖となる記述である。

「血沼」は青雲之白肩津から紀国に逃げる途中の場所であり、倭建命が立ち寄った相武国に該当するところと思われる。現在でも多くの「沼」がある急傾斜の地である。ほぼこの比定で血沼の概略は求めることができるのであるが、やはり何故「血」なのか?…血染めだからは、例によって安萬侶くんの戯れなのであろう・・・。

古事記原文(抜粋)…自南方廻幸之時、到血沼海、洗其御手之血、故謂血沼海也。


間違いなく「血」の地形が存在する。見事な「血」であろう。山麓の途中にある小高くなったところからいくつも稜線が裾野に届いた地形を示している。

この表現は極めて場所の特定に有効なものであることが判る。上記の「宇陀之血原」に加えて最も確度の高い場所と言えるであろう。

「當藝志比古命者、血沼之別」と記されたところが「血」の地形を示す場所と思われる。神武東征の作者はこの表現に困り果てて「血」↔「茅」に置き換えたのであろう。

勿論「茅」では全く場所の比定には覚束ない有様、所詮特定されることを避けているのであるから、どうでも良かったのである。「血」を置き換えては古事記の伝えることが全く伝わって来ないという、明白な例であろう。

血浦

「血浦」の登場は「品陀和気命(応神天皇)」の出自に係る段で登場する。地の神との名前を交換するところ、これがなかなかややこしい表現で、従来では全く紐解けていなかった。詳しくはこちらを参照願う。氣比大神など今に繋がる名称も出現する。がしかし、何とも生臭い記述なのである。

故、建宿禰命、率其太子、爲將禊而、經歷淡海及若狹國之時、於高志前之角鹿、造假宮而坐。爾坐其地伊奢沙和氣大神之命、見於夜夢云「以吾名、欲易御子之御名。」爾言禱白之「恐、隨命易奉。」亦其神詔「明日之旦、應幸於濱。獻易名之幣。」故其旦幸行于濱之時、毀鼻入鹿魚、既依一浦。於是御子、令白于神云「於我給御食之魚。」故亦稱其御名、號御食津大神、故於今謂氣比大神也。亦其入鹿魚之鼻血臰、故號其浦謂血浦、今謂都奴賀也。
[かくてタケシウチの宿禰がその太子をおつれ申し上げて禊をしようとして近江また若狹の國を經た
時に、越前の敦賀に假宮を造つてお住ませ申し上げました。その時にその土地においでになるイザサワケの大神が夜の夢にあらわれて、「わたしの名を御子の名と取りかえたいと思う」と仰せられました。そこで「それは恐れ多いことですから、仰せの通りおかえ致しましよう」と申しました。またその神が仰せられるには「明日の朝、濱においでになるがよい。名をかえた贈物を獻上致しましよう」と仰せられました。依つて翌朝濱においでになつた時に、鼻の毀れたイルカが或る浦に寄つておりました。そこで御子が神に申されますには、「わたくしに御食膳の魚を下さいました」と申さしめました。それでこの神の御名を稱えて御食津大神と申し上げます。その神は今でも氣比の大神と申し上げます。またそのイルカの鼻の血が臭うございました。それでその浦を血浦と言いましたが、今では敦賀と言います] 


応神天皇は神功皇后が懐妊して新羅から帰って来て「竺紫之宇美」で誕生するのであるが、この説話が出て来る前では名前が記されない。「其御子」「其太子」といった具合である。

説話の後で「品陀和氣命」と記述される。「品陀」という地形象形の名前を貰ったことになる。地の神は御食津大神(後には氣比大神)と称されることになる。

さて、角鹿(場所はこちらを参照)に「血浦」はあるのか?…「血原」「血沼」と同様な地形の場所を求めることになる。

探すと容易に上図に示したところが見出せる。砕石によって際どい状態であるが「血」の地形を残している。図中の青く見えるところは現在の海抜10m以下で大半が海面下にあったところと推測される。

ここが「血浦」であろう。麓にある貴布祢神社辺りが氣比大神の居場所であったと推定される。この地が伊奢沙別命を主祭神とする氣比神宮の本来の場所であることを告げているのである。「血」の地形象形の確からしさに感嘆である。確実に安萬侶コードに加わるものである。

…全体を通しては古事記新釈を参照願う。